21. 夜の盛り場
「ただいま」
コンバースを脱ぎ捨て、キッチンに向かった。はかせ鍋のふたを開け、なかを覗きこむ。つみれが五つ、分別された粗大ごみのように端っこに寄せられている。渚のやつ、思わず舌打ちが漏れる。魚嫌いは結構だが、ここまでくると、たちの悪いいたずらにも思えてくる。
乾燥した石鹸みたいなつみれをレンジに入れている間、新しいシャツに着替えた。よく見ると、灰色のシャツは変色し、嫌な汗でぐっしょり濡れていた。ぼくは、ダイニングチェアに腰をおろし、無造作に置かれた新聞に目をおとす。
自殺未遂、まさに狂気としか言いようがない。正気にかえったいま、どの角度から考えてみても、それは行きつくはずのない結論であった。たしかに、ぼくはいま無職であり、物語だっていまだ見つかっていないのが現状である。しかし、そのふたつを除けば、ぼくに足りないものはないはずだった。彼女との出会いだって、そう悪い方向には進まないと思うし。それなのに、なぜ、あんなことをしてしまったのだろう。
たぶん、死を意識したあの夜から、目が見えなくなっていたのかもしれない。たとえるなら、光路を開閉するレンズシャッターのように、少しずつ視界が狭くなるような心的現象である。大切なものが、すぐ近くにあるというのに、見えなくなってしまう。心を病むということは、きっと、そういうことなのだろう。
券売機で二百十円の切符を購入し、小走りで磯子行きの電車に飛び乗った。肩で息をしながら周囲を見まわし、少年ジャンプを読んでいる男性の隣にそろりと座る。ぼくは、コートの内ポケットから一枚の写真を取りだした。雪ウサギを挟むように座っているこの写真を見るたびに、あの日の想いが、はっきりとよみがえるのだった。
ぼくは、なぜ、彼女に会いたいと思うのだろう。どうして、こんな気持ちになるのだろう。電車にゆられながら、そんなことばかり考えていた。彼女のことが好きなのか、それとも、母性愛のような優しさに逃げたいだけなのか。どちらにしても、いま、こうして秋葉原に向かっているということだけは、動かしようのない事実である。
上野駅に到着した。となりの男性は、未練がましくジャンプを閉じて、階段へと向かう。ぼくは、ふたたび内ポケットから写真を取りだす。彼女は、あの公園にいるだろうか。ジャージでも、制服でも、私服でも、どんな姿でもいい。ただ、そこにいるだけでいい。
いや、待てよ。矛盾しているようだが、あの公園に彼女がひとりでいたら困るという考えかたもある。「足しげく公園に通う、うら若き黒髪の乙女」。心のなかで唱えてみると、なんとも美しい響きなのだが、その様子を冷静に考えてみると、非常に危険なかおりがしてくるのだった。
第一に、家出中の可能性がある。第二に、ナンパ待ちの可能性がある。第三に、不思議ちゃんの可能性がある。第一、これは、斎藤家になんらかの問題あるいはトラブルがあり、○○がいなくなるまでの間しかたなく公園で時間を潰している、という最も可能性の高いパターンである。第二、正直、これは考えたくないので後まわしとする。第三、これは、広い空を眺めるのが大好きなのとか、考えごとは公園でする派なのとか、一般的に、あのひと少し変わってるよね、と言われるような性格の持ち主という程度の話であり、特に問題はない。つまるところ、今日、もし彼女があの公園にひとりでいたら、これらの推測のうちどれかに該当する可能性が非常に高いということになる。
ああでもない、こうでもない、吹けば消えるようなくだらない妄想に浸っていても、結局のところ、彼女に会いたいという想いは変わらないのだった。それに考えてもみれば、彼女の携帯の番号もメールアドレスも、どこの高校に通っているのかも知らないのだから、あの公園で再び会うというシチュエーションが、やはり一番望ましいのかもしれない。
このまえと同じ道、中央通りを歩く。なぜだろう、不思議と落ち着いている自分がいる。目が顔の半分ほどある幼女のポスターを見かけたり、新しいゲームの宣伝用の派手な垂れ幕を目にしても、なんとも思わない自分に驚いた。物語に優劣はなく、すべて等しく価値をもっている。彼女の受け売りではあるが、なんとなく理解できたような気がする。
『はなの舞』を左に曲がり細い路地に入ると、ジングルハットをかぶった客引きの少女が視野にはいった。少女は、寒さに震えながら、けなげにビラを配っている。秋葉原名物客引き少女。心なしか、前にきた時よりも増えているような気がした。
いよいよ、というときになって、急に足のはこびが重くなる。かりに、彼女が例の公園にひとりでいたとして、なんて声をかけたら自然に話を始められるのか。やあ、きてたんだ。やあ、奇遇だね。やあ、いると思ったよ。やあ、久しぶりだね。こんにちは、ぼくのこと覚えてる?
