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第7章「速すぎる石、遅すぎる膜」

第七章では、理亜瑠が三材料の設計図を描き始めます。

MoS₂は「走る」、HfO₂は「覚える」、PEDOT:PSSは「仲裁する」——材料の時間軸の差異を消すのではなく、差異そのものを演算として使う。その設計思想がこの章で初めて言葉になります。

十一月、初の試作、そしてEML曲線との最初のフィッティング結果まで。理亜瑠の研究が、数字として応答し始めます。

第1節

 三材料の性質を紙に書き出したのは、十月の第二週だった。

 設計図を作るために、まず言葉を整理する必要があった。時定数の分離は示せた。次は、それぞれの材料が何者で、何をするのかを、自分の言葉で一度きちんと定義し直すことだった。

 ノートの新しいページを開いた。

 最初に書いたのはMoS₂だった。

 二硫化モリブデン。遷移金属ダイカルコゲナイド。単層になると直接遷移型半導体になり、バンドギャップが広がる。電子移動度が高く、薄膜トランジスタとして使ったとき立ち上がりが急峻だ。インピーダンス分光で出た時定数は九マイクロ秒。シリコンより速いとは言えないが、今回の三層構造の中では圧倒的に速い。

 理亜瑠はしばらく考えてから、数字の隣に書いた。

「走る」

 次にHfO₂を書いた。

 ハフニウム酸化物。高誘電率絶縁体。半導体プロセスでは二〇〇七年頃からインテルがゲート絶縁膜として採用した。誘電体内部にトラップ準位が多く、電荷が緩やかに出入りする。対数的な緩和が特徴で、時定数は二・一秒。電圧を加えてから完全に収束するまで、二秒以上かかる。

 その隣に書いた。

「覚える」

 三番目にPEDOT:PSSを書いた。

 ポリ(三・四−エチレンジオキシチオフェン)とポリスチレンスルホン酸の複合体。有機導電ポリマー。電子とイオンの両方を輸送できる。水溶液から塗布できるため、無機材料との界面に柔軟に入り込める。導電率は五千から六千ジーメンス毎センチメートル。時定数は四・七ミリ秒で、MoS₂とHfO₂のちょうど中間に位置する。

 隣に書いた。

「仲裁する」

 三行が揃った。

 走る、覚える、仲裁する。

 理亜瑠はその三行を眺めた。材料の話をしているのに、人の話のように読めた。病院の検査部にも似たような役割分担があった。素早く動く人間と、慎重に記録を残す人間と、その間でコミュニケーションを取る人間。どこにでもある構造だった。

 でも今必要なのはその類似ではなく、三つの時間軸を回路として配置する方法だった。

 問題を書き出した。

 MoS₂は速すぎる。HfO₂は遅すぎる。その差が二十三万倍ある。直接接続すれば、MoS₂が応答を終えた瞬間にHfO₂はまだ動き始めてもいない。差分として取り出したいのに、二つの出力が全く異なるタイミングで出てくる。それをどう読むか。

 時間をずらしたまま、差分を計算する方法が要る。

 ただし計算させない。

 ノートに図を描き始めた。MoS₂を左に置いた。HfO₂を右に置いた。PEDOT:PSSをその間に引いた。PEDOT:PSSは単なる導線ではなく、時間軸の緩衝材として機能する。MoS₂の高速応答がPEDOT:PSSに入ったとき、イオン輸送の遅さがその信号を時間方向に引き延ばす。引き延ばされた信号がHfO₂に届いたとき、HfO₂はその履歴を対数的に積み上げていく。

 出力として取り出すのは、MoS₂側の電位とHfO₂側の電位の差だ。

 その差が、時間の関数として eml(x, y) に対応するかどうか。

 まだ仮説だった。

 仮説を検証するには試作が要る。試作には設計図が要る。設計図を描くには、各材料の厚みと面積と接合部の抵抗値を決める必要がある。それぞれに根拠が要る。根拠は測定値から引き出す。

