第一ノ肆話「裏のものは、表のように動かない:綴蛾」
古宮町の最寄り駅で電車を降りたのは、夜の九時を少し過ぎたころだった。
佐賀美線の終電が近い時間で、駅前のロータリーには人がほとんどいなかった。タクシーが二台、客を待っている。コンビニの明かりが、必要以上に白く見えた。
南は、コンビニで買ったおにぎりを、駅前のベンチで食べていた。朝から何も食べていない、と言ったので、寄ったのだった。俺は、缶コーヒーだけ買って、隣に座っていた。
「三輪さん、こういう取材、よくあるんですか」
「夜の取材?」
「ええ」
「ときどき。裏絡みは、夜に出るやつが意外と多いんだ」
「夜だと、ゆらぎが起きやすい、とか?」
「そういうことを言う人もいる。統計的にどうかは何も言われてないな」
南は、おにぎりの包装を几帳面に畳んで、リュックの中に入れた。
俺は缶コーヒーを飲み終えて、立ち上がった。古宮町の神社まで、駅から徒歩で十五分くらいらしい。タクシーを使うほどではなかった。
駅を離れると、街灯が急に少なくなった。住宅地のあいだを抜ける道は、家の窓から漏れる明かりだけが頼りで、それも夜の九時を過ぎると、ぐっと数が減った。
佐賀美の郊外は、東都の郊外とは、明るさがまったく違う。
十分ほど歩くと、前方に、人の集まりが見えた。
白い作業着の人が三人、それから、防護服を着ていない普通の格好の人が一人、街灯の下に立っていた。街灯のまわりを、何かが、ゆっくりと飛んでいた。
「三輪さん、ですか」
近づくと、普通の格好の男性が、こちらに声をかけてきた。三十代の前半くらいで、ジャンパーの下にシャツとジーンズを履いていた。
目の下に、はっきりとしたクマがあった。
「『余白』の三輪です。本日は急に申し訳ありません」
「横山です。いえ、こちらも、まあ。三日続けて夜に出てるんで、もう感覚がおかしくなってますから」
横山さんは、軽く笑った。笑うと、目尻に細い皺ができた。疲れていることが、その皺でわかった。
「同行の南です」
「南くんね。今日は小野からよろしくと」
横山さんは、白い作業着の人たちのほうに向き直って、紹介した。
「こちら、市役所の環境課の布施さん。それから、現場の近所にお住まいの永田さん」
布施さんは四十代の半ばで、髪を後ろに撫でつけていた。
永田さんは、七十を超えているだろうか、痩せて背の小さい女性で、白い作業着ではなく、暗い色の上着を着ていた。手に懐中電灯を持っていた。
「夜分にすみません。市役所の布施です。少しお話、伺っていただいて、すぐ離れていただきます。あんまり長くいると、まあ、いいことはないので」
布施さんの口調は、丁寧だが、淡々としていた。役所の現場対応に慣れた人の話し方だった。
「永田です。今日来てもらえてよかったです。なんとかしてほしいってねぇ、ずっと言ってるんですけどね」
永田さんは、笑顔を作って言ったが、その笑顔は疲れていた。
俺は、街灯のほうを見た。
街灯の白い光のまわりを、蛾が、飛んでいた。
ただし、それは、普通の蛾の飛び方ではなかった。
「気づきましたか」
横山さんが、俺の視線を追って言った。
「列を作って、飛んでるんですよ」
俺は、しばらく、街灯を見上げていた。
蛾は、街灯のまわりを、ぐるぐると回っていた。何匹いるのか、見ただけではわからなかった。三十、四十、もしかしたらもっと。ただ、その回り方が、普通の蛾の動きではなかった。
蛾は、列を作って飛んでいた。
一匹の後ろに、もう一匹がつき、その後ろにまた一匹がつく。そうやって、長い列が、街灯のまわりを、時計回りに、回っていた。列と列のあいだは、等間隔だった。蛾と蛾のあいだも、等間隔だった。
なんとも不気味だ、でもここまで整列していると美しくすら感じてしまう。
「これ、ずっと、こうですか」
「ずっと、です」横山さんが言った。
「日没の三十分後くらいに、どこからか出てきて、街灯の下に集まる。集まると、すぐ列を作りはじめる。深夜の二時ごろまで、こうしてます。それを過ぎると、どこかに消える」
「どこに、消えるんですか」
「わからないんです。何度か追跡しようとしたんですが、必ず途中で見失う」
南が、街灯のほうを、口を半開きにして見ていた。俺は、ノートを取り出して、メモを取りはじめた。
永田さんが、横から、小さな声で言った。
「あれね、私が子供のころはね、まだ、いなかったんですよ」
「永田さん、お住まいはずっとここですか」
「ええ。生まれたのも、ここで。ずっとここ」
「このあたりのことお詳しいんですね。いつごろから、こうなったんでしょう」
「先月の半ばぐらいかしらね。最初は、一匹か二匹で。それが、だんだん増えて今やこれよ。一気に増えすぎて気味悪いわ。」
布施さんが、ノートを開いて、補足するように言った。
「市役所に最初の苦情が入ったのが、五月の二十二日です。最初は、街灯のまわりに蛾がたくさん集まってる、というだけの苦情で。誰も、列を作って飛んでるなんて、思わないですから」
