18. 心がとけていく
乾いたエンジン音が聞こえる。ガグンッ。シフトチェンジの鈍重な音。人の夢を食べる獏みたいに、彼らは新聞と現実をぼくに届ける。朝の冷気と現実を遮るように、布団のなかでひっそり息を潜める。
暗闇のなかで、保存されている彼女の記憶を何度も再生してみた。啓太の言うように、ぼくは物語をみつけた。それなのに、ぼくの心は満たされていない。なぜだろう、それを知ろうとして焦る自分がいる。胸のうちからあたたかい感情が無尽蔵にわいてくる、そんなふうに感じていた昨晩のぼくは、どこへいってしまったのだろう。
「透! 透! 起きてるの? 入るわよ」
ぼくの返事も待たずに、母は扉を開けた。
勝手な振舞いである。
「あんた、まる一日寝ていたわよ」
「・・・」
「朝ごはん、食べるんでしょ?」
「うん、食べるよ。 すぐに行くから」
「パンとご飯、どっちにする?」
「パンがいい」
と、布団から顔をだして答えた。
「あんたねえ、窓くらい開けなさいよ」
「臭いわよ、この部屋」
「わかった、わかった」
体をおこし、布団からでて、おそるおそる窓を開けた。
窓を開けた瞬間、一斉に冷気たちが流れこんでくる。その様子を例えると、新装開店初日のパチンコ店に流れこんでくる、暇をもて余した客たちのようだった。ぼくは煙草を手にとり、急ぎ足で暖房のついたリビングへと逃げこんだ。
「今日さあ、あんた、時間ある?」
「あるけど・・・」
「なんで?」
テレビをみながら答える。
ちょうど紺色のスーツを着た男性が、傷害事件に関する原稿を読み上げているところだった。
「新しいカーテンが欲しいのよ。 寝室のね」
「カーテン?」
「どうしよっかな・・・」
「いいじゃない、少しくらい」
と、パンにマーガリンを塗りながら母は言う。
「わかった」
「じゃあ、行くよ」
「ほんと?」
「うん」
「それで、何時くらい?」
「お昼ぐらいかな」
「もちろん、車だよね?」
「もちろん、車です」
「よかった」
部屋にもどり、回転式の本棚からスティーヴンソンを抜きとった。ぼくは、小説や映画といったものが昔から好きだった。特にこだわりはないのだけれど、平凡な日常から超越した世界へ誘うという感覚、ただそれだけで心が休まるのだった。
携帯の待受画面で時間を確認し、読みかけのページを両手でひらいた。『人間は実は単一の存在ではなくして二元的な存在である』。この一文、ジーキル博士の言葉である。なんど読みかえしてみても、合点がいかない。というより、なにかが胸に刺さったような苦い感覚にとらわれるのだ。ぼくは、天井の一点を見つめながら、多重人格という言葉の本質に足を踏み入れた。
「透! 透!」
「先に降りて頂戴、車出してくるから」
「わかった。 すぐに行くよ」
部屋の扉を叩くような母の声が、スティーヴンソンの超越した世界を一瞬にして破壊した。パタムッ。布団のうえに本を無造作に放り、寝間着のまま外へ出た。母は、ハザードランプを点滅させて待っている。凍てつく冷気から逃げるように、フロントドアをあけて乗りこんだ。
「あんた、その格好は何?」
そう言いながら、母は車を発進させた。
「なにって・・・」
「いいじゃん別に。 近所で買物するだけなんだし」
「よくないわよ」
「そんなんだから、彼女、できないのよ」
「あのさあ・・・」
「なによ」
「昼間っから勘弁してくれよ」
「母さんは、黙って運転してればいいの」
「せめてさあ、髪くらい整えなさいよ」
「・・・」
「鳥の巣みたい、鳥の巣」
「はいはい」
母は、妹にも父にさえ同じようなことを言う。べつに、ぼくにだけ言っているわけではない。はあ、と思わず溜息をつき、窓の外に視線を移した。昨夜降った雪があちらこちらに残っていて、道路わきには、薄汚れた雪がたくさん積まれている。雪、雪、記憶のかけら。
少しずつ物語の強度が失われていくような、そんな気がした。なぜだろう、それを知ろうとして焦る自分がいる。胸のうちからあたたかい感情が無尽蔵にわいてくる、そんなふうに感じていた昨晩のぼくは、一体どこへいってしまったのだろう。
「透」
「なに?」
「就職できそうなの?」
「いや・・・ まだ探してない」
「あら、そう」
「なにか、やりたいことでもあるの?」
「いや、とくに・・・ 今のところは・・・」
