閻魔庁の帳簿
弥勒には、まだ分からないことがあった。
人を越え、国を越え、時代を越えて、行いの結果を追うにはどうすればよいのか。
現世にいるあいだのことなら、見に行けばよい。けれど人は死ぬ。町も変わる。井戸を掘った者の名が忘れられたあと、その井戸で水を汲んだ者が、また誰かを助けたとしても、そのつながりをどこまで辿れるのだろう。
弥勒は、死後の裁きが行われる場所へ向かった。
入口の札には、閻魔庁とある。
そこには、思っていたより多くの机があった。
長い机の上に、紐で綴じた帳面が積まれている。帳面を抱えた者が行き来し、別の者が札を確かめ、さらに別の者が判を押していた。誰かが急ぐと、誰かがその帳面を受け取り、空いた席へ運ぶ。
そこには、恐ろしげな飾りよりも、机と帳面のほうが多かった。
入口の机にいた役人が顔を上げた。
「ご用件をどうぞ」
「生前の行いは、どのように確認されているのでしょう」
役人は、弥勒を見た。それから、机の脇の帳面を一冊だけ指した。
「記録しておりますが」
「記録が?」
「死後の裁定に必要ですので」
弥勒は帳面を見た。表には、人の名ではない短い印が記されている。その下には、いくつもの日付と、知らない文字が並んでいた。
「一人ずつ、すべてを書いているのですか」
「必要なものを」
役人はそう答え、隣の机へ視線を向けた。
「たとえば、ある者が食べ物を分けた。受け取った者が生き延びて、のちに別の者を助けた。その後のことが裁定に関わるなら、前の行いも照合します」
「死んだあとでも?」
「はい」
「次に生まれたあとでも?」
役人は少しだけ考えた。
「同じ人が、そのまま移るという意味でしたら、いいえ」
弥勒は黙って続きを待った。
「形も考えも、前と同じではありません。ただ、行いの結果は途切れません。ですから、前の生と後の生のあいだに続く因果を、必要な範囲で結びます」
役人は帳面の表紙を軽く叩いた。
「正式には、相続因果簿といいます」
役人は、表紙から手を離した。
「現世では、これを『魂』と呼ぶ者もおります」
「魂」
「便宜上の呼び方です。変わらない何かが移っている、という意味ではありません。裁定に必要な、因果の続きの記録です」
「承知しました」
弥勒はうなずいた。
魂という言葉なら、短く言える。けれど短い言葉は、ときどき中身を余分に運んでしまうらしい。
帳面の中ほどに、同じ形の数字が並んでいた。役人が頁をめくるたび、数字は少しずつ変わる。
「その数字は何ですか」
「裁定補助値です」
「功徳そのものでは?」
「違います」
答えは早かった。
「裁定のたびに、すべてを最初から精査していては、仕事が回りません。確認が必要な件や、先に見るべき件が分かるよう、便宜上まとめた値です」
「善い行いの量ではないのですね」
「量でもありません。数字だけで決めることもありません」
役人は、隣の帳面を開いた。そこには数字の横に、短い注記があった。
「事情が変われば、見直します。記録が足りなければ、調べます。値は裁定のための手がかりです」
弥勒は、その数字をもう一度見た。
数字があれば、善悪がひとつに定まると思っていた。だが、ここにあるのは答えではない。答えに急がないための印らしい。
それでも、記録は残る。
誰かが助けたことも、その助けが次の助けにつながったことも。国が変わり、言葉が変わり、行った者の形が変わったあとでも、因果の続きとして辿れる。
「お尋ねしたいことがあります」
「はい」
「私は、長いあいだ、救済へつながる行いを見ていたいのです」
役人は筆を置いた。
「どのくらい長くでしょう」
「五十六億七千万年ほど」
役人の筆が止まった。
机の向こうで帳面を運んでいた者も、一度だけ弥勒を見た。
「……相当に長いですね」
「はい」
「通常の照会期限とは異なります」
「そうでしょうね」
役人は困った顔をしたが、嫌そうではなかった。棚の上の薄い帳面を取り、何頁かを確かめる。
「記録そのものは、裁定のために残します。参照の目的と範囲を届け出ていただければ、因果のつながりを追うことはできます」
「追えるのですか」
「記録がある限りは」
弥勒の胸の奥で、細い道がひとつ、遠くまで伸びた。
人の善い行いを、いま一度だけ褒めて終わらせない。その行いが次に何を生み、どこで途切れ、どうすればまた誰かを救える形になるのかを、長い時間をかけて見ていく。
必要なものを、先に積み上げるのではない。
救いが続く道を見つけ、その道が消えないようにする。
「届け出は、どこへ」
役人は、入口の机のさらに奥を指した。
「まずは、利用目的からお願いします」
弥勒は深くうなずいた。
五十六億七千万年後の救済へ向けた仕事は、まだ始まったばかりだった。
けれど、そのために見続ける目を、弥勒はここで得た。