とりあえず、二番目は除外して、こんにちはでいくか、頭のなかで言葉を整理しながら歩道橋をくぐり、芳林公園にはいった。彼女の姿が見あたらない。思わず、待受画面で時間を確認する。午後三時四十九分。どう考えても、部活の時間帯である。ぼくは、半円状のベンチに腰をおろし、革手袋を膝の上にのせて煙草をくわえた。このベンチは、あの日、彼女が退屈そうに座っていたベンチである。ぼくは複雑な情動を抱えたまま、赤茶色の時計塔を見あげた。
「なあ、透」
「俺にいい考えがあるぜ」
啓太は気おくれした様子もなく、となりに座りこむ。
「なんだよ」
「家に行け、とか言うなよ」
「家? 家に行ってどうする?」
「茜ちゃんのママに挨拶でもするか?」
「からかうなよ」
「それで、考えってなんだよ」
視線を太ももに落とし、手袋のベルトを調整する。
「部活が終わるまで、校門で待ってりゃいんだよ」
「そんで、一緒に帰ると」
「悪くない・・・ でも、無理だな」
「なんでだよ」
「なんでって・・・」
「住所はもとより、高校の名前すら知らないんだよ」
「おいおい、頭使えよ」
「この辺りの高校なんて、いくつもねえだろ」
「・・・」
「携帯で調べりゃいんだよ」
はじまった。いつもこれだ。
減らず口をたたいて、ぼくを惑わせる。
「あのさあ、そこまでしないだろ普通」
「大丈夫だよ、気にすんなって」
「いや、今日はもう帰るよ」
「おい、透」
「・・・」
「茜ちゃんに、会いたくねえのかよ」
「そりゃ・・・ 会いたいよ」
「でもさ、迷惑だろ?」
「本気で、そう思ってんのか?」
「・・・」
「勝手にしろ」
南浦和行きの電車に揺られながら、ぼんやりと外の景色を眺めていた。啓太の言うとおり、彼女の通う学校を探すべきだったのか。そうすれば、少しくらい話せたかもしれないし、運がよければ連絡先を交換することだって、できたのかもしれない。行き場を失った後悔は、黒煙を上げながら胸の奥で燻ぶり続けた。当初抱いていた淡い期待は太陽と共に沈み、乾いた夜がはじまろうとしていた。
「たきざわ?」
「お前、滝沢じゃね?」
耳慣れない太い声がぼくを呼びとめたのは、ちょうど、駅前にあるゲオを出たときだった。その大男は、ニットキャップにサテンスカジャンという風采で、引き締まった大胸筋が印象的だった。鷹・虎・龍が富士山を囲むように睨み合っている派手な刺繍が施されたスカジャンを着ているところがまた、強烈な印象を助長する。
「誰・・・ ですか?」
「久米だよ 久米」
「ってか、同じ高校だったろ?」
彼は、自分の名を高々と呼び告げた。
くめ。くめ。くめ。浅黒い顔を見つめながら、脳内検索をかける。
検索結果、一件。
「あ~ 久米かあ」
「全然わからなかったよ」
「おいおい、忘れんなよ。 高校一緒だっただろ」
「ごめんごめん」
「あまりにも久しぶりだったから・・・」
「いやあ、でも、マジ久しぶりだなあ」
「そうだね」
「そういや、滝沢いま何やってんの?」
「今ねえ・・・ 仕事辞めちゃって」
「就職活動・・・ かな」
へらへらして。こいつ、馬鹿にしてんのか。
そもそも、ぼくの身の上に興味なんかないだろ。
なぜだ、なぜ久米が川口界隈にいる。
「ふ~ん、大変そうだね」
「・・・」
「じゃあ、今ニートだ?」
「まあ、そうなるね」
「滝沢がニートかあ~」
「マジ、意外だわ」
「・・・」
「そういや、内田とか今何してんの?」
「田嶋とか、あの辺の連中とまだ連絡とってんの?」
「裕樹は、都内のホテルで働いてるよ」
「田嶋は・・・ 全然連絡とってないな」
田嶋?田嶋だと、連絡どころか、遊んだことすらない。
こいつ、適当にもほどがあるだろ。
「へぇ~ そうなんだあ」
「内田は、公務員かなんかになると思ってたけどなあ」
「・・・」
「いやあ、マジで懐かしいわあ」
「なつかしいね」
「滝沢さあ、これからなんか予定とかあんの?」
「いや、別に・・・ ないけど」
頼むよ久米。左手にゲオの袋もってるじゃんか。
推測はどうした、少し考えればそれくらい分かるだろ。
家に帰って、これから洋画観るんだよ。
「なら、飲み行こうよ」
「っえ」
「いや、ほら、せっかく久しぶりに会ったんだしさあ」
「っな、いいだろ?」
「いや、ほら・・・」
「働いてないから、お金ないし」
「そっかあ~ 今ニートだもんなあ」
「・・・」
「じゃあさ、缶ビールでも買って、その辺で飲むか?」
「その辺?」
「おう」
「いやか?」
「まあ・・・ それならいいけど」
「んじゃ、決まりだな」
そう言って、久米は満足げに頷いた。黒っぽいロザリオネックレスが、わずかに揺れる。行きたくない。こいつと一緒に、酒を飲みたくない。心の奥底からわいてくる強い意志に従い、いつまでもじっと立っていると、それじゃ行きますか、と肩をたたかれ促された。ぼくたちは、微妙な距離を保ちながら歩を進め、ネオンサインの並ぶ夜の盛り場へとくりだした。




