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第8章「あの日のフラットライン」

 第8章です。

 試作の失敗が積み上がる中、深夜に届いた後輩・萌からの電話が、理亜瑠の思考を変えていきます。

 臨床の記憶と工学の設計が、ここでようやく一本の線でつながります。

第1節

 十二月の第一週、測定室に失敗作が積み上がっていた。

 棚の上に並んだ試料ケースは七つになっていた。それぞれにラベルが貼ってある。日付と試作番号と、簡単な失敗理由。剥離、リーク、再現性なし、変曲点不明瞭、フィッティング不一致。ケースの中身はどれも小さなガラス基板で、顕微鏡で見なければ何も分からない。でも理亜瑠には分かる。それぞれの夜に何時間かけて、何がうまくいかなかったかを。

 四回目の試作で出た八パーセントの残差を、五回目で改善しようとした。

 PEDOT:PSSの厚みを一・五倍にした。重なり合う区間を広げるためだった。結果は逆だった。厚みが増えたことでイオン輸送の時定数が伸びて、MoS₂側の信号がPEDOT:PSS層の中で減衰した。変曲点が出なくなった。

 六回目はHfO₂のトラップ密度を変えようとした。成膜後にアニール処理を加えることでトラップ準位の密度を制御できるという論文があった。二百度で三十分アニールした。PEDOT:PSSが変性した。三回目に戻っていた。

 七回目はアニール温度を百度に下げた。トラップ密度の変化が微小すぎて、時定数がほとんど動かなかった。変曲点の位置は四回目とほぼ同じで、残差は七・九パーセントだった。〇・四パーセントの改善だった。

 八回目は基板の面積を変えた。小さくした。界面面積が減ればリーク経路も減る。残差は九・一パーセントになった。悪化した。

 理亜瑠は棚を見ながら、椅子に座っていた。

 深夜だった。何時かは確認していなかった。測定室の時計は壁の高いところにあって、眼鏡をかけていないと読めない。眼鏡は今日かけていない。輪郭だけが見えた。十一時か、もう少し後か。

 失敗の棚を見るのが、最近習慣になっていた。

 七つのケースに、それぞれ理由がある。理由は全部分かっている。なぜ失敗したかは分かる。でもどうすれば成功するかが、まだ分からない。

 棚を見ながら、別のことを考えた。

 あの夜に削られた信号も、こんなふうに棚に並んでいるのかもしれない。どこかのサーバーの奥に、記録として残っている。処理済みの波形と、処理前の波形。後者の中に、誰かが見落とした何かがある。見落としたのではない。機械が見せなかった。機械は正しく動いていた。正しく動いた結果として、それは削られた。

 七つのケースの失敗理由は全部分かっている。剥離した理由、リークが出た理由、変曲点が消えた理由。原因は特定できた。だが特定できたのは、失敗したデータが手元にあるからだ。あの夜のモニターには、失敗のデータが残らなかった。フィルタは処理の過程を記録しない。削った、という事実を、削った後には知る方法がない。

 七つのケースは、七つの問いだった。棚に並んでいる間、それぞれが答えを待っていた。あの夜の削られた信号は、棚にすら並べてもらえなかった。

 問題は一つに絞られていた。

 MoS₂の速い応答とHfO₂の遅い応答が、PEDOT:PSSの中で重なり合う区間を、どうやって三十ミリ秒より広げるか。広げなければ、フィッティングのデータ点が足りない。データ点が足りなければ、残差が縮まらない。残差が縮まらなければ、室生に持っていけない。

 時定数を変えようとすると別の何かが壊れる。

 材料の性質を変えようとすると界面が暴れる。

 界面を安定させようとすると信号が弱くなる。

 三つの問題が互いに絡み合っていて、一つを引っ張ると別の二つが動いた。

 理亜瑠はノートを開いた。今日の測定結果を書こうとして、途中でやめた。書くべきことは分かっている。でも今夜は数字よりも先に、別のことを考えていた。

 何のためにやっているのか、という問いではなかった。

 そこは揺れていなかった。

 ただ、方法の問題として行き詰まっていた。設計の発想そのものを変えなければ、同じ場所を堂々巡りする予感があった。

 窓の外は暗くて、構内の街灯が一つだけ光っているのが見えた。光の周りに霧のような輪ができていた。冬の湿気だった。

 理亜瑠はペンを持ったまま、ノートの白いページを見ていた。

 PEDOT:PSSの中で三十ミリ秒の窓しか作れないのは、速い応答と遅い応答の時定数の差が大きすぎるからだ。MoS₂は十一マイクロ秒で終わる。HfO₂は一・九秒かけて動く。その間にPEDOT:PSSが四・七ミリ秒で橋をかけようとしている。橋の長さに対して、渡るべき川が広すぎる。

