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第6章「電子は何語で話すのか」

第六章では、理亜瑠がインピーダンス分光測定を続けます。

歪んだ半円が出た。ノイズかもしれない。でも四回続けて同じ形が出た——「何かが二つある」という気づきから、時定数の分離という発見へ。MoS₂の八マイクロ秒、PEDOT:PSSの三・二ミリ秒、そしてHfO₂が加わった三層構造で干渉しないという証明まで。

「これが、分離だ」という一文に、この章の全てが入っています。

第1節

 九月の測定室は、夜になると機械だけが呼吸した。

 エアコンの低い唸り。ロックイン・アンプの冷却ファン。それ以外は静かで、理亜瑠が椅子を引く音だけが石の床に短く跳ねた。

 窓の外はとっくに暗かった。今日が何曜日か、しばらく考えてから木曜だと気づいた。

 インピーダンス分光装置の画面を開く。先週から積み上げてきた二層構造の測定ファイルが、日付順に並んでいる。

 室生に言われたのは一言だった。

「時定数を逆算して、インピーダンス分光で確認しろ」

 それだけだった。やり方も、何を見るべきかも、教えてくれなかった。

 理亜瑠はその夜から測定を始めた。MoS₂とPEDOT:PSSの二層構造に、一ヘルツから十万ヘルツまで周波数を変えながら微小な交流電圧を加える。回路が周波数に対してどう振る舞うか、複素インピーダンスの軌跡を描かせる。コール・コール・プロットと呼ばれるそれは、半円を描いてから垂れ下がるはずだった。

 描かなかった。

 最初の三回は、半円が歪んだ。二つに分裂するような膨らみが出て、どう解釈すればいいか分からなかった。ノイズかもしれないと思って測定条件を変えた。温度を記録して、湿度を記録して、試料の厚みを測り直した。四回目も同じ形が出た。

 歪んだ半円を、理亜瑠はしばらく眺めた。

 何かが、二つある。

 見ながら、別のことを考えていた。

 あの夜のモニターも、こういう形をしていた。整いすぎた波形。均一すぎる終末部。ノイズが消えた後の、きれいな嘘。そのとき理亜瑠は「何かが変だ」と思いながら、言葉にできなかった。数字は正常域にあった。アラームは鳴っていなかった。

 今夜の画面には、その逆がある。

 正常ではない形が出ている。歪んでいる。半円が割れている。だがそれは、機械が壊れているのではないかもしれない。壊れているように見えるものが、実は本当のことを言っているのではないか。あの夜の整いすぎた波形が「きれいな嘘」だったように、今夜の歪んだ半円は「醜い本当」なのかもしれない。

 手元のノートを開く。単純なRC回路なら半円は一つだ。二つに見えるということは、時定数の異なる素子が直列または並列で重なっている。計算式を書きながら、それがMoS₂とPEDOT:PSSそれぞれに対応するのではないかという考えが浮かんだ。

 試しに、インピーダンスデータを等価回路でフィッティングした。R-C並列を二段重ねにしたモデルを入れると、歪んだ半円がきれいに分解された。

 時定数が出てきた。

 MoS₂側の時定数:約八マイクロ秒。

 PEDOT:PSS側の時定数:約三・二ミリ秒。

 その差、四百倍。

 理亜瑠はしばらく画面を見ていた。

 走る石と、覚える膜。二つは今まで「混ざっている」と思っていた。でも実際には、全然違う速度で動いていた。同じ基板の上で、それぞれが自分の時間軸で振動していた。

 だから界面が暴れていた。

 速い応答が先に終わってしまうのに、遅い応答がまだ動いている。二つの拍子が合わないまま音楽を演奏しているようなものだった。それをノイズと呼んでいただけで、実体は二つの独立したリズムだった。

