三千世界の再発見
弥勒が次に現世へ降りたとき、市役所には、前から用意されていた部屋があった。
案内役の女が、弥勒へ頭を下げる。
「お待ちしておりました」
「前に来たときから、何が変わりましたか」
弥勒が尋ねると、女は一度だけ資料へ目を落とした。
「大きなことが、一つあります」
女は、いくつもの印が並ぶ記録を示した。
「魂本位制が広がって、長い記録を照会する方が増えました。そのなかに、私たちの国や地域では説明できない分類が多く見つかりました」
「何を分ける分類ですか」
「分かりませんでした」
女は答えた。
「閻魔庁へ問い合わせると、『その方が生きた世を分ける印です』と説明されました」
弥勒は資料を見た。
「世を?」
「はい。人ではない衆生も暮らす、別の世があるそうです」
女は、隣に座る僧へ視線を向けた。
「そこで、寺院にも照会しました」
僧は、机に置かれた経典と資料を見比べた。
「最初は、同じものだとは思いませんでした」
僧は言った。
「経典にある三千大千世界は、広く大きな世界のあり方を示す言葉です。まさか、帳面の印と照らせるとは」
僧は、資料の印を一つ指した。
「けれど、この印は国や地域では説明できず、人だけを分けてもいません。経典にある、この世だけで閉じない衆生の住み処という構造と、記録が分けている範囲が重なりました。だから、三千世界に対応するのではないかと思いました」
女が続けた。
「私たちは、昔から知っていた言葉を、実在する場所と構造として読み直しました」
「見つけた、というと?」
弥勒は尋ねた。
「経典の知識としてではなく、実在して、確かめたり触れたりできる場所として分かりました」
「経典にもありますが、ご存じではなかったのですか」
僧は苦笑した。
「知識としては。ただ、実在して、確かめたり触れたりできる場所としては、知りませんでした」
弥勒はうなずいた。
三千世界があることは、弥勒にとって不思議ではない。
けれど、人の世が記録と経典を照らし合わせ、そこへ届く道を探したことは別だった。
女が、別の資料を出した。
「記録を手がかりに、接続できる経路を調べました。今は、ほんの一部とだけですが、返事が来ます」
弥勒は顔を上げた。
「返事が?」
「はい。まだ人や物を自由に行き来させられるわけではありません。ただ、言葉を交わし、必要なものを少しだけ送り合い始めています」
弥勒は、初めて身を乗り出した。
「では、別の世の衆生とも、世を越えて助け合えるのですね」
「そのために、皆で道を探しています」
女は笑った。
*
弥勒は、その足で閻魔庁へ向かった。
入口に立つ者は、弥勒を見ると、いつものように一礼した。
「ご用件をどうぞ」
「現世の方々が、三千世界を見つけたそうです」
役人は少し考えた。
「見つけた、というと?」
「経典にあったことを、実在して確かめられるものとして知ったそうです」
「それは……よかったですね」
役人は、どう答えるのがよいか迷ったようだった。
「記録が増えたと聞きました」
「増えました」
役人は、すぐに帳面を一冊取り出した。
「現世からの照会も、ほかの世からの照会も増えています。古い帳面の書き方も混ざっていますので、照らし合わせる仕事が多くなりました」
帳面には、見覚えのある印のほかに、弥勒が知らない形の印が並んでいた。
「これは、何の印ですか」
「その方が生きた世を分けるための印です」
「これまでの帳面には、ありませんでした」
「当時は、必要なところだけを見ておりましたので」
役人は答えた。
「今は、同じ因果が別の帳面に重なっていないかも、より丁寧に確かめる必要があります」
弥勒は帳面を見た。
「間違いがあったのですか」
「裁定は閻魔さまがご覧になります。結論が間違っていたわけではありません」
役人は首を振った。
「ただ、同じ因果を別々の書き方で残しているものがあります。いまは探して突き合わせるだけでも時間がかかります」
「なぜ、仕組みを新しくするのですか」
「照会が増えたからです」
役人は答えた。
「以前は、必要な帳面をその都度探して照らせば足りました。今は古い書式も異なる書き方も多く、同じ因果が複数の帳面に残ることもあります」
「それを、探しやすくするのですね」
「はい。それぞれの世で異なる記録も照らし合わせ、多くの照会を滞りなく扱えるようにします」
弥勒は、少し安心した。
現世の人々は、記録を使って助け合う方法を増やした。
閻魔庁は、増えた照会を滞りなく扱うために記録を整える。
同じ帳面を見ていても、仕事は同じではないらしい。
「いつ、仕組みを新しくするのですか」
「まだ計画を立てているところです」
役人は言った。
「古い記録も確かめながら進めますので、すべてを新しい仕組みに移すまでには、数百年ほどかかる見込みです」
「それなら、急がずにできますね」
「……はい」
*
兜率天へ戻ると、釈迦は木陰にいた。
「世尊」
「はい」
「人の世の方々が、三千世界を見つけたそうです」
釈迦は、少し間を置いた。
「見つけた、というと?」
「人の世では、経典の知識としては知っていても、実在して確かめたり触れたりできる場所としては、知られていなかったそうです」
「なるほど」
釈迦は笑った。
「では、今は何をしているのですか」
「まだ、少しだけ話をしているそうです。必要なものを送り合うこともあると」
「それは、人の世らしい」
弥勒はうなずいた。
「別の世の衆生とも、助け合えるかもしれません」
「そうでしょうね」
釈迦は空を見た。
「人の世の衆生は、そこまで行き着いたのですね」
弥勒も、現世で見た資料を思い出した。
人々は、三千世界を見つけた。
そして、見つけただけでは終わらなかった。
その先にいる誰かへ、手を伸ばし始めていた。




