救う対象を消すな
「私は」
弥勒は、鍋のそばに残った椀を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
倉の男は待っていた。
端末を握る手に、力が入っていた。
「弥勒さま」
「はい」
「私たちの望む救済は、していただけないのでしょうか」
弥勒は、すぐには答えられなかった。
「倉を閉じずに済むことです。働いている者へ賃金を渡せることです。明日の荷を出せることです」
男は言った。
「それを、お願いしています」
やがて弥勒は、鍋の中を見た。
「いま、できることはありますか」
男は少し目を伏せた。
それから端末を握り直した。
「……倉の荷を、こちらへ回していただけるなら」
「その荷を、こちらで使ってよいのですか」
「……いいえ」
男は首を振った。
「荷はまだ、皆の約束の中にあります」
女が言った。
「ただ、運ぶ手は足りません。粥の椀も、明日の分の米も」
弥勒はうなずいた。
「では、運びます」
男は、しばらく弥勒を見ていた。
「それで、救済になるでしょうか」
「分かりません」
弥勒は答えた。
「ですが、いま、目の前にあることはできます」
男は小さくうなずいた。
*
翌日から、弥勒は倉と市場の間を歩いた。
昼には、近くの寺から来た僧侶たちも、粥をよそい、空いた椀を集めていた。
粥をよそい、空いた椀を集め、鍋のそばへ戻す。
弥勒が大鍋を動かそうとすると、若い職人が慌てて手を出した。
「弥勒さま、それは私が」
「一緒に持ちましょう」
「重いですよ」
「はい」
弥勒は鍋の持ち手を持ったまま答えた。
「重いものなのですね」
職人は少し困った顔をして、それから反対側の持ち手を持った。
二人で運ぶと、鍋は少しだけ運びやすくなった。
それを見ていた女が言った。
「人がいれば、できることがあります。でも、皆がそれぞれ困っていると、手が足りません」
弥勒はうなずいた。
知っていることと、できることは違う。
約束を守りたい者が、約束を守れないこともある。
助けたい者が、助けられないこともある。
市場には、同じようなことがたくさんあった。
*
夕方、倉の前で男が端末の支払い画面を開いていた。
「支払いは、まだ待ってもらえませんか」
男が向かいの商人へ尋ねた。
商人は首を振った。
「こちらも、ほかの方からお金を受け取るのを待っています。それが来なければ、うちの者へ払えません」
二人とも、声は静かだった。
弥勒は二人のあいだに映る支払いの画面を見た。
待つ者と、待たせる者。
払う者と、受け取る者。
どちらも、今日を越えたい者だった。
その後ろでは、職人が工房の仕事の合間に、米袋を運ぶのを手伝っていた。
粥を受け取った長い腕の者が、空いた椀を洗っていた。
誰かが食べられるようにと動く者がいる。
誰かの支払いを受け取るために動く者がいる。
皆が別々の約束を持っている。
約束が別々だから、苦も別々に続くのだろうか。
弥勒は、考えた。
*
夜、僧侶たちと弥勒は、鍋や桶を片づけていた。
一人、また一人と帰り、倉の奥には、洗った椀を布で拭く僧侶が残った。
弥勒は、そのそばに座った。
「衆生が無になれば、苦もなくなります。苦を生むものを、なくせばよいのではないでしょうか」
僧侶は椀を拭く手を止めた。
「恐れながら、弥勒さま」
「はい」
「それで、皆は救われるのでしょうか」
僧侶は、それだけを尋ねた。
弥勒は考えた。
支払いを待つ者がいなければ、支払いは遅れない。
仕事を求める者がいなければ、仕事がなくても困らない。
食べる者がいなければ、食べ物を配る必要もない。
さらに、その者たちを苦しませる欲や執着も、まとめてなくなればよい。
残るものは、苦のない、静かな世界になる。
けれど、市場では、支払いを待つ者がいた。
工房の仕事の合間に米を運ぶ者がいた。
粥を受け取り、次の者のために椀を洗う者がいた。
皆が、誰かのために待ち、働き、渡していた。
「……また、同じところへ戻っていました」
弥勒は言った。
僧侶は椀を重ねた。
「皆を助けたいと思ったのです」
「はい」
「だから、皆が苦しむ理由を、なくそうとしました」
僧侶は答えなかった。
弥勒も、答えを待たなかった。
「以前にも、世尊から言われたのです」
「なんと」
「救う対象を、消してはならない、と」
「……さようでございましたか」
*
翌朝、倉の前にはまた列ができた。
粥を受け取る列。
荷を運ぶ列。
照会結果を受け取り、対面相談を待つ人々。
昨日と同じではなかった。
昨日、粥を受け取った者が、今日は鍋の火を見ていた。
職人は、工房へ戻る前に、米袋を倉へ運ぶのを手伝っていた。倉の男は届いた荷の数を端末へ入力していた。
商人は支払いの話を続けていた。
約束は、まだ元に戻っていなかった。
市場の札も、掛け売り停止のままだった。
それでも、人々は、誰かが今日を越えるための場所を作っていた。
弥勒は、鍋のそばに立った。
「私に、できることはありますか」
女は、空いた椀を指した。
「洗ってください」
「はい」
弥勒は椀を受け取った。
それは、救済のすべてではなかった。
けれど、誰かの食べた跡だった。
次の者が使えるように、きれいにするものだった。
*
弥勒は、その日の暮れに現世を去った。
倉の男の端末には、まだ処理を待つ支払いと約束が残っていた。
市場の人々も、まだ約束の中にいた。
弥勒は、彼らの明日を決めてはいかなかった。
ただ、別れ際に男へ言った。
「救済してください、と言われましたね」
男はうなずいた。
「はい」
「私は、すぐにすべてを元に戻すことはできません」
男の顔が少し曇った。
弥勒は続けた。
「ですが、いま、目の前にあることはできます」
男は端末の表示を見た。
「では、倉は助からないのでしょうか」
「分かりません」
弥勒は答えた。
男は、返事を待った。
弥勒は、それ以上の約束をしなかった。
「今日、粥を運んでくださったことは、助かりました」
男は言った。
*
兜率天へ戻ると、釈迦はいつもの場所にいた。
「お帰りなさい、弥勒」
「ただいま戻りました」
「現世はいかがでしたか」
弥勒は、少し考えた。
「難しかったです」
「それは、何よりです」
「世尊」
「はい」
「救う対象を消してはならない、とおっしゃった意味が、少し分かった気がします」
釈迦は黙っていた。
「少しだけです」
「少しか」
「はい。まだ、五十六億七千万年ありますから」
釈迦は、しばらく弥勒を見た。
それから、短くうなずいた。
「ところで、世尊」
「はい」
「やはり、衆生がいなくなるのは、なしでしょうか」
「なしです。」




