第4章「馴染まないものたち」
第四章は大学院入学の四月から始まります。
理亜瑠はキャンパスのベンチで方眼ノートを開き、「電子」と「イオン」の間に橋を引かずにいます。速さを揃えようとするから何かが壊れる——その思考が、この物語の技術的核心へと向かう一歩です。
室生教授との初面談では、歓迎でも拒絶でもない「観察の目」が理亜瑠を待っています。
第1節
四月の初旬、桜が散り始めていた。
大学院の入学式は短かった。講堂に集まった新入生の顔を見渡しながら、理亜瑠はこの場所に自分が属しているのかどうかを、まだうまく判断できていなかった。隣の席の若い男が、学部卒業からそのまま進学してきたのだろうと思った。理亜瑠より五歳か六歳、下に見えた。白いシャツがきれいだった。
式が終わって、人が散り始めた。
理亜瑠はキャンパスの端にあるベンチに座り、ノートを開いた。大学のロゴが入ったハードカバーではなく、文具店で買った安い方眼ノートだった。この一年で三冊目になる。最初の一冊は専攻科の入学直後から使い始め、実習のメモや講義のスケッチで埋まっていた。二冊目はそれが溢れ出した後、透析装置の回路図の模写や、矢島の講義後に書いたPEDOT:PSSへの問いかけでいっぱいになった。三冊目は、今日から始まる。
風が吹いて、花びらが一枚、ページの上に落ちた。
理亜瑠は花びらを払い、ペンを持った。何を書くか決めていたわけではなかった。決めていないから開いた、という方が正確だった。頭の中に溜まったものを、書かないと自分で確認できない癖が、いつからかついていた。
最初に書いたのは、一本の横線だった。
左の端に「電子」と書き、右の端に「イオン」と書いた。二つの間には何も書かなかった。そこに橋を引かずにいた。引けないのではなく、まだどんな橋かを決めたくなかった。
電子は速い。方向を与えれば、整然と走る。回路の設計者が描いた通りに動く。それが強みで、弱みでもある。命令通りに走るから、命令に含まれていない揺れには気づかない。整えられた波形の中に、命令の外側にある微細な異常が隠れていても、電子はただ走り続ける。
イオンは遅い。体の中を流れる信号はイオンで出来ている。神経の興奮も、筋肉の収縮も、全部イオンが動く話だ。電子より何桁も遅く、拡散的で、ノイズと見分けがつきにくい。だからこそ、生体信号はあの複雑な形をしている。速さではなく、意味を持って動いている。
二つの間に橋を引くには、速さを合わせる必要はない。
そう書いてから、手が止まった。
速さを合わせるのではなく、速さの違いそのものを、仕組みに組み込む。無理に同期させようとするから、界面に無理が生まれる。それぞれの時間軸のまま、それぞれに動いていいなら。
理亜瑠はペンをいったん置いた。
思考が先に走り始めると、手が追いつかなくなる。それも昔からだった。工学部にいた頃、回路の設計課題でよく同じことが起きた。先に形が見える。見えた形を書き起こそうとすると、どこかで手が止まる。見えた形と、書ける形の間に、まだ埋まっていない何かがある。
蕾のまま書いてもいい、と今は思っていた。
蕾のまま手元に置いておくことを、以前は焦りとして感じていた。早く答えを出さなければ、早く正確な言葉にしなければ、という圧力が、専攻科を出るまで常にあった。国家試験がそれを求めていたし、実習の評価もそれを求めていた。正確に動かせるか、正確に答えられるか。だが、今手元にある問いは、まだ正確な形をしていない。形のないものを形に合わせて縮めると、大事なものが削れる。
あの波形のように。
142 bpm、という数字が浮かんだ。浮かんで、すぐに沈んだ。
