↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/10

救済を求めて

翌朝、市場は静かだった。


人がいなくなったわけではない。


屋根の下には、昨日より多くの人がいた。


けれど、荷を運ぶ声が少なかった。


板に、札が下がっている。


掛け売り停止。


弥勒は、その札を読んだ。


案内役の女が、共有画面の前に立っていた。


「今日は、品を売らないのですか」


「売ります」


女は答えた。


「ただ、あとで受け取る約束では、お渡しできません」


「なぜですか」


「こちらも、いつ受け取れるか分からないからです」


女は、札の下を見た。


そこには、昨日まで薬を売っていた店がある。


棚は開いていたが、いつもの品は少なかった。


「荷が遅れています。代金を先に払っても、向こうで出せるかは分かりません」


「道が悪いのですか」


「いいえ」


女は首を振った。


「向こうの国でも、先にお金を渡して、あとで品を受け取る約束をしていました。けれど今は、本当に品が届くか分からないので、その約束を止めているのです」


誰かが、店の前で言った。


「次の便に乗せる分だけでも、待ってください」


店の者は、困った顔をした。


「待ちたいのです。けれど、こちらも支払いがあります」


声を荒らげる者はいなかった。


皆、昨日と同じように、約束を守ろうとしていた。


ただ、守るための余裕がなくなっていた。


     *


女のところへ、年配の男が来た。


昨日、照会通知を受けて走ってきた男だった。


「弥勒さま」


男は、弥勒の前まで来ると、その場に膝をついた。


「もう、手元の金がありません。明日の支払いも、雇っている者への賃金も、払えるか分かりません」


男はさらに頭を下げた。


「どうか、どうか救済を。弥勒さまが救済してくださると、そうお約束いただければ」


弥勒は驚いて、反射的に男へ手を伸ばした。


「もちろんです。私は、そのためにおります」


男が顔を上げた。


「では——」


「五十六億七千万年後に下生した折には、必ず」


「……いま、です」


「いま?」


「明日までに支払いができなければ、倉を閉じます。倉を閉じれば、雇っている者へ賃金を渡せません」


弥勒は、男の顔を見た。


「それを、救済と呼ぶのですか」


「呼びます」


男は答えた。


「支払いを待ってもらえることも。荷を売れることも。家へ帰って、子どもに食べさせられることも」


女が、小さく息をついた。


「皆が、弥勒さまなら助けてくださると」


弥勒は、昨日聞いた言葉を思い出した。


救済があるから、長い約束も守っていける。


「私は、衆生を苦から救いたいと思っています」


「はい」


男は言った。


「だから、いま救ってください」


弥勒は、すぐには答えられなかった。


     *


「何をすれば、その方を救えるのでしょうか」


弥勒は、女に尋ねた。


女は、男の認証を受けて照会画面を開いた。


「支払いを待つことです」


そばにいた別の者が言った。


「待てば、こちらが払えなくなります。うちも、受け取るはずの金で職人へ賃金を出すのです」


「では、その方も救わなければなりませんね」


弥勒は言った。


保証の仕事をしている女が、通知を見ながら近づいた。


「保証先が払えなければ、私たちが出します」


「それなら、その方が助かります」


「はい」


女はうなずいた。


「けれど、私たちが出せば、共同の蓄えが減ります。次に食料を買う方へ、前に出す金がなくなります」


     *


数日後、弥勒が市場へ行くと、若い職人が女に話しかけていた。


「工房では、新しい仕事を受けられなくなりました。材料を先に買う約束が止まったのです」


「材料を渡せば、仕事を続けられますか」


「続けられます」


職人は言った。


「でも、作ったものを買う人も、いまは約束をしてくれません」


弥勒は、順に人の顔を見た。


支払いを待てば、別の支払いが遅れる。


保証を出せば、次の人へ渡すものが減る。


材料を渡しても、売る先がなければ仕事は続かない。


「では、その方も救わなければなりませんね」


弥勒は、もう一度言った。


誰も、違うとは言わなかった。


     *


さらに二日後、市場の奥で、見慣れない札を持った者が立ち尽くしていた。


長い腕の者が、その札を店の者へ差し出している。


店の者は、受け取らなかった。


「その札では、今日はお売りできません」


「昨日までは、買えた」


「昨日までは、向こうの決済院も受け取ると言っていました」


弥勒は、女と一緒に近づいた。


札には、細かな印が並んでいた。


「これは、お金ですか」


「別の世の通貨です。魂本位制の札です」


女は答えた。


「向こうの国では、国民の功徳の記録が増えれば、国も多くの約束を守れると考えられてきました。その約束をもとに、この札を出しているのです」


長い腕の者が、札を握った。


弥勒は、その者を見た。


「あなたの功徳の記録は、なくなったのですか」


「いいえ。なくなっていない」


「では、なぜこの札では、食べ物を買えないのですか」


女は、少し考えた。


「その札を受け取っても、明日ほかの世で品に替えられるか、今は誰にも分からないのです。国が約束どおりに払えるかも、皆が待っています」


「功徳が減ったからではないのですね」


弥勒は尋ねた。


「いいえ」


女は答えた。


「記録は残っています。ただ、国がその約束を守れると、皆が信じられなくなったのです」


札は、昨日と同じ形だった。


記録も、消えてはいない。


けれど、その札で今日の食べ物を売る者はいなかった。


     *


その翌日、共同扶助の倉の前で、女が声を上げた。


「粥を配ります。子どものいる方から、こちらへ」


人が集まった。


払えるかどうかを確かめる列ではなかった。


鍋のそばでは、二人の者が椀へ粥をよそっていた。


待つ者が増え、手が足りないように見えた。


「私も、お手伝いしてよいでしょうか」


弥勒が尋ねると、女は顔を上げた。


「お願いします」


弥勒は椀を受け取った。


屋根の外で待つ者へ、一つずつ運んだ。


あの日、荷を急がせていた男もいた。


若い職人もいた。


別の世から来た、長い腕の者もいた。


女は、鍋のそばで配布の記録を端末へ入力していた。


「あとで払える方は、あとでよいのです」


「それで、約束は大丈夫なのですか」


弥勒が尋ねると、女は笑った。


「大丈夫ではありません」


「では、なぜ」


「今日、食べないと困る方がいるからです」


弥勒は、次の椀を受け取った。


お金も、約束も、まだ元には戻っていなかった。


それでも、目の前の者は、今日を越えられるかもしれなかった。


     *


夕方、男がまた弥勒の前に来た。


倉は、まだ閉じていなかった。


けれど、明日のことは分からない顔をしていた。


「弥勒さま」


「はい」


「救済してくださいますか」


弥勒は、鍋のそばに残った椀を見た。


支払いを待つ者。


支払いを受け取る者。


仕事を続けたい者。


今日、食べる者。


皆を助けたいと思った。


「私は」


弥勒は一度、言葉を切った。


考えをまとめるように、静かに息を吸った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。