1. 花嫁が叔父を叱る
控え室の大鏡の前で、花嫁のドレスの私が仁王立ちしている。
中身は、さっき契約結婚したばかりの冷徹公爵エアハルト様。
軍服の袖をまくっているほうが、私だ。
「あなた、誰です?」
エアハルト様が花嫁衣装の裾を避けて振り向いた。肩で揃えた蜂蜜色の髪が揺れる。外から見る私の顔は、こんなに丸い頬をしているのか。
「君の夫だ。袖を戻せ、腕が見える。……俺の腕だが」
帳面をつけるときの癖でまくった袖を、私は慌てて下ろす。鏡の中で、撫でつけた墨色の髪の下の高い鼻筋が、燭の光を受けて硬い線を引いた。
「下ろすと、手首から先が自分の手ではないみたいです。指まで言うことを聞いてくれません」
「俺の手だ。……俺の声で、そんなに困った返事をするな。俺まで落ち着かなくなる」
私の声でエアハルト様が答える。
扉が開き、エルスベトが小柄な身体をかがめた。戸口で私の声の〈俺〉を聞いたらしい。銀を束ねた細い髪の下で、折れた小鐘の柄を拾う。
「式で使った小鐘です。触れた途端に、柄が折れました」
エルスベトは困り顔の私と眉を上げるエアハルト様を見比べ、燭台の脇へ柄を置いた。
「お二人とも、まず座り方を覚えてください」
エアハルト様が椅子を見下ろす。私の顔にある若葉色を含む丸い目が、裾の広がりを真剣に測っていた。
「椅子が小さい」
エルスベトは口元を引き締める。
「旦那様。椅子とにらみ合っても、裾は退いてくれません」
エアハルト様は真顔のまま椅子から目をそらした。エルスベトは柄を手のひらに載せ、首を振る。
「その前に、この小鐘を人目から遠ざけます」
エルスベトは小鐘を箱に収め、鍵のある私室へ運んで戻る。私は控え室から、その扉が閉まるのを見届けた。柄を作った職人筋へも使いを出すという。
婚礼の古い魔道具が壊れて、私たちの身体は入れ替わってしまった。
廊下から叔父の声が届く。「花嫁を出せ」と扉を急かす声だ。エルスベトの笑みを透かす琥珀の目が、扉と私たちを往復した。
「扉口で伺っております。ローテンハイム様は、婚礼の蝋燭代を上乗せするよう、奥様から公爵様へ頼ませたいそうです」
八年つけた叔父の帳面には、納品を別の欄へ移す癖がある。今朝の受領票だけは動かされぬよう、叔父の署名を確かめてから花嫁の小物袋に入れた。袋はいま、エアハルト様の使う私の手首に下がる。
私は借りた低い声を、夫と侍女にだけ向ける。
「私への嫌味は、今日は旦那様がお聞きになります」
口にしてから袖口を握る。叔父の小言を誰かに預けたいなど、考えたことさえなかった。
エルスベトが口元を押さえる。
「まあ。では旦那様、お耳の支度を」
エアハルト様が花嫁の顔で、ひどく真面目にうなずいた。
「耳なら、もう廊下の声で塞がっている」
エルスベトは笑いを噛み殺したまま、叔父を待たせに出る。扉の向こうで、私が幼いころから聞いた靴音が止まった。
エアハルト様が花嫁の顔を私のほうへ寄せ、小さく尋ねる。
「ところで君の叔父は、いつもああなのか?」
「叔父様の前では、返事より先に頭が下がるのです。八年、ずっとそうでした。受領票を見ていただけますか?」
エアハルト様は小物袋を開き、紙の額と署名を読んだ。私の手が紙を持つのを外から見るのは妙な心地がする。鏡では、硬い紫紺の目をした借り物の顔が困っていた。
「これは叔父様が決めた額です。私が口を挟まずとも、その紙で足ります」
エアハルト様が、私の声を少し低くする。中身の人の癖だ。
「足りる。だが君は、何を言いたい?」
私は袖口を握り、借りた声で答える。
「……紙を見せる前に、また頭が下がりそうです。公爵様のお顔で、叔父様に叱られるわけにもいきませんのに」
「叱られるのが嫌なら、そう言え」