いつもそうだった。油断しているときではなく、何かを真剣に考えているときに限って戻ってくる。整いすぎた波形。消えていた裾野。機械が正しく動いた結果として、真実が消えた夜。その夜から理亜瑠の問いは変わっていない。変わっていないということは、まだ解けていないということだ。
解けていない、でいい。
解けていないまま、室生研究室に入った。解けていないまま、ここに座っている。解けていないことが、次へ向かう理由になっている。
理亜瑠はノートの余白に、小さな絵を描いた。回路図ではなかった。三つの区画を横に並べて、左に「走る」、右に「覚える」、中央に「?」と書いた。中央に何が入るべきか、まだわからなかった。わからないから「?」のままにした。その「?」の隣に、括弧を開いて「PEDOT:PSS」と書いた。括弧を閉じなかった。まだ閉じるべきかどうか、決まっていなかった。
ベンチの背後で、人の話し声がした。
学部の学生が二人、笑いながら通り過ぎた。声が遠ざかってから、静かになった。桜の木がまた揺れて、白い花びらが数枚、散った。
理亜瑠はノートを閉じた。
閉じる前に、一行だけ書いた。速さを揃えるな、と書いた。揃えようとするから、何かが壊れる。
四月の空気は、まだ少し冷たかった。
第2節
四月の半ば、理亜瑠は図書館の地下に降りた。
室生研究室への正式な配属は五月からだった。指導教官との最初のミーティングまで、三週間ほど猶予がある。その時間を、理亜瑠は自分のために使うことにした。与えられた課題があるわけではなかった。誰かに命じられた調査でもなかった。ただ、頭の中に引っかかっているものを、手当たり次第に文献で確かめたかった。
地下書庫は薄暗かった。
蛍光灯が一本、わずかに点滅していた。棚の間の空気は冷えていて、紙と埃の匂いがした。電子ジャーナルでは見つからない古い紀要や、製本された学会論文集がここに眠っている。理亜瑠が探していたのは、一九八〇年代から九〇年代にかけてのアナログ演算回路に関する論文だった。
三時間かけて、七本を手元に引き出した。
席に持ち帰って、一本ずつ開いた。言語は英語と日本語が混在していた。古い論文の英語は読みにくかった。フォントが荒く、数式の印字が歪んでいた。だが、読んでいるうちに、奇妙な感覚が来た。
知っている、と思った。
知識として知っているのではない。この問いを、自分も持っていた。という感覚だった。
サブスレッショルド領域で動作するMOSトランジスタは、電流と電圧の関係が指数関数に従う。デジタル回路として使われるMOSトランジスタは、オンとオフの切り替えを速くするために閾値より上の電圧で動かす。その領域ではべき乗の近似式が使われる。指数関数から離れた動き方をする。だが、閾値より下の弱反転領域では、素子が本来持っている指数関数の性質がそのまま現れる。
半導体の素の言葉は、指数関数だった。
理亜瑠は論文から目を上げた。
天井の低い閲覧室に、他に人はいなかった。蛍光灯の光が白く、机の上の紙を照らしていた。
EML関数の定義を、頭の中で反芻した。
eml(x, y) = exp(x) − ln(y)。指数関数と対数関数の差。世界中の数学者がその論文を「計算の簡略化」として読んでいると知ったとき、理亜瑠には少し違う景色が見えていた。指数と対数が一つの式の中に並んでいる。走る力と、なだめる力が、同じ枠の中に収まっている。
半導体が本来持っている言葉と、EML関数の構造が、同じ文法を使っていた。
材料に演算をさせる、という発想は、ここから来ていた。回路に計算させるのではなく、材料が本来持っている物理的な振る舞いそのものを、関数の形として使う。変換ステップを踏まない。指数関数として動く素材を、指数関数が必要な場所に置く。対数として応答する素材を、対数が必要な場所に置く。素材の性格と、関数の役割を、最初から一致させる。
問いが形になりかけた。
