功徳八百四十二
三百人の試みを始めたあと、弥勒は兜率天へ戻った。
短く眠っているあいだに、人の世では四百年ほどが過ぎた。
弥勒が再び降りたのは、最初に相談をした町の寺だった。
本堂の脇に、古い降臨記を表示した端末を見ている僧がいた。弥勒の姿を見ると、僧は立ち上がり、画面と弥勒の顔を見比べた。
画面には、弥勒菩薩降臨記、とある。
「お待ちしておりました」
「私を、知っているのですか」
「四百年前に、三百人ほどをお求めになったと記されております」
僧は、少しだけ言いにくそうに続けた。
「魂を三百人分、とも」
「はい」
「生贄ではない、とも」
「その通りです」
僧は画面を閉じた。
「後の住職たちが、記録を引き継いできました。三百人の方へ、必要なものを渡し、その後を見た、と」
弥勒はうなずいた。
「前に、町のことを預かる侍がおられました」
僧は少し考えてから答えた。
「侍という方々は、もうおりません。町のことは、今では別の役目の者たちが預かっています」
弥勒は、もう一度、寺の外の静かな車の列を見た。
「その後を見に来ました」
僧は寺の外を指した。
「では、町をご案内します。あの試みは、もう寺だけのものではありません」
門前の道には、静かな車の列が続いていた。店のガラスには品物が並び、道の脇では端末を見ながら勘定をする人々の声がする。
三百人に渡したものは、畑の道具になり、店の材料になり、薬になった。戻せる者から少しずつ戻してもらった金は、次の者のために使われた。
「最初は、寺と町の蓄えだけでした」
僧は歩きながら言った。
「けれど、返ってきた分をまた使えると分かってから、商人も金を預けるようになりました。返せる見込みがありながら、担保になる財産を持たないために外れていた方にも、話を聞けるようになったのです」
「三百人の記録を使って」
「はい。ご本人が望む時だけ、閻魔庁の記録と、現世での話を合わせて見ます」
弥勒は、初めて聞く部分を確かめた。
「記録を、貸すかどうかの判断にも使うのですか」
「記録だけでは決めません」
僧は首を振った。
「商いが続くか、返す道があるか、町でどのように働いてきたかを見ます。ただ、財産だけでは見落とす方を、最初から外さずに済みます」
僧は一軒の建物の前で足を止めた。
「ちょうど、今日の審査があります」
中では、長机の向こうに三人の者が座っていた。その前に、女が一人、背筋を伸ばしている。女の足元には、擦り切れた布袋があった。
「担保になるものはありますか」
「担保にできるものは、魂くらいです」
女は答えた。
弥勒は、少しだけ首をかしげた。
「魂を?」
机の者は、すぐに首を振らなかった。脇の記録係へ、画面を向ける。
「照会を」
弥勒は、僧へ尋ねた。
「何を照会するのですか」
「長い行いの記録です。近頃では、俗に功徳とも呼ばれています」
しばらくして、記録係が小さな端末を持って戻った。
「裁定補助値、八百四十二」
弥勒は画面を見た。
「この数字を使うのですか」
机の者が、画面から目を上げた。
「数字だけでは決めません」
「では、何のために」
「この方を、担保がないという理由だけで外さないためです」
男は女の前に、火事の前から残る取引記録を画面に映した。
「火事の前、この窯は毎朝、市場の二軒と施療所へ焼き菓子を納めていました。二軒とも、再開すれば前と同じだけ頼むと言っています」
女はうなずいた。
「働いていた三人も、戻ると言ってくれています」
「窯の修理と最初の材料を買えば、注文分の売上だけで、光熱費と賃金を払い、返す分も残ります」
机の者は、画面の行を指した。
「通りのお客さんへの販売は、その上です」
「通りで売る分は、どうします」
女は少し考えてから言った。
「日持ちするものも作ります。持ち帰りやすいものや、子どもが一つずつ買えるものも用意します」
三人の者は、短く相談した。
「融資します。返すのは、商いが戻ってからで構いません」
「本当に?」
「利分はいただきます」
「はい」
女は深く頭を下げた。
弥勒は、僧のほうを見た。
「功徳を貸したのですか」
「いいえ」
僧は少し驚いた顔をした。
「貸したのは金です。返していただくのも金です。八百四十二は、返済の代わりでも、担保でもありません」
「では、なぜ功徳を見るのですか」
「返せる商いがあっても、財産がないために話を聞いてもらえない方がいますから」
それは、弥勒にも分かった。
目の前にあるものだけでは、その人が次に何をするかまでは分からない。けれど、長く続いた行いを見れば、少しは分かることがある。
女の窯は、春の終わりに火が入った。
弥勒は、結果を見るため、しばらく現世に留まった。朝には焼き菓子の匂いが路地まで流れ、店の前には子どもが並んだ。働き手だった三人も戻り、夕方には売れ残りを、近くの施療所へ運んでいた。
秋になる前、弥勒は女の窯をもう一度訪ねた。
窯には火が入り、戻った三人が働き、店には焼き菓子を買う客がいた。
女は弥勒に気づくと、手を止めた。
「あのときは、ありがとうございました」
「返すものは、もう返せましたか」
「最初の返済も、もう済ませました」
女は笑った。
「約束ですから」
女が奥へ戻ったあと、僧が言った。
「記録がなければ、この方は審査の前に外れていたかもしれません」
弥勒はうなずいた。
町には、女の窯があり、三人の働く場所があり、朝に焼き菓子を買える者がいた。
女は金を返していた。
けれど、返したものは金だけではなかった。
誰かが誠実に生きたことが、次の誰かの働く場所になった。その場所が、また別の者を支えていた。
弥勒は、長い記録の中に、そのつながりを見つけた。
「これは素晴らしいですね」
僧は笑った。
「借りる方にも、貸す方にもです」
弥勒は、町の窯から上がる細い煙を見た。
善い行いが次の善い行いを可能にする。
それは、救済を増やすために探していた道の、一つだった。




