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第3章 もう一つの白衣

第三章は、理亜瑠がCE専攻科に入学する四月から始まります。

工学部で叩き込まれた電子の知識と、病院の現場で染み込んだ生体の言葉が、初めて繋がる場所です。血液透析装置の基板、デジタル回路の宿命的な発熱——その観察の中から、理亜瑠の問いが技術的な輪郭を持ち始めます。

同期の竹村との出会いも、この章から始まります。

第1節

 四月の朝は、工学部の匂いがした。

 廊下を歩いた最初の五歩で、理亜瑠はそれに気づいた。半田ごての焦げた残り香ではない。もっと薄い、金属と樹脂が混ざり合ったような、空気そのものの質感だった。大学の工学棟で毎日嗅いでいた匂いと、正確には違う。だが、近い。似ている。久しく忘れていた何かを、鼻腔が静かに思い出した。

 臨床工学技士専攻科の校舎は、大きくはなかった。

 医療系の短期大学に併設された一年課程で、定員は三十名ほど。廊下の突き当たりに実習室があり、片側に教員室、反対側に講義室が並ぶ。建物自体は古いが、実習室の扉の向こうから、機器の作動音がかすかに聞こえていた。透析装置か、人工心肺装置の一部か。稼働している音だった。

 入学式は午前中で終わった。

 同期は二十九名。社会人経験者が多く、理亜瑠のように別の医療職からの転入組も何人かいた。看護師から来た者、診療放射線技師から来た者、理亜瑠のように臨床検査技師から来た者。それぞれが別の現場を経てここにいた。新卒で入った者の顔には、期待と緊張が混ざっていた。社会人組の顔には、別の何かが混ざっていた。理亜瑠にはそれが、解決できないまま持ち越してきた問いの重さに見えた。

 午後から、最初のオリエンテーションが始まった。

 担当教員が黒板に、「生命維持管理装置」という言葉を書いた。

 「皆さんがこれから扱う装置の総称です。人工心肺、補助循環、血液透析、人工呼吸器。これらの装置は、人の体が一時的にできなくなった機能を、機械が代わりに担う」

 理亜瑠はその言葉を、メモせずに聞いた。

 代わりに担う。

 工学部にいた頃は、装置は計算する道具か、動作を実行する機械だった。入力があり、処理があり、出力がある。そこに生命は介在しなかった。少なくとも、直接的には。だが臨床検査技師として病院に入り、波形を読み始めてから、機械と体の間に生まれる何かを意識するようになっていた。装置が出力するデータは、体が発した言葉の翻訳だった。翻訳には必ず、誤差と省略が伴う。

 ここで学ぶのは、その翻訳者の内部だ、と理亜瑠は思った。

 翻訳者がどういう構造を持ち、どこで何を選び、何を切り捨てているのか。波形の外側からではなく、回路の中から見る。それがこの一年でできることだった。

 オリエンテーションが終わり、廊下に出ると、隣に座っていた男が声をかけてきた。

 「真知さん、でしたっけ」

 三十前後に見える。体格がよく、声が低かった。自己紹介によると、救急救命士として五年働いてからここに来たという。「現場でCEが動かしてる機械の中を知りたくなった」と言った。理由の言い方が、理亜瑠と少し似ていた。

 「検査技師から来たんですよね」と彼は言った。「珍しいですね」

 「遠回りだって言われました」

 「俺もです」と彼は笑った。竹村という名前だった。

 実習室の扉が開き、機器の音が廊下に漏れた。金属の固い音と、液体が循環する低い音が混ざっていた。理亜瑠はその方向を向いた。音の奥に、見たことのない回路がある。工学部で叩き込まれた電子の流れと、病院の現場で体に染み込んだ生体の言葉が、その扉の向こうで初めて繋がる予感がした。

