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19. 影のようにつきまとう情念

 ざらざらした、瘡蓋みたいな地面。長いあいだ、人が立ち入った形跡がない。今にも倒れそうなスタンド灰皿には、白色で火の用心と書かれている。予想通りというかなんというか、まったく、殺風景な屋上である。 

 スチール製の手すりにもたれかかり、規則的に点滅する赤色の閃光を眺めた。いつの頃からだろう、ぼくは飛行機に不思議な魅力を感じるようになっていた。その不思議な魅力とは、胴体のデザインや独特のエンジン音にあるわけではなくて、たぶん、終わらない日常からぼくを連れ出してくれる、鳥のような白い翼に宿っているのだと思う。

 足音が聞こえる。ひとつ、いや、ふたつ。

 厚い靴底が石段を踏みつけ、軽快な爪先がその後を追うようにあがってくる。

 

「やあ、遅かったじゃないか」

ぼくは、振り向かずに言った。

「こんにちは、透さん」

「よお、透! 久しぶりだな」

「・・・」

「さがしていた物語は・・・ 彼女じゃない」

「そうなんだろ?」

「ッんだよ急に! どうしたんだよ!」

啓太は威嚇するように両手をひろげた。

「たしかあの夜、公園でぼくに言ったよね?」

「・・・」

「ぼくの探している物語は、彼女だって」

「ああ、言ったよ! それがどうした?」

「俺は、事実をそのまま伝えただけだぜ」

「じゃあきくけど、なぜ、ぼくの心は救われないんだ?」

「・・・」

「ぼくの物語は、見つかったはずだろ?」

「そりゃ・・・ あれだ・・・」

「二人には、まだまだ時間が必要なんだよ」

啓太は、口ごもりながら話す。

「なるほど、そうくるか」

「啓太、お前、何か隠してるだろ?」

わざと感情をむき出しにする。

啓太は、腕を組んで反論する構えだ。

「二人とも、もうやめて」

とうとう口をはさんできた。

亜紀子はすたすた歩き啓太に近づくと、耳もとでなにかを囁いた。

啓太は小刻みに数回うなずき、亜紀子の言葉に耳をかたむけている。

「内緒話かい?」 

手すりに寄りかかり、煙草に火をつけた。

それとなく二人を見くらべて

「亜紀子、きみは一体どっちの味方なんだい?」

と、冷淡な口調で質問してみた。

「わたしたちは・・・ 透さんのことを思って・・・」

「っえ 何? どゆこと?」

「これ以上、苦しませたくなかったの」

「・・・」

「うそってこと? え、ぼくに嘘をついたの?」

「ねえ、話をきいて」

「そうか・・・ そうだったのか」

「きみたち二人でグルになって、ぼくのことを・・・」

「違うの」

「透さんの心を安定させたくて・・・ それで・・・」

泣いている。肩をふるわせて泣いている。

ぼくは、亜紀子の涙をはじめてみた。

胸につかえていた怒りという感情がすっと薄れていく。

「ごめん、ぼくのために・・・」

「そうとは知らずに怒鳴ったりして・・・」

「ううん、いいの」

「結果的に、嘘をついてしまったことには変わりないもの」

そう言いながら、水色のパイルハンカチをとりだす。

「啓太、その・・・ 悪かったな」

啓太は座ったままの姿勢で、こくっと小さく頷いた。

「すこし話を整理しよう」

「彼女がぼくの物語ではない、ということはわかった」

「つまり、ふりだしに戻ったわけだ」

「・・・」

「・・・」

「ん、どうしたの?」

亜紀子は、なにやら考えている様子。

「っえ、なに?」

「透さんの探している物語は・・・」

ちらっと視線を泳がし、亜紀子は座っている啓太の表情をうかがう。

啓太は、人差し指で耳の裏を掻いている。 

「この世界には存在しないの」

「はい?」

存在しない、という亜紀子の言葉が空中を漂い続ける。

ぼくの思考は停止した。 

なんだ、この流れは。

「どゆこと?」

「つまり・・・」

「この世界に存在する、すべての物語は等価だということです」

「それって・・・」

「はい、茜ちゃんの言葉です」

「よく覚えてないんだけど」

ぼくの大脳は完全に停止している。

「それが・・・ 今のぼくの状況と、どう関係するの?」

「なんて説明すれば・・・ そうですね」

「この世界は物語で溢れている、この意味は、透さんもご存じですよね?」

「んん、まあ・・・」

「けれども、透さんの物語は存在しない」

「なぜだか分かりますか?」

すべてを知っているような物言いに、ぼくは平静さを失う。

おおかた、啓太も知っていたのだろう。

「いや、わからない」

「透さんは、超越した物語を求めているからです」

「わかりますか?」

「なに、超越? ぼくが?」

「はい」 

「この世界のどこかに特別な物語がきっとあるはず、と信じ込んでいるのです」

「・・・」

「透さん」

「残念ながら事実なんです」

「はっは、なるほど、そういうことね」

「認めたくないけど、これで色々と辻褄が合う」

自虐的に鼻で笑う。

この状況、もはや、嗤うしかない。

「ひとつきくけど、他の人はどうなの?」

「まさかぼくだけ、ってことはないよね?」

「はい、透さんだけではありません」

「この世界に適応できない人間は、他にも大勢います」

「適応できないって・・・ ぼくは古い人間なの?」

「いいえ、そういうことではありません」

「この世界が、あるいは、この社会が異常な早さで変化しているためです」

「なるほど、つまり一定の確率で発生するバグのような存在ってこと?」

「それは・・・ なんとも言えません」

疲れ切った表情で小さく首をふる。

「じゃあさ、この世界に適応できない人間は、どうやって生きてるの?」

「自ら小宇宙を創る人、宗教を盲信する人、架空の世界に逃避する人、色々です」

「ちなみに、ぼくは、どれに当てはまるの?」

「透さんの場合は・・・」

「非日常な世界を未来に投影することで、なんとか今を生きている人・・・」

「・・・」

「・・・」

「なるほどね、そういうことか」

 ズレの感覚の正体、なるほど、ようやくわかった。ぼくは、この世界にいながら、世界というものを否定し続けてきたのだろう。体を日常に置いたまま、あの黒いカラスのように、世界を冷めた眼で見下ろしていたのだと思う。なるほどね、この世界を肯定する人々に対する、嫌悪と違和感こそがズレの感覚の正体だったのか。

「悪い、帰るね」

「透さん」

亜紀子の視線は、ぼくの肩にぶつかり枯れ葉のようにゆらりと地面に落ちた。

目を伏せたまま階段へと向かう。これ以上話すことなんてなにもない。

「透!」

「・・・」

「茜ちゃんを連れて、どこか遠くへ行け!」

「・・・」


 石段を降りると、鋭利な夜風が耳をかすめた。携帯の待受画面で時間を確認する。とうに、夕食は冷めている刻だった。とにかく早く眠りたい。影のようにつきまとう情念も、夢のなかまでは追ってこないだろう。そのあとの事はわからないし、正直、考えたくもない。ただ、いまは眠りたいと、心からそう思うのだった。


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