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2. 顔を借りる約束

 翌朝、エルスベトが小鐘の箱の鍵と、職人筋から届いた書付を私室の卓へ置いた。私は封蝋(ふうろう)の割れ目を眺める。柄を直せる弟子は、大市にだけ来るという。窓の光を受けた鍵は小さく光るのに、向かいに立つ私の顔は、まだ私のものに見えた。


 エルスベトが書付の末尾を指で押さえる。


「大市は婚礼の日から数えて六週間後。弟子が小鐘を確かめるまで、箱は私が守ります」


 元に戻せる職人が来るまで、六週間。


 四十二日。数えるのは得意なのに、その数だけは指の上にうまく載らない。叔父の家なら、そのあいだにどれだけの来客を迎え、どれだけの紙の誤りを黙って直しただろう。ここでは、自分の顔を見るたびに手が止まる。


 書付を覗き込んだエアハルト様が、私の声でぼそりと言う。


「六週間か。……長いな」


 私は書付から顔を上げる。


「短いです。帳面なら、一冊も埋まりません」


 エアハルト様が私の顔を真面目にする。


「君の帳面は、そんなに厚いのか?」


「紙は薄いです。埋めるものが多かっただけで」


 私は長い歩幅で仕事机へ向かいかけ、エルスベトに書付の前へ戻された。止まるつもりで足を出しても、爪先までの距離が自分の足だったころとは違う。


「奥様、先に読んでください。お急ぎになると、旦那様の歩幅のまま扉へぶつかります」


 エアハルト様が私の声で言う。


「その歩幅で昨日、椅子にもぶつかった」


「椅子は動きません。私が慣れます」


 仕事机で署名済みの契約書を開く。借りた手には、紙の端まで小さく見えた。薄い紙なのに、署名のあるところだけ妙に重い。


 『寝室は別とする。互いの仕事に口を出さない。期間は婚礼から一年とし、満了または重大な違反を双方が認めたとき、両者の署名で解消する。』


 無給で続けた叔父の家計と来客の仕事を終えたくて、私は嫁いだ。解消の条のところで、手が動かなくなる。紙を押さえるだけで、またあの家の仕事が手元に戻ってきそうだった。


