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天正十年の小夜曲  作者: 水上千年
第二章
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化粧箱

 いつもの出入りの商人ではなかった。なんでも戦のごたごたで、代わりに自分が参りましたと、手形を見せながらその男は言った。


「鮑をお届けに参りました」


 蔦江はその言葉を聞いて、何日かぶりの安らぎを得たような気がした。怖い年上の侍女に睨まれ急かされるのはもうこりごりだったのだ。そして何より、姫様の御所望の品だ。さぞ、お喜びになるだろう、と嬉しくなる。


「ありがとう。姫様もお喜びになられるわ」

「鮑をどうしても急ぎで欲しいという事でしたので、この戦の中、手に入れ運んで参りました」

「それはご苦労を……これは私の気持ちばかりだけど」


 蔦江は商人に少しだけの駄賃を加えて渡した。その分は蔦江の懐から出ている。手痛い出費だが、仕方がない。戦の最中に無理をさせてしまったのだ。今後もこの新顔の商人と付き合いもあるだろう。


「これはこれは……おやさしいお気遣い。恐悦至極」


 などと言いつつ、商人は蔦江から「報酬」をしっかりと受け取る。


「姫様は鮑がお好きで? よろしければ、これからは毎度干し鮑をお持ちいたしましょう」


「毎度はいいわ。鮑を御所望だったのは、姉君に滋養になるものを差し上げたかったからよ」


「姉君? というと、上のお姫様はご病気で?」


「いいえ。御懐妊よ」


「それはおめでとうございます! お生まれになったら何かと御入用になりましょう。今後も私共は誠心誠意、商いを尽くしてお仕えいたします。何かあれば仰ってくださいますよう」

 商魂たくましい。柔和な笑顔の裏にある強かさ。なんとなく、この男の目の奥は笑っていないような気がした。何かを探っている。蔦江と話しながらも、嗅覚をするどくしてこの「御殿」の内部を知ろうと企んでいる。


 雪姫付きの者たちだけではなく、姉君の侍女、母上……前国司の妻の侍女や使用人もばたばたと忙しく働いている。さっきから、蔦江と商人の背後を幾人もの小間使いたちが行ったり来たりしていた。そろそろ夕餉の準備にとりかかる時だ。

 誰もこの新顔の商人を気に留めていなかった。だが、蔦江は親しく話してしまったことに少し後悔している。この谷は穏やかだが、今、お家は一大事なのだ。ここにいて日々の雑事に追われていると忘れてしまう。怪しい人物がしのびよってきても気づかないかもしれない。

「鮑を調達してくれてありがとう。さ、もう早くお帰りなさい」


 なかば追い払うような気持ちで商人を帰らせ、息をつく。気のせいだろう。ちょっと図々しいが、人の好さそうな男だったではないか。蔦江はそう自分に言い聞かせて仕事に戻る。


 今宵は宿直とのいだ。

 干し鮑の件も解決して、秋の夜長に綺麗な星を眺めることができるだろう。久々に気持ちよくお務めができそうだ。




 ◇◇◇



 夜。

 鐘の音がけたたましく鳴り響く。警鐘。

 多気たげ谷の静寂を引き裂き、男たちは闘え、女子どもは逃げろと叫ぶ金属音。

 秀吉の軍が谷に侵入。伊勢平野から多気谷へと繋ぐ水路を塞ぐ八田城を攻撃し、暗い中、別働隊を谷へと向かわせた。別働隊といっても大軍であり、本命は八田城ではなく多気谷であることは明らかだった。

 櫓で寝ずの番をしていた北畠の兵は気づくと鐘を激しく打ち叩く。己たちの油断を悔いながらーー。

 見下ろせば、駆けつけた北畠の駐屯兵たちと秀吉の兵たちがぶつかりあっていた。互いに松明を投げつけ、矢の雨を降らせている。朱色の炎が無数の敵味方の影を落とし、戦がこの谷を呑みこもうとしているところであったのだ。







「姫様!夜襲にございます!」


 臥所ふしどに上がり、怒鳴りつけるように雪姫を急かした。下っ端の蔦江には出過ぎたまねだが、今は非常時である。

 雪姫はすでに起き上がっていて、寝化粧の顔を蔦江に向けた。

 真正面からその顔を見たのはこの時が初めてである。

 仄暗い臥所に、うかぶ白い瓜実顔。眉根は憂いげに寄せられ、絶妙に配置されている二つの瞳の光はかすかにゆらめいて、蔦江をつきさした。唇は何か言いたげに少しだけあいている。その上唇と下唇の隙間に、人差し指をさしこんでみたいという欲が己のうちに生じたのを蔦江は嫌悪した。

 思わず平伏し、うわずった声になる。

「姫様、早くお支度を!」


 慌ただしくかける足音。女房たちの衣擦れ。外も騒がしく、遠くの方から鬨の声が聞こえる。徐々に近づいてくるその声はおそらく敵兵が発している雄叫びだ。御殿の中もにわかにきな臭い。谷のどこかで誰かが火をつけたのだろう。


 北畠一族や家臣の奥方、姫君たち、そして彼女たちに付き従う女房衆は一間に籠もって臨戦態勢になった。小袖に襷掛けをし、手には薙刀や短刀をそれぞれ持っている。躊躇無く敵を殺すつもりであるし、かなわないならば己の命を断つ覚悟であった。


「皆々方、北畠の名に恥じぬように」


 そう言って女房衆を統率するのは、前国司の妻であり、現国司・具房の母である。

 自分の背丈よりもはるかに長い薙刀を持って立ち、落ち着いた表情を見せたが、その手はわずかに震えていた。

 兵たちはこの「御殿」を守っている。それもいつまで耐えるか。敵は多勢であるようだ。御殿の守りなどあっという間に突破して、女たちの居室までいとも容易く飛び込んでくるだろう。


「方々、お逃げください。すぐに山の上へ!」

 赤糸縅あかいとおどしの武者が小走りで入って来て進言した。敵はこの御殿に向かっているという。

 裏手の山……霧山城に避難すると言ってもそれは危険極まりない。今から向かうとしても、登り口で敵に追いつかれるのではないか?この御殿から外に出るのは怖い。

「お急ぎください!この御殿はもちませぬ!」


 女たちはすぐに決心した。逃げる。霧山城まで逃げきるのだ。そこで籠城し、身を守る。それしかない。

 とるものもとりあえず、逃げる準備をする。急いで急いで。

 奥方や姫君たちを輿に乗せて逃げるのは敵に目印を見せるようなもの。下々の者たちにまぎれて自身の足で城に向かうことが決まった。


 蔦江は雪姫の支度を手伝おうとしたが、その瞬間、眉をひそめた。逃げる道中、あきらかに邪魔になるであろう大きさの箱を雪姫が抱えていたからである。


 化粧入れ。

 きらびやかな螺鈿細工がほどこされ、蓋には北畠の紋が刻印された重箱を雪姫は持って逃げるつもりだ。


「姫様、それは……」


 今はそれどころではないのだ。何よりも大事なのは御身。籠城にそなえて持っていくならば、武器か兵糧の方がいいに決まっている。


「……蔦江、やはりこれはだめか?」


 雪姫は聡明な女子である。何を優先すべきかは理解しているはずだ。それでも、手放したくないーー。


「ならば、私が持ちます。姫様、さ、早く!」


 鬨の声が近づいている。火薬が爆ぜる音、甲冑がぶつかり合う音。戦はもう、すぐそこまで迫っている。


『信長公記』では多気谷を攻めたのは滝川一益ですが、『太閤記』『朝倉記』では秀吉が攻めたことになっています。

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