 川を狭くするか、橋を長くするか。

 川を狭くするということは、MoS₂を遅くするかHfO₂を速くするかだ。MoS₂を遅くすれば、速い応答という長所が消える。HfO₂を速くしようとすると、対数的な収束という記憶の性質が変わる。どちらも、材料を材料でなくする方向だ。

 橋を長くするということは、PEDOT:PSSの時定数を伸ばすことだ。五回目の試作でやって失敗した。厚みを増やしても、信号が減衰するだけだった。

 別の橋が要るのかもしれない。

 PEDOT:PSSでなくてもいい。イオンと電子の両方を輸送できて、時定数を自由に設計できる材料が、他にあるかどうか。

 思いついたのは、生体材料の方向だった。

 イオン輸送を設計できる材料として、医療分野では生体適合性ポリマーが使われている。ヒドロゲルや導電性ハイドロゲルは、イオン輸送の速度を含水率で調整できる。理亜瑠が臨床検査技師として働いていた頃、電極ペーストの成分として名前を見た材料だった。

 でも半導体デバイスに使った実例は、ほとんど知らない。

 ノートに書いた。

「生体適合性ポリマー。含水率でイオン輸送を調整。文献を当たる」

 書いてから、自分でも唐突だと思った。臨床の記憶が工学の問題に割り込んできた。でも理亜瑠の思考はいつもそういう動き方をした。比喩で入って、感覚で掴んで、後から根拠を探す。

 室生に言われたことだった。

「比喩は入口だ。出口にするな」

 入口には立っている。

 文献を当たって、数字が出れば出口になる。

 測定室の蛍光灯が、微かに点滅した。古い照明で、冬になると時々こういうことがあった。一秒ほどして、また安定した。

 棚の失敗作を、もう一度見た。

 七つのケースは、七つの問いだった。なぜ剥離したか。なぜリークが出たか。なぜ変曲点が消えたか。問いはすべて答えが出ている。その答えが積み上がって、今夜の新しい問いになっている。

 無駄ではなかった。

 ただ、時間がかかっていた。

 ノートを閉じた。今夜はここまでだと思った。

 電源を落として立ち上がったとき、ポケットの中でスマートフォンが振動した。

 画面を見た。

 萌からの着信だった。

 夜中に萌から電話が来ることは、ほとんどなかった。理亜瑠は一瞬だけ考えてから、出た。

「もしもし」

「先輩」

 萌の声は、いつもより少し低かった。


第2節

 萌の声が続く前に、理亜瑠は測定室の椅子に戻って座った。

 立ったままでは聞けない気がした。理由は分からない。ただそう思って、椅子を引いた。

「どうした」

「仕事の話じゃないです。ちょっと聞いてほしくて」

「聞く」

 萌は少し間を置いた。電話の向こうで、空調の音がした。病院の当直室か、廊下か。

「今日ね、心電図の波形を見てて、思い出したんです。先輩が院に行く前に言ってた話」

「どの話」

「削られた信号の話。フィルタをかけると消えてしまうやつ」

 理亜瑠は答えなかった。

「今日の患者さん、心拍数は正常範囲だったんです。モニターも何も言わなかった。でも波形の裾のほうが、なんか、整いすぎてて」

「裾が」

「うん。なんていうか、きれいすぎた。先輩が前に言ってたじゃないですか。きれいな波形がいちばん怖いって」

 理亜瑠はノートを開いた。手が動いた。何かを書きたかったわけではなく、ただ開いた。

「それで」

「担当医に伝えました。波形の裾が気になるって。最初、流されそうになったんですけど、もう一回言いました。そしたら詳しく見てくれて、再分極の異常が出てるって。処置になりました」

