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魂本位制

弥勒が現世へ降りたとき、そこにはまだ誰もいなかった。


建物のあいだの、小さな広場だった。


空気が水面のようにわずかに揺れた。光も音も大きくは変わらない。揺れが収まったところに、弥勒は立っていた。


広場を通りかかった若い男が、足を止めた。


男は弥勒を見た。それから、広場の何もなかった場所を見た。もう一度、弥勒を見た。


半歩だけ後ろへ下がる。


弥勒が一礼すると、男も反射のように頭を下げた。頭を上げてから、何に礼を返したのか気づいたらしい。


「……え」


弥勒は待った。


「いや、ちょっと待ってください。そのままでお願いします」


男は鞄から小さな札を取り出し、弥勒の姿と、背後の広場を写した。何度か札を見比べ、息を吐く。


「……今年でしたか」


「何がですか」


「弥勒菩薩さまが来る年です」


「はい」


「はいなんだ……」


男はもう一度だけ弥勒を見た。


「お待ちください。たぶん、ご降臨です。市役所へ連絡します」


「市役所とは」


「町のことを決めたり、手続きをしたりするところです」


男は、通りの向こうにある大きな建物を指した。


弥勒が待っているあいだにも、人は広場を遠巻きに通り過ぎた。驚く者はいたが、叫ぶ者はいない。


「そろそろご降臨されるかもと、噂になっていましたから。まさか自分が立ち会うことになるとは思いませんでしたが」


男は照れたように言った。


「前にも、同じようにお現れになったと記録にあります」


ほどなくして、何人かの者が来た。そのうちの一人が弥勒へ深く頭を下げる。


「お待たせしました。市の行政担当です」


「私を知っているのですか」


「過去のご降臨の記録を、引き継いでおります」


男は弥勒の歩調に合わせ、市役所へ案内した。


「弥勒菩薩さまは、前においでになった時点までのことをご存じで、戻られている間に変わったことは、こちらからお尋ねになったことだけご説明する、と」


弥勒は男を見た。


「そのように書かれているのですか」


「はい。前回の案内をした方の記録にも」


弥勒は少し考えた。


「前に来たときから、何が変わりましたか」


行政の男は、うなずいた。


「まず、そのご質問から始めましょう」


     *


市役所の一室には、病院の院長と、銀行の者が待っていた。


行政の男は、机に資料を広げた。


「前にいらしたころ、担保のない方にも、長い行いの記録を補助にして貸付をする仕組みが生まれていました」


弥勒はうなずいた。


「はい。窯を直した方がいました」


「今では、個人への貸付だけではありません。町が、病院や学校をつくるときにも使っています」


院長が、新しい病院の棟の図を示した。


「この町の病院も、来年と再来年に、寄付や治療による収入が入る見込みです。以前に支援を受け、今は事業を続けている方々からの返済もあります」


「まだ、そのお金はないのですね」


「はい」


銀行の者が続けた。


「ですが、今お金を持つ者が、先に出します」


弥勒は資料を見た。


「後で、病院へ入るお金から返すのですか」


「はい」


弥勒は資料を見た。


「……未来のお金と、今のお金を交換するようなものですか」


銀行の者は少し考えた。


「だいたい、そうです」


弥勒は、言葉を確かめるように続けた。


「来年に入るはずのお金を返す元にして、今日、病院を建てる」


「はい」


「けれど、未来のお金が入らなければ」


「足りなくなることもあります。ですから、見込みだけでは決めません」


行政の男が資料の数字を指した。


「病院にどれだけ必要な人が来るか。医師と職員を雇い続けられるか。町が足りない分を出せるか。これまでの約束が守られてきたか」


院長も言った。


「建物だけあっても、人を治療できなければ意味がありません」


銀行の者は、別の資料を開いた。


「この条件を確かめたうえで、病院と町は、後から入る金の一部を返すと契約します。今お金を出す者は、その契約に従って返してもらいます」


「それが、先ほどの交換ですか」


「はい」


弥勒は、ようやくうなずいた。


まだ来ていない金を、勝手に使うのではない。後で入る金から返す約束をして、今ある金を借りるのだ。


「長い記録も見ますか」


「補助としてです」


行政の男は答えた。


「寄付を続けてきた市民や、事業を続けてきた方の長い信用履歴は、町の約束が守られる見込みの一つになります。ただ、それだけで金を出すことはありません」


