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23. 憂鬱をポケットに押しこみ

 間違いない。そう、それは紛れもない事実だった。朝起きてすぐに携帯を覗き込み、何度も確認してある。一応、それとなく父にも聞いてみたし、今朝の新聞にも目を通してある。土曜日。七つある一週間の日の種類のなかで、今日という日がまさかこれほど特別に感じられるとは。

 心のなかで土曜日が無事到着してくれたことに感謝しながら、髭を念入りに剃る。父の電動シェーバーを勝手に使い、三面鏡にあごを突きだして注意深く丁寧に剃った。彼女とはじめて出会ったあの日、ぼくは浮浪者よろしくベンチに座ったまま眠っていた。時どき、あれがぼくではなく他の誰かだったら今ごろ、なんて考えてみたりもする。ありえたかもしれない、もうひとつの未来。無論、時間という曖昧な概念にイフという言葉は通用しない。そんなこと百も承知なのだが、つい考えてしまうのだ。

 剃り残し、手抜かりなし。母を起こさないよう静かに廊下を歩き、シリアルと牛乳を確保して素早く部屋にもどる。毎週土曜日は、七十九パーセントの確率で、買い物に付き合わされるからだ。今日は無理、行かない。と言えば、なんでどうしての応酬が予想される。べつに、ことさらに彼女の存在を隠す必要はないのだが、高校生という微妙な年齢がぼくをためらわせる。とくに妹、渚に知られでもしたら『ロリコン』の集中砲火を浴びる可能性が非常に高い。危険なシーンを担当するスタントマンじゃあるまいし、リスクを伴うカミングアウトになんの意味がある。


「にしてもよお・・・」

と、啓太。

ぼくのすぐとなりで胡坐をかいている。

「なんだよ、急に」

「ほんとに行くのかあ?」

「ああ、行くよ」

「引退試合なんて、嘘なんじゃねえの」

「いや、さすがに嘘ってことはないだろ」

「・・・」

「それにさ、直接連絡できないんだから行くしかないだろ?」

「そりゃあ、そうだけどよ」

「なんか、話がうますぎじゃねえかッ?」

かあっと、口を半開きのまま、ぼくに細い目を向ける。

「それは・・・ まあ、たしかに」

「だろ?」

「でも、嘘じゃないと思う。 たぶん・・・」

「だってよお。 ふつう、初対面の野郎を誘ったりするか?」

「じゃあ聞くけど、初対面でセックスする人たちは・・・ どうなるの?」

「そりゃお前・・・」

「なに?」

「まあ、男女ってのはそんなもんかあ」

でたよ。こいつ。

勝手にあらわれて、好き放題言いやがる。

「っあ、そういや透」

「なんだよ、大きな声だすなよ」

「お前、セックスどころか、キスもまだしてねえじゃねえかよ」

「うるさいなあ、いちいち口を出さないでくれよ」

「お前も本当は、茜ちゃんを抱きてえんだろ?」

「さあね」

「ったく、猫被りはよくねえぜ」

「はいはい」

「もう、行くから」


 午前七時十一分。歩きながら携帯をポケットにしまい、川口駅まで歩く。『長崎ちゃんぽん』を左に曲がり、鮮やかな看板が立ちならぶ商店街にでると、居酒屋の提灯スタンドにパチンコ店のLED看板が視野にはいった。 

 なんだかとてもいい気分だ。いつだったか、前にも同じような、似たような朝を迎えた覚えがある。胸がひりひり熱く、暖かい空気で肺が満たされるような感覚。たしか。あれは。脳内にある図書館で古い記憶を探していると、後ろから大儀そうに車が近づいてくるのがわかった。なにげなく目をやると、ゴミ収集車の助手席に盆栽が趣味であろう老人が沈むように座っているのが見えた。ぼくは、軒さきで立ちどまり煙草を吸いながら眺めてみる。

 あのご老体、作業中なのに車から降りようともしない。そうか、なるほど、あの老人は駐車禁止対策として雇われているのか。駐車禁止、駐禁、なんだか懐かしい響きだな。入社一年目に大量の酒瓶を積まされて、営業車で都内を走り回っていた日々を思いだす。