 予感は、根拠のある感触だった。

 「まず覗いてみませんか」と竹村が言った。

 「そうしましょう」と、理亜瑠は答えた。

 二人で実習室の扉に向かった。廊下の蛍光灯が、白く、均一に、床を照らしていた。


第2節

 実習が始まったのは、四月の第二週だった。

 最初に置かれたのは、血液透析装置だった。

 実習室の中央に、二台が向かい合わせで並んでいた。臨床で使われているものと同型の機器で、外装は白とグレーの落ち着いた配色をしている。正面にはタッチパネルのモニターがあり、側面から透明なチューブが伸びている。病院の透析室で何度か見たことがあった。だがその時は、波形の記録や患者の観察が目的で、装置そのものの中を意識したことはなかった。

 担当教員の村田が、装置の前に立った。

 「外側から見ると、これは何をしている機械に見えますか」

 誰かが「血液を浄化する」と答えた。

 「正しい。では、どうやって」

 沈黙があった。理亜瑠は答えを持っていたが、黙っていた。他の誰かが答えるのを待った。前の列に座っていた看護師出身の女性が「半透膜を使って、血液とダイアライザー液を隔てて、老廃物を移動させる」と言った。村田がうなずいた。

 「そう。浸透圧と拡散の原理です。シンプルに言えば、濃度の差を利用して、要らないものを移動させる。では、この装置の中で、その原理を支えているのは何でしょう」

 村田が装置の側面パネルを外した。

 内部が現れた。

 理亜瑠は、思わず前のめりになった。

 チューブが走っていた。複数の径が異なるチューブが、整然と、しかし密度高く配線されていた。ポンプが二基、血液回路と補液回路をそれぞれ駆動している。センサーが随所に挟まれていた。圧力センサー、気泡検出センサー、温度センサー。それぞれが、回路の中の状態をリアルタイムで測定し、制御回路へ信号を送り続けている。

 「これだけのセンサーが、何を監視しているかわかりますか」

 村田が続けた。圧力センサーは血液回路の詰まりと破れを検知する。気泡検出センサーは空気が血液回路に入ることを防ぐ。温度センサーは透析液の温度が体温と大きく乖離しないよう管理する。それぞれが独立して動きながら、互いの情報を統合して、装置全体の安全を維持している。

 どこかで何かが外れれば、アラームが鳴る。

 どこかで何かが詰まれば、ポンプが止まる。

 装置は、患者の体の状態を直接知ることができない。センサーが測れる範囲の情報から、間接的に推測している。そのことを、村田は最後に言った。

 「この装置は、患者を見ていない。回路の中を見ている。回路が教えてくれることから、患者の状態を判断している。そこに、臨床工学技士の仕事がある。装置が見ていない場所を、人間が見る」

 理亜瑠はその言葉をメモした。

 装置が見ていない場所を、人間が見る。

 検査技師として波形を読んでいた頃も、同じことを体で知っていた。モニターが示す数字の外側に、モニターが拾えない何かがある。あの夜の、百四十二という数字の向こうに、削られた裾野があった。装置は見ていなかった。人間も、見られなかった。

 では、装置が見られるようにするには、どうすればいいのか。

 その問いは、今に始まったものではなかった。だが、装置の内部を初めて正面から見た今日、その問いが少し輪郭を持った気がした。回路の設計が変われば、センサーの配置が変われば、見える範囲が変わる。見える範囲が変われば、届けられる情報が変わる。

 翌週は人工心肺装置だった。

 透析装置より大きく、回路の複雑さが格段に上がった。心臓と肺の機能を同時に代替する装置で、心臓手術中に体外で血液を循環させ、酸素を供給し続ける。内部には遠心ポンプ、人工肺、熱交換器、気泡除去フィルタが組み込まれており、それらが一つの連続した体外循環回路を形成していた。

 理亜瑠は実習中、ほとんど喋らなかった。

 喋る必要がなかった。見ることで手一杯だった。回路を指でなぞりながら、血液の流れる方向と圧力の変化を頭の中で追った。工学部で習った流体力学の基礎が、ここで初めて体を持った。数式の中だけにあった「流量」と「圧力損失」が、目の前のチューブとポンプに姿を変えて存在していた。