 手順は見えていた。時間が足りるかどうかが問題だった。

 理亜瑠はページの端に小さく書いた。

「十月中に設計図。十一月に試作一回目」

 その下に書いた。

「材料の問題ではない。時間の配置の問題だ」

 窓の外で風が鳴った。木の葉が数枚、窓ガラスに貼りついてすぐに剥がれた。

 秋が深くなっていた。

 三材料の性質を、もう一度上から読んだ。走る石、覚える膜、仲裁するポリマー。三つが別々の速度で動く。その差異を消すのではなく、差異そのものを使う。

 それが設計の核心だった。

 問題はこれからだ、とも思った。時定数の分離は測定で示した。でも設計図を描いて試作に入れば、今度は界面が暴れ始める。三層構造を積み上げた瞬間に何が起きるか、測定室の静けさの中では予測できないことがある。

 材料は、思い通りには動かない。

 それは五月のクリーンルームで最初に習ったことだった。

 ノートを閉じた。机の上に三材料のデータシートが重なっていた。MoS₂の移動度、HfO₂の誘電率、PEDOT:PSSの導電率。数字が並んでいる。数字の裏に、実際の材料がある。

 明日からクリーンルームに入る時間を増やす、と決めた。

 設計図は頭の中にある。それを材料で書き直す作業が、これから始まる。


第2節

 最初の統合試作に入ったのは、十月の第三週だった。

 設計図は手元にあった。MoS₂を底層に成膜し、PEDOT:PSS水溶液をスピンコートで塗布し、その上にHfO₂をALD法で積む。原子層堆積法は温度を百二十度まで下げて、PEDOT:PSSへのダメージを最小にする。TiO₂の接着層は五ナノメートル。各層の厚みと面積は先週の計算から出した数字を使う。

 クリーンルームに入ったのは朝の八時だった。

 MoS₂の成膜は午前中に終わった。スパッタリングで基板に叩きつけた原子が、均一な薄膜として広がっていく。膜厚計で測ると設計値の誤差二パーセント以内だった。悪くない出だしだった。

 PEDOT:PSS塗布は昼過ぎに行った。

 水溶液をピペットで基板中央に垂らし、スピンコーターで回転させて均一に広げる。それから百度で三十分ベークして水分を飛ばす。手順は五月から何度もやってきた。今回は特に問題なく終わった。

 問題はHfO₂だった。

 ALD装置にセットして、百二十度でサイクルを回し始めた。ハフニウムの前駆体と水蒸気を交互に導入して、一原子層ずつ積み上げる。二百サイクルで約二十ナノメートルになるはずだった。

 百六十サイクルを過ぎたあたりで、装置のモニターに圧力異常のアラームが出た。

 アラームという言葉で、別の音が蘇った。

 あの夜、測定室に響いた甲高い電子音。百四十二という数字が正常域を示し続けたまま、それでもアラームが鳴った夜。その音は助けを求める声だったのか、それとも手遅れを告げる声だったのか、今でも理亜瑠には分からない。

 今夜の装置のアラームは、圧力の異常を伝えている。原因は分かる。対処できる。それがあの夜との違いだった。あの夜は、何が異常なのかすら、モニターは教えてくれなかった。教えてくれなかったのではない。削っていたのだ。異常を示す信号を、正常に見せるために。

 チャンバー内の圧力が設定値から外れていた。前駆体の導入ラインに詰まりが出た可能性があった。装置を緊急停止して、チャンバーを開けた。

 試料を取り出した。

 目視では分からなかった。顕微鏡で見ると、HfO₂膜の表面に微細なクラックが走っていた。百六十サイクル分の膜が、冷却の過程で収縮してPEDOT:PSS層から剥がれかけていた。

 一回目は終わった。

 クリーンルームの退室記録に時刻を書きながら、何が起きたかを整理した。ALD装置の圧力異常は今日が初めてではない。装置の問題か、前駆体の残量が少なくなっていたか、どちらかだ。でも根本の問題は別にある。

 HfO₂は百二十度でも、PEDOT:PSSにとってはまだ厳しい。

 三十分かけてデータシートを読み直した。PEDOT:PSSの熱変性が始まる温度について、正確な数字を確認したかった。文献によって百五度から百五十度まで幅がある。使っているPEDOT:PSS溶液の仕様書を出した。推奨乾燥温度は百度、上限は百三十度と書いてある。