「そうか」

「患者さんは今、安定してます」

 萌の声が、そこで少し変わった。報告の調子から、別の何かになった。

「先輩が気づかせてくれたんだと思って。だから報告したくて」

「萌がちゃんと見てたんだ」

「でも先輩が言わなかったら、裾のことなんて気にしなかったと思う」

 理亜瑠は開いたノートの白いページを見ていた。

 二〇二四年の十一月のことを、電話を聞きながら考えていた。

 あの夜も病院だった。理亜瑠が二年目で、まだ自分の判断に名前をつける言葉を持っていなかった頃。切迫早産で入院していた妊婦の胎児心電図を評価して、モニターの数字を正しいと信じた夜。

 翌朝、生データを解析した。

 処理前の波形に、再分極異常の尾があった。デジタルフィルタが削っていた。モニターはそれを知らなかった。「142 bpm」という数字だけが光り続けていた。

 その後どうなったかを、理亜瑠は自分の言葉で誰かに話したことが一度もなかった。

「先輩」

「うん」

「今でも、思い出しますか。あのこと」

 萌は直接的には言わなかった。でも「あのこと」が何を指すか、理亜瑠には分かった。院に行く前、二人で食堂で話したことがあった。萌だけに話した。一度だけ。

「思い出す」

「そうですよね」

「でも萌が今日ちゃんと止めた。それは別の話だ」

「別の話、か」

「あの夜のことが、今日の萌の目になってるとしても、あの夜は変わらない。萌が止めたのは今日だ」

 萌はしばらく黙っていた。

 電話の向こうで、遠くに足音がした。誰かが廊下を歩いている音だった。

「先輩の研究、どうですか」

「詰まってる」

「どこで」

「材料と材料の間がうまく繋がらない。速すぎるものと遅すぎるものの間に、ちょうどいい橋がない」

「橋」

「伝わりにくい話だけど」

「なんとなく分かります」

 萌の言い方に、嘘はなかった。なんとなく、という言葉が正直だった。理亜瑠はそういう受け取り方が好きだった。分からないのに分かったふりをしない。

「先輩の言う嘘をつかない機械、まだですか」

 軽い言い方だった。でも軽くなかった。

「まだだ」

「急かしてるわけじゃないです。ただ、今日みたいなことがまたあったとき、もしそういう機械があったら、って思っただけで」

「分かってる」

「待ってます」

 それだけ言って、萌は電話を切った。

 測定室に静けさが戻った。

 蛍光灯の微かな音と、空調の低い唸りだけがあった。

 理亜瑠はスマートフォンをポケットに戻して、開いたままのノートを見た。白いページに、何も書いていなかった。

 あの夜のことを、順番に思い出した。

 妊娠三十二週。切迫早産の管理入院。胎児心拍数モニタリング。「142 bpm」。整った波形。何も言わないアラーム。

 翌朝の生データ。

 処理前の波形の、終末部。再分極の尾が、そこにあった。フィルタが削る前には、確かにあった。

 正常ではなかった。正常に見えるように、削られていただけだった。

 理亜瑠はその言葉を、心の中で繰り返した。声には出さなかった。出さなくても、測定室の空気の中に、その言葉はあった。

 ノートにペンを当てた。

 書いたのは数式でも設計図でもなかった。

「削られた裾野の先に、何があったか。僕は知っている」

 一行だけ書いた。

 それから、ペンを置いた。

 生体適合性ポリマーの文献を当たるという今夜の結論は、まだ有効だった。でも今夜の問いは、それよりも前のところに戻っていた。

 なぜ橋が要るのか。

 速い応答と遅い応答の間に橋が要るのは、二つを繋ぐためだ。繋いだとき、その差分に意味がある。意味があるのは、その差分が命の予兆を含むかもしれないからだ。

 削られた波形の裾野の中に、あの胎児のSOSがあった。

 フィルタは「きれいにする」ために削った。余分なノイズを消すために削った。でも削ったものの中に、消してはいけないものがあった。

 嘘をつかない機械が欲しい。

 その言葉の意味が、今夜また少し重くなった。

