山の向こう
前回までのあらすじ
永禄十二年、織田軍は伊勢に侵攻。
伊勢国司北畠家は織田軍を迎え討つために大河内城に籠った。
阿坂城には家老大宮含忍斎、大之丞。大之丞の息子である多気丸少年も阿坂城に共に籠った。
織田家臣の秀吉によって阿坂城は攻められたが、北畠側は奮戦し、大之丞は秀吉の左腿に矢を中てた。
いったんは北畠側に有利な戦況になったものの、滝川一益が秀吉に援軍を出したことによって、阿坂城は陥落。
落城前に大宮含忍斎は「雪姫を守るように」と多気丸に命じ北畠の本拠地・多気谷へと逃がしたのであった。そこには北畠家の娘・雪姫がいる。この雪姫に秀吉の魔の手が伸びようとしていた――。
多気谷 国司御殿 雪姫の居室
蔦江が雪姫の傍に仕えるようになってから、一年ほど経っただろうか。いまだに雪姫の素顔を見たことがない。
寝る時も誰に見せるというわけでもないのに寝化粧をする。高貴な身分のたしなみなのだろう。
顔だけではない。首筋にも手の甲に白粉をのせている。その地肌は透けて見えているのみ。それでも、白くきめ細やかであろうことはわかる。素地が美しいからこそ、白粉もその効果を発揮できるのだ。
まだ雪姫が幼い頃、化粧を施すのは侍女の役目だったという。雪姫は目を閉じて顔面を差しだしなされるがままにしていた。
だが、ある日、姫は侍女の手から化粧筆を奪い取り、鏡の前に座った。その日から化粧は自分自身の手でするようになったのだ。
姫が化粧をしている間は誰も邪魔をしてはいけない。侍女たちは居室の外で静かに待つ。
今朝も蔦江はいつものように障子をすぐに開けることができる位置で座っていた。もう秋なのだろうか。爽やかな風が庭を吹き抜け、蔦江の頬をなでている。
――リーン……リーン
呼び鈴が鳴る。化粧を終えた雪姫が鳴らしたのだ。蔦江は素早く障子を開け、低頭の姿勢になった。先ほどまで共に待っていた年輩の侍女がするりと居室に入る。
新入りの蔦江は雪姫と直接会話をすることもなければ、真正面から顔を拝することもない。ただひたすら頭を下げ、先輩格の侍女の指示に従って動き回るのが蔦江の仕事なのだ。
ただ、その合間にちらりと見える雪姫の完璧な横顔に心が華やぐ。まだ十二歳の姫君だというのに辺りをはらうかのような美しさだった。蔦江よりも年下であるというのに身の丈はそう変わらないようだ。背筋は常に伸びていて凛とした雰囲気を醸し出しているが、細く華奢な首筋がまだ幼い少女であることを思い出させる。声は澄んでいて、玲瓏と言うにふさわしい。
これが貴種か。
「御殿」に上がり、雪姫に仕えることになったとき、蔦江は舞い上がっていた。
この美しい姫君と同じ空間に自分はいるのだということが蔦江は誇らしかったのだ。
「蔦江、干し鮑はまだ届かないの?」
年輩の侍女に突然話しかけられ、心臓が跳ね上がる。雪姫がお望みの品物「干し鮑」はまだ入手できておらず、期待にそえられない答えしか蔦江は持ち合わせていないからである。
「は、はい。あの、近頃は海の物が手に入りにくく、その、織田殿との合戦で、商人たちも峠が通れず、雲出川の方もですね、合戦のアレで、その、渡りにくく……」
「あー、もうよい。干し鮑が届き次第、すぐ伝えるように」
「は、はい。承知しました」
低くトゲのある声で言われると気の弱い蔦江は脇汗をかいてしまう。戦時下である多気谷の物流はいつもより悪い。それは蔦江のせいではないのに、申し訳なさでいっぱいになった。
「そんなに怖い言い方しなくてもいいでしょう」
優しい声でかばってくれたのは、雪姫であった。
「蔦江、と言いましたね? 蔦江、干し鮑は急ぎではありませんから、そう思いつめない様に」
(姫様が、わたしの名を……?)
仕え始めてからおよそ一年。「蔦江」と口にしてくれたことに感激する。自分の存在が認められたのだ。
「姉上のために鮑の御吸い物を作って差し上げたいの」
雪姫の姉は春先に北畠一門の坂内家に嫁いでいた。しかし、今は織田との戦に備えて多気谷へと避難している。里帰りのような状態であった。
その姉が、どうやら御懐妊ではないかとのことだ。鮑は滋養になる。姉と、姉のお腹の中の命の為に雪姫は鮑を手に入れたがっているのだ。
「早く戦が終わるといいのに。父上や兄上は今頃どうしているかしら」
雪姫の父、前国司具教と兄である国司具房は今、山の向こうにある大河内城に籠っている。織田軍を迎え撃つためである。
雪姫や蔦江にとって戦とは山の向こうの話であり、自分たちの身に直接に降りかかってくるものではなかった。
――多気谷が地獄と化すなど、この時は思いもしなかったのである。