 「真知さん、そこに触っていいですよ」と村田が言った。

 遠心ポンプのハウジングを手で包んだ。稼働中ではないが、構造を確かめるように、指先で輪郭をなぞった。硬い樹脂の筐体の中に、羽根車が収まっている。電磁力で非接触に駆動され、血液への機械的ストレスを最小限にする設計だった。

 硬いもので、やわらかいものを動かす。

 その矛盾を、設計が吸収している。

 理亜瑠はポンプから手を離し、接続部を見た。ポンプとチューブの継ぎ目、チューブと人工肺の継ぎ目。材質が変わる場所、硬さが変わる場所。そういう場所に、理亜瑠の目はいつも引き寄せられた。界面だ、と思った。異なるものが接触する場所。そこに、ストレスが集中する。そこに、見えない問題が生まれる。

 竹村が隣に来た。「顔が怖いですよ」と小声で言った。

 「考えてた」

 「何を」

 「繋ぎ目のことを」と理亜瑠は言った。「硬いものとやわらかいものをつなぐ時、その境目で何が起きてるのか」

 竹村が継ぎ目を見た。しばらく考えてから、「そんなこと考えたことなかったです」と言った。「現場では、外れなければいいって感じで」

 「外れない、だけでいいのかな」と理亜瑠は言った。「外れなくても、ここで何かが変わってるかもしれない。信号が、流れが、圧力が」

 竹村は少し黙った。

 「真知さんって、検査技師だったんですよね」

 「そう」

 「なんか、設計者みたいな目してますよ」

 理亜瑠は答えなかった。設計者、という言葉が、思ったより胸の奥に落ちた。自分がそう見えているとは思っていなかった。だが、否定もできなかった。

 実習室の窓から、午後の光が差し込んでいた。装置の金属部分が、その光を鈍く反射していた。チューブの透明な壁越しに、何も流れていない回路が見えた。今は空だった。だが、これが実際に使われる時、ここに誰かの血液が流れる。誰かの心臓の代わりに、この回路が動く。

 そのことの重さが、今日初めて、実感として体に届いた。

 重さを感じることは、恐れではなかった。むしろその逆だった。重さがわかったから、ここに来た意味がある。回路の内側を知らなければ、設計の限界を知ることはできない。限界を知らなければ、越えることもできない。

 村田が「今日はここまで」と言った。

 実習室に片付けの音が広がった。理亜瑠は最後まで装置の前にいた。継ぎ目を、もう一度だけ見た。

 異なるものが接触する場所に、答えがある気がした。

 まだ形にはなっていなかった。だが、確かにそこにあった。


第3節

 五月の連休が明けた週、実習室に新しい機器が運び込まれた。

 人工呼吸器だった。

 透析装置や人工心肺と並べると、ひとまわり小さい。だが制御基板の密度は、これまで見てきた装置の中で最も高かった。村田が内部パネルを外すと、基板が幾重にも積層されていた。ICチップが整然と並び、コンデンサとレジスタが隙間を埋めていた。回路パターンが細かく、工学部の実験で触れてきた基板より遥かに複雑だった。

 「この装置の心臓部です」と村田が言った。「呼吸のタイミング、換気量、吸気圧、PEEP。全部ここで計算して、指令を出している」

 理亜瑠は基板を見た。

 懐かしかった。工学部の実習室で何度も触れた、あの質感だった。半田付けの痕、チップの黒い筐体、基板の緑。電子が走る道が、目に見えない形でそこに刻まれている。この回路を設計した人間が、どんな順序で考えたのかを、パターンの走り方から想像しようとした。

 実習の後半、装置を起動して動作確認をする時間があった。

 肺モデルと呼ばれる試験用の疑似肺に接続し、換気の動作を確認する手順だった。設定を入力し、スイッチを入れると、装置が静かに動き始めた。吸気と呼気が繰り返され、圧力波形がモニターに現れた。波形は安定していた。設定通りの換気量が、設定通りのタイミングで届いていた。

