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第11章 冷たいまま速い

 第11章です。

 再現性確認、設計パラメータの定義、そしてエムルへの命名。しかしこの章の本番は、萌から届いたデータをエムルに流す実験です。フィルタが削った終末部の乱れを、エムルは削らなかった。五年前に機械が黙らせた声の種類を、エムルは黙らせなかった。

 九条の言葉、室生教授の言葉、そして夕暮れのキャンパスまで、お付き合いください。

第1節

 再現性確認の試料は、三枚作った。

 二月の終わりから三月の頭にかけて、理亜瑠はクリーンルームと測定室を往復した。前回と同じ積層構成。MoS₂、PEDOT:PSSにハイドロゲルを微量混入した中間層、HfO₂の順に積む。封止はパリレンを使い、膜厚を均一に保つよう気を配った。前回うまくいったからといって、前回と同じになるとは限らない。材料は気分屋だ、と理亜瑠は思う。ではなく、材料には状態がある。同じ手順でも、気温、湿度、前工程のわずかなばらつきが界面の仕上がりを変える。

 それが証明できないと、今日の結果は偶然だ、と室生は言った。

 言葉の意味は分かっていた。再現性がなければ、現象ではなく、まぐれだ。

 試料A、B、Cと番号を振って、各試料を前回と同じ印加条件で測定した。スイープ時間は三十秒。印加電圧範囲は前回と同じ区間で走らせた。測定回数は試料ごとに十五回。前回の十三回目で残差が急落したことを踏まえて、余裕を持たせた。

 試料Aの一回目は、残差が十一・三パーセントだった。

 前回の一回目とほぼ同じだった。

 予想の範囲だった。初期の乱れは、三材料が折り合いをつける前の状態だ。ポリマーがまだ構えている。電荷が落ち着く場所を探している。それが収束していくかどうかを見る。

 理亜瑠は印加を繰り返した。

 三回目、七・八パーセント。六回目、五・二パーセント。九回目、四・一パーセント。下がり方の曲線が、前回と近かった。急峻に落ちて、緩やかになる。室生が指先でなぞっていたあの曲線と、同じ形をしていた。

 十二回目に、三・一パーセントになった。

 十五回目まで走らせた。最終値は二・八パーセントだった。

 試料B、Cも同じ手順で進めた。どちらも同じ軌跡を描いた。収束過程の傾きが揃っていた。三材料の時定数の収束順序も、前回と一致した。MoS₂が先に安定し、ハイドロゲルが続き、HfO₂が最後に落ち着く。この順序は、設計時に理亜瑠が想定した通りだった。速いものが先に定まり、重いものがそれを追いかける。

 三枚の試料で得たEML曲線との残差は、それぞれ二・八、二・九、二・六パーセントだった。

 前回の二・四パーセントと同じ水準だった。

 理亜瑠はその数字を三回、紙に書き直した。

 書き間違いではない。書き直したのは、確認するためだった。数字が数字のまま、正しくそこにあることを確かめるための動作だった。計算が合っているかどうかではない。自分が今見ているものが、夢ではないかどうか。

 書き直すたびに同じ数字が現れた。

 現象は、繰り返された。

 測定室の外に出ると、廊下に春の光が差していた。三月に入ったばかりだった。窓の外の木がまだ細く、葉がなかった。光だけが先に来ていた。

 理亜瑠は次の作業に取りかかった。室生に言われた二つ目の宿題だった。印加回数と収束の関係を、設計パラメータとして定義する。感覚ではなく、数字として出す。

 データを並べた。三枚の試料、合計四十五回の測定。印加回数ごとの残差を一覧にした。折れ線を引いた。各試料の曲線が重なるように見えた。完全には一致しないが、概形が揃っている。試料による個体差よりも、印加回数による収束の傾向のほうが、はるかに支配的だった。

 七回印加した時点で、すべての試料の残差が五パーセントを切っていた。

 十回で四パーセント以下。

 十二回から十三回で、三パーセント台前半に入る。

 これを設計パラメータとして書ける。「初期安定化印加回数:十二回」。それ以上を繰り返しても、残差の改善幅は小さくなる。収益逓減の領域に入る。

 収益逓減、と理亜瑠は頭の中で繰り返してから、その言葉が少しおかしい気がした。材料に収益などない。でも感覚としては近い。最初の十二回が一番おいしく、そこから先は効きが薄くなる。