 理亜瑠はノートを閉じた。

 棚の失敗作を見た。七つのケース。七つの問いと、七つの答え。

 八つ目の問いは、今夜生まれた。

 材料の問題ではない。何を橋に使うかではなく、なぜ橋が要るのかを、もう一度最初から考え直す。

 電源を落とした。

 廊下に出ると、研究棟は静かだった。

 エレベーターを待ちながら、萌の声を思い出した。「待ってます」という、最後の三文字を。

 軽い言い方だった。でも軽くなかった。


第3節

 萌からの電話から三日が経っていた。

 理亜瑠は図書館の端末に向かって、生体適合性ポリマーの文献を出していた。導電性ハイドロゲル。含水率によるイオン輸送の制御。ポリアクリルアミドとPEDOT:PSSの複合体。ポリビニルアルコールゲル電極。医療用電極ペーストの成分として臨床で使われてきた材料が、半導体デバイスへの応用という文脈で少しずつ論文に出始めていた。

 二〇二〇年以降の論文が多かった。まだ新しい分野だった。

 理亜瑠は該当しそうな論文を十二本に絞って、概要だけ読んだ。含水率でイオン輸送の時定数を調整できるという記述が、三本に共通して出てきた。時定数の範囲は材料によって異なるが、数十ミリ秒から数秒の間を設計できる可能性があった。

 PEDOT:PSSの四・七ミリ秒より遅く、HfO₂の一・九秒より速い領域。

 そこに時定数を持つ材料が作れれば、重なり合う窓が三十ミリ秒より広がる可能性がある。

 ノートに書いた。

「導電性ハイドロゲル。時定数:数十ms〜数秒。含水率で調整可能。PEDOT:PSSの代替候補」

 その下に書いた。

「ただし半導体プロセスへの統合実績が少ない。水分管理が問題になる」

 問題は予測できた。ハイドロゲルは水を含む材料だ。半導体プロセスは水分を嫌う。クリーンルームの管理環境と、ハイドロゲルの含水率維持は、相性が悪い。乾燥すれば時定数が変わる。変われば設計が崩れる。

 でも不可能ではないかもしれない。

 医療用デバイスには生体に貼り付けるゲル電極がある。あれは体温と汗の中で安定して動いている。完全な乾燥環境でなくても機能する設計が、医療分野にはすでにある。

 その設計思想を、半導体積層に持ち込む。

 理亜瑠は端末を閉じてノートを開いた。

 図を描き始めた。今度の図は材料の積層ではなく、時間軸の図だった。横軸に時間を取った。三本の帯を引いた。一番上はMoS₂。短い帯。一番下はHfO₂。長い帯。その中間に、新しい帯を引いた。導電性ハイドロゲル。含水率を調整すれば、この帯の長さを変えられる。

 MoS₂の帯の終わりと、HfO₂の帯の始まりが重なる区間。その区間と、ハイドロゲルの帯が重なる幅を、設計で広げる。

 重なり合う窓が、百ミリ秒になれば。

 フィッティングのデータ点が増える。残差が縮まる可能性がある。

 ただし、ハイドロゲルをクリーンルームで扱ったことがない。佐野さんに相談する必要がある。材料の入手経路も確認しなければならない。

 リストを作り始めたとき、隣の椅子に人が来た。

 九条だった。図書館で鉢合わせることは珍しくなかったが、隣に座ることはほとんどなかった。

「ハイドロゲルか」

 ノートを見て言った。隠す必要もないので、そのままにした。

「候補として調べています」

「PEDOT:PSSの代替か」

「時定数の調整幅が広いので」

 九条は少し考えた。

「水分管理が問題になる」

「分かっています」

「クリーンルームで水系材料を扱うのは、佐野さんの判断が要る」

「相談するつもりです」

 九条はノートの時間軸の図を見た。

「窓を広げたいのか」

「三十ミリ秒では足りない。百ミリ秒以上欲しい」

「なぜ百ミリ秒だ」

 理亜瑠は少し考えた。

「胎児心電図のRR間隔が、心拍数百四十二回のとき約四百二十ミリ秒です。再分極の異常が波形の裾に出るとすれば、Twave終末部からの時間で数十ミリ秒の差異を見る必要があります。百ミリ秒の窓があれば、その区間を含められる」