 問題はその三十分後に起きた。

 モニターの右上に、小さなアイコンが点滅した。エラー表示だった。換気は継続しているが、制御系の一部で演算遅延が発生していると、ログに記録されていた。

 村田が画面を確認した。

 「熱です」と村田は言った。「制御基板の温度が設定閾値を超えかけている。演算負荷が上がったタイミングで、処理が一瞬追いつかなくなる」

 「換気は止まらないんですか」と、後ろの席から竹村が聞いた。

 「この機種は冗長系があるので、メイン系が遅延しても補助系が引き継ぐ。だから患者への影響は出ない。ただ、ログには残る」

 「熱が出るのは、なぜですか」と理亜瑠は聞いた。

 村田が理亜瑠の方を見た。

 「計算するからです。デジタル回路は、全ての演算を二進数に変換して処理する。どんな単純な値でも、一度ゼロとイチに落とし直してから計算する。その変換と処理のステップが、熱を生む」

 「変換するたびに、熱が出る」

 「そう。演算の回数が増えるほど、発熱も増える。高負荷時に冷却が追いつかなければ、処理が遅れる。遅れが重なれば、最悪の場合は停止する」

 理亜瑠は基板を見た。

 チップの表面に、冷却用のヒートシンクが取り付けられていた。金属の薄い板が何枚も並んだ構造で、熱を空気に逃がすための部品だった。これだけの仕組みを用意しても、熱は完全には逃げない。演算が増えるほど、熱は増える。熱が増えるほど、処理が鈍る。

 速くしようとするほど、熱が出る。

 熱が出るほど、遅くなる。

 その矛盾が、デジタル計算の根っこにあった。

 理亜瑠は以前、病院に入った新型心電計のことを思い出した。処理速度が三倍速くなった、と担当者が言っていた。速くなったということは、演算量が増えたということだ。演算量が増えれば、熱も増える。熱が増えれば、冷却のコストが増える。どこかで限界が来る。その限界は、今この実習室の基板の上で、静かに点滅するエラーアイコンとして現れていた。

 「デジタル計算って、全部これが前提なんですね」と理亜瑠は言った。独り言に近かった。

 村田が聞こえたらしく、「何が前提ですか」と返した。

 「変換して、処理して、熱を出す。その繰り返しが前提にある」

 「そうですね。デジタル回路の宿命みたいなものです」

 「変換しなければ、熱は出ないですか」

 村田が少し考えた。「変換しない計算、というのは、アナログ演算のことですね。電圧や電流の物理量をそのまま使って計算する。変換ステップがない分、原理的には発熱は少ない。ただ、精度と再現性の問題があって、今の医療機器の主流はデジタルです」

 「精度と再現性」と理亜瑠は繰り返した。

 「アナログは、環境の変化に弱い。温度が変わると特性が変わる。部品がばらつくと、同じ回路を作っても同じ答えが出ない。デジタルはそれがない。どんな環境でも、同じ入力には同じ出力が返ってくる」

 理亜瑠はしばらく黙った。

 変換しないことで熱を減らせる。だが、精度と再現性が犠牲になる。その壁が、アナログ演算を医療から遠ざけてきた。壁は本物だった。否定できない。

 だが、と思った。

 精度と再現性の問題を、別のやり方で解決できれば。変換ステップをなくしながら、正確さを保てる構造があれば。アナログの発熱の少なさと、デジタルの正確さを、同時に持つことは、本当にできないのか。

 問いは漠然としていた。答えはまだどこにもなかった。

 ただ、問いが立った。それで十分だった。

 エラーアイコンはまだ点滅していた。冷却ファンが、少し速く回っていた。基板の上で、見えない電子たちが変換を繰り返しながら、熱を出し続けていた。

 理亜瑠はその音を聞いた。

 ファンが回る音は、摩擦の音だった。計算するための、避けられない摩擦の音だった。この音のない計算が、いつかできるのかどうか。それを考えながら、理亜瑠は実習の片付けを始めた。

 窓の外では、五月の風が木の葉を揺らしていた。


第4節

 六月の第一週、講義室に新しい教員が来た。

 医療材料学の担当で、矢島という名前だった。五十代、細身で、白衣ではなくスーツを着ていた。大学の材料工学科と掛け持ちで教えているという話を、竹村が事前に調べてきた。黒板に「生体適合性」と書いて、振り返った。