 報告用のシートにまとめた。横軸に印加回数、縦軸に残差。四試料の曲線を重ねたグラフ。推奨印加回数を記した注釈。これで設計パラメータと呼べるものになった。

 室生に報告できる形が、もう一つ揃った。

 夕方、研究室に戻ると、九条が自分のデスクで何かを打ち込んでいた。画面には数式のような行列が並んでいた。こちらを見なかった。

 理亜瑠は自分のデスクに座って、今日の測定ログを整理した。

 しばらくして、九条が「再現性、出たのか」と言った。画面から目を離さないまま、言った。

「出ました」と理亜瑠は答えた。「三試料で、ほぼ同じ収束曲線でした」

 九条は何も言わなかった。

 また打鍵が続いた。

 理亜瑠はログの整理に戻った。空調の音が低く続いていた。外が少しずつ暗くなっていた。

 ノートを開いて、設計パラメータの値を書き込んだ。日付を入れて、試料番号と対応させた。最後に、今日から使う名前を決めることにした。

 チップにはまだ固有の呼び名がなかった。「積層チップ」「試作体」と書いてきたが、それは今日まで名前がなかったからだ。現象が確認されれば、名前をつけていいと思っていた。誰かに許可を求めたわけではない。だが、名前のないものを現象と呼ぶのは、何かが足りない気がしていた。

 EML。

 eml(x, y)から来た。指数と対数が折り合う場所。走る感じとなだめる感じが、同じ式の中にいる。それをそのまま回路にした。

 エムル、と声に出してみた。

 廊下の向こうで誰かが笑う声がした。関係のない笑い声だったが、重なった。

 エムル。

 ノートに書いた。「EML関数回路チップ原型 名称:エムル」。

 奇妙な名前だと思った。医療機器らしくも、工学部らしくもない。でもこの名前が、計算の道具でも医療装置でもなく、数式が回路の形になったものの名前として、一番近いと思った。

 楽譜に単位がついたとしたら、何と呼ぶか。

 エムルだ、と理亜瑠は思った。

 ノートを閉じた。今日の仕事は終わりだった。

 窓の外が完全に暗くなっていた。研究室に蛍光灯の白い光だけが残った。九条はまだ画面を見ていた。

 理亜瑠は荷物を持って立ち上がった。椅子が小さく鳴った。


第2節

 萌から連絡が来たのは、翌週の月曜だった。

 メッセージアプリに短い文が届いていた。「先輩、少し相談したいことがあります。時間ありますか」。それだけだった。

 理亜瑠は「今夜なら電話できます」と返した。

 夜九時過ぎに、萌から電話がかかってきた。

「元気ですか」と萌は最初に言った。声は落ち着いていた。元気かどうかを本当に聞きたいわけではない、というトーンだった。

「元気です」と理亜瑠は答えた。「相談って」

「実は」と萌は言って、少し間を置いた。「先輩が大学院に行く前に、私に渡してくれたデータ、覚えてますか」

 覚えていた。

 胎児の生データだった。あの夜のものではない。あの夜のログはサーバーの奥に眠っていて、理亜瑠が個人で持ち出せるものではなかった。萌に渡したのは、その後に部内で保管されていた類似症例の匿名化済みデータだった。フィルタ処理前の波形と、フィルタ後の波形を対で持つ、研究用のアーカイブから萌が正規の手続きで取り出したものだった。

「渡しました」と理亜瑠は言った。

「あれ、まだあります。私の手元に」と萌は言った。「先輩が大学院で何かしたくなったときのために、って言ってたから」

「うん」

「したくなりましたか、何か」

 理亜瑠はしばらく黙った。

 したくなった、というより、する必要が出てきた、という感覚に近かった。エムルに、生体信号を流してみたかった。電気化学的な測定だけでは、チップが嘘をつかないかどうかは分からない。試したい信号があった。あの夜の波形に似た、フィルタが削った部分を持つ、あの種の信号を。