 百二十度は上限に近い。二百サイクル分の時間をかけて、PEDOT:PSSが少しずつ劣化した可能性がある。

 翌日、ALD装置の担当技官に圧力異常の原因を確認した。前駆体ラインのフィルタが詰まりかけていた。交換してもらった。成膜温度を百十度に下げることにした。百二十度から百十度への変更は、成膜速度が落ちて二百サイクルで届く膜厚が変わる。計算し直した。二百三十サイクルで同じ膜厚が出る。

 二回目の試作は翌週の月曜に入った。

 今度はALD装置の圧力は安定した。二百三十サイクル、問題なく終わった。試料を取り出した。顕微鏡で表面を見た。

 クラックはなかった。

 測定室に移動してプローブを当てた。電流電圧特性を測った。

 グラフが出た。

 理亜瑠は画面を見て、すぐに異常だと分かった。

 電流が流れすぎていた。印加電圧を上げるにつれて電流が指数的に増えるはずが、ある電圧を超えたところで急激に跳ね上がった。リーク電流だ。HfO₂の絶縁性が不十分で、電荷がMoS₂側とHfO₂側の間でショートしている。

 ノイズではなかった。設計の問題だった。

 PEDOT:PSSとHfO₂の界面で何かが起きている。イオン輸送と電子輸送が混在するPEDOT:PSSの特性が、HfO₂の誘電体層に予期しない電荷注入を起こしているのかもしれない。TiO₂の接着層が薄すぎた可能性もある。

 その日の夕方、九条が測定室に顔を出した。

「どうだった」

「リークが出ました」

「どこで」

「PEDOT:PSSとHfO₂の界面だと思います。TiO₂が足りないか、界面での電荷注入が制御できていないか」

 九条は少し考えた。

「有機無機界面のリークは厄介だ。電荷輸送のメカニズムが混在する。計算で予測しにくい」

「はい」

「俺のシミュレーションは今週、係数が収束した。精度は出た」

 理亜瑠は九条を見た。

「おめでとうございます」

「礼はいい。ただ、熱量が問題だ。千コアで三日回したら、冷却コストが馬鹿にならなかった。デジタルの限界がそこにある」

 九条は言ってから、画面のリーク電流のグラフを見た。

「こっちはこっちで限界に当たっている」

「当たっています」

「続けるか」

「続けます」

 九条はそれだけ聞いて出ていった。

 理亜瑠は画面に向き直った。

 リーク電流の原因を特定するために、次の試作では接着層を変える必要があった。TiO₂の膜厚を倍にする。あるいはTiO₂をやめてAl₂O₃に変える。どちらが有効か、文献を当たってから決める。

 ノートに書いた。

「界面が、まだ暴れている」


第3節

 十一月に入った。

 クリーンルームの予約表に、理亜瑠の名前が増えていた。月曜・水曜・金曜の午前を押さえた。それ以外の時間は測定室か図書館にいた。食堂で食べる回数が減り、コンビニのおにぎりを測定室で食べることが多くなった。

 三回目の試作は、接着層をAl₂O₃に変えた。

 酸化アルミニウム。HfO₂より誘電率は低いが、有機材料との界面適合性が高い。文献を三本読んで、PEDOT:PSS上への成膜実績があることを確認した。膜厚は三ナノメートルにした。TiO₂の五ナノメートルより薄い。でも均一性が高ければ薄い方がリーク抑制に効く可能性があった。

 Al₂O₃の成膜は八十度でできる。PEDOT:PSSへの熱負荷がさらに下がる。

 三回目は、リーク電流が出なかった。

 電流電圧特性を測ると、MoS₂側に指数応答が出た。HfO₂側は電圧を保持したまま緩やかに収束していく。PEDOT:PSSが間で動いているはずだが、外部から直接測定できない。界面の中に埋まっている。

 インピーダンス分光に切り替えた。

 時定数が三つ出た。

 MoS₂:十一マイクロ秒。PEDOT:PSS:五・一ミリ秒。HfO₂:一・九秒。

 前回の三層測定とほぼ同じ桁だった。Al₂O₃への変更が時定数の分布を壊していない。接着層の変更は成功だった。

 ただし問題は別のところにあった。

 MoS₂側の電位とHfO₂側の電位の差を、時間の関数として取り出そうとしたとき、信号が安定しなかった。電位差を測定するたびに値がばらついた。測定のたびに違う数字が出る。再現性がない。