 ぼくが所属していた営業二課では、奴らのことをなぜか『グリーンマン』と呼称するのが習わしとなっていて、同業者の間でも憎き天敵として新入社員からベテランの社員にいたるまで、そのウザさは広く共有されていた。モスグリーンの制服にデジタルカメラ、二名以上一組で街を徘徊する。奴らは真夏でも涼しい顔をして営業車に近づき、手際よく仕事をすませ、用事を思い出したようにすっと消えてゆくのだ。ああ、懐かしい。あの日の情景が目に浮かぶ。

 横断歩道をわたり、石段を二段抜かしで駆け上がると、巨大なライオン像が見えてくる。彩度の低い緑色のたてがみは、外観をより大きくみせ威嚇的に振舞っているように感じられた。いささか残念なのは、巨大なライオンの足元が雄大な大地ではなく、それが雑居ビルの屋上に聳え立ち全く調和していないという事実である。

 券売機で神田駅までの切符を購入し、階段をおりながら約束の時間、午前九時前に到着するかどうか計算してみた。パァァァン。車体にスカイブルーの帯を巻いた電車が、弧を描くように目の前を通過する。王子のいる城に向かったシンデレラは、馬車の中でどんなことを考えていたのだろう。いまのぼくみたいに、一抹の不安を抱えていただろうか。ぼんやりと頭の片隅でシンデレラの気持ちを想像しつつ、取りだした雑誌『るるぶ・東京デート』に目を通した。


 午前八時四十一分、西葛西駅に到着した。予定では、というより計画では三十分前に到着し、公園内をくまなく下見するはずだったのだが、この体たらくである。おそらく、軒さきで立ちどまり例の老人と駐禁について思考したのがタイムロスの原因と思われる。なにより問題なのは、緊張がぼくの袖をひっぱりデートコースが全く頭に入っていないという事実、これである。

 改札を抜けて、バス停の前にある花壇のふちに腰をおろす。手袋を外し、あらかじめ調べておいた競技場の住所を入力する。清新町、二の一の一、徒歩約十五分か。覚えやすい住所だな。一服しようと煙草をくわえたが、妙なことに視界に入るすべての人間が彼女の親類に見えてくるという謎のかんぐりに襲われたため、やむをえず箱にもどすことにした。 

 横断歩道をわたり道なりに直進すると、見晴らしのよい交差点に出た。頭上の雲間から光がすうっと差し込んでくる。右手には江戸川区球場、左手にはローソンやジョナサンが軒をならべ、どこにでもあるような景観をつくりだしている。今日、生まれて初めてこの街にきたというのに、なんとも白けるような心持ちになるのだった。

 丁字路を左に曲がると、それらしき建物が見えてきた。予想をはるかに上まわる敷地面積である。ぼくは立ちどまり、青竹色に塗られた壁を見つめた。中心には、長円形のトラックが描かれている。顔をあげ、水彩で描いたような空を眺めながら彼女の言葉を思いかえしてみた。

 来週の土曜日に引退試合やるんだけど、もしよかったら観にきてよ、と彼女は言った。試合を観る。試合が終わったら、そのあとは、ぼくは帰るべきなのか。それとも、なにかこう、アクションを起こすべきなのか。いや、彼女がなにを求めているのか分からない以上、深読みは危険かもしれない。

 一方的に彼女をみて帰る。なにもしないで帰る。ともすれば自慰行為にも等しい、空虚な一日になるかもしれない。それどころか、今日、彼女との接触に失敗すれば明確な終了宣言を伴わずに関係それ自体が消滅する恐れもあった。まずいな、なにか手を打たなければ取返しのつかないことになる。

 その時、しおから声が静寂を破りぼくの鼓膜を振動させた。どうやら、開会式が始まったみたいだ。午前九時三分、憂鬱をポケットに押しこみ、ぼくは競技場へと足を向けた。


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