「あのデータを、チップに流す実験をしたいんです」と理亜瑠は言った。「エムルに。生体信号を流したときに、フィルタ処理なしで、チップが何を出力するかを見たい」

 萌が電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。

「エムル」と萌は繰り返した。「チップの名前?」

「つけました。先週」

「エムル」と、もう一度言った。今度はゆっくりだった。味わうように言った。「いい名前だと思います」

 理亜瑠は少し笑った。声に出なかった。

「データ、送ってもらえますか」と理亜瑠は言った。「匿名化の処理は萌が確認してくれていると思うから、そのままで」

「します。明日送ります」

 電話が終わった。

 翌日の昼過ぎに、萌からファイルが届いた。添付ファイルが二つ。フィルタ処理前の波形データと、同一症例のフィルタ処理後の波形データ。フォルダには「使ってください」とだけ書いたメモが入っていた。

 理亜瑠はデータを展開した。

 処理前の波形を画面に出した。

 見た瞬間、喉の奥が締まった。

 見覚えがあった。厳密には、この症例ではない。あの夜の症例でもない。でも構造が同じだった。ベースラインは安定している。心拍数は正常域にある。そして波形の末端に、小さな尾がある。終末部のわずかな乱れ。整いすぎていない部分。正常波形のテンプレートから、少しだけ外れている部分。

 フィルタ処理後の波形を重ねた。

 尾が消えていた。

 ベースラインと心拍数は同じで、終末部だけが滑らかになっていた。正常波形のテンプレートに近づいていた。整っていた。きれいだった。

 きれいだから、怖い。

 理亜瑠はデータを変換した。チップに流すための電気信号に変換する工程だった。生体信号をそのままアナログ入力として与えられるように、振幅とオフセットを調整した。エムルのチップが想定している入力範囲に収める。変換に時間がかかった。昼から始めて、夕方になった。

 測定室に移った。

 エムルを測定台に固定した。前回の再現性確認で使った試料Aを使った。三枚の中で最も残差が安定していたものを選んだ。

 変換した信号をアナログ入力ポートに接続した。

 出力をオシロスコープと収録系に繋いだ。

 測定を開始した。

 最初の数秒は、出力が乱れた。

 チップが信号の来方に慣れていない、という感じがした。電気化学的な測定信号と、生体信号では、時間的なプロファイルが違う。チップにとって初めて触れる種類の入力だった。三材料がそれぞれのペースで反応を始める。MoS₂が先に動く。ハイドロゲルが続く。HfO₂がゆっくりと引きずられる。

 七秒ほどで、出力が落ち着いた。

 画面に、波形が現れた。

 理亜瑠は画面を見た。

 出力波形には、終末部の乱れがあった。

 フィルタ処理前のデータに含まれていた、あの小さな尾が、チップの出力にも現れていた。消えていなかった。エムルはその部分を削らなかった。デジタル処理がテンプレートに寄せた場所を、チップは寄せなかった。材料の特性上、どこかを整えて別のどこかを捨てる、という処理をしていない。入力として来た信号の構造を、そのまま演算の素材にしている。

 きれいにしていなかった。

 理亜瑠はしばらく画面を見ていた。

 正確に言えば、エムルは何もしていない。ただ、関数の形をした回路として、入力に応じた出力を出しただけだ。設計の意図通りに動いただけだ。だがその結果として、デジタル処理が消したものが、消えていなかった。

 削らなかった。

 黙らせなかった。

 理亜瑠は測定を続けた。同じ入力を十回流した。出力波形を重ねた。終末部の乱れは、十回とも同じ形で現れた。再現した。揺らぎはあるが、尾の構造は毎回そこにいた。

 ログを保存した。

 フィルタ処理後の波形の出力も確認した。比較のために、フィルタがかかった側のデータも流した。チップはその尾のない波形を入力として受け取り、尾のない波形を出力した。当然の結果だった。フィルタが消した後の信号には、消した情報が存在しない。チップは消えたものを復元できない。あるものを削らない、ということと、消えたものを作り出す、ということは、全く別の話だ。

 理亜瑠はその結果を、静かに見た。

 エムルが偉いわけではない、と思った。エムルは嘘をついていない。それだけだ。偉くも賢くもない。ただ、削らなかった。そこに来た信号を、来た形のまま、演算の素材にした。

