三百人ほど
弥勒が、閻魔庁の帳簿を眺めていたときだった。
記録は、行いの結果を長く追うことができる。誰かが助けた者が、のちに誰を助けたかも、因果の続きとして辿れる。
けれど、眺めているだけでは、次の助けは増えない。
弥勒は兜率天へ戻り、木陰の釈迦を訪ねた。
「世尊」
「はい」
「善い行いが次の善い行いにつながる道は、見ることができます」
「それはよかった」
「ですが、見るだけでは、つながりません」
釈迦はうなずいた。
「困っている者が、助けを受けて少し余裕を持てば、次に別の者を助けられることがあります」
「はい」
「しかし、必要なものは一人ずつ違います。食べ物が要る者も、道具が要る者も、薬が要る者もいるでしょう」
弥勒は少し考えた。
「では、足りないものを先に渡し、その後を見ます」
「誰にですか」
「三百人ほど」
釈迦は、すぐには答えなかった。
「なぜ三百人なのですか」
「少なすぎると、たまたまかもしれません。多すぎると、見きれません」
「なるほど」
「一人ずつ話を聞き、必要なものを渡し、行いの続きも記録で追います」
「よい試みでしょう」
釈迦は、やわらかく笑った。
「ただし、助けを受ける方が望むなら、です」
「もちろんです」
*
弥勒は兜率天から、あらためて現世へ降りた。
本人には短いあいだだったが、人の世では四百年ほどが過ぎていた。
弥勒が現世へ降りたのは、市の立つ町の寺だった。
寺の門前では、荷車から布や米を下ろす者と、銅の貨を数える者が行き交っていた。
堂の前で掃除をしていた僧が、箒を止めた。弥勒を見上げ、それから堂内の像を見た。何度も見比べたあと、深く額を地につける。
「弥勒菩薩さま」
「はい」
弥勒は一礼した。
「少し、ご相談があります」
僧は慌てて寺の奥へ走った。やがて住職が現れ、さらに町を預かる者たちが呼ばれた。そのなかには、腰に刀を差した男もいた。弥勒はそのあいだ、縁側で湯をいただいて待った。
町の長が、恐る恐る尋ねた。
「どのようなご用向きでしょう。侍さまにも、お話は通しております」
「三百人ほど、融通していただけませんか」
部屋が静かになった。
町の長は、弥勒を見た。
「……人を、ですか」
「いえ。人というより、魂を三百人分ほど」
僧の持っていた湯飲みが、かすかに鳴った。
弥勒は首をかしげた。
「生贄というわけではありません」
「こちらからは、まだ生贄とは」
「違います。殺しません。連れていきません」
町の長は、ゆっくり息を吸った。
「では、何をなさるのでしょう」
弥勒は、閻魔庁で教わった言葉を選んだ。
「ここで暮らす方のうち、望む方に必要なものをお渡しします。その方が、その後にどう生き、どなたを助けられるかを見せていただきたいのです。魂は、長く行いを追うための、記録の呼び方です」
僧は、少しずつ顔を上げた。
「救いのために」
「はい」
町の長も、ようやくうなずいた。
「それなら、話を聞く者を集めましょう」
人が集まると、必要なものは本当に違っていた。
洪水で農具を失い、畑はあっても耕せない者。火事で仕事道具を焼き、腕はあっても仕事に戻れない職人。病んだ家族の薬代に蓄えを使い果たし、商いを続けるための仕入れができない者。どの者にも、働く意思や手立てはあった。足りないのは、もう一度始めるためのものだった。
町の長は帳面を開いた。
「町の蓄えにも限りがあります」
「はい」
「一人に渡した分を、そのままにすれば、次の方には渡せません」
「戻れば、次の方へ使えます」
「戻す、ですか」
町の長は考えた。
「必要な品に替えられるものを渡し、商いなどで戻せる者から、少しずつ返してもらう。そうすれば、また別の者へ回せるかもしれません」
「それを、何と呼びますか」
「貸す、と」
弥勒は、その言葉を繰り返した。
「貸す」
「ただ、返せる見込みのある方を選ばねば続きません。畑も家も持たぬ者は、そこで外れやすいのです」
弥勒は、集まった人々を見た。
何も持たない者ほど、最初に必要なものから遠ざかる。
「これまでの行いなら、記録があります」
町の長が顔を上げた。
「記録、ですか」
「閻魔庁にあります。死後の裁定のために、行いの続きが残されています」
町の長は、すぐには口を開かなかった。
「それを、ここで使えるのですか」
「望む方が見せてよいと言うなら。記録だけで決めるものではありません。けれど、約束を守ったことや、助けが次の助けにつながったことは、長く確かめられます」
僧が言った。
「現世での話も聞き、記録も見るのですね」
「はい」
「それなら、財産だけを見るより、外さずに済む方がおられるかもしれません」
町の長は帳面を閉じた。
「三百人から始めましょう」
「望む方だけで」
「もちろんです」
弥勒はうなずいた。
救済のために渡したものが、次の救済へ戻ってくるなら、一度の施しで終わらない。
その戻り方を、人の世では貸付と呼ぶらしい。
弥勒は、最初の三百人の名を、記録ではなく、ひとりずつ聞くことから始めた。