 ノイズではなかった。

 測定条件を変えても、温度を記録しても、同じ試料で繰り返しても、値がばらつく。試料の問題ではなく、測定の設計の問題だった。

 電位差を直接読もうとしていること自体が間違いかもしれない、と気づくまでに二日かかった。

 MoS₂側とHfO₂側は、時定数が二十万倍違う。電位差を「今この瞬間」に読んでも、MoS₂はすでに応答を終えていてHfO₂はまだ途中だ。差を取る「タイミング」が合っていない。

 時間的に同期した差分を取る方法が要る。

 ノートに図を描いた。MoS₂の応答曲線を左に、HfO₂の応答曲線を右に書いた。縦軸は電位、横軸は時間。二つの曲線は形が違う。MoS₂は急峻に立ち上がってすぐ収束する。HfO₂はゆっくり立ち上がって長く収束する。

 二つの曲線の差を取ると、時間とともに変化する関数になる。

 その関数の形が eml(x, y) に対応するかどうか、まだ分からない。でもその差分を読むためには、二つの信号を同じ時間軸上で比較できる回路が要る。サンプルアンド・ホールド回路の組み合わせか、あるいは別の方法か。

 理亜瑠が図を描いていると、後ろから声がした。

 九条だった。測定室に入ってきて、図を一瞥した。

「差分を取ろうとしているのか」

「はい。電位差を直接読もうとしたら、タイミングが合いませんでした」

「当然だ。時定数が二十万倍違う二つの信号を同時刻で比較しようとしても意味がない」

「分かっています。今、同期の方法を考えています」

 九条は図を見たまま言った。

「サンプルアンド・ホールドは使えない。ホールド回路自体が時定数を持つ。測りたいものを回路が汚染する」

 理亜瑠は少し考えた。

「では」

「差分を取るのをやめろ、という話ではない。取り方の問題だ」

 九条はそれ以上言わなかった。

 何かヒントを出したのか、問いを立てただけなのか、判断がつかなかった。九条の言い方はいつもそういう形をしていた。答えの手前で止まる。

 その夜、アパートに戻ってから考えた。

 サンプルアンド・ホールドが使えないなら、差分を電位として取り出すのではなく、電荷として積分する方法があるかもしれない。MoS₂の速い応答が流した電荷と、HfO₂がゆっくり蓄積した電荷の差を、キャパシタに積ませて最後に読む。

 でもキャパシタ自体が時定数を持つ。九条が言ったことと同じ問題が出る。

 別の方向を考えた。

 二つの信号を同期させるのではなく、二つの信号が自然に重なり合う区間を探す。PEDOT:PSSの時定数は四・七ミリ秒から五・一ミリ秒の間にある。MoS₂の応答が終わりかけてHfO₂の応答が始まりかけるその中間で、PEDOT:PSSが両方の信号を同時に感じている区間があるはずだ。

 そこを読む。

 PEDOT:PSSの端子から直接信号を取り出す方法が要る。今の設計では、PEDOT:PSSは内部層に埋まっていて端子がない。

 次の試作で、PEDOT:PSSから独立した測定端子を引き出す構造に変える必要があった。

 ノートに書いた。

「PEDOT:PSSに端子を出す。中間層を読む」

 その下に書いた。

「通訳の声を、直接聞く」

 窓の外で風が鳴った。十一月の夜は早く冷える。

 材料は思い通りに動かない。でも思い通りでないものの中に、必要な答えが埋まっていることがある。

 それは、あの夜に学んだことだった。

 削られた信号の裏に、消されなかった異常があった。


第4節

 九条の発表は、十一月の第二週の木曜だった。

 室生研究室の輪講室。折りたたみ椅子が六脚並んでいた。室生と、他の院生二人と、理亜瑠が座った。九条はプロジェクターの前に立った。スライドが開いた。

 タイトルは「EML関数のデジタル近似実装:係数最適化と精度評価」だった。

 九条の発表は無駄がなかった。数式とグラフだけが並んで、言葉による修飾がほとんどなかった。eml(x, y) = exp(x) − ln(y) を数値近似するための多項式展開の次数を、スパコンで最適化した結果が出ている。近似精度は小数点以下六桁まで保証できる。演算速度はシングルコアで毎秒三億回。並列化で線形にスケールする。