「旦那様は、なぜ私との契約を?」


 エアハルト様は私の声で答える。


「縁談を断る手間を減らしたかった。それ以上の話は、今はうまく言えない」


 『手間を減らすための妻』。分かっていたはずの答えなのに、借りた胸の奥が少しだけ重くなる。問いを口にしたのは私なのに、返事を聞く用意はできていなかった。


 エルスベトが机に紙を残して廊下へ出る。扉が閉まり、エアハルト様が私の声から花嫁らしい抑揚を抜いた。卓の上には、割れた封蝋がそのまま残っている。


 私は借りた低い声で切り出す。


「条のままでは、互いの仕事に手を出せません」


 エアハルト様が私の声で短く返す。


「なら、代わりに務める。戻るまでだ」


「契約を破ったと取られたら、私は叔父様の家へ……」


 私は借りた手で紙の端を押さえる。最後まで言う前に、あの家の帳面を開く朝が目の前へ戻ってきた。言いかけた言葉より先に、頭を下げそうになる。


 エアハルト様が私の声を静かにする。


「君を叔父の家へ戻すための条にはしない。君の条件を聞く」


「条件、ですか。叔父様の家では、条件は言うものではなく、呑むものでした」


 エアハルト様が私の顔で、ほんの少し目を細める。


「ここでは言え。……いや、言ってくれ」


「断ると、叔父様は私のためだとおっしゃって、仕事を増やしました」


「……君が断ったことは、どうなる?」


「私が黙って片づければ、初めから困っていなかったことになります」


 エアハルト様が私の顔のまま契約書へ目を落とす。


「それは、ずるいな」


 短い一言が、紙の上に落ちる。私は返事を探して口を開いたが、先に出てきたのは、さっき呑み込んだ条件のほうだった。


 ただし、相手の顔で勝手な約束をするのは禁止。


 私は借りた低い声で、ようやく言う。


「私の身体で謝罪しないでください」


 エアハルト様は、間を置かずに返す。


「……分かった。俺の顔でも、勝手な約束はするな」


 考える間もない返事だ。私の条件が、ためらいもなく受け取られる。紙を押さえていた手が軽くなり、軍服の肩まで少し下がった。


「はい。ですが旦那様も、私が何かを決める前に守ると約束なさらないでください」


 エアハルト様が私の顔で眉を寄せる。威厳より困惑が先に見える。


「守りたいと思うだけなら、許されるだろう?」


「思うのは自由です。私の返事を飛ばすのが困るのです」


 鏡の中で、私の顔が少しむきになる。


「飛ばしたつもりはない。昨日も君に聞いた」


「聞かれたらすぐ答えられる、とお思いですか? 私だって、答えたいのです!」


 思いがけず低い声が響く。エアハルト様は鏡へ目をやり、私の顔で眉をしかめた。


「急がせたか?」


 私は鏡のほうへ椅子を向ける。花嫁の身体のエアハルト様が黙っていると、いつもの癖で、先に頭を下げたくなった。


「私の顔で睨まないでください」


 エアハルト様が、私の声ですぐさま言い返す。


「君の顔は、睨んでも怖くないんだが……」


「怖くなくても、私には分かります! 私の顔ですから。返事を待っていただけるなら、私も旦那様の名を急いで使いません」


 エアハルト様は契約書の端を揃える。


「……待つのは、得意ではない。君が忘れたころに、また急ぐかもしれない」


「そのときは、また止めます」


 私の声でエアハルト様が小さく笑う。


「それなら、俺にも分かる」


 エルスベトが戻り、エアハルト様が私の身体で椅子を引いた。裾が脚に絡む。


 エルスベトがすかさず声を上げる。


「旦那様、裾を踏んでおります」


 エアハルト様は私の声を上品に整える。


「椅子が近すぎたようです」


 エルスベトは眉を上げる。


「椅子の責にはできません。椅子の弁護なら私がいたします。今日のうちにまた踏むほうへ、焼き菓子を賭けます。奥様、乗りますか?」


 私は低い声を試すように答える。袖口が書付に触れ、慌てて腕を引いた。


「賭けは保留だ。明日の会議と、その翌日の昼茶会を先に聞く」


 エルスベトは笑いを残して予定を告げる。明日の会議で扱うのは叔父の納入分だ。叔父は姪の口添えを当て込み、新妻の同席を求めている。公爵の顔で叔父の前に座ることになるのかと思うと、手元の書付の角が急に硬く感じられた。


「会議では奥様が旦那様の席へ。旦那様は妻の席で同席なさいます。昼茶会の主催も、お二人で」


 花嫁の口調をもう一度作り直して、エアハルト様が返す。


「会議の作法は副官に聞いてください。茶会は、私がその席で務めます……わ」


       ◇


 叔父の店の者が仕事机のある部屋へ来た。エルスベトが扉を開け、婚礼の額を妻の名で認め直してほしいという書付を受け取る。店の者は返事を待っていた。紙には、妻の名を書くための欄が空いている。


 店の者が、私の身体にいるエアハルト様へ頭を下げる。


「奥様から承諾をいただければ、店主も安心いたします」


 いつものように紙を受け取り、黙って直せば済む。そう考えたとたん、叔父の家の手順が手に戻ってくる。私は公爵の短い声で書付の空欄を示した。


「妻本人の承諾がない。妻に聞け」


 エアハルト様が花嫁の丁寧な声で言う。


「私は承諾しておりません。こちらは、お持ち帰りください」


 店の者が、紙を受け取りかけた手を止めて食い下がる。


「ですが店主は、奥様なら必ずお認めになると……」


 店の者の目が、花嫁の顔と公爵の顔を行き来する。私は公爵の短い声で言い切る。


「本人がいま答えた。それで足りる」


 店の者は紙を受け取り、深く礼をする。


「承りました。店主へそのまま伝えます」


 エルスベトが扉を閉め、使われなかった妻名義の欄を私たちへ向ける。


「奥様のお名前は、この欄に書かれずに済みましたね」


 侍女は会議の支度へ去る。私は硬い紙を借りた両手で揃えた。空いたままの欄が、窓の光を白く返している。私の名前が、私の知らないところで使われなかった。その返事を、私の顔でエアハルト様が言ってくれたのだ。空いた欄の白さから、しばらく目を離せない。


 エアハルト様は向かいの席から、私が顔を上げるまで黙っている。待たせていると気づいても、今度は急いで答えを作らずにいられた。


「……旦那様、黙って待つのは、お得意ではないのでは?」


 私の声を低く抑え、エアハルト様が言う。


「明日は君の話を最後まで聞く」

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