銀行の者が続ける。


「相続因果簿や裁定補助値は、信用を測るための補助情報です。契約の対象は、現世でこれから入る寄付や事業収入です」


「魂を売ることは」


「禁じられています」


「安心しました」


弥勒が言うと、三人は少しだけ顔を見合わせた。


行政の男が、困ったように笑う。


「実は、この仕組みは俗に魂本位制と呼ばれています」


弥勒は男を見た。


「魂を売らないのに?」


「名前だけが先に広まりました」


院長が言った。


「長い記録まで見て約束を信じる仕組み、という意味で使われています」


「分かりやすいでしょうか」


「怖くはありますね」


院長は笑った。


けれど、その笑いは誰かをからかうものではなかった。


「実際に受け渡すのは、金の約束です」


銀行の者は言った。


「魂は誰のものにもなりません。功徳も、金に替わるものではありません」


     *


説明を終えたあと、行政の男は弥勒を病院へ案内した。


新しい棟は、すでに使われていた。


受付には人が並び、廊下の先には、診察を待つ者のための椅子がある。病室にはいくつもの寝台があり、医師と職員が行き来していた。


院長が、一人の子どものそばで足を止めた。


「この子は、今朝から熱が高かったそうです」


母親が、医師へ何度も礼を言っている。


「前の建物なら、入院を待っていただいていました」


「待たずに済んだのですね」


「はい。建てる金を全部集めてから工事をしていたら、この子も待っていたでしょう」


弥勒は、明るい病室を見た。


来年と再来年に入る金を返す約束によって、今日、ここに寝台がある。


「これは、救済を急ぐための工夫なのですね」


院長はうなずいた。


「助かった方が、また働きます。寄付をする方も、税を納める方もいます。その分で、次の方を助けられます」


     *


病院を出たあと、行政の男は国の資料を見せた。


「国も、同じように資金を集めています」


「病院のために?」


「病院だけではありません。道や水の設備、学校のためにもです」


弥勒は少し考えた。


「王が、ですか」


「いいえ。国がです」


「王ではなく?」


「はい」


「では、誰が返すのですか」


行政の男は、少し間を置いた。


「統治する方が替わっても、国がした約束は残ります。国が税を集め、その税や国の蓄えから返します」


弥勒は、すぐにはうなずかなかった。


王が替わっても、約束そのものは残る。その約束を返す者として、国が続く。


行政の男は、順に説明した。


「国がこれまで約束を守ってきた履歴。実際に税を集め、返す力があること。そして、その国を支える市民や事業者が、長く働き、約束を守ってきたこと」


「市民や事業者の記録は、国の記録ではないのですね」


「はい。国の税がこれからも集まるか、その基礎を見るための補助です」


弥勒は、ようやくうなずいた。


国が約束を守る力は、国が集める税と、国自身が積み重ねた履行の記録にある。


市民や事業者の長い信用履歴は、その力が続くかを見るための補助になる。


一人の商いを立て直す貸付は、町の病院を建てる仕組みになっていた。


さらにそれは、国が多くの町へ治療や水や道を届けるための約束になっている。


「よいことですね」


弥勒が言うと、行政の男は深く頭を下げた。


     *


兜率天へ戻ると、釈迦は木陰にいた。


「お帰りなさい、弥勒」


「世尊」


弥勒は、病院で見た子どものことを話した。


まだ集まっていない金を返す約束によって、先に建物をつくること。建物があれば、待たずに治療を受けられる者がいること。


「便利で、実際に人を救っていました」


釈迦は、静かにうなずいた。


「それはよいことですね」


「世尊。人の世では、国が約束をするそうです」


「国が?」


「はい」


「誰が約束をするのですか」


弥勒は少し考えた。


「……国がです」


釈迦は急かさず、続きを待った。


「王や統治する方が替わっても、国の約束は残るのだそうです。国が税を集めて返すので、今あるお金を先に使えると」


「なるほど」


釈迦は静かにうなずいた。


「人の世は、約束を続ける者まで考えたのですね」


弥勒も、うなずいた。


魂本位制とは、少し怖い名前だった。


けれど、魂を売るものではない。


善い行いを見落とさず、約束を信じられるようにして、救うための手を早く集める仕組みだった。


便利で、実際に人を救っていた。


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