 室生はスライドを眺めながら、ペンを回していた。

「熱量は」

「千コアで七十二時間の連続稼働で、冷却込みの消費電力が約四十キロワット時です」

 室生は何も言わなかった。

「医療モニタリング用途に実装する場合、組み込みプロセッサへの移植が次のステップになります。精度を小数点以下三桁に落とせば、低電力プロセッサでも動作可能です」

「精度を三桁に落とした場合、生体信号の分解能は」

「心電図の臨床精度は十分維持できます。脳波の微細成分は一部欠損する可能性があります。ただし、その欠損した成分が診断上有意かどうかは、現時点では確認されていません」

 室生はそこで一度だけ理亜瑠を見た。視線が一秒あるかないかで、すぐ九条に戻った。

 発表は四十分で終わった。

 質疑の時間に、他の院生から実装コストについての質問が出た。九条は数字で答えた。理亜瑠は何も言わなかった。

 輪講室を出るとき、九条が並んで歩いてきた。

「どう思った」

 廊下だった。他の院生はもう離れていた。

「精度は出ていると思います」

「それだけか」

 理亜瑠は少し考えた。

「脳波の微細成分が欠損するという話が、気になりました」

「近似次数を上げれば解決できる。演算コストとのトレードオフだ」

「コストを上げれば解決できる問題は、コストが上がり続ける」

 九条は一拍置いた。

「それは批判か」

「観察です」

 九条はそれ以上返さなかった。廊下の角で別れた。

 廊下の角が曲がった後、一人になって初めて、言えなかった言葉が浮かんだ。

 観察ではなかった。

 脳波の微細成分が欠損するという、その一言が。削られる側の話をしていた。精度を落とす判断をした人間は、削られたものが何を含んでいたかを見ない。見ないことを選んでいる。合理的な選択として、見ないことを選んでいる。

 あの夜の機械も、同じ選択をしていた。

 フィルタの設計者は、ノイズを消すことが正しいと判断した。判断は正しかった。その正しい判断の結果として、再分極異常の尾が消えた。消えたことを、誰も知らなかった。消えたという事実が、記録に残らなかったから。

 九条は悪意で削っているのではない。それが余計に、重かった。正しい判断を積み重ねた結果として、何かが消える。消えたものの中に、命の予兆が入っていることがある。それを「トレードオフ」と呼んだ瞬間、消えたものは消えたまま終わる。

 エレベーターを待ちながら、理亜瑠は九条の発表を頭の中で反芻した。

 精度は本物だった。六桁の近似は実用上ほぼ完全といっていい。演算速度も問題ない。低電力プロセッサへの移植という方向性も、現実的だ。九条のやり方は、正しい。別の意味で、完全に正しい。

 だから嫌悪ではなかった。

 ただ、脳波の微細成分が欠損するという一言が、引っかかって離れなかった。

 脳波だけではない、と理亜瑠は思った。心電図の終末部も、同じ話だ。「臨床精度は十分維持できます」と九条は言った。臨床で必要な精度、という言葉の中に、すでに判断が入っている。必要かどうかを、誰が決めるのか。削られる前の信号を見たことのある人間が、その判断をしているのか。

 あの夜、フィルタを設計した人間も、同じ判断をしていた。標準的な条件だ、と佐竹は言った。正しかった。正しい標準の中に、削られた異常があった。

 エレベーターが来た。

 乗り込みながら、自分の試作の現状を思った。

 三回目の試作はリーク電流を抑えた。時定数の分離も確認できた。でも差分を取り出す方法がまだない。PEDOT:PSSに端子を引き出す構造を設計しなければならない。四回目の試作は来週入る予定だが、構造が変わるから失敗の可能性がある。

 一階に着いた。

 外に出ると昼の光が白かった。構内を歩きながら、研究棟の建物の輪郭が冬の空に硬く立っているのを見た。

 廊下の角で別れる前に、九条が足を止めた。一拍あって、口を開いた。「一人の例外的な波形を拾うために、千の標準的な処理を遅らせる選択を、俺はできない」。それだけ言って、角を曲がった。振り返らなかった。