 ノートに書いた。

「時定数の差分=演算の痕跡?」

 書いてから、少しだけ手が止まった。

ノートの断片が浮かんだ。速い応答と遅い応答の差分を演算として使えるかもしれないという、まだ数字の裏付けを持たない思いつきだった。あのとき括弧を閉じたのは、考えを逃がさないためだった。

 今夜、初めて数字が来た。

 時定数八マイクロ秒と三・二ミリ秒という具体的な値が、差分として演算出力に使えるかどうか、まだ分からない。ただ、二つの値の比を取ると約四百になる。eml(x, y) = exp(x) − ln(y) という式の中で、指数と対数が同じ変数スケールで動くはずがない。それが問題だと思っていた。でも問題でもなんでもなかった。物理的な速度の差が四百倍だから、演算として使えるかもしれない。

 まだ「かもしれない」だった。

 室生に言えば何と言うか、考えた。「感想ではなく、測定値で話せ」。測定値はある。でも今夜の測定値が示しているのは「時定数が二つある」という事実だけで、それがEML関数の実装と繋がるかどうかは、まだ自分の頭の中にしかない。

 装置の電源を落とさずに、もう一セット測定を入れた。

 今度は周波数の下限を〇・一ヘルツまで下げた。PEDOT:PSSのイオン輸送が本当に三・二ミリ秒の時定数を持つなら、低周波側にもう一つ寄与が出るはずだった。

 測定が始まると、画面の端に周波数スイープの進捗が小さく出た。全部終わるのに四十分かかる。

 理亜瑠は椅子の背に凭れて、天井を見た。

 待つ時間がある。測定室の天井は白かった。

 あの夜も、待っていた。

 評価室の壁際に下がって、モニターを斜めから見ていた。百四十二という数字を見ていた。アラームが鳴らないことを確認していた。佐竹が「標準的なフィルタ条件だ」と言った後、理亜瑠は「はい」と答えて、それ以上言えなかった。根拠がなかった。言葉がなかった。感覚だけが、喉の奥に詰まっていた。

 今夜、初めて、その感覚に名前がつきかけている。

 歪んだ半円が言っている。ここに二つのものがある、と。速いものと遅いものが、同じ場所で別々に動いている、と。あの夜のモニターが飲み込んだのも、同じ種類の「二つ」だったのかもしれない。フィルタが均一にした後に消えた、終末部の微細な揺れ。それはノイズではなく、別の時間軸で動いていた何かだったのではないか。

 四十分、待てる。今夜は数字が来る。

 サブスレッショルド領域という言葉を思い出したのは、それからしばらくしてのことだった。

 理亜瑠は、古い教科書で読んだサブスレッショルド領域の記述を思い出した。MOSトランジスタのゲート電圧が閾値を下回っても、電流はゼロにならず、指数関数的に減衰していく。設計者にとってはリーク電流として嫌われてきた領域だった。だが理亜瑠には、以前MoS₂の特性曲線を眺めたとき、その指数応答の形がどこか似ているように思えた記憶があった。

 今夜の時定数の数字と並べると、何かが繋がりかける。

 MoS₂が指数応答を示す理由は、熱活性化された電荷輸送のメカニズムにある。温度依存性があり、厳密にはボルツマン因子が効いている。一方でHfO₂の応答が対数的に収束するのは、誘電体内のトラップ準位への電荷の緩やかな蓄積と放出だ。サブスレッショルド電流と同じ物理が、別の材料で再現されている。

 eml(x, y) = exp(x) − ln(y)。

 指数と対数が対をなすこの式は、「一方が走り、もう一方が思い出す」という物理過程を表している可能性がある。計算として解かせるのではなく、材料に流れる電子の物理的ふるまいそのものが式の形をしているなら。