 「この言葉の意味を、自分の言葉で言える人は」

 しばらく沈黙があった。

 理亜瑠は答えを持っていた。だが、自分の言葉で、という条件が引っかかった。教科書的な定義なら言える。だが、それが矢島の求めているものかどうか、わからなかった。

 看護師出身の女性が手を挙げた。「体に入れても、拒絶反応が出ない材料の性質だと思います」

 矢島がうなずいた。「正しい。では、拒絶反応とは何ですか」

 「体が異物と認識して、排除しようとする反応」

 「そう。体は、自分でないものを排除しようとする。免疫の話でもあるし、物理的な反応の話でもある。今日はその、物理的な側面を中心に話します」

 矢島が机の上に、いくつかの素材を並べた。金属の小片、シリコンチューブの切れ端、薄い樹脂のフィルム、白い粉末が入った小瓶。それぞれを順に手に取りながら、説明を始めた。

 金属は硬い。強度があり、加工しやすく、形状を維持できる。医療機器の筐体や、手術器具に使われる理由はそこにある。しかし、硬い材料を生体の中に置くと問題が起きる。体の組織は動く。呼吸するたびに胸が動き、脈を打つたびに血管が膨らむ。柔らかく、絶え間なく動く組織の中に、動かない硬い材料を置けば、接触するたびに摩擦が生まれる。摩擦は、組織を傷つける。

 「硬さの不整合、と呼びます」と矢島は言った。「材料と組織の間に、弾性率の差がある。その差が大きいほど、界面でのストレスが増える」

 弾性率、という言葉を聞いた瞬間、理亜瑠の手が止まった。

 工学部で習った言葉だった。材料がどれだけ変形に抵抗するかを示す数値で、金属は高く、ゴムやシリコンは低い。骨は金属に近く、血管や神経は桁違いに低い。その差が大きいほど、境界で何かが起きる。

 界面。

 またその言葉が来た。透析装置の実習で見た継ぎ目、電極と皮膚の境目、フィルタが信号を削る場所。理亜瑠がここ一年ずっと引き寄せられてきた場所が、材料の話として今日また現れた。

 矢島がシリコンチューブを持ち上げた。

 「これは体外循環のチューブです。ポリ塩化ビニルやシリコーンゴムで作られている。金属より柔らかく、血液との適合性も高い。だが、それでも完璧ではない。長時間使用すると、タンパク質が表面に吸着する。血小板が活性化する。凝固が始まる」

 「材料を変えても、限界があるんですか」と竹村が聞いた。

 「材料だけでは解決できない問題がある。表面の化学的特性、形状、動きへの追従性。全部が絡む」

 理亜瑠は矢島が並べた素材を見た。それぞれが、それぞれの方法で体に寄り添おうとしていた。完璧なものはなかった。金属は硬すぎ、シリコンは滑らかだが蛋白質を引き寄せ、樹脂は軽いが経年で劣化する。どれを選んでも、何かを妥協している。

 「理想的な生体適合材料とは何か、という問いに、今の材料科学はまだ答えを出せていません」と矢島は言った。「体そのものに最も近い材料が、最も適合性が高い。当然の話ですが、それを人工的に作ることが難しい」

 体に最も近い材料。

 理亜瑠はその言葉を、メモに書いた後でもう一度頭の中で繰り返した。

 電気的な特性で言えば、体の中にはイオンが流れている。電子ではなく、イオンだ。神経も、筋肉も、イオンの移動で信号を伝える。それに対して機械の回路は、電子を使う。イオンと電子、体と機械の間には、根本的な言語の違いがある。その言語の違いを橋渡しするものが、界面に必要だ。

 翻訳者が、界面に必要だ。

 以前、萌に言った言葉が戻ってきた。電極と皮膚の間の話をしていた時、理亜瑠は「橋渡しする材料」という言い方をしていた。今日の矢島の講義は、その橋渡しがいかに難しいかを、材料の側から説明していた。