「最初に列に気づいたのは」
「私です」
横山さんが言った。
「研究室で、佐賀美のほうで裏由来らしい蛾の発生がある、って聞いて、一度見に来たんです。来てみたら、列を作ってた」
俺は、街灯のほうを、もう一度見た。
蛾の列は、変わらず、同じ速度で、同じ間隔で回っていた。
俺は、街灯にもう少し近づいた。蛾の翅は、灰色がかった茶色で、模様は、見たことのない蛾というほどではなかった。
形だけ見れば、夜に普通に飛んでいる蛾と、たいして変わらない。
「種類は」
「ヤママユガ科のキマダラオビヤママユに最も近い形態です。ただし、同種ではありません。標本を取って、研究室で比較しました。翅の鱗粉の構造が違うのと、複眼の構造が違う。表側の昆虫図鑑には載っていない、新種です」
「あと、奇妙なことに複数個体を調査してみましたが、すべてほぼ同じDNAでした。この蛾、単為生殖なんですよ。だから増えるのがこんなに早い」
横山さんの口調が、研究者の口調に切り替わった。さっきまでの疲れた感じが、その瞬間だけ、消えた。
「俗称は」
「俗称はまだないです。記事を書くなら、つけていいですよ。広まったやつ勝ちなんで、こういうのは」
「では、検討します」
俺はノートに、「円周蛾(仮)」と書いてみた。それから、横線で消して、「綴蛾」と書き直してみた。しかし、それも消して、「仮称未定」と書いた。
永田さんが、街灯を見上げて、ぽつりと言った。
「あれね、何かを、守ってるみたいに見えるでしょう」
俺は、永田さんのほうを見た。
「街灯のまわりを、ぐるぐる、ぐるぐる。何かを、守ってるみたいに」
「永田さん、街灯の下には、何かあるんですか」
「いえ。ただの街灯ですよ。電柱の根元、見てもらえばわかりますけど、何にもないですよ」
布施さんが、フッと笑った。
「皆さん、それを言うんですよ。市役所にも、何件か、街灯の下に何か埋まってるんじゃないかって苦情が来てます。一応、調べたんですけど、何もないんです、本当に」
俺は、街灯の電柱の根元を見た。コンクリートで固められた地面、雑草が少し、その上に蛾の死骸がいくつか落ちていた。
死骸の落ち方が、おかしかった。
まばらに落ちているのではなく、電柱の周りに、円を描くように、落ちていた。等間隔で、円周上に。
「これ」
「死骸も、整列するんですよ」
横山さんが言った。
「俺も最初、地面を見て、それで完全にやられた」
「やられた、というのは」
「ああ、これは普通の蛾じゃないな、って」
南が、しゃがみこんで、死骸の1つに顔を近づけていた。
「ああ、まって触らないで」
横山さんが、軽く声をかけた。
「死骸でも、たぶん、何かしら持ってるから」
「あ、すいません」
「謝らないで。普通に好奇心湧くもんね、これ 南くんも裏生物とか興味ある感じ」
「そこまでは、大学では特に触れてきませんでしたし、ただ好奇心はくすぐられますね」
南は立ち上がって、ノートに何かを書きつけた。
俺はもう一度、街灯の上の蛾の列を見た。
やはり、列は変わらない速度で、変わらない間隔で回り続けていた。
「永田さんすみません、不躾な質問になるんですが」
「はい」
「この地区には、神社が、ありますよね」
「ええ。すぐそこ。古宮神社」
「神社の名前から、町の名前が来てるんですか」
「ええ、そうです。古い宮、で、古宮町」
「神社のほうでは、こういう蛾は」
「神社のほうは、出ないみたいですよ」永田さんは、すぐに答えた。「街灯のあるところだけ、出るみたい」
「神社には、街灯が」
「境内には、ないですね。参道のところには、あるけど、そこには出ない」
俺はノートに、「神社境内・参道:発生せず」と書いた。
布施さんが、腕時計を見て、軽く咳払いをした。
「三輪さん、申し訳ないですが、そろそろ、離れていただいたほうがいいかもしれません」
「と、いいますと」
「酔っちゃうんですよ。ゆがみ酔い、っていうやつかもしれません。あの蛾の近くに長くいた人が、たまに気分が悪くなる」
「ゆがみ酔い」
「ゆがみ係数が高いところに長くいるとね。人によって閾値は違うんですけど頭が痛いとか、気分が悪くなるとか、人によっては強い吐き気とかもありますね」
布施さんは、上着のポケットから携帯型の計測器を取り出した。
煙草の箱を2回り大きくしたような、灰色のプラスチック製の機械だった。画面に、緑色の小さな数字が表示されていた。
「今ここ、0.7です。注意報レベルにはまだ届いてないですけど、長くいると、まあ、人によっては気分が悪くなる値ですね」
南が教授に質問でもするかのように口を開いた。
「平常値はどれくらいなんですか」
「東都の街中で 0.0から0.1 くらい。佐賀美の田舎で、普段は 0.1から0.2 くらいですかね。今この場所が0.7なんで、普段の数倍出てる感じです」