 測定中のウィンドウが、静かに進んでいた。

 正しいかどうか、まだ分からない。測定値が出てから考える。

 そう思いながら、理亜瑠はノートの余白に小さく書いた。

「計算させるから遅いんだ?」

 エアコンが低く鳴った。装置だけが時間を刻んでいた。

あの夜のモニターも、時間を刻んでいた。百四十二という数字を、正確に、何も知らないまま。


第2節

 九条蓮のスパコン申請が通ったのは、九月の第二週だった。

 理亜瑠がそれを知ったのは、廊下ですれ違いざまに九条本人から聞いたからだ。特に自慢するような言い方ではなかった。ただ事実として告げた。

「学内のクラスターじゃ足りなくなった。学術情報センターに申請した。通った」

「どのくらいの規模ですか」

「千コアで回す。EML近似の係数最適化に、今のやり方だと三ヶ月かかる。それを三日に縮める」

 それだけ言って、九条は自分の机へ戻った。

 理亜瑠は測定室へ向かいながら、その数字を頭の中で転がした。千コア。三ヶ月が三日。

 嫌悪ではなかった。ただ、何か重たいものが腹の底に沈んだ。

 九条の研究はデジタルだ。EML関数を数値近似でソフトウェア的に実装する。eml(x, y) = exp(x) − ln(y) という式を、プロセッサに逐一計算させる。近似の精度を上げようとすれば演算量が増え、演算量が増えれば熱が出て、熱を冷やすために電力を使う。それでも九条はやり遂げようとしている。千コアと三日間というリソースを正面からぶつけて、力で解く。

 測定室に入ると、昨夜のデータがまだ画面に残っていた。

 低周波まで伸ばしたコール・コール・プロットが出ていた。理亜瑠は椅子を引いて座り、画面を見た。

 予想通り、低周波側に第三の寄与が出ていた。

 PEDOT:PSSのイオン輸送の時定数が、三・二ミリ秒とは別に、約〇・八秒という長い時定数を持っている。電子とイオンが界面を行き来するときの、遅い緩和だ。材料の内部が完全に落ち着くまで、一秒近くかかる。

 三つ目の時定数が出た瞬間、理亜瑠の中で何かが組み直された。

 八マイクロ秒、三・二ミリ秒、〇・八秒。

 速い、中くらい、遅い。三つの時間軸が、一つの積層構造の中に重なっている。

 ノートを開いた。三本の線を横に引いた。一番上は短く、二番目は中くらい、三番目は長く。MoS₂が走り終えたとき、PEDOT:PSSはまだ動いていて、HfO₂はその先でゆっくり収束していく。三つが重なる区間がある。そこで何が起きているのか。

 差分を取る。

 速い応答が終わった後も遅い応答が続いているということは、二つの出力の「差」が時間とともに変化する。その変化の形が、対数的な収束に似ている。

 eml(x, y) = exp(x) − ln(y)。

 指数が先に走って消え、対数が後から追いついてくる。差分が時間の関数として残る。

 計算させているのではない。材料が時間差で動いているだけで、出力に差分が自然に現れる。

 理亜瑠はしばらくノートを見ていた。

 頭の中で言葉にしようとしたが、うまくいかなかった。数式ではなく、もっと前の段階にある何かだった。計算するために回路を使うのではなく、回路の物理的なふるまいそのものを演算として読む、という考え方。

 その考え方に、名前がない。

 測定室のドアが開いた。九条だった。

「インピーダンスか」

「はい。時定数が三つ出ました」

 九条は画面を一瞥した。

「等価回路は」

「R-C三段。フィッティングは合っています」

 九条は少し間を置いた。

「それで何が言える」

「まだ言えません。ただ、時定数の分布が、EML関数の指数と対数の時間スケールに対応している可能性があります」

「可能性、ね」

 否定ではなかった。ただ、九条の言い方にはいつも一定の温度がなかった。感情が乗らず、事実と評価だけが出てくる。

「俺のシミュレーションは今週から本格的に回る。係数の最適解が出たら見せる。参考になるかもしれない」

「ありがとうございます」

「礼はいい。俺が見せたいのは、デジタルで解いた場合の精度と熱量だ。比較対象として持っておいてくれ」

 それだけ言って、九条は出ていった。

 理亜瑠は画面に向き直った。

 千コアが三日間、熱を出しながら係数を最適化する。その結果が出たとき、自分は何を持って並べるのか。時定数の測定値と、まだ言語化できていない考え方と、フィッティングの合ったグラフだけだ。