理亜瑠はノートを開いた。前回の続きのページだった。三つの区画を横に並べた絵があった。「走る」と「覚える」の間に「?」と書いて、括弧の中にPEDOT:PSSと書いたまま閉じていないやつだ。
その隣に書き足した。
MoS₂は走る。急峻な立ち上がりを持つ超薄膜、指数関数的な電流応答を示す素材。これを「走る」の区画に置く。HfO₂は覚える。強誘電性を持ち、履歴を記憶し、緩やかに収束する。これを「覚える」の区画に置く。
中央の「?」の区画は、まだ空いていた。
MoS₂の急峻さとHfO₂の粘りは、時間軸が違う。速いものと遅いものを直接接触させると、界面で何が起きるか。速い側は行きたい方向へ走ろうとし、遅い側はまだ動けていない。その差がストレスになる。ストレスは熱になるか、ノイズになるか、最悪の場合は素子の劣化になる。
ここに、通訳が要る。
PEDOT:PSSは電子とイオンの両方を通す。電子系のMoS₂とも話せ、緩やかなHfO₂とも対話できる。速いものと遅いものの間に立って、それぞれの言語を受け取りながら、押しつけずに渡す。
理亜瑠はペンを止めた。
まだ足りないものがあった。
通訳を置くだけでは、速さの違いは解消されない。通訳も結局、どちらかの速さに合わせなければならない。速い側に合わせれば遅い側が追いつけず、遅い側に合わせれば速い側が詰まる。どちらかが待つか、どちらかが諦めるか。その二択では、何かが削れる。
削れるものの中に、大事なものがある。
その一文を、理亜瑠は自分で書いたはずなのに、別の場所で読んだような感覚で見た。何度書いても、初めて書いた気がする言葉がある。それはたぶん、自分の骨になっている言葉だ。
合わせるのではなく、ずらしたまま動かす。
それぞれが自分の時間軸で働いていい。速いものは速く走り、遅いものは遅く覚え、その間をPEDOT:PSSが緩衝する。同期を求めない。同期しなくても全体として一つの演算になるような構造を作る。
書き終えて、理亜瑠はしばらくノートを見ていた。
まだ式はなかった。材料の具体的な組成も、膜厚も、接合の方法も、何も書いていなかった。室生が見たら「感想ではなく測定値で話せ」と言うだろうと思った。それはわかっていた。測定値はこれから出す。だが今は、感想でも輪郭が必要だった。輪郭のないまま測定値を集めても、何を測っているのかわからなくなる。
地下書庫の蛍光灯が、また一度、点滅した。
理亜瑠は立ち上がり、棚に本を戻した。一本だけ手元に残した。一九九二年のアナログ演算回路の論文だった。著者名はもう覚えていなかった。ただ、その中の一節が引っかかっていた。正確に引用できなかったが、意味だけは残っていた。——材料は、設計者が期待した以上のことを知っている。問題は、それを聞く方法を持っているかどうかだ。
階段を上がると、午後の光が窓から入っていた。
外は風が出ていた。キャンパスの桜はもうほとんど散っていて、若い緑が出始めていた。理亜瑠は窓の外を少し見て、それから歩き始めた。
第3節
四月の終わり、理亜瑠はアパートの机に向かっていた。
夜の十一時を過ぎていた。窓の外は静かで、遠くを走る車の音が、途切れ途切れに聞こえた。机の上には方眼ノートと、図書館から借りてきた論文のコピーが重なっていた。蛍光灯の光が白く、紙の上に落ちていた。
手は止まっていた。
止まっている理由は、行き詰まったからではなかった。考えが速くなりすぎて、書く手がついていかなくなる時と、別の種類の止まり方がある。今夜は後者だった。何かが引っかかっていた。引っかかりの正体を確かめないうちに、先へ進めなかった。
ノートの三つの区画を見た。
「走る」「?」「覚える」。中央の括弧の中にPEDOT:PSSと書いてある。その隣に「ずらしたまま動かす」と書いた言葉がある。図書館で書いた言葉だ。書いた時は手応えがあった。だが今夜、同じ言葉を見ていると、何かが足りない気がした。