 講義の終わりに、矢島が小瓶の白い粉末を取り上げた。

 「これはPEDOT:PSSという有機導電性ポリマーです。電子伝導とイオン伝導の両方に対応できる、現在最も注目されているバイオエレクトロニクス材料の一つです」

 PEDOT:PSS。

 聞いたことのない名前だった。理亜瑠はそれをメモした。有機、導電性、ポリマー。電子とイオン、両方に対応できる。

 「体と機械の言語を、同時に話せる材料ということですか」と、理亜瑠は聞いた。

 矢島が少し目を細めた。

 「いい言い方ですね。原理的には、そういうことです。電子系の回路とイオン系の生体の間に置くことで、信号の変換ロスを減らせる可能性がある。ただし、課題は多い。導電率、耐久性、加工のしやすさ。まだ実用化には距離がある」

 「距離があるけど、できないわけじゃない」

 「そうです。できないわけじゃない」

 矢島は小瓶を机に戻した。白い粉末が、光の角度によって少しだけ艶を持った。

 理亜瑠はメモの端に、もう一度その名前を書いた。PEDOT:PSS。電子とイオンの通訳。体と機械の界面に立てる材料。

 講義室の窓から、六月の曇り空が見えた。梅雨の手前の、重たい灰色だった。だが理亜瑠の中では、何かが少し軽くなった気がした。軽くなったのではなく、形になった、という感触に近かった。ずっと靄の中にあった問いが、今日初めて、材料という具体的な言葉と結びついた。

 通訳が必要だと、ずっと思っていた。

 その通訳に、名前がついた。


第5節

 三月の国家試験は、二月末から始まった緊張がそのまま続いた形で終わった。

 試験会場は大阪市内の大学だった。受験者が廊下に並び、番号順に入室した。理亜瑠は列の中ほどにいた。竹村が斜め前にいて、振り返って小さくうなずいた。それだけだった。言葉は必要なかった。

 午前と午後、終日にわたる試験だった。

 臨床工学技士の国家試験は、医療機器の構造と操作、生体機能の代行技術、関連する基礎工学と医学が広く問われる。この一年で学んだことが、問題用紙の上に並んでいた。透析装置の回路、人工心肺の原理、人工呼吸器の制御系、医療材料の特性。ひとつひとつが、実習室で触れてきたものの言語化だった。

 手応えはあった。

 だが確信ではなかった。手応えと結果は別物だということを、臨床検査技師の試験で一度経験していた。終わったら終わりとして待つしかない、ということも知っていた。

 合格発表は三月の下旬だった。

 番号を確認した時、理亜瑠は検査部の古い同僚に連絡した。佐竹に報告した。萌にメッセージを送った。萌からは「おめでとうございます。絶対受かると思ってました」と、三秒で返信が来た。佐竹からは翌日、「よくやった。次も行け」と短く来た。

 それだけで十分だった。

 二つ目の国家資格が手に入った。

 臨床検査技師と、臨床工学技士。工学部を出て、遠回りをして、それぞれ三年と一年をかけて取った二枚の免許が、今手元に揃った。周囲からはまた遠回りだと言われた。自分でも、最短距離ではないことはわかっていた。だが、この一年で実習室に置かれた装置の内側を見るたびに、来てよかったと思った。検査技師として波形の外側から見ていたものが、今は回路の構造と材料の特性と繋がっている。繋がった分だけ、問いが深くなった。深くなった問いが、次へ向かう理由になった。

 三月の終わり、専攻科の修了式があった。

 竹村が「次はどうするんですか」と聞いた。

 「大学院に行く」と理亜瑠は答えた。

 「また学校ですか」竹村は笑ったが、馬鹿にした笑いではなかった。「真知さんらしい」

 「行きたい研究室がある」

 室生研究室、という名前は、この一年の間に理亜瑠の頭の中で何度も浮かんでいた。半導体工学と材料工学を掛け持つ異色の研究室で、近年はアナログ演算回路の可能性について精力的に論文を出していた。矢島の医療材料学の講義で参考文献として挙げられた論文の著者の一人に、室生の名前があった。