減速する。
信号がまばたきをはじめた。
「別に、焦らなくたっていいのよ」
「・・・」
「選択肢なんて、たくさんあるんだから」
「うん、ありがと」
「母さんはどうだったの? やっぱり悩んだ?」
「そうねえ・・・」
「あんまり悩まなかったわね」
「どうして?」
「決められたレールのうえを、ただ進んできただけだから」
「そのレールは・・・ 誰に決められたの?」
「誰にって・・・」
「そんな雰囲気が社会全体にあったのよ、私たちの頃は」
「ふうん」
「まあ、暗黙の了解みたいなものかしらねえ」
「ふうん」
窓の外に目を向ける。
横長のショッピングセンターが見えてきた。
「そのレールってさあ、まだあるの?」
「ない・・・ と思う」
「だってあんた! レールが無いから悩んでるんでしょ?」
「んん、まあ、たしかに」
「これからよ、これから」
「固くて、丈夫なレールをつくりなさい」
「簡単に言うなよ」
「っさ、着いたわよ」
左手で、パーキングブレーキをひく。
母は、なぜか上機嫌である。
「カーテン売り場は、何階かしら?」
「さあ」
「たしか、二階だったかな」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、行きましょ」
エスカレーターの踏み段に乗ると、天井につるされているスノーマンが見えた。
店内、クリスマス一色のレイアウトである。
サンタのディスプレイは、十二月であることを再認識させた。
「ねえ、どっちがいい?」
「こっちがローズで、こっちがピーチ」
母は、ドレープカーテンをなでなで触りながら悩んでいる。
「えっと・・・」
「両方、同じ色に見えるんだけど」
「なんでー 全然ちがうじゃん」
「・・・」
「こっちの方が、少し明るいでしょ?」
「まあ、言われてみれば・・・」
「でしょー」
「ていうかさあ、千七百円なら、両方買っちゃえば?」
投げやりに答える。
自分の部屋のカーテン選びならともかく、正直どうでもいい。
「それもそうねえ」
「もしかしたら、渚が欲しがるかも」
「どうかな」
「まあ、渚はピンクが好きだから、喜ぶとは思うけど」
「じゃあ、買っちゃうか」
「そうしてください」
母は、ローズとピーチ、二色のカーテンをカゴにいれた。
「買物終了?」
「終了です」
「じゃあ、外で待ってるから」
「はーい」
ぼくは来た道をもどり、駐車場の向かいにある茶色のベンチに腰をおろした。
紺色の制服を着た警備員が、無表情で車を誘導している。
ぼくは、周辺の建物に目を向けた。なるべく人通りが少なくて、オートロックシステムの付いていない建物があれば好都合である。たしか、あったはずだ。すぐ近くに。建物から建物へ、視線を順々に移していると、小股で急いで歩く母の姿をとらえた。
「ごめんねえ。 待ったあ?」
「いや、大丈夫だよ」
母は、カーテンの他に紙袋をふたつ抱えている。
「じゃ、帰ろうか」
「先に帰っててよ」
「へ?」
「ちょっと、寄りたいところがあるから」
「あっそう」
「・・・」
「じゃあ、送ってくよ」
「いや、歩いて行けるから」
「ふーん。 なんか怪しい・・・」
母は、目を細めてぼくをみる。
「べつに怪しくないから」
「ふーん」
「じゃあ、そういうことで」
「ちょっと!」
「夕食までには帰るからさ」
それじゃ、と、強引に手をふりその場を後にした。
産業道路に出ると、夕立から逃げるように北へ走った。たしかアルバイトの帰りに、一度だけ通ったことがある。普段、あまり使わない道でうろ覚えだが、まあなんとかなるだろう。埃をかぶった曖昧な記憶を頼りに、例の空きビルを目指した。
走ること十五分、灰色の団地が見えてきた。
ぼくは、静かに呼吸を整える。あれだ、間違いない。目的の空きビルは、団地に隠れるように背中を向けてたっている。敷地内の公園を抜けてビルの前に立ち、それを見あげてみた。ビルは、電池の切れたロボットみたいに、うつむいたまま黙っている。
『テナント募集』の張り紙を確認してから裏口へとまわり、ながい石段をのぼった。この感覚、焦りにも似た嫌な感じである。自動車や二輪車の騒音を後ろに聞きながら、両足を交互に振り上げた。ああ、この感覚、まるで心がとけていくようだ。