足りないのは、理由だった。
なぜ、ずらしたままで動くのか。速さの違う三つの材料が、それぞれ自分の時間軸で動いて、なぜ全体として一つの演算になるのか。通訳がいる、という直感はある。直感の前に、なぜ通訳が要るのかという説明がある。だがその先、通訳を置いたとして、なぜそれで演算になるのか、という問いに、まだ答えを持っていなかった。
理亜瑠はペンを置いて、椅子の背にもたれた。
天井を見た。染みが一つあった。引っ越してきた日から気になっていたが、慣れた。
胎児心電図の夜のことを、今夜は自分から思い出した。
避けていたわけではない。だが、積極的に引き出す習慣もなかった。ただ、今夜は必要な気がした。あの夜に何が起きていたのかを、今の自分の言葉で、もう一度整理してみたかった。
モニターは「142 bpm」を表示していた。
数値は正常域だった。波形は整っていた。整っていた、というより、整えられていた。デジタルフィルタが、ノイズとみなした成分を削っていた。削られた成分の中に、再分極異常の尾があった。終末部のわずかな乱れ。QT延長に似た、だがQT延長とは断言できない微細な逸脱。フィルタはそれをノイズと判断した。ノイズとして削った。残った波形は、きれいだった。
きれいだったから、見逃した。
見逃したのは理亜瑠だけではなかった。佐竹も田中も、モニターを見ていた。全員が見逃した。全員を見逃させたのは、機械だった。機械は故障していなかった。設計通りに動いていた。設計通りに動いた結果として、真実が消えた。
そこまで考えて、止まった。
いつもここで止まる。怒りなのか悔しさなのか判断できないまま、何かが喉の奥に詰まる。飲み込もうとしても飲み込めない。吐き出そうとしても言葉にならない。ただ、詰まったまま、そこにある。
理亜瑠は深く息を吸った。
あの夜に必要だったのは、何だったか。
速い機械ではなかった。より高精度なフィルタでもなかった。フィルタの性能を上げれば、別の何かが削れる。削る対象が変わるだけで、削るという構造は変わらない。必要だったのは、削らない機械だった。削ることなく、信号の全体を受け取れる機械。ノイズとシグナルを分類する前に、まず全部を保持できる構造。
保持する、ということは、覚える、ということだ。
HfO₂が覚える、と書いた時、その「覚える」は履歴依存の電気特性の話として書いていた。だが今夜、別の意味で重なった。覚えるとは、削らない、ということだ。入力を受け取って、その形を保持する。速さに合わせて丸めない。遅さに合わせて引き延ばさない。来た形のまま、持っている。
MoS₂が走る間、HfO₂は来たものを覚えている。
走った結果と、覚えた結果が、PEDOT:PSSの上で出会う。出会った時、二つの時間軸の差分が残る。その差分が、情報だ。
理亜瑠は前のめりになった。
差分。速く走ったものと、ゆっくり覚えたものの間に生まれる差分。それは通常の回路設計では、誤差として処理される。同期のずれ、タイミングの乱れ、除去すべきノイズ。だが、EML関数の構造で言えば、exp(x)とln(y)の差そのものが演算の出力だ。速い側と遅い側の差を、演算として使う。
消すのではなく、使う。
ノイズとして除去するのではなく、演算の素材として扱う。あの夜のフィルタが削ったものを、回路が削らずに抱き込む。抱き込んだ上で、それを出力の一部にする。
理亜瑠は手が震えそうになるのを感じた。震える前に、ペンを持った。
書いた。速い動きと遅い動きの差を演算出力とする構造。この時定数の違いをノイズではなく、EML挙動の物理的実装として位置づける。PEDOT:PSSはその差を壊さず、形を保ったまま渡す通訳になる。