 九条は黙った。

 図書館の静けさの中で、空調の音がした。

「医療の話をした」

「はい」

「設計の根拠に、臨床の数字を使った」

「使いました」

 九条はノートから目を離して、正面の書棚を見た。

「俺の研究に、そういう数字はない」

 批判ではなかった。ただの観察だった。でも九条がそういうことを言うのは珍しかった。

「九条さんの研究は精度の話です。僕のは、何を見るかの話です」

「違う問いを解いているということか」

「そうだと思います」

 九条はそれ以上何も言わなかった。ノートを一度だけ見て、自分の席に戻った。

 理亜瑠はリストの続きを書いた。

 佐野さんへの相談。ハイドロゲルの材料入手。含水率測定の環境整備。時定数の予備測定。順番に並べると、試作に入るまでに二週間はかかる。十二月の後半になる。年内に試作一回目が入れば、年明けに評価できる。

 年内、と書いてから、今が何月何日かを確認した。

 十二月の第二週だった。

 萌からの電話が三日前だった。あの電話の後、理亜瑠は測定室で一時間ほど座っていた。何かを計算していたわけではなく、考えていたわけでもなく、ただ座っていた。

 削られた裾野の先に何があったか、僕は知っている。

 あの一行をノートに書いてから、方向が変わった気がした。

 ハイドロゲルの発想は、翌朝の図書館で出てきた。臨床の記憶が引き金になった。でも臨床の記憶だけでは設計図にならない。文献があって、数字があって、佐野さんとの相談があって、初めて試作になる。

 比喩は入口だ。

 今夜、入口に立った。

 出口まで、まだ遠い。でも入口の場所は分かった。

 ノートを閉じた。

 窓の外で、冬の光が図書館の床を薄く染めていた。正午を少し過ぎた角度の光だった。

 理亜瑠はコートを着て、図書館を出た。

 佐野さんのいるクリーンルーム管理室に向かって、廊下を歩いた。歩きながら、何を聞くかを整理した。ハイドロゲルをクリーンルームで扱えるか。水分管理の方法はあるか。封止構造を工夫すれば半導体積層に統合できるか。

 問いは三つあった。

 答えが一つでも返ってくれば、次に進める。


第4節

 佐野さんの答えは、三つとも「できなくはない」だった。

 ただし条件がついた。

 ハイドロゲルをクリーンルームに持ち込む場合、含水率の管理が最優先になる。乾燥窒素雰囲気のグローブボックスを使えば、水分の蒸発を抑えながら成膜できる可能性がある。ただしグローブボックスはALD装置と別の場所にあるから、試料の搬送中に乾燥リスクが出る。搬送容器を密閉できれば対応できるかもしれない。

 封止構造については、医療用フレキシブルデバイスの論文でパリレンコーティングを使った事例があると佐野さんは言った。パリレンは気相重合で成膜できる有機薄膜で、水分バリアとして機能する。PEDOT:PSSへのコーティング実績もある。

 理亜瑠はその場でノートに書いた。

「グローブボックス搬送。パリレン封止。この二つが条件」

 佐野さんは続けた。

「パリレン成膜装置は学内にある。別の研究室が管理している。借用申請が要る」

「どのくらいかかりますか」

「一週間から十日。年内に動かしたければ、今週中に申請した方がいい」

 理亜瑠はその日の夕方に申請書を出した。

 並行してハイドロゲルの材料を手配した。ポリアクリルアミドとPEDOT:PSSの複合体を自作するキットが試薬メーカーから出ていた。含水率を段階的に変えた試料を複数作れる。一週間で届く。

 設計が動き始めた感覚があった。

 ただし、もう一つの問題がまだ残っていた。

 ハイドロゲルの時定数を事前に測定する必要があった。含水率を変えながらインピーダンス分光を取って、目標の時定数が出る含水率を特定する。それから積層設計に入る。測定だけで一週間かかる可能性があった。