 きれいにしなかった。

 あの夜に必要だったのは、それだけだった。

 測定室の照明が白かった。時計を見ると、夜になっていた。理亜瑠は出力波形のスクリーンショットを複数枚撮り、ログとともに保存した。明日、データを整理する。報告書の形にするかどうかは、まだ考えていなかった。

 室生への報告に含めるか、それとも先に自分の中で整理するか。

 でも今夜は、まず萌にメッセージを送ることにした。

「データ使いました。チップが終末部の乱れを削りませんでした」

 それだけ打った。

 少しして返信が来た。

「それが出てほしかったです」

 画面の文字を見た。

 理亜瑠は電話をポケットにしまって、測定室を出た。廊下が静かだった。研究棟に人が少ない時間だった。窓の向こうに夜の空があった。雲のないところに星がいくつかあった。

 歩きながら、あの夜のことを考えた。

 142 bpm。整いすぎた波形。消えていた裾野。そのあと一人で残って、削られた異常の尾を見つけた夜。あの夜に見たものを、今日のチップは削らなかった。

 現象は、そこにある。

 削らなかっただけだ。

 それだけのことが、五年かかった。


第3節

 翌朝、理亜瑠はデータを整理した。

 昨夜の測定ログを開いて、フィルタ処理前の入力波形と、エムルの出力波形を並べた。横軸は時間、縦軸は電位。二つの波形を重ねると、ほとんどの区間で一致した。ベースラインの形、心拍ごとの立ち上がりと下降、全体の周期。差が出たのは、終末部だけだった。

 エムルの出力は、入力よりもわずかに滑らかだった。三材料それぞれの時定数の違いが、信号の角を少し丸める。それは設計上の特性で、欠点ではない。問題はそこではなかった。問題は、削ったかどうかだった。フィルタが「ここは正常波形から外れている」と判断して切り落とした場所を、エムルは切り落としていない。尾は、丸くなりながらも、そこに残っていた。

 波形を拡大した。終末部だけを画面いっぱいに出した。

 入力の尾と、エムルの出力の尾を重ねた。

 形が近かった。完全には一致しない。チップの応答特性が時間軸を少し引き延ばす。それでも、尾の存在を認識できた。傾きと振幅の概形が残っていた。

 これを比較グラフにした。三つの波形を一枚に収める。フィルタ処理前の原波形、フィルタ処理後の波形、エムルの出力波形。三色で線を引いた。フィルタ後の線だけが、終末部で他の二本と乖離する。そこだけ、平らになる。

 グラフを見た。

 見ていると、胸の中に静かな熱が生まれた。感動とは少し違った。感動というには、静かすぎた。でも何か別のものが、確かにそこにあった。

 理亜瑠は、三つの線が分かれる場所をしばらく見ていた。

 フィルタ後の線が沈む場所で、原波形とエムルの出力はまだそこにいる。沈まずにいる。その一点が、何かを言っていた。言葉ではなく、形として。

 グラフを印刷した。

 印刷された紙を手に取って、もう一度見た。

 あの夜、佐竹に「数値は正常域だ」と言われて引っ込んだ違和感が、今日のグラフの中にある。あの夜の理亜瑠が感じた「波形が整いすぎている」という感覚が、今日は数字の形をしてそこにある。五年前に言葉にできなかったものが、今日は比較グラフという形で、紙の上にある。

 測定データは二十四年前の症例でも、あの夜の症例でもない。別の匿名化された症例だ。でもフィルタが削る場所の構造は同じだった。あの夜のモニターが消したのと同じ種類の尾が、今日のグラフにある。そしてエムルはそれを削らなかった。

 五年越しに、拾われた。

 そう思った。

 あの夜に消えた信号が戻ってきた、という話ではない。あの症例の胎児は、戻らない。あの夜に失われたものは、今日のグラフで取り戻せるものではない。理亜瑠はそれをよく分かっていた。

 でも、あの夜に「ここに何かある」と思った理亜瑠の感覚は、今日のグラフの形をしている。あの夜に機械が黙らせた声が、今日は黙らされていない。それはあの夜の声ではなく、別の信号の声だ。でも同じ種類の声だった。