書き終えて、手を止めた。
まだ式はなかった。検証もなかった。室生に見せられる形ではなかった。だが輪郭は、今夜初めて、閉じた。三つの区画がどうつながるかが、言葉として書けた。
中央の括弧を閉じた。PEDOT:PSS、と書いた後ろに「)」を入れた。
それだけのことが、少し重かった。
窓の外で、風が一度吹いた。カーテンの端が揺れた。遠くの車の音が、また一度聞こえて、消えた。
机の上の時計は、日付が変わるところだった。
理亜瑠はノートを閉じた。閉じる前に、ページの端に小さく書いた。あの日必要だったのは、削らない機械だった、と。
消すために書いたのか、残すために書いたのか、自分でもわからなかった。ただ、書かないと眠れない気がした。
第4節
五月の第一週、理亜瑠は大学の購買でコーヒーを買って、中庭のベンチに座った。
午前の講義が終わった後の時間だった。空は晴れていて、風が木の葉を揺らしていた。新緑の匂いがした。五月の空気は四月より少し重く、湿度が上がり始めていた。
ノートを開いた。
昨夜書いたページだった。三つの区画と、閉じた括弧と、あの日必要だったのは削らない機械だった、という一行。朝の光の中で読むと、夜に書いた言葉とは少し違って見えた。違って見えるのは、言葉が変わったからではなく、自分の目が変わっているからだと思った。
同じ言葉が、角度によって違う顔をする。
電子の話で言えば、同じ信号でも、どの時点で測るかによって値が変わる。フィルタを通した後と通す前では、同じ波形でも違う数字が出る。通す前の方が正確か、と言えばそうではない。何を見たいかによって、どこで測るべきかが変わる。
何を見たいか、という問いが、いつも最初に来る。
室生研究室との正式な顔合わせは、来週に控えていた。研究テーマの擦り合わせと、当面の課題の確認がある。理亜瑠は自分が持ち込む問いを、もう少し整理しておく必要があった。整理する、というのは、削ることではない。輪郭を確かめることだ。
ノートの余白に書いた。
界面翻訳層、と。
以前から使っていた言葉だったが、今日初めて、それを独立した概念として書いた。接着層ではない。緩衝層でもない。翻訳層。速さの違う二つの材料の間に置いて、どちらかの速さに合わせるのではなく、それぞれの言語を受け取り、差分を壊さずに渡す層。PEDOT:PSSはその候補だが、翻訳層という役割が先にあって、PEDOT:PSSはその役割に最も近い材料として選ばれる、という順番が正しい。
役割が先で、材料が後。
それは当然のことのように見えるが、実際の設計では逆になりやすい。使える材料から出発して、その材料で何ができるかを考える。材料ありきの設計は、材料の限界が設計の限界になる。理亜瑠がやりたいのは逆だった。こういう振る舞いが必要だ、という要件を先に立てて、その要件に応える材料を探す。要件を満たす材料がまだ存在しないなら、組み合わせで作る。
組み合わせで作る、というのが、三材料の発想の根にあった。
MoS₂単体では、速さはあるが記憶がない。HfO₂単体では、記憶はあるが速さがない。PEDOT:PSS単体では、柔軟性はあるが演算の核にはなれない。三つを並べると、それぞれの欠点を別の材料が補う構造になる。補う、という言い方も正確ではない。それぞれが自分の得意な時間軸で動いて、その動きの組み合わせ全体が、EML関数の挙動を物理的に再現する。
計算するのではなく、なる。
EML関数に、なる。
理亜瑠はその二行を書いて、少し止まった。
なる、という言葉は、比喩として書いたのか、それとも本当にそう思っているのか。どちらかと聞かれれば、両方だと答えるしかなかった。比喩として使えるくらい、本当だと思っている。本当だと思えるくらい、比喩として体に馴染んでいる。
萌が以前、言ったことがあった。