 年内の試作は、ぎりぎりだった。

 十二月の第二週の終わりに、室生に経過を報告した。

 今回はスライドを作った。時間軸の図と、ハイドロゲル候補の文献リストと、設計変更の根拠を三枚にまとめた。

 室生はスライドを一枚ずつ見た。ペンを回さなかった。

「ハイドロゲルを選んだ根拠は」

「時定数の調整幅です。含水率で数十ミリ秒から数秒の間を設計できます。PEDOT:PSSの固定された時定数では、重なり合う窓が三十ミリ秒より広げられませんでした」

「パリレン封止の実績は」

「医療用フレキシブルデバイスで三本、文献があります。PEDOT:PSSへの適用例が一本あります」

「水分管理の具体的な手順は」

「グローブボックスで成膜して、搬送容器を密閉してALD装置まで運びます。パリレンで封止した後は大気中でも安定するはずです」

 室生はそこで初めてペンを置いた。

「はずです、と言った」

「確認は取れていません。年内に予備試料を作って測定します」

「予備試料の結果を持ってこい。設計の判断はその後だ」

「分かりました」

 報告を終えて立ち上がったとき、室生が言った。

「真知」

「はい」

「なぜ百ミリ秒という数字を出した」

 理亜瑠は一瞬、止まった。

 スライドには百ミリ秒という数字を入れていなかった。九条に図書館で話したことだった。室生には伝えていなかった。

「どこかで聞きましたか」

「九条から聞いた。胎児心電図の話をしたと」

 理亜瑠は答えるまでに、少し時間がかかった。

「再分極異常の検出に必要な時間窓から出した数字です。臨床の根拠があります」

「工学の設計に、臨床の根拠を使った」

「使いました」

 室生は眼鏡の奥で理亜瑠を見た。

「それは報告書に書け。設計の根拠として、測定値と並べて書け」

「工学の論文に、臨床の数字を入れても構いませんか」

「構わない。根拠は根拠だ。どこから来たかより、数字として正しいかどうかだ」

 理亜瑠は頭を下げた。

 廊下に出て、エレベーターを待ちながら、室生の言葉を繰り返した。

「根拠は根拠だ。どこから来たかより、数字として正しいかどうかだ」

 臨床と工学の間に、理亜瑠が勝手に引いていた線が、一本消えた気がした。

 二つの資格を持って、二つの世界を行き来してきた。でも心のどこかで、臨床の記憶は工学の設計には持ち込めないと思っていた。感情的すぎる、主観的すぎる、数字にならない、と。

 でも百ミリ秒は数字だった。

 胎児心拍数百四十二回からRR間隔を計算して、再分極異常の検出に必要な時間窓を出した。その計算に感情はなかった。臨床の経験が問いを立てて、工学の数字が答えた。

 それで良かった。

 エレベーターが来た。

 乗り込みながら、設計の次の手順を頭の中で並べた。ハイドロゲル材料の到着。パリレン成膜装置の借用承認。予備試料の作製。含水率と時定数の相関測定。

 年内にここまで終われば、年明けに積層設計に入れる。

 一階に着いた。

 外に出ると、冬の夕方の光が低く差していた。長い影が構内の石畳に伸びていた。

 理亜瑠は歩きながら、萌の声を思い出した。

「先輩の言う嘘をつかない機械、まだですか」

 まだだ。

 でも今日、設計の根拠に臨床の数字を入れることが正しいと分かった。あの夜の百四十二という数字が、設計図の中に入った。

 消されなかった。


第5節

 ハイドロゲル材料が届いたのは、十二月の第三週の火曜だった。

 試薬メーカーの段ボールを開けると、三つのバイアルが緩衝材に包まれて入っていた。ポリアクリルアミドの粉末、PEDOT:PSS水溶液、架橋剤。これを混ぜて含水率を変えながら試料を作る。含水率の調整は水の添加量で行う。設計上は六段階に分けて試料を作るつもりだった。

 同じ日の午後、パリレン成膜装置の借用承認が下りた。

 管理している研究室の助教から返信が来た。十二月二十二日から二十四日の間で使えると書いてあった。年内のぎりぎりだった。

 グローブボックスでの作業は木曜に入れた。

 佐野さんに立ち会ってもらった。ハイドロゲルの混合から成膜まで、佐野さんは一工程ごとに確認して、問題があれば止めた。途中、架橋反応の時間が足りなくて試料が柔らかすぎる状態になった。佐野さんが「もう三十分待て」と言った。待った。硬化を確認してから次に進んだ。

 六段階の試料が出来上がったのは夕方だった。

 含水率を測定した。重量法で、乾燥前後の質量差から計算した。設計値との誤差は最大で四パーセントだった。佐野さんは「許容範囲だ」と言って帰った。

 翌日からインピーダンス分光を始めた。

 六試料を順番に測定した。含水率が上がるにつれて、時定数が長くなっていく傾向が出た。含水率二十パーセントで約八ミリ秒、三十パーセントで約二十五ミリ秒、四十パーセントで約七十ミリ秒、五十パーセントで約百九十ミリ秒。

