3. 二行の見積書
会議室前の控えは、蝋と革の匂いがする。副官のラザルスが報告書を差し出した。短く刈った栗色の髪が、下げた頭とともに揺れる。扉の向こうでは紙の擦れる音がした。騎士団の会計係と叔父が待っている。
私は扉を閉め、夫と私に起きたことをラザルスへ話す。借りた声は低く、耳に届くたび、まだ自分の言葉とは思えない。
ラザルスは報告書を持ったまま、私たちを順に見比べた。紙の端をつまむ手だけが止まっている。
「会議中、閣下のお身体には奥様が。奥様のお身体には閣下が……承知しました」
花嫁の身体のエアハルト様が、扇の陰で片眉を上げる。
「信じにくいだろうが、会議は予定どおり進める」
ラザルスは真顔のまま、報告書の角をそろえた。
「閣下が冗談をおっしゃったことは、これまで一度もありませんので」
私は公爵の身体で、思わず報告書を握り直す。
「では、信じていただけるのですか?」
ラザルスは真顔のまま答える。
「信じます。閣下は、報告書を逆さにお持ちになったことがありません」
私は慌てて紙を返す。
「そこまで見ていらしたのですか?」
ラザルスの返事は少しも揺れない。
「副官ですので」
横でエアハルト様が扇に私の顔を埋める。笑い声は聞こえないのに、扇の上の目が細い。
ラザルスは報告書を公爵の身体にいる私へ向け直した。
「奥様、騎士団の支払いは会計係が受領を確かめます。結論を出す前に、報告の終わりまでお聞きください」
「分かりました。叔父様の納入分を確かめたいのです」
ラザルスは習いのまま、公爵の身体の私へ背筋を伸ばす。
「閣下、その件は奥様のご実家ですが」
言い終えてから、ラザルスは私と花嫁の身体にいるエアハルト様を見比べ、咳払いした。
「……失礼しました、奥様。呼び方を改めます。それから、閣下は執務机の引き出しに甘い焼き菓子を隠しておいでです」
「……え?」
ポカンとする私の隣でエアハルト様が私の顔でラザルスを睨む。
「ラザルス、会議の前に言うことか」
ラザルスは報告書を開いて目をそらす。
「結論から申し上げますと、今でなければ言えません」
私は紙を持ち直し、エアハルト様のほうを見た。
「……菓子の場所は、覚えておきます」
エアハルト様が扇を少し下げる。
「そこを覚えなくていい。会計係の話を覚えてくれ」
「はい。最後まで聞きます」
私がそう答えると、ラザルスは扉へ向き直った。
◇
会議室で叔父が騎士団の夏の蝋燭の見積書を差し出す。紙を広げる音が、静かな部屋によく響く。会計係も叔父の署名した受領票を開く。
叔父は公爵の身体にいる私へ笑みを向ける。
「公爵様、夏の納入はこちらの額です。姪も同席しておりますので、ご安心を」
会計係が受領票の欄を指した。
「受け取った品と額には確認の印があります。こちらは銀貨十五枚です」
見積書には同じ夏の蝋燭が二行ある。片方に銀貨十五枚、もう片方も同じ品と日付。合計は金貨一枚と銀貨十枚だ。叔父の家で八年、同じ納品を別の欄へ移す筆の癖を見てきた。紙の上なら指せる。あの家では、指したあとに何を言われるかを先に考えてしまう。
エアハルト様が私の声で、花嫁らしく丁寧に補う。
「公爵家の家政の注文は、こちらの騎士団の注文とは別に扱っております」
叔父は花嫁の身体へうなずいた。
「ヘレーネ、そのとおりだ。公爵様には店の説明が要る」
私の頭が先に下がりかける。叔父にそう言われたら、黙って書き直すのがいつもの私だ。けれど今、叔父が見ているのは公爵の顔。軍服の袖の中で、この腕だけが動くのを待っている。
私は値の訂正を言いかけた。ラザルスの線を引く青緑の目が、会計係の報告の続きを促している。
ラザルスが先に告げる。