 それで足りるかどうか、まだ分からない。

 窓の外で、構内の樹が風に揺れた。葉の裏が白く翻った。

 理亜瑠はノートに書いた。

「九条のやり方:式を機械に解かせる。電力と時間で精度を買う」

 その下に、一行空けて書いた。

「僕のやり方:材料に式の形をさせる。電力を使わず、物理が勝手に解く」

 書いてから、「勝手に解く」という言い方が正確ではないと思った。解くのではない。解かなくていい状態にする、というほうが近い。

 消さずに、その横に括弧で書き足した。

「(解かなくていい状態にする)」

 装置が静かに動いていた。


第3節

 「計算させるから遅いんだ」という言葉が出てきたのは、深夜の測定室ではなく、昼間の食堂だった。

 九月の第三週。理亜瑠はトレーを持ったまま窓際の席に座り、うどんを半分食べたところで箸を置いた。

 頭の中で何かが引っかかっていた。

 朝から時定数の数字を眺めていた。八マイクロ秒、三・二ミリ秒、〇・八秒。三つの値をどう使うか、数式のレベルではまだ整理できていなかった。でも数式よりも前に、もっと根本的な問いが引っかかり続けていた。

 なぜ、計算するのか。

 九条のシミュレーションが回り始めてから三日が経っていた。千コアが係数を最適化している。プロセッサが式を受け取って、数値を代入して、演算して、出力する。それを何千万回と繰り返す。熱が出る。冷却が要る。電力が消える。それでも「答え」は数値として出てくる。

 理亜瑠が今やっていることは、何が違うのか。

 材料に電圧を加える。電子が動く。界面で何かが起きる。波形が出る。それを読む。

 プロセッサと材料の間に、本質的な違いはあるのか。どちらも物理現象だ。シリコンのゲートに電圧を加えて電流を制御するのと、MoS₂に電圧を加えて指数応答を得るのと、抽象的には同じに見える。

 でも違う、と思った。

 プロセッサは「式を受け取って解く」。材料は「式の形をしている」。

 うどんの汁が冷めていた。

 プロセッサに eml(x, y) = exp(x) − ln(y) を実行させるとき、プロセッサはその式を知らない。ただ命令に従って四則演算を積み重ねる。式の意味は、プログラムを書いた人間の側にある。

 一方で、MoS₂が指数応答を示すとき、材料は何も「知らない」が、電子の物理的な振る舞いがそのまま指数の形をしている。HfO₂が対数的に収束するとき、誘電体内の電荷緩和がそのまま対数の形をしている。式を「解いている」のではなく、物理過程が式と同じ形を持っている。

 だから速い。

 計算ステップがない。プロセッサのように「式を受け取って、演算して、出力する」という手順を踏まない。電圧を加えた瞬間に、電子がすでに答えの形で動き始める。

 計算させるから遅いんだ。

 言葉が出てきた瞬間、理亜瑠は箸を持ち直した。

 食堂の喧騒が少し遠くなった気がした。隣のテーブルで学部生が笑い声を上げていた。トレーの上のうどんはもう冷えていた。

 ノートを出した。余白に書いた。

「プロセッサ:式を受け取って解く→ステップ数分の時間がかかる」 「材料:式の形をしている→入力と同時に出力が始まる」

 書いてから、二行の間に矢印を引いた。矢印の横に書いた。

「これが、速さの正体?」

 正確かどうか、まだ分からなかった。熱力学的に厳密かどうかも分からない。サブスレッショルド電流の物理と本当に対応しているかどうかも、これから確認が要る。

 でも方向は合っている、と思った。

 問題は、これをどう実装するかだった。

 材料が式の形をしているだけでは回路にならない。MoS₂の指数応答とHfO₂の対数応答を、どう配置すれば eml(x, y) の出力として読み取れる形になるのか。時定数の差分を出力として取り出すためには、二つの応答が干渉せずにそれぞれ独立して動く必要がある。