 測定室に戻った。机の上に四回目の試作の設計図が広げてある。PEDOT:PSSに端子を引き出すための構造を、昨日から考えていた。内部層に埋まった材料から電気的に独立した端子を出すには、側面にコンタクトを形成する必要がある。側面コンタクトは微細加工の精度が要る。フォトリソグラフィを使えば可能だが、理亜瑠はまだフォトリソの経験が少ない。

 技官の佐野さんに頼む必要がある、と書いた。

 窓の外で、構内の木の葉がほとんど落ちていた。枝だけが残って、冬の光の中で細く見えた。

 九条の発表を、もう一度思い出した。

 スライドの最後に、一行だけ書いてあった。

「本手法はアナログ実装との比較評価を今後の課題とする」

 読んだとき、何も思わなかった。でも今になって、その一行が何を意味するかを考えた。

 比較される。

 九条はデジタルで完成させた。精度が出た。次は比較だ。アナログ実装が出てこなければ、比較は成立しない。比較が成立しなければ、九条の研究は完結しない。

 室生が五月に言っていた。

「二つの研究は比較される」

 理亜瑠は設計図に向き直った。

 四回目の試作の欄に、一行書き足した。

「PEDOT:PSS側面コンタクト。佐野さんに相談。今週中に」


第5節

 佐野さんは技官歴二十三年だった。

 クリーンルームの管理を一人で担っていて、装置の癖と材料の相性を経験で知っている人だった。年齢は五十代半ば。口数が少なく、作業中はほとんど話さない。でも聞けば答えてくれる。理亜瑠は五月から、困ったときは佐野さんに聞くと決めていた。

 設計図を持って相談に行ったのは、月曜の朝だった。

「PEDOT:PSSの側面にコンタクトを出したいんです。フォトリソを使えば可能だと思うんですが」

 佐野さんは設計図を見た。しばらく黙っていた。

「有機層の側面か」

「はい」

「レジストの溶媒がPEDOT:PSSを侵す可能性がある。水系のレジストを使ったことはあるか」

「ないです」

「水系なら有機層へのダメージが少ない。ただし解像度が落ちる。何マイクロメートルまで細くしたい」

「二十マイクロメートルで十分です」

「水系で行ける。材料は用意できる。ただし露光条件の調整が要る。一緒にやるか」

「お願いします」

 佐野さんはそれだけ言って、装置の予約表を開いた。水曜の午後に枠を取ってくれた。

 水曜、フォトリソグラフィの工程は四時間かかった。

 レジスト塗布、プリベーク、マスク露光、現像、エッチング、レジスト除去。一工程ごとに佐野さんが確認して、次に進む。理亜瑠は手順を覚えながら作業した。失敗したのは現像の時間で、最初の試料は現像過剰になってパターンが太くなった。佐野さんは無言で現像時間を十秒短くして、もう一枚やり直した。二枚目は合格だった。

 PEDOT:PSSの側面に、二十マイクロメートル幅のコンタクトが形成された。

 四回目の試作の全工程が終わったのは木曜の夕方だった。

 測定室にセットして、まずリーク電流の確認をした。出なかった。Al₂O₃の接着層が今回も機能している。電流電圧特性を測った。MoS₂側に指数応答が出た。HfO₂側に対数的な収束が出た。

 PEDOT:PSSの端子から信号を取り出した。

 画面にグラフが出た。

 理亜瑠は画面を見て、しばらく動かなかった。

 MoS₂が急峻に立ち上がってから収束していく曲線が左にある。HfO₂がゆっくり立ち上がって長く収束する曲線が右にある。そしてPEDOT:PSSの端子から出てきた曲線が、その中間で独特の形をしていた。

 MoS₂の立ち下がりと、HfO₂の立ち上がりが、PEDOT:PSSの中で重なっていた。

 重なっている区間がある。

 短い。三十ミリ秒ほどの窓だった。その区間だけ、三つの信号が同時に存在する。

 理亜瑠はその区間をカーソルで拡大した。

 PEDOT:PSSの曲線が、その三十ミリ秒の窓の中で、緩やかな変曲点を持っていた。MoS₂の速い応答の尾とHfO₂の遅い応答の頭が、PEDOT:PSSのイオン輸送を通じて重なり合った結果だった。

