第一ノ弐話「裏のものは、表のように動かない:青葉」
下野線の終点、野州足利駅で電車を降りて、駅前のロータリーから出ているコミュニティバスに乗った。乗客は俺と南のほかに、おばあさんが一人。バスは住宅地のあいだを十五分ほど揺れて、田んぼと畑の境目あたりで俺たちを降ろした。
「降りるところ、ここで合ってるんですよね」
南が、スマホの地図を見ながら言った。
「合ってる。あと五分くらい歩く」
「了解です」
南は、今年の春に『余白』に入ってきた新人で、まだ入社して数ヶ月だった。出版業界に入りたかった、というのが志望理由で、『余白』であることに特別な思い入れはないらしい。ただ、入った以上は仕事をする、という姿勢が、新人にしては妙にしっかりしていた。今日は研修の一環として、俺の取材についてきている。
六月の終わりだった。梅雨の合間の晴れの日で、舗装の途切れた道を五分ほど歩くうちに、シャツの背中が湿りはじめた。
表札に「篠田」と書かれた、田舎特有の大きな家があった。立派、というのではない。二階建ての、瓦屋根の、敷地の広い、けれどどこにでもある古い農家風の家だ。門柱の脇に小さな看板が立てかけてあって、「漂流植物 見学受付中(要予約)」と、達筆な毛筆で書いてある。
南が、看板の文字を見て、少しのあいだ立ち止まった。
「漂流植物、というのは」
「業界用語では漂流物。流れ着いたもの、っていう意味で。裏由来のものをそう呼ぶ」
「裏流れ、というのも」
「同じ意味だ。俗称のほう。記事では漂流物と書く」
南は、ノートを開いて、「漂流物=裏由来のもの(公的)/裏流れ(俗称)」と書きつけた。几帳面な、まっすぐな字だった。たぶん、俺がさっき言ったことを、ほぼそのまま書き写しているのだろう。研修中というのは、そういうものだ。
俺は門の前で一度息を整えた。看板の達筆さも、家のたたずまいも、想像以上に「普通」だった。インターホンを押すと、思ったよりすぐに、戸が開いた。
「『株式会社 余白』の三輪です。本日はお時間いただき、ありがとうございます」
「ああ、三輪さん。お待ちしてましたよ」
七十代だろうか、と最初は思ったが、よく見ると六十代の半ばにも見えた。背が高く、姿勢のいい男の人で、ベージュのカーディガンを羽織っていた。声に張りがある。俺が想像していた「定年後の園芸家」のイメージとは少し違って、もう少し若い顔をしていた。
「同行の南です。本日はよろしくお願いいたします」
「いやいや、こちらこそ。お茶でも、と思ったんですが、その前にまずは見ますか」
「ぜひ」
通されて、家の脇から裏庭に回った。
裏庭は、想像していたよりずっと広かった。手入れの行き届いた芝生があって、奥に菜園があって、その手前に、植木鉢がいくつか並べられた一画があった。
「あれです」
篠田さんが指を指した先には、明らかに他とは違う植物が、五号ほどの素焼きの鉢に植えられていた。
青い葉をつけた、背丈十五センチほどの、樹木だった。
俺は鉢のそばまで歩み寄って、しゃがみこんだ。
その瞬間、空気が、変わった気がした。
梅雨明け前の、湿気を含んだ暑さの中だった。けれど、鉢のまわりだけ、ふっと、涼しく感じた。気温が下がっているのか、そう感じるだけなのかは、わからない。
南が、少し遅れて、俺の隣にしゃがんだ。それから、声を出さずに、目だけで「これは」というような顔をした。俺は黙ってうなずいた。
鉢の中の樹木は、幹が細く、まっすぐに立っている。葉は五枚、互生していて、形は普通のものに近い。ただし、葉の色が、青かった。
青、というのは比喩ではない。空の青、というよりは、海の浅瀬の色に近い、透明感のある青だった。葉の中心から、銀色の葉脈が放射状に伸びていて、その葉脈の枝分かれは、よく見ると、氷の結晶の形をしていた。
「触っても、よろしいですか」
「どうぞ」
俺は、葉の縁に、指先をそっと触れさせた。
冷たかった。
ただ冷たい、というのではなかった。指先が触れた瞬間に、皮膚から、何かが吸われていくような、そういう冷たさだった。慌てて指を離した。指先に、何の異常もなかった。けれど、しばらく、その指だけが、他の指より少し冷えていた。
「冷たいでしょう。皆さん驚かれます」
篠田さんがそう言って、自分の指を、葉に当てた。慣れた手つきで、しばらく当てたまま、笑った。
「ずっと触っているとね、慣れるんです。最初の何秒かが、いちばん冷たいんです」
俺は、ノートを開いて、メモを取りはじめた。葉の数、幹の太さ、土の色、鉢の大きさ。それから「鉢のまわりが涼しい(体感)」と書いた。南は、自分のノートを開いて、俺の書いていることをちらりと見て、似たようなことを書いていた。
俺は、自分の指先がまだ冷えているのを感じながら、青葉を見ていた。気がついたら、篠田さんに次の質問をしていた。
「……いつから、こちらに」
「七年と少し前です。知り合いの紹介で、譲り受けまして」
「お元気そうですね」
「ええ、おかげさまで。手のかからない子なんですよ」
「水は、どれくらい」
「週に二回、土が乾いたら。普通の観葉植物と変わらないですよ。日当たりは半日陰がいいと、譲ってくれた方が言っていたので、そうしています」
「肥料は」