 矢島に直接聞いたことがあった。

 「室生先生を知っていますか」

 矢島はすぐに答えた。「知っています。厄介な人ですよ」と言って、少し笑った。「ただ、本物を見る目は確かです。あそこに入れれば、鍛えられる」

 厄介、という言葉が、理亜瑠には引力になった。鍛えられる、という言葉も。根拠のない優しさより、手加減のない壁の方が、今の自分には必要だと思った。自分の問いが本物かどうかを、試してもらう場所が必要だった。

 院試の準備は、国家試験と並行して進めていた。

 室生研究室への進学には、工学系大学院の入学試験を受ける必要があった。数学、物理、電気回路、材料工学の基礎が問われる。工学部出身の理亜瑠には、入口のハードルは低くなかったが、乗り越えられない高さでもなかった。病院での二年間と専攻科の一年間でできた隙間を、参考書と論文で埋めた。

 面接の日、理亜瑠は室生と初めて対面した。

 六十代、小柄で、眼鏡の奥の目が鋭かった。白衣ではなく、くたびれたジャケットを着ていた。机の上に論文の束と、コーヒーの冷めたカップがあった。

 「なぜ医療から工学の大学院へ来るのか」と室生は聞いた。前置きがなかった。

 理亜瑠は準備してきた言葉を使わなかった。

 「嘘をつかない機械を作りたいからです」と言った。「今ある装置は、見やすくするために何かを削っている。削られたものの中に、大事なものがある。それを削らずに届けるには、処理の設計ではなく、回路の構造から変えないといけないと思っています」

 室生は何も言わなかった。

 メモも取らなかった。ただ、理亜瑠を見ていた。その沈黙が長かった。長い沈黙の中で、理亜瑠は付け足すことをしなかった。言いたいことは言った。言葉を重ねても、今言ったことより正確にはならない。

 室生がようやく口を開いた。

 「きれいな波形が、いちばん怖い時があるんです、と言いたいのか」

 理亜瑠は少し驚いた。自分が言おうとしていた言葉を、室生が先に言った。

 「そういうことです」と、理亜瑠は答えた。

 室生はまた黙った。コーヒーのカップを一度持ち上げて、冷めていることを確認するように置き直した。それから、「四月から来なさい」とだけ言った。

 説明はなかった。理由も、条件も、期待も。ただ、来なさい、と言った。

 理亜瑠は「はい」と答えた。

 修了式の帰り、夕方の空が橙色に染まっていた。専攻科の校舎を出ると、風が少し冷たかった。三月の終わりの空気は、冬の残りと春の始まりが混ざっている。理亜瑠はコートの前を合わせながら、しばらく空を見た。

 工学部を出てから六年が経っていた。

 臨床検査技師として二年、専攻科で一年。遠回りだと言われ続けた六年間が、今日ここで一度、集まった気がした。集まった、というより、ようやく向かう先が見えた、という感触に近かった。問いは最初からあった。あの十一月の夜から、問いは変わっていない。嘘をつかない機械が欲しい。その問いに、今度は回路の内側から向き合う。

 萌に電話した。

 「合格しました。四月から大学院です」

 「先輩、やっぱり」と萌は言った。「どんどん遠くへ行きますね」

 「遠くじゃない」と理亜瑠は言った。「戻ってくるために行く」

 萌が少し黙った。それから、「待ってます」と言った。短かった。だが、その短さに余計なものがなかった。

 電話を切って、理亜瑠は歩き始めた。

 駅までの道に、桜の木が並んでいた。まだ蕾だった。あと二週間もすれば、ここが白く染まる。その頃には、新しい場所で、新しい問いが始まっている。

 蕾の枝を見上げて、理亜瑠は少し息を吐いた。

 冷たい空気が、肺の奥まで入った。


読んでくださってありがとうございます。

「変換して、処理して、熱を出す。その繰り返しが前提にある」——この一行が、この物語の技術的な核心への入口です。

変換しなければ熱は出ない。だが精度と再現性が犠牲になる。その壁を、別のやり方で乗り越えられるか——理亜瑠の問いが、ここで初めて工学的な形を持ちました。

答えはまだありません。ただ、問いが立った。それで十分だった。

第四章へ続きます。

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