 グラフを描くと、含水率と時定数の間に対数的な相関が出た。

 理亜瑠はそのグラフを見て、少しだけ笑った。ハイドロゲル自身が対数的な性質を持っていた。HfO₂と同じ種類の緩慢さを、別の物理機構で持っていた。

 目標の時定数は百ミリ秒前後だった。

 グラフから読むと、含水率四十三パーセント付近に対応する。

 ノートに書いた。

「含水率四十三パーセント。時定数:推定百〜百十ミリ秒。パリレン封止後の変化を確認する」

 パリレン成膜は二十二日に行った。

 他の研究室の装置だった。担当の技官に手順を教えてもらいながら作業した。試料をチャンバーに入れて、パリレンモノマーを気化させて重合させる。薄い透明な膜が試料の表面を覆う。膜厚は二マイクロメートルにした。

 成膜後、試料を取り出した。

 見た目は成膜前とほとんど変わらない。でも表面を触れた感触が少し硬くなっていた。

 インピーダンス分光で時定数を再測定した。

 百十二ミリ秒だった。

 パリレン封止前の推定値とほぼ一致した。封止による時定数の変化は六パーセント以内だった。

 理亜瑠はその数字を見て、しばらく動かなかった。

 設計通りだった。

 含水率の管理とパリレン封止の組み合わせが、半導体プロセスの環境でも機能した。百ミリ秒という目標時定数が、材料として実現できた。

 ノートに書いた。

「封止後:百十二ミリ秒。設計値との誤差十二パーセント。許容範囲」

 その下に書いた。

「積層設計に進む根拠が出た」

 測定室の窓の外は、もう暗かった。二十二日の夕方だった。翌日は二十三日で、研究棟は年末休暇の入る前日だった。

 理亜瑠は測定データを保存して、バックアップを取った。

 机の上を見渡した。ノートが三冊になっていた。四月から始めて、一冊目は五月に終わった。二冊目は九月に終わった。三冊目が今の手元にある。ページを繰ると、五月のクリーンルームのメモから始まって、時定数の数字、フィッティングの残差、ハイドロゲルの文献リスト、含水率と時定数の相関グラフ、室生の言葉、九条の言葉が続いている。

 棚の失敗作は、最後に数えたとき七つだった。

 失敗の理由は全部分かっている。その理由が積み上がって、今夜の百十二ミリ秒になった。

 電源を落として立ち上がった。

 廊下に出ると、研究棟はもう人がいなかった。照明が節電モードで落ちていて、非常灯だけが薄く光っていた。

 エレベーターを待ちながら、来年のことを考えた。

 年明けに積層設計を始める。ハイドロゲルをMoS₂とHfO₂の間に挟む。PEDOT:PSSの代わりに置く形になるが、封止構造が加わる分だけ工程が増える。佐野さんとの相談が要る。パリレン装置の再借用申請が要る。

 手順は見えていた。

 一階のドアを押した。

 外に出ると、冷気が顔に当たった。空を見上げると、星が出ていた。十二月の星は硬く光る。夏の柔らかい光とは違う。鋭くて、遠かった。

 理亜瑠は少し立ち止まった。

 あの夜から二年以上が経っていた。二〇二四年の十一月に、削られた信号を見逃した夜から。あの夜は冬の始まりで、病院の廊下も冷えていた。

 今夜と同じ温度の空気の中に、あの夜がある。

 でも今夜は、百十二ミリ秒という数字を持っている。

 その数字がまだ設計図の中にあるだけで、試作にも積層にもなっていない。でも数字として存在している。あの夜に削られた信号の裾野が、材料の性質として数字になった。

 ノイズを消すのをやめる、という言葉が浮かんだ。

 まだ決意の言葉として持っているだけで、実装はこれからだった。でも方向は決まった。

 歩き始めた。

 冬の星が、頭の上にあった。


 お読みいただきありがとうございました。

 「根拠は根拠だ。どこから来たかより、数字として正しいかどうかだ」——室生先生のこの言葉は、理亜瑠だけでなく、この物語全体を貫くものとして書きました。

 次回、第9章「時定数分離」です。

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