 PEDOT:PSSがその間に挟まっている理由が、ここで初めて腑に落ちた。

 通訳だ、と思った。

 速い応答と遅い応答が直接ぶつかれば、界面で暴れる。その兆しは、もうこの段階で見えていた。だが間にPEDOT:PSSを挟めば、イオンと電子の界面緩和が緩衝材として働く。速い応答が終わりかけたときにも、PEDOT:PSSはまだ動いている。その残り方が、遅い応答への橋渡しになる。

 三つの時定数が別々の時間軸で動きながら、重なる区間でだけ互いに影響する。

 回路として配置する問題だ。材料の選定ではなく、時間軸の設計だ。

 食堂のざわめきが戻ってきた。うどんを一口食べた。完全に冷えていた。

 理亜瑠はノートの余白に最後の一行を書いた。

「回路を関数の形に配置する」

 その六文字を、少し見た。

 前代未聞かどうか、自分には判断できなかった。でも少なくとも、自分がこれまで読んだどの論文にも、この方向で設計を試みたものはなかった。

 トレーを返却口に持っていきながら、室生に話す言葉を探し始めた。

 「感想ではなく、測定値で話せ」。

 測定値はある。時定数は三つある。フィッティングも合っている。あとは、そこから何が言えるかを、測定値の言葉で語らなければならない。

 廊下に出ると、秋の光が床の一角だけを白く染めていた。


第4節

 室生への報告は、木曜の午後に設定されていた。

 理亜瑠は前日の夜、スライドを作ることを途中でやめた。図を並べて矢印を引いていくうちに、自分が何を伝えたいのかが図の中で溶けていく感覚があった。データは正しい。フィッティングも合っている。でも図にすると、何か大事なものが抜け落ちる。

 結局、ノートを一冊持っていくことにした。

 研究室のドアをノックすると、「入れ」という声がした。室生は窓を背にして座っていた。午後の光が逆光になって、表情が読みにくかった。

「測定値を持ってきました」

「聞こう」

 理亜瑠はノートを開いた。コール・コール・プロットの手書きのスケッチと、三つの時定数の値が書いてある。

「二層構造のインピーダンス分光を、〇・一ヘルツから十万ヘルツで取りました。等価回路をR-C三段でフィッティングすると、時定数が三つ出ました。MoS₂側が八マイクロ秒、PEDOT:PSS側が三・二ミリ秒と〇・八秒です」

 室生は眼鏡の奥で数字を見た。

「三段にした根拠は」

「二段では低周波側の寄与が残りました。〇・八秒の成分は、PEDOT:PSSのイオン輸送の緩やかな緩和だと考えています」

「フィッティング残差は」

「全帯域で二パーセント以内です」

 室生はしばらく黙った。ペンを指で回す癖が出た。それが考えているときの仕草だということを、理亜瑠は五月からの観察で知っていた。

「それで」

「時定数の比が約四百です。速い応答と遅い応答の間にPEDOT:PSSが挟まって、時間軸をずらしながら繋いでいます。この構造が、EML関数の指数と対数の時間スケールに対応している可能性があります」

「可能性、と言った」

「はい。まだ対応を直接示す測定値がありません」

「続けろ」

 理亜瑠は一度息を吸った。

「計算させるから遅い、と考えています」

 室生のペンが止まった。

「プロセッサはEML関数の式を受け取って、ステップごとに演算して出力します。九条さんのシミュレーションがその方式です。千コアを使って精度を出している。一方で、MoS₂が指数応答を示すのは、電子の物理的な振る舞いがそのまま指数の形をしているからです。材料が式を解いているのではなく、材料のふるまいが式と同じ形を持っている」

