三千世界に分散しています
弥勒が次に人の世へ降りたとき、前に市役所があった町には、大きな屋根ができていた。
屋根の下には、見たことのない荷が並んでいる。
布に包まれた薬草。石の箱。水をためるための薄い板。
人だけではなかった。
背の低い者が、長い腕で箱を運んでいる。顔を布で隠した者も、弥勒の前を急いで通った。
案内役の女が、弥勒を見つけて駆け寄った。
「弥勒さま。お待ちしておりました」
「ここは、何をするところですか」
「世をまたぐ市場です」
女は、屋根の向こうを指した。
「前には、返事を待って、少しだけ品を送り合っていました。いまは人も行き来します。薬を作る世から薬が届きますし、こちらからは水をためる板を送っています」
「皆で、助け合っているのですね」
「はい。ただ、届くまでには費用がかかります。向こうで働く方へ、お金を送ることもあります」
弥勒は、荷札を見た。
「別の世のお金も、使えるのですか」
「そのままでは使えません」
女は笑った。
「けれど、受け取る方が必要なものに替えられるよう、こちらで渡して、向こうで受け取れるようにします。送金と呼んでいます」
弥勒には、少し不思議だった。
同じ品を運ぶためにも、別の世で暮らすためにも、人々は互いの約束をつないでいる。
*
市場の奥には、壁一面に図を貼った場所があった。
女は、そこへ弥勒を案内した。
「これは、三つの世で一緒に進めている事業です」
図には、水の少ない土地と、薬草畑と、工房が描かれていた。
「こちらの世では、水をためる設備を作ります。別の世から材料を買い、もう一つの世から技術者に来てもらっています」
「皆が、自分で払うのですか」
「完成してから使う人もいます。ですから、先に必要なお金を出す方がいます」
女は、机にいた男を紹介した。
「この方が、資金を出す仕組みを説明してくださいます」
男は立ち上がった。
「工事が終われば、水を使う人から少しずつ料金をいただけます。その先の収入をもとに、いまの工事費を出します」
「前にも、似たことを聞きました」
弥勒は言った。
「病院を先に建てるために、お金を借りると」
「同じ考え方です」
男はうなずいた。
「ただ、世が一つ増えると、困りごとも増えます。どの世で受け取り、どの世で払うか。途中で何が起きるか。そこで、いくつもの世から少しずつ資金を集めるようになりました」
「一つの世だけに頼らないのですね」
「はい」
弥勒は、図の端にある印を見た。
「いくつもの世に分けると、なぜ安全になるのですか」
「ある世で凶作になっても、別の世まで同じように困るとは限りません。災害も、政治の争いも、事業の失敗も、いつも一緒には起きません」
男は続けた。
「一つの世に全部を置くより、いくつかの世へ分けるほうが、皆へ水を届け続けやすいのです。ですから、三千世界に分散しています。こちらのほうが安全です」
弥勒は図を見た。
それは、もっと多くの人を助けるための、穏やかな工夫に思えた。
「よいことですね」
「はい。一つの世だけではできなかったことも、ほかの世と力を合わせれば、できるようになりました」
男は答えた。
*
話は、それで終わりではなかった。
資金を出した人が、別の事業にも少しずつ参加できるようにする。約束を受け取った人が、次の約束のために使えるようにする。
困ったときには、複数の世の事業者が互いに支え合う。
女は、それを一つずつ説明した。
「助ける人が増えれば、助けられる人も増えるのですね」
「そうです」
「お金を持っていない方でも、参加できるのですか」
「これまでどのように暮らしてきたかも、約束を結ぶときの参考になります」
「それは、どうやって確かめるのですか」
「閻魔庁の記録です。長く約束を守ってきた方か、分かりますから」
女は答えた。
「現世で確かめられることや、これからの計画と合わせて見ます」
弥勒はうなずきかけて、少しだけ考えた。
閻魔庁で聞いた説明では、記録は死後の裁定のためのものだった。
けれど、女の言う「記録」は、長い約束を守ってきた人を知るための、当たり前の言葉になっている。
ここでは、それが当たり前の使い方になっているらしい。
人々は、これから受け取る収入や、続けていく事業について、約束を重ねているのだ。
「弥勒さまの救済があることも、皆の安心になっています」
女は、図を片づけながら言った。
「どれほど遠い先でも、最後には弥勒さまが救ってくださると聞いています。だから、長い約束も守っていけると考えられますから」
「救済ですか」
弥勒は、少し考えた。
「はい。私は、衆生を苦から救いたいと思っています」
「それなら、私たちも次の人を助けやすくなると思うのです」
女は笑った。
「それなら、私も嬉しいです」
*
数日後、弥勒はまた市場を歩いた。
荷札を持った男が、女へ声をかけるのが聞こえた。
「新しい仕組みになれば、こちらからも早く確かめられるのですね」
「そう聞いています。もうすぐ切り替わるそうです」
聞き覚えのある話に、弥勒は足を止めた。
「何のお話ですか」
女が振り向いた。
「閻魔庁の記録を照会する仕組みです」
「前に、帳面を探して照らし合わせる仕事が増えたと聞きました」
「ええ。これからは、こちらからも照会しやすくなります」
女は、いつもの仕事の話をするように、そう話した。
現世と、ほかの世からの照会。
古い帳面と、新しい記録。
多くなった仕事を、滞りなく続けるための仕組み。
弥勒は、しばらく屋根の下を見ていた。
荷が届く。
人が渡る。
遠い世で働く者へ、お金が届く。
そして、まだ会ったことのない誰かのために、約束が交わされる。
それは、弥勒が探していた救済へ、つながっているように見えた。
「もう少し、見て回ってもよいでしょうか」
女が振り向いた。
「もちろんです」
弥勒はうなずいた。
兜率天へ戻るのは、もう少しあとにしようと思った。