「嫌です。嫌なのに、黙って帳面を直せば済むと考えてしまいます。それが情けないのです」
エアハルト様は受領票を折らずに持つ。
「なら、その情けなさも君のものだ。俺の声で隠すな」
「旦那様は私の顔で言い返せるのに、私は旦那様の顔でも、まだ言えません」
「俺は君が用意した紙を読む。君は、そこで聞いていてくれ」
軍服の肩は頼もしい。だからこそ、この肩を使って「帰りたくない」と言えば契約まで揺れる気がして、その言葉は袖を握る力になる。
扉の取っ手が鳴る。
叔父の家を出るときの言いつけは「夫に従い、余計な口を開かないこと」。
エルスベトが通したディーデリヒ叔父様は、油で揃えた銅色の髪を撫で、私のいる公爵の身体へ礼をした。厚い頬には客向けの笑みがある。
「公爵様、姪の躾は身内の務めとお許しください。ヘレーネ、婚礼の蝋燭代について公爵様へ口添えしなさい」
エアハルト様が私の丁寧な声で返す。
「蝋燭のお話でしたら、夫の前でどうぞ」
叔父は花嫁の身体へ顔を向けた。
「公爵夫人になったからといって、口答えは許されないぞ」
借りた軍服の肩ごと、私は頭を下げかける。二十二の私が聞き慣れた声だ。二十八の身体で立っていても、足が先に覚えている。叱られる前に頭を下げれば、叱られる時間は短く済む。そうして八年、言葉を飲み込んできた。
エアハルト様が私の声で叔父へ向く。
「妻には、いつもそのように?」
叔父の笑みが細くなる。
「つ、妻……? 公爵様が、そう言わせておいでですか? 姪のための忠告です」
エアハルト様は私の声で、言葉を区切る。
「忠告なら、返事を聞いてください。私の返事を」
叔父の、値を量る焦茶の目が、私の花嫁姿を見下ろした。
「公爵家の品を整えたのは私です。何が不足か、姪には分かりません」
エアハルト様が受領票へ目を落とす。
「整えた額は、どなたが決めましたか?」
叔父はすぐに紙を見ようとしない。
「姪が帳面を取り違えたのでしょう?」
エアハルト様は受領票を開き、叔父の署名を示す。
「婚礼の蝋燭は銀貨十二枚。あなたの署名で決めた額です」
叔父の厚い頬から笑みが消えた。
「その紙まで持ち出すのか。祝いの席だぞ!」
エアハルト様は叔父から目を離さず、私の声で静かに返す。
「今ここでは、紙にある額だけをお話しください。お祝いの言葉は、そのあとで伺います」
叔父は受領票を見たまま、「身内の務め」を二度とは言わず、短い祝いの挨拶だけを残して出ていく。エルスベトが扉を閉めた。私と目が合い、うなずく。
「今日いちばん短いお祝いでございました。お茶が冷める暇もありません……こんな感じで良いかな」
蝋燭の匂いの中、私は下ろした袖口を握る。叔父に叱られたとき、呑み込んできた返事が私の顔から聞こえた。下げかけた首の後ろはまだ熱い。代わりに言ってもらえてほっとした分だけ、自分で言えなかったことが痛む。
「……私の声でも、あんなふうに言えるのですね。八年、一度も試しませんでした」
エアハルト様が花嫁の顔をまっすぐこちらへ向ける。
「君の声だ。俺は借りただけだ」
「そう言われると、困ります。お礼より先に、泣きそうになるなんて」
「言っていい。俺にも聞こえる」
「旦那様を困らせたくはありません。でも、あのとき私も『嫌です』と言いたかった」
エアハルト様が受領票を小物袋へ戻す。
「聞こえた。今、君の言葉で」
エルスベトが扉のそばで口を開く。
「奥様、それではお茶はもう片付けてしまいましょう」
私は借りた袖を引き直す。
「エルスベト、ありがとう。旦那様にも……助けていただきました。声が震えるのも、まだ止まりませんけれど」
エアハルト様は私の顔で小さくうなずく。
「もう大丈夫だ」
次話――――その花嫁、中身はあなたの怖い取引先です。