 変曲点の形を、ノートに手で写した。

 写しながら、この形に見覚えがあると思った。

 eml(x, y) = exp(x) − ln(y)。

 指数関数から対数関数を引いた形は、急峻な立ち上がりの後に緩やかに収束する非対称な曲線を持つ。変数のスケールによって形が変わるが、基本的な輪郭はある。

 PEDOT:PSSの変曲点付近の形が、それに似ていた。

 似ている、というだけだった。定量的な一致を言うには、フィッティングが要る。eml関数との一致を示すには、パラメータの最適化が要る。数値的な根拠が要る。今夜出たのは形の類似だけで、それ以上でも以下でもない。

 でも形が出た。

 理亜瑠はカーソルを動かしながら、データを保存した。

 そのとき、測定室のドアが開いた。

 九条だった。今日は珍しく早い時間だった。

「どうだ」

「PEDOT:PSSに端子を出しました。中間層の信号が取れました」

 九条は画面を見た。

 三本の曲線が並んでいる。九条はしばらく画面を見ていた。

「重なっている区間があるな」

「三十ミリ秒ほどです。そこにPEDOT:PSSの変曲点が出ています」

 九条はさらに画面を見た。

「EML曲線と比較したか」

「まだです。フィッティングはこれからです」

「やれ。フィッティングが合えば、初めて話になる」

 それだけ言って、九条は出ていった。

 理亜瑠は画面に向き直った。

 フィッティングのソフトウェアを開いた。eml(x, y)のパラメータを設定して、PEDOT:PSSの変曲点付近のデータに当てはめた。最小二乗法で最適化を走らせた。

 収束するまで数分かかった。

 結果が出た。

 残差が八・三パーセントだった。

 理亜瑠はその数字を見た。

 良くはない。二パーセント以内を出してきた時定数のフィッティングに比べれば、ずっと大きい。でも全く外れているわけでもない。形の類似が、数値として八パーセントの精度で支持された。

 八パーセントの残差の原因は、測定ノイズかもしれない。パラメータの設定が最適でないかもしれない。そもそも三十ミリ秒という窓が狭すぎてデータ点が少ない可能性もある。

 改善の方向は見えていた。

 窓を広げるには、時定数の分布を変える必要がある。PEDOT:PSSの厚みか、HfO₂のトラップ密度か、どちらかを調整すれば時定数がずれる。それによって重なり合う区間が広がるかもしれない。

 次の設計変更の方向が出た。

 ノートに書いた。

「八パーセント。悪くない出発点だ」

 書いてから、少し考えた。室生に言えば「感想だ」と言われる。でも今夜は感想でいい。測定値は保存した。フィッティングの結果も保存した。次に持っていくときに、数字で語る。

 窓の外は完全に暗かった。

 クリーンルームで四時間、測定室でさらに三時間。今日だけでそれだけの時間が経っていた。

 理亜瑠は装置の電源を落とさずに、データのバックアップだけ取った。

 廊下に出ると、研究棟はほとんど人がいなかった。照明が半分落ちていて、床の一部だけが光っていた。

 エレベーターの中で、八パーセントという数字を頭の中で転がした。

 九条のデジタル実装は六桁の精度を出した。こちらはまだ八パーセントの残差がある。比較にならない。でも九条のやり方は「計算させて」いて、こちらは「材料が動いて」いる。同じ精度基準で競うのが正しいかどうか、まだ分からない。

 一階のドアを押して外に出た。

 十一月の夜気が首筋に触れた。空に星が出ていた。

 界面は、まだ暴れていた。でも今夜初めて、その暴れ方の中に秩序の片鱗が見えた。

 それで十分だった。今夜は。


読んでくださってありがとうございます。

「八パーセント。悪くない出発点だ」——この一行に、この章の全てが入っています。六桁の精度を出した九条のデジタル実装と比べれば話にならない。でも理亜瑠のやり方は「材料が動いている」。同じ基準で競うのが正しいかどうか、まだ分からない。その問いを抱えたまま、次へ進みます。

「界面は、まだ暴れていた。でも今夜初めて、その暴れ方の中に秩序の片鱗が見えた」

第八章へ続きます。

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