 室生は何も言わなかった。

「電圧を加えた瞬間に、電子はすでに答えの形で動き始めます。計算ステップがない。だから速い。三つの時定数をそれぞれ独立した時間軸で動かし、干渉させずに差分として出力を取り出せれば、EML関数を計算なしに物理的に実装できると考えています」

 沈黙が続いた。

 窓の外で風が鳴った。室生は眼鏡を外して、レンズを布で拭いた。それからかけ直して、理亜瑠を見た。

「真知。一つ聞く」

「はい」

「電子が角でぶつかって痛がっている、と言いたいのか」

 理亜瑠は一瞬、返答に詰まった。

 揶揇ではないと思った。でも肯定でもない。室生の言い方はいつも、どちらとも取れる形をしていた。

「……そう言われると、否定できません」

「否定しなくていい」

 室生はノートに視線を落とした。

「時定数の分離は測定値として出ている。フィッティングの残差も許容範囲だ。ここまでは事実だ」

「はい」

「その先、回路として配置するという話は、まだ設計図がない」

「ありません」

「では次に持ってくるものは何だ」

 理亜瑠は少し考えた。

「三層構造の試作です。MoS₂とHfO₂をPEDOT:PSSで挟んだ構成で、それぞれの時定数が独立して動くかどうかを確認します。独立して動けば、差分として出力を取り出す設計に進めます」

「いつ出来る」

「三週間ください」

「二週間で来い」

 それだけだった。

 室生は視線をデスクの書類に移した。報告の終わりを意味していた。

 理亜瑠はノートを閉じて立ち上がった。ドアに向かいかけて、背後から声がした。

「真知」

「はい」

「電子が角でぶつかって痛がる、という話を、測定値で語れるようになれ。比喩は入口だ。出口にするな」

 理亜瑠はドアの前で頭を下げた。

「分かりました」

 廊下に出ると、空調の音が戻ってきた。

 叱られたのか、認められたのか、今回も判断がつかなかった。ただ「二週間で来い」という言葉は、追い返されたのではないことを意味していた。

 エレベーターを待ちながら、「比喩は入口だ。出口にするな」という言葉を繰り返した。

 入口は持っている。出口は、まだない。

 扉が開いた。


第5節

 三層構造の試作が始まったのは、九月の第四週だった。

 クリーンルームの準備に半日かかった。MoS₂の薄膜を基板に成膜し、その上にPEDOT:PSSを塗布し、さらにHfO₂を積む。五月に二層でやったことを、もう一段増やす。手順は分かっている。でも三層になった途端に、界面が一つ増える。増えた界面がどう振る舞うか、やってみるまで分からなかった。

 最初の試作は、二日目の朝に崩れた。

 HfO₂の成膜温度が高すぎて、下のPEDOT:PSSが変性した。有機導電ポリマーは熱に弱い。それは知っていた。でも「どのくらい弱いか」を体で知るのと、数字で知るのは別だった。成膜温度を二百度から百五十度に下げた。焼結が不完全になるリスクがあったが、PEDOT:PSSを生かす方を選んだ。

 二回目は剥離した。

 HfO₂とPEDOT:PSSの密着性が問題だった。有機と無機の界面は元々相性が悪い。接着層として薄いTiO₂を挟む方法を論文で見た記憶があった。試した。三回目は剥離しなかった。

 室生の「二週間」は、こういう時間の使い方を前提にしているのだと思った。失敗を織り込んで、それでも二週間で持ってこいということだ。

 四回目の試作で、ようやく測定できる試料が手に入った。

 インピーダンス分光装置に試料をセットして、測定を始めたのは十月の第一週、水曜の午後だった。

 周波数スイープが終わるまで四十分かかる。理亜瑠は隣の作業台でノートを広げ、設計図の続きを書いていた。三層構造で時定数が分離できたとして、その差分をどう出力端子まで引き出すか。回路図と呼べるほど整っていない、線と括弧と数字の混在した図だった。