先輩の言い方って、説明なのか詩なのかわからない時がある、と。馬鹿にした言い方ではなかった。どちらでもある、という意味で言っていた。理亜瑠はその時、上手く返せなかった。今なら少し答えられる気がした。どちらでもある、というのが正確なのかもしれない。詩として感じたことが本当なら、それは説明になる。説明として正確であれば、それは詩でもある。
室生はたぶん、詩の部分を嫌う。
測定値で話せ、と言う人だ。比喩を持ち込めば「感想か」と切り返す。それはわかっていた。だから、来週までに詩を式に変える準備が要る。式に変えるというのは、詩を捨てることではない。詩の輪郭を、式という言語に翻訳すること。翻訳層が材料の界面に必要なように、自分の思考と室生の言語の間にも、翻訳が必要だった。
中庭に、他の院生が二人歩いてきた。
話しながら通り過ぎた。聞き取れる声ではなかった。片方がノートパソコンを抱えていた。
理亜瑠はコーヒーを一口飲んだ。もうぬるくなっていた。
ノートに戻って、界面翻訳層の下に三行書き足した。要件の列挙だった。速い応答を保持できること。遅い応答を歪めないこと。その差分を出力として渡せること。三行書いて、その下に括弧で補った。これが翻訳層に求める仕様だ、と。仕様という言葉を使ったのは、意識的だった。工学の言葉で書けば、室生にも渡せる。
翻訳層に仕様を与えた。
仕様に応える材料の候補はある。検証の方法は、まだこれから考える。だが今日書けたことは、昨日書けなかったことだ。昨日は差分を使うという発想が来た。今日は、その差分を渡す層に、役割として名前をつけた。
輪郭が、一段、狭まった。
狭まるたびに、中心に近づいている気がする。中心が何かはまだわからない。だが近づいていることは、なんとなくわかる。それが根拠のない直感なのか、工学的な感覚なのか、理亜瑠には区別がつかなかった。区別しなくていい、と今は思っていた。
コーヒーを飲み切って、カップを握ったまま空を見た。
五月の青だった。
雲が一つ、ゆっくり動いていた。形を変えながら、それでも全体として一つの塊として動いていた。速い部分と遅い部分が混在しながら、崩れずにいた。
理亜瑠はしばらくそれを見ていた。
比喩を探していたわけではなかった。ただ、見ていた。
第5節
五月の第二週、月曜日の朝だった。
室生研究室は工学部棟の四階にあった。エレベーターを使わずに階段を上がると、踊り場の窓から中庭が見えた。木々の緑が朝の光を受けていた。理亜瑠は踊り場で一度立ち止まり、ノートの表紙を確認した。三冊目の方眼ノート。四月から書き続けてきたやつだ。持ち物はそれだけだった。
四階の廊下は静かだった。
ドアに「室生研究室」と書かれたプレートがあった。ノックして、返事を待った。
「どうぞ」という声がした。
中に入ると、室生は机の前にいた。白衣ではなく、くたびれたジャケットを着ていた。面接の時と同じジャケットだった。机の上に論文の束とコーヒーのカップがあった。それも同じだった。部屋の奥に実験台があり、測定器が並んでいた。窓際の棚に、見たことのない素材の小片がいくつか並んでいた。金属光沢のあるもの、黒いもの、半透明のフィルム状のもの。
室生は理亜瑠を見た。眼鏡の奥の目が、面接の時と変わらず鋭かった。
「座れ」
椅子を示された。理亜瑠は座った。
「研究計画を持ってきたか」
「まだ計画の形ではありません」と理亜瑠は答えた。「ただ、問いは持ってきました」
室生が少し間を置いた。「聞こう」
理亜瑠はノートを開かなかった。
「三つの材料を、異なる時間軸で動かしたいと思っています。MoS₂、HfO₂、PEDOT:PSS。それぞれを同期させるのではなく、速さの違いを保ったまま統合する。時定数の差分を、演算の出力として使う構造です」
