↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/10

功徳八百四十二

三百人の試みを始めたあと、弥勒は兜率天へ戻った。


短く眠っているあいだに、人の世では四百年ほどが過ぎた。


弥勒が再び降りたのは、最初に相談をした町の寺だった。


本堂の脇に、古い降臨記を表示した端末を見ている僧がいた。弥勒の姿を見ると、僧は立ち上がり、画面と弥勒の顔を見比べた。


画面には、弥勒菩薩(みろくぼさつ)降臨記、とある。


「お待ちしておりました」


「私を、知っているのですか」


「四百年前に、三百人ほどをお求めになったと記されております」


僧は、少しだけ言いにくそうに続けた。


「魂を三百人分、とも」


「はい」


「生贄ではない、とも」


「その通りです」


僧は画面を閉じた。


「後の住職たちが、記録を引き継いできました。三百人の方へ、必要なものを渡し、その後を見た、と」


弥勒はうなずいた。


「前に、町のことを預かる侍がおられました」


僧は少し考えてから答えた。


「侍という方々は、もうおりません。町のことは、今では別の役目の者たちが預かっています」


弥勒は、もう一度、寺の外の静かな車の列を見た。


「その後を見に来ました」


僧は寺の外を指した。


「では、町をご案内します。あの試みは、もう寺だけのものではありません」


門前の道には、静かな車の列が続いていた。店のガラスには品物が並び、道の脇では端末を見ながら勘定をする人々の声がする。


三百人に渡したものは、畑の道具になり、店の材料になり、薬になった。戻せる者から少しずつ戻してもらった金は、次の者のために使われた。


「最初は、寺と町の蓄えだけでした」


僧は歩きながら言った。


「けれど、返ってきた分をまた使えると分かってから、商人も金を預けるようになりました。返せる見込みがありながら、担保になる財産を持たないために外れていた方にも、話を聞けるようになったのです」


「三百人の記録を使って」


「はい。ご本人が望む時だけ、閻魔庁の記録と、現世での話を合わせて見ます」


弥勒は、初めて聞く部分を確かめた。


「記録を、貸すかどうかの判断にも使うのですか」


「記録だけでは決めません」


僧は首を振った。


「商いが続くか、返す道があるか、町でどのように働いてきたかを見ます。ただ、財産だけでは見落とす方を、最初から外さずに済みます」


僧は一軒の建物の前で足を止めた。


「ちょうど、今日の審査があります」


中では、長机の向こうに三人の者が座っていた。その前に、女が一人、背筋を伸ばしている。女の足元には、擦り切れた布袋があった。


「担保になるものはありますか」


「担保にできるものは、魂くらいです」


女は答えた。


弥勒は、少しだけ首をかしげた。


「魂を?」


机の者は、すぐに首を振らなかった。脇の記録係へ、画面を向ける。


「照会を」


弥勒は、僧へ尋ねた。


「何を照会するのですか」


「長い行いの記録です。近頃では、俗に功徳とも呼ばれています」


しばらくして、記録係が小さな端末を持って戻った。


「裁定補助値、八百四十二」


弥勒は画面を見た。


「この数字を使うのですか」


机の者が、画面から目を上げた。


「数字だけでは決めません」


「では、何のために」


「この方を、担保がないという理由だけで外さないためです」


男は女の前に、火事の前から残る取引記録を画面に映した。


「火事の前、この窯は毎朝、市場の二軒と施療所へ焼き菓子を納めていました。二軒とも、再開すれば前と同じだけ頼むと言っています」


女はうなずいた。


「働いていた三人も、戻ると言ってくれています」


「窯の修理と最初の材料を買えば、注文分の売上だけで、光熱費と賃金を払い、返す分も残ります」


机の者は、画面の行を指した。


「通りのお客さんへの販売は、その上です」


「通りで売る分は、どうします」


女は少し考えてから言った。


「日持ちするものも作ります。持ち帰りやすいものや、子どもが一つずつ買えるものも用意します」


三人の者は、短く相談した。


「融資(ゆうし)します。返すのは、商いが戻ってからで構いません」


「本当に?」


「利分はいただきます」


「はい」


女は深く頭を下げた。


弥勒は、僧のほうを見た。


「功徳を貸したのですか」


「いいえ」


僧は少し驚いた顔をした。


「貸したのは金です。返していただくのも金です。八百四十二は、返済の代わりでも、担保でもありません」


「では、なぜ功徳を見るのですか」


「返せる商いがあっても、財産がないために話を聞いてもらえない方がいますから」


それは、弥勒にも分かった。


目の前にあるものだけでは、その人が次に何をするかまでは分からない。けれど、長く続いた行いを見れば、少しは分かることがある。


女の窯は、春の終わりに火が入った。


弥勒は、結果を見るため、しばらく現世に留まった。朝には焼き菓子の匂いが路地まで流れ、店の前には子どもが並んだ。働き手だった三人も戻り、夕方には売れ残りを、近くの施療所へ運んでいた。


秋になる前、弥勒は女の窯をもう一度訪ねた。


窯には火が入り、戻った三人が働き、店には焼き菓子を買う客がいた。


女は弥勒に気づくと、手を止めた。


「あのときは、ありがとうございました」


「返すものは、もう返せましたか」


「最初の返済も、もう済ませました」


女は笑った。


「約束ですから」


女が奥へ戻ったあと、僧が言った。


「記録がなければ、この方は審査の前に外れていたかもしれません」


弥勒はうなずいた。


町には、女の窯があり、三人の働く場所があり、朝に焼き菓子を買える者がいた。


女は金を返していた。


けれど、返したものは金だけではなかった。


誰かが誠実に生きたことが、次の誰かの働く場所になった。その場所が、また別の者を支えていた。


弥勒は、長い記録の中に、そのつながりを見つけた。


「これは素晴らしいですね」


僧は笑った。


「借りる方にも、貸す方にもです」


弥勒は、町の窯から上がる細い煙を見た。


善い行いが次の善い行いを可能にする。


それは、救済を増やすために探していた道の、一つだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。