「警報はどれくらいででるものです」
「2.0 を超えると、注意報。5.0 を超えると警報。10.0 超えると、原則として立ち入り禁止になります」
南はノートに書き留めていた。
布施さんは、計測器を手のひらに乗せて、軽く街灯のほうに向けた。数字が、わずかに上がった。0.7が、0.8になり、また0.7に戻った。
「揺れますね」
「街灯のすぐ下だと、もう少し高くなります。1.2くらい。あんまり近づかないほうがいいですよ」
俺は、ノートを閉じた。
「横山さん、もう少しだけ、お話を伺っても」
「離れてからにしましょう。布施さんの言うとおりで、長くいないほうがいいです」
俺たちは、街灯から、二十メートルほど離れた。
少し歩いただけで、街灯の下の光が、急に遠のいた気がした。
蛾の列は、まだ回っていた。
遠目で見ると、街灯のまわりに、ぼんやりとした輪ができているように見えた。
「横山さん、この蛾は何か目的があって、こうしてるんでしょうか」
「わかりません」
横山さんは、即答した。
「目的、っていう考え方が、そもそも合ってるのかも、わからない。普通の蛾は、光に集まる習性があって、それは光を方角の目印にしてるから、っていう説が有力ですけど、こいつらは、明らかに、それじゃない」
「光が目印じゃない、というのは」
「光に集まってるんじゃなくて、街灯そのものに集まってる感じなんですよ。光を消しても街灯のところに来る」
「試したんですか」
「試しました。光を消しても、来ました。少し動きが落ち着くだけで、街灯のまわりにいる」
俺はノートに、それを書き留めた。
南が、隣で、自分のノートを見返していた。
少し顔色が悪くなっているように見えた。
「南、大丈夫か」
「……はい。少し、頭が重いだけです」
「布施さんの言ってた、気分が悪くなる、ってやつかもしれない」
「そうかもしれません」
「もう少し、離れよう」
俺たちは、さらに二十メートルほど離れた。永田さんと布施さんが、こちらに歩いてきていた。
永田さんが、俺の前に立って、言った。
「『余白』さん、ちゃんと、書いてくださいね」
「もちろんです」
「みんな、忘れちゃうのよ、こういうの。三年経つと、誰も覚えてない。蛾がいたことも、街灯のまわりを回ってたことも」
「忘れちゃう、というのは」
「次のことが起こるからね。古宮町って、そういう土地なんですよ。何年かに一度、何か出る」
永田さんは、少し黙ってから、続けた。
「蛾だけじゃないんですよ。ときどき、人が、いなくなるの」
「いなくなる、というのは」
「神隠しって、お聞きになられたことありますか」
「ええ」
「うちの町、神隠しが、たまにあるんです。ずっと昔から。私が子供のころにも、何人かいました。みんな、戻ってこなかったわ」
俺は、ノートに、その言葉を書き留めた。
「それは、こういう、蛾が出ているときに」
「ええ、そうね。蛾が出てる年は、たいてい、一人か二人、消えるわね」
永田さんはそう言って、自分の懐中電灯をつけた。
光が、夜の道を、まっすぐに照らした。
「帰りも、お気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
永田さんは、軽く頭を下げて、暗い住宅地のほうに歩いていった。
布施さんが、俺と横山さんに、最後の挨拶をして、車で去った。
残ったのは、俺と南と、横山さんだった。
「横山さん、また、改めて伺っても」
「いつでも。研究室でならもっとちゃんと話せます。標本もありますんで」
「ありがとうございます」
「あと、これ、書くときの注意なんですけど」
横山さんは、少し声を落とした。
「目的があるみたいに書かないでほしいです。何かを守ってるとか、何かに従ってるとか、そういう書き方。永田さんはそう言ってましたけど、研究者としては、そう書かれると困るんです。まだ何もわかってない、っていうのが、いちばん正確なので」
「もちろんです、わかりました」
「変な書き方しないって、信用してます」
横山さんは、軽く手を上げて、自分の車のほうに歩いていった。
俺と南は、暗い道を、駅のほうに歩いた。
歩きながら、振り返ると、遠くの街灯の光が、まだ見えた。光のまわりに、ぼんやりとした輪が、回っていた。
「三輪さん」
「ん」
「あの蛾、明日も、明後日も、ずっと、街灯のまわりを回ってるんですよね」
「たぶんな」
「誰も見てない時間でも、ずっと」
「そうだろうな」
南は、それ以上、何も言わなかった。
俺は、ノートを開いて、最後に一行、書き加えた。
「綴蛾——綴じる、束ねる、編む」
駅に戻って、終電に飛び乗った。電車の中で、南は、すぐに眠った。
俺は、窓に映る自分の顔を見ながら、なぜか、子供のころに見た生き物のことを、また思い出していた。
あの生き物は、何かを、編んでいなかっただろうか。
ふと、そう思った。
けれど、はっきりとは、思い出せなかった。