「会計係の説明がまだあります。糧秣の支払いと同じく、騎士団では受領の順で確認します」
私は低い声を整えた。
「続けてくれ。最後まで聞く」
会計係は二行の品と納入の日を読み比べる。
「両方とも、私が印を押した同じ納品を指します。別の受領票はありません」
私は受領票に手をかけた。ざらつく紙が、叔父の署名のところでわずかに盛り上がる。まず叔父自身の言葉を聞きたい。
「承知しました。では、こちらも受領票を並べます」
叔父の笑みが硬くなる。
「私の店を疑うのですか! 別の納品を見ておられる」
公爵の身体のまま、私は丁寧に尋ねる。怒るほど、言葉の端がきちんと揃う。
「では、二つの欄の品と納入の日を読んでいただけますか?」
叔父は袖口を引き、会計係の紙へ目を移した。
「会計係が写し違えたのでしょう。店の書付は私が見ています」
私は受領票の署名へ借りた指を添える。叔父の家なら、ここで紙を差し戻される前に私が直していたはずだ。
「会計係の説明は最後まで伺いました。こちらの署名はどなたのものですか?」
叔父は見積書の端を押さえる。
「何度も聞かずとも、私です! だが合計は店で付けた。姪なら分かるはずです」
その「姪」に、喉の奥が狭くなる。私の顔で座るエアハルト様は、扇を膝に伏せたままこちらを見ている。代わりに言い返してほしい気持ちと、自分の言葉を最後まで出したい気持ちがぶつかった。
私は二つの数を目でたどる。
「銀貨十五枚の品が、二行で銀貨三十枚になっています」
叔父の厚い頬がひくりと動いた。
「公爵様が、店の数字までお読みになるとは」
私は公爵の声のまま返す。
「数字は、読む者を選びません」
まっすぐ出た声に、いちばん驚いたのは私だった。叔父は見積書から手を離さない。言い足して押し切りたくなるのをこらえ、私は受領票を叔父の署名が見える向きに置く。
「姪の記憶より、あなたの署名を確かめたいのです。署名した受領と今回の請求を、会計係にも照らしていただけますか?」
叔父は見積書を会計係へ滑らせた。
「……会計係にも見せましょう」
会計係は自身の記録まで開き、同じ納品が重なったと説明を終える。
「誤記として私の名を置く理由はありません。受領は一件です」
私は会計係へ、公爵の短い声を向ける。
「あなたの記録のとおりだ。礼を言う」
叔父は自筆の受領票を覆せず、その場で値を改める書付に自分の名を書いた。筆が紙をこするあいだ、私は視線を落とさずにいる。
会計係が書付を両手で受け取る。
「確かに受け取りました。騎士団への請求は、銀貨十五枚で閉じます」
騎士団の予算と会計係の名は、その場に残る。直った数字の下に叔父の名があるのを確かめても、肩の力はすぐに抜けない。
退室する会計係が、私にだけ聞こえる声で言う。
「奥様は、ずっと閣下を見ておられましたね」
扉が閉まり、私たちは控えへ戻った。借りた手のひらに受領票のざらつきが残る。叱られると思った席で、私の言葉が終わるまで口を挟まなかったのはエアハルト様だ。叔父の家の帳場では、私が数字を言い終える前に、いつも誰かの声がかぶさる。今日は最後の音まで聞いてもらえた。胸の奥で、固く結んでいたものがひとつ緩む。
エアハルト様が花嫁の抑揚をほどき、素の調子に戻る。
「やはり、最後まで聞くのだな」
「何と比べておっしゃるのですか?」
エアハルト様は私の顔を横へ向けた。
「今は、会議のことを話そう」
「旦那様、そうやって話をそらされると、余計に気になります」
エアハルト様が扇を閉じる。
「……君の話も、聞いていた」
その短さに返す言葉を探していると、ラザルスが嬉しそうに報告を急ぐ。
「閣下が部下の話を最後まで聞いてくれました! くふふ」
拍手しかけた副官の手が――目の高さで止まる。