 アラームが鳴った。

 画面を見た。

 コール・コール・プロットが出ていた。歪んだ半円ではなく、今度は三つの弧が重なり合うような複雑な形をしていた。フィッティングを走らせた。R-C四段で試した。残差が大きかった。構成を変えた。三段に戻して、PEDOT:PSS側の素子を並列に分けた。

 残差が一・八パーセントになった。

 時定数が出た。

 MoS₂側:九マイクロ秒。HfO₂側:二・一秒。PEDOT:PSS側:四・七ミリ秒。

 二層のときと比べて、MoS₂の時定数はほぼ変わっていない。HfO₂が加わったことで遅い側の時定数が〇・八秒から二・一秒に伸びた。PEDOT:PSSは両者の間で、四・七ミリ秒という位置に収まっている。

 三つの時定数が、速い・中間・遅いの順に、きれいに桁を分けて並んでいた。

 理亜瑠はしばらく画面を見ていた。

 干渉していない。

 三層が積み重なっているのに、それぞれの時定数が独立して測定できた。PEDOT:PSSが間に入ることで、MoS₂の高速応答とHfO₂の緩慢な収束が互いに干渉せずに動いている。

 これが、分離だ。

 ノートを開いた。三つの数字を書いた。その下に書いた。

「独立して動いている。干渉していない」

 さらに下に書いた。

「差分を出力として取り出す設計に進める」

 書いてから、ペンを置いた。

 静かだった。装置の冷却ファンと、廊下の遠い足音だけがあった。

 理亜瑠は測定値をもう一度眺めた。九マイクロ秒と二・一秒の比は約二十三万だ。二層のときの四百倍とは桁が違う。HfO₂が加わることで、速い側と遅い側の時間スケールの差がここまで開く。差分として取り出したとき、その幅がそのまま演算のダイナミックレンジになる可能性がある。

 可能性、という言葉を使うたびに室生の顔が浮かんだ。

「比喩は入口だ。出口にするな」

 測定値は出た。時定数の分離は示せた。次に持っていくものは、差分を出力として取り出すための回路設計だ。測定値ではなく、設計だ。設計は図面で示すことができる。図面には数字と根拠が要る。

 理亜瑠はノートの新しいページを開いた。

 三本の横線を引いた。一番上を短く、二番目を中くらい、三番目を長く。それぞれの隣にラベルを書いた。MoS₂、PEDOT:PSS、HfO₂。三本の線が重なり合う区間に、斜線を入れた。その斜線の中に小さく書いた。

「ここが、演算の場所」

 回路図と呼べるものになるまで、まだ遠い。でも今日、起点が決まった。

 装置の電源を落として、試料を回収した。クリーンルームの退室記録に時刻を書いた。

 廊下に出ると、窓の外がすでに暗かった。十月に入って日が短くなった。

 エレベーターの中で、室生への報告の言葉を考えた。「時定数の分離が示せました」。それだけで伝わるかどうか分からない。でも今日持っているのはその一文だけだ。その一文の後ろに、測定値と図がある。

 一階に着いた。

 外に出ると夜気が冷たかった。キャンパスの灯りが地面にまばらに落ちていた。

 誰も信じていない。九条はデジタルで解いている。室生は「比喩を出口にするな」と言った。萌は病院にいる。

 それでいい、と思った。

 信じてもらうのは、設計図が出来てからだ。


読んでくださってありがとうございます。

「整いすぎた波形が『きれいな嘘』だったように、歪んだ半円は『醜い本当』なのかもしれない」——プロローグで言葉にならなかった違和感が、ここで初めて測定値として返ってきました。

「比喩は入口だ。出口にするな」という室生の言葉通り、理亜瑠は今日から設計図を描き始めます。誰も信じていない。それでいい。信じてもらうのは、設計図が出来てからだ。

第七章へ続きます。

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