室生は何も言わなかった。
「EML関数の物理的な実装として位置づけています。指数と対数の差を演算に使うEMLの構造と、速い応答と遅い応答の差分を出力にする三材料の構造が、対応していると考えています」
室生がペンを一度、机の上で立てた。
「根拠は」
「まだ実験的な根拠はありません。材料それぞれの特性と、EML関数の数学的構造からの類推です」
「類推は根拠ではない」
「はい」と理亜瑠は言った。「だから、根拠を作りに来ました」
室生がまた黙った。長い沈黙だった。面接の時も同じ沈黙があった。その沈黙が苛立ちを意味するのか、思考を意味するのか、まだ理亜瑠には読めなかった。
窓から光が入っていた。棚の素材の小片が、角度によって光を反射した。
「PEDOT:PSSの導電率は知っているか」
「五千から六千ジーメンス毎センチメートルの報告があります」
「界面抵抗の測定方法は」
「インピーダンス分光法を考えています。周波数を変えながら測れば、速い応答と遅い応答を分離できる」
室生が初めて、わずかに表情を動かした。眉が少し上がった。上がって、すぐに戻った。
「その分離に、EMLを使うと言いたいのか」
「測定の分析にではなく、回路の実装に、です。インピーダンス分光で得た時定数の分布を、材料の配置設計に反映させたい」
「材料の配置」
「MoS₂とHfO₂の間にPEDOT:PSSを置く構造は、物理的な接合の話であると同時に、時間軸の設計の話でもあると思っています。どの材料をどの時定数で動かすかを、先に設計してから配置を決める」
室生はペンを置いた。
しばらく理亜瑠を見ていた。視線に温度がなかった。歓迎でも拒絶でもない、観察の目だった。
「面白いとは言わない」と室生は言った。「だが、間違ってもいない方向を向いている」
理亜瑠は何も言わなかった。
「当面の課題を出す。PEDOT:PSSの薄膜作製と基本的な電気特性の測定。それができてから次の話をする。材料を手で触ったことがない人間が、配置を語るな」
「わかりました」
「クリーンルームの使い方は来週研修がある。それまでに安全規則を読んでおけ。以上だ」
室生は論文の束に視線を戻した。
話が終わった、ということだった。理亜瑠は立ち上がり、ノートを持った。ドアへ向かいながら、一度だけ振り返った。室生は既に理亜瑠を見ていなかった。論文のページをめくっていた。
廊下に出た。
ドアが閉まる音がした。静かだった。
理亜瑠は廊下をゆっくり歩いた。踊り場まで来て、窓の外を見た。中庭の木々がまだ朝の光の中にあった。
間違ってもいない方向を向いている。
それが室生の言葉だった。褒め言葉ではなかった。激励でもなかった。ただ、方向が間違っていないと言った。それで十分だった。
ノートを開いた。
三つの区画の絵があるページだった。「走る」「PEDOT:PSS」「覚える」。閉じた括弧。あの日必要だったのは削らない機械だった、という一行。界面翻訳層という言葉。翻訳層の仕様として書いた三行。
その下に、今日の日付を書いた。
それから一行書き足した。材料を手で触ってから、続きを書く、と。
階段を下りた。
一階のロビーに出ると、外からの光が入っていた。五月の朝の光は、白くて少し柔らかかった。
理亜瑠はそのまま外へ出た。
次にノートを開く時、手には材料の感触が残っているはずだった。
読んでくださってありがとうございます。
「間違ってもいない方向を向いている」——室生教授のこの言葉は、褒め言葉でも激励でもありません。ただ、方向が間違っていないと言った。それで十分だった、という理亜瑠の受け取り方が、この人物の誠実さを示していると思っています。
「材料を手で触ってから、続きを書く」——次の章で、理亜瑠は初めてPEDOT:PSSに触れます。
第五章へ続きます。