「最初は普通の液肥をやっていたんですが、あまり好まないみたいで。今は何もやっていません」
「失礼ですが、種類は」
「わからないんです」
「俗称も?」
「『青葉』と呼んでます。私が勝手にそう呼んでるだけで、正式な名前があるのかどうかは。譲ってくれた方も、知らないと」
青葉、と俺はノートに書いた。その横に「俗称・本人命名」と書き足した。南も、同じようにノートに書いていた。
「篠田さん、不躾なことを伺いますが、こちらはどこで手に入れられたのですか」
篠田さんは、しゃがんだまま、青葉のほうを見ていた。それからゆっくりと俺を見て、少し笑った。
「私の友人で、十年ほど前に、一度裏に行って、戻ってきた人がいるんです」
「裏帰りの方ですか」
「ええ。一週間ほど、戻らなくて。家族はずいぶん心配されたそうです。それで、戻ってきたときに、ポケットにこれの種が入っていたと」
「ポケットに、種が」
「本人も、何の覚えもないらしいんです。気がついたら、入っていたと」
俺は、ノートの上で一瞬ペンを止めた。
裏帰りの人が、自分でも気づかないうちに何かを持って帰ってくる、というのは珍しくない。漂流物の典型例だ。問題は、その「何か」が植物の種で、しかも発芽して、こうして育っているということだった。
「種を蒔いたのは、そのご友人ですか」
「いえ、最初は捨てようとしたそうです。気味が悪い、と。けれど捨てきれずに、台所の引き出しに入れたまま、何年か経って」
「捨てきれなかった、と」
「ええ。漂流物というのは、そういうものらしいです。手元に置いておきたくなる、というか。なんと言うんでしょうね、心の隅で気になり続ける、というか」
「それで、あるとき、引き出しを開けたら、種から芽が出ていたそうです」
「……引き出しの中で、ですか」
「ええ、暗いところで」
俺は、メモを取る手を止めた。それから、青葉のほうを見た。
葉は、青く、静かに、そこにあった。
「篠田さん」
「はい」
「これ、成長は」
「ああ、それも妙でして」
篠田さんは、青葉の幹の途中を指した。幹の節のようなところから、新しい芽が、一つ、出ていた。
出ていた、と言うべきなのか、出かけている、と言うべきなのかは、よくわからなかった。芽は、幹の側面から先端を覗かせているだけで、まだ葉を開いていなかった。普通の新芽なら、二、三日もすれば葉を開く、その手前の状態のままで、止まっていた。
「これ、いつ出てきたものですか」
「あれは、たしか、五年前です」
「五年前」
「ええ。まだ、開きません」
俺はもう一度しゃがみなおして、新芽を、近くで見た。たしかに、芽は、完全には閉じていなかった。先端のところが、ほんの少しだけ、開きかけていた。けれど、その「開きかけ」は、明らかに、五年かけてここまで開いた、という形をしていた。
「枯れることは」
「七年、いえ、譲り受ける前からも、ずっとないようです」
「成長していない、と」
「成長は、しています。ものすごく、ゆっくりですが」
俺は葉の一枚を、もう一度見た。葉の表面に、ごくうっすらと、白い筋が走っているのに気づいた。葉脈の銀とは違う、もっと細い、糸のような筋だった。
「篠田さん、この白い筋は」
「ああ、それですか。それね、古い葉ほど、少しだけ多いんですよ」
「多い」
「ええ。たぶん、これがほとんど唯一の、葉の年齢の手がかりなんです。育てているうちに気がつきまして」
俺はノートに、「白い筋——葉の年齢の指標(本人観察)」と書いた。
時間が、この植物の中では、ものすごくゆっくりとしか進んでいない——そう書きたい誘惑にかられたが、ノートには書かなかった。記事に書く前に、もう少し、考える必要があった。
南が、隣で、控えめに口を開いた。
「あの、看板に『見学受付中』とありましたが、こちらは、どなたかにお譲りされたりはしているんでしょうか」
篠田さんは、南のほうを見て、少し笑った。
「いえ、譲ってはいません。よく聞かれるんですが」
「断ってらっしゃる」
「断る、というか、譲りようがないんです。この子、花が咲かないので、種ができない」
「ああ」
「それに、正直なところ、私自身、これがどういう植物か、よくわかっていないので。そんなものを、人に渡せないでしょう」
俺は、ノートに、「花咲かず、種なし、本人も正体不明のため譲渡せず」と書いた。
「では、その引き出しから出てきた、最初の種というのは」
「あれは、たぶん、”裏”からの贈り物だったんでしょう」
俺は、ノートに、その通りに書き留めた。南も、同じ言葉を書いていた。
「お茶を淹れますから、家のなかで、もう少し話しませんか」
篠田さんが、そう言って、母屋のほうに歩き出した。俺は立ち上がって、もう一度、青葉を見た。
葉は青く、銀の葉脈は氷の結晶のように細かく光って、五年かけて開きかけの新芽が、幹の途中から出ていた。
子供のころ、と、ふと思った。なぜ思ったのかは、よくわからなかった。あのとき見た生き物は、こんなふうに静かでもなかったし、こんなふうに冷たくもなかったはずだ。
南が、俺の隣で、立ち上がった。
篠田さんが、玄関のところで振り返って、俺たちを呼んだ。
俺は、青葉から目を離して、母屋のほうに歩いた。
歩きながら、さっき触れた指先が、まだ少しだけ、冷たかった。




