救済を求めて
翌朝、市場は静かだった。
人がいなくなったわけではない。
屋根の下には、昨日より多くの人がいた。
けれど、荷を運ぶ声が少なかった。
板に、札が下がっている。
掛け売り停止。
弥勒は、その札を読んだ。
案内役の女が、共有画面の前に立っていた。
「今日は、品を売らないのですか」
「売ります」
女は答えた。
「ただ、あとで受け取る約束では、お渡しできません」
「なぜですか」
「こちらも、いつ受け取れるか分からないからです」
女は、札の下を見た。
そこには、昨日まで薬を売っていた店がある。
棚は開いていたが、いつもの品は少なかった。
「荷が遅れています。代金を先に払っても、向こうで出せるかは分かりません」
「道が悪いのですか」
「いいえ」
女は首を振った。
「向こうの国でも、先にお金を渡して、あとで品を受け取る約束をしていました。けれど今は、本当に品が届くか分からないので、その約束を止めているのです」
誰かが、店の前で言った。
「次の便に乗せる分だけでも、待ってください」
店の者は、困った顔をした。
「待ちたいのです。けれど、こちらも支払いがあります」
声を荒らげる者はいなかった。
皆、昨日と同じように、約束を守ろうとしていた。
ただ、守るための余裕がなくなっていた。
*
女のところへ、年配の男が来た。
昨日、照会通知を受けて走ってきた男だった。
「弥勒さま」
男は、弥勒の前まで来ると、その場に膝をついた。
「もう、手元の金がありません。明日の支払いも、雇っている者への賃金も、払えるか分かりません」
男はさらに頭を下げた。
「どうか、どうか救済を。弥勒さまが救済してくださると、そうお約束いただければ」
弥勒は驚いて、反射的に男へ手を伸ばした。
「もちろんです。私は、そのためにおります」
男が顔を上げた。
「では——」
「五十六億七千万年後に下生した折には、必ず」
「……いま、です」
「いま?」
「明日までに支払いができなければ、倉を閉じます。倉を閉じれば、雇っている者へ賃金を渡せません」
弥勒は、男の顔を見た。
「それを、救済と呼ぶのですか」
「呼びます」
男は答えた。
「支払いを待ってもらえることも。荷を売れることも。家へ帰って、子どもに食べさせられることも」
女が、小さく息をついた。
「皆が、弥勒さまなら助けてくださると」
弥勒は、昨日聞いた言葉を思い出した。
救済があるから、長い約束も守っていける。
「私は、衆生を苦から救いたいと思っています」
「はい」
男は言った。
「だから、いま救ってください」
弥勒は、すぐには答えられなかった。
*
「何をすれば、その方を救えるのでしょうか」
弥勒は、女に尋ねた。
女は、男の認証を受けて照会画面を開いた。
「支払いを待つことです」
そばにいた別の者が言った。
「待てば、こちらが払えなくなります。うちも、受け取るはずの金で職人へ賃金を出すのです」
「では、その方も救わなければなりませんね」
弥勒は言った。
保証の仕事をしている女が、通知を見ながら近づいた。
「保証先が払えなければ、私たちが出します」
「それなら、その方が助かります」
「はい」
女はうなずいた。
「けれど、私たちが出せば、共同の蓄えが減ります。次に食料を買う方へ、前に出す金がなくなります」
*
数日後、弥勒が市場へ行くと、若い職人が女に話しかけていた。
「工房では、新しい仕事を受けられなくなりました。材料を先に買う約束が止まったのです」
「材料を渡せば、仕事を続けられますか」
「続けられます」
職人は言った。
「でも、作ったものを買う人も、いまは約束をしてくれません」
弥勒は、順に人の顔を見た。
支払いを待てば、別の支払いが遅れる。
保証を出せば、次の人へ渡すものが減る。
材料を渡しても、売る先がなければ仕事は続かない。
「では、その方も救わなければなりませんね」
弥勒は、もう一度言った。
誰も、違うとは言わなかった。
*
さらに二日後、市場の奥で、見慣れない札を持った者が立ち尽くしていた。
長い腕の者が、その札を店の者へ差し出している。
店の者は、受け取らなかった。
「その札では、今日はお売りできません」
「昨日までは、買えた」
「昨日までは、向こうの決済院も受け取ると言っていました」
弥勒は、女と一緒に近づいた。
札には、細かな印が並んでいた。
「これは、お金ですか」
「別の世の通貨です。魂本位制の札です」
女は答えた。
「向こうの国では、国民の功徳の記録が増えれば、国も多くの約束を守れると考えられてきました。その約束をもとに、この札を出しているのです」
長い腕の者が、札を握った。
弥勒は、その者を見た。
「あなたの功徳の記録は、なくなったのですか」
「いいえ。なくなっていない」
「では、なぜこの札では、食べ物を買えないのですか」
女は、少し考えた。
「その札を受け取っても、明日ほかの世で品に替えられるか、今は誰にも分からないのです。国が約束どおりに払えるかも、皆が待っています」
「功徳が減ったからではないのですね」
弥勒は尋ねた。
「いいえ」
女は答えた。
「記録は残っています。ただ、国がその約束を守れると、皆が信じられなくなったのです」
札は、昨日と同じ形だった。
記録も、消えてはいない。
けれど、その札で今日の食べ物を売る者はいなかった。
*
その翌日、共同扶助の倉の前で、女が声を上げた。
「粥を配ります。子どものいる方から、こちらへ」
人が集まった。
払えるかどうかを確かめる列ではなかった。
鍋のそばでは、二人の者が椀へ粥をよそっていた。
待つ者が増え、手が足りないように見えた。
「私も、お手伝いしてよいでしょうか」
弥勒が尋ねると、女は顔を上げた。
「お願いします」
弥勒は椀を受け取った。
屋根の外で待つ者へ、一つずつ運んだ。
あの日、荷を急がせていた男もいた。
若い職人もいた。
別の世から来た、長い腕の者もいた。
女は、鍋のそばで配布の記録を端末へ入力していた。
「あとで払える方は、あとでよいのです」
「それで、約束は大丈夫なのですか」
弥勒が尋ねると、女は笑った。
「大丈夫ではありません」
「では、なぜ」
「今日、食べないと困る方がいるからです」
弥勒は、次の椀を受け取った。
お金も、約束も、まだ元には戻っていなかった。
それでも、目の前の者は、今日を越えられるかもしれなかった。
*
夕方、男がまた弥勒の前に来た。
倉は、まだ閉じていなかった。
けれど、明日のことは分からない顔をしていた。
「弥勒さま」
「はい」
「救済してくださいますか」
弥勒は、鍋のそばに残った椀を見た。
支払いを待つ者。
支払いを受け取る者。
仕事を続けたい者。
今日、食べる者。
皆を助けたいと思った。
「私は」
弥勒は一度、言葉を切った。
考えをまとめるように、静かに息を吸った。