 種類として、拾われた。

 理亜瑠は椅子を引いて、少し深く座り直した。

 窓から午前の光が入っていた。三月の光は、まだ角度が低かった。デスクの端に光の縁がかかっていた。

 グラフをもう一枚印刷した。

 同じものではなかった。今度は縦軸のスケールを変えて、終末部の尾だけを拡大した版を印刷した。三つの線の分かれ方が、より鮮明に見えた。フィルタが削る深さが、数字として読めた。エムルが削らなかった分が、ミリボルト単位で目に入った。

 この小ささが、あの夜に見えなかったものの正体だった。

 小さかったから、見えなかったのではない。小さかったから、削られた。見やすくするために削られた。正常に見えるように削られた。削られた結果として、それが存在しないことになった。

 存在しないことになったものを、誰も報告しなかった。

 あの夜の理亜瑠は、「なんか変だ」と思ったが、数値は正常域だと言われた。数値は確かに正常域だった。削った後の数値は、正常域にあった。

 でも削る前の信号は、そこにあった。

 今日のグラフが、それを言っている。

 理亜瑠は印刷したグラフ二枚をクリアファイルに入れた。

 室生への報告に使う資料を作ろうとして、手が止まった。

 室生に何を報告するか、まだ整理できていなかった。再現性確認の結果と設計パラメータは、整理できている。でも今日の測定は、室生に事前に告げていなかった。生体信号を流す実験は、室生の指示ではなかった。理亜瑠が、自分でやりたくてやった実験だった。

 室生は、どう見るか。

 測定値として見る。まずそこから入る。入力と出力の関係が正しいかどうか。フィッティングの妥当性。そしてこのデータで何が言えて、何が言えないか。

 言えないことは多い。このデータは一症例の匿名化データで、臨床的な意味を持つ検証ではない。エムルが医療に使える、という話ではまだない。チップの特性を確認する一つの実験として、生体信号に対する応答を見た、という段階だ。

 言えることは一つだ。エムルは、入力信号の終末部の構造を削らなかった。

 それだけを、数字と波形で示せる。

 理亜瑠はノートパソコンを開いて、報告資料の構成を書き始めた。一枚目に実験の目的と条件。二枚目に入力波形とエムル出力波形の比較。三枚目に三波形の重ね合わせグラフ。四枚目に拡大版の終末部。

 構成を書きながら、別のことが頭の隅にあった。

 今日のグラフに九条は気づいているか。

 昨夜、研究室で「再現性、出たのか」と聞いた九条は、今日もデスクにいた。理亜瑠が昨夜の測定室から戻る前に、すでに帰っていた。今日は朝から来ていて、午前中は自分の研究に集中していた。こちらに顔を向けなかった。

 九条がこのデータを見たら、何と言うか。

 言わない可能性もある。九条は関心のないものには、言葉を使わない。でも、もし見たら。

 理亜瑠はその先を考えるのをやめた。

 今は資料を作る。報告できる形にする。室生に見せる。それが次の手順だった。

 午後になった。

 資料が四枚揃った。理亜瑠はそれをプリントアウトして、クリアファイルに重ねた。

 再現性確認の資料と、今日の生体信号実験の資料。合わせて八枚になった。

 室生の部屋に報告を入れるタイミングを考えながら、理亜瑠はもう一度、三波形の重ね合わせグラフを見た。

 フィルタ後の線が沈む場所で、エムルの出力はまだそこにいる。

 五年前に、機械が黙らせた場所に。

 今日のエムルは、黙らせなかった。


第4節

 室生への報告を金曜に入れた。

 その前日の木曜の午後、理亜瑠は資料の最終確認をしていた。

 九条がデスクから立ち上がって、プリンターへ向かった。印刷物を取りに行く途中で、理亜瑠のデスクの前を通った。

「それ」と九条は言った。

 立ち止まっていた。理亜瑠の手元のグラフを見ていた。三波形の重ね合わせ。フィルタ処理前、フィルタ処理後、エムルの出力。

「生体信号を流したんですか」と九条は言った。

「はい」

「いつ」

「今週の火曜です」

 九条は少し黙った。プリンターへ行こうとした足が、止まったままだった。

「見ていいか」と九条は言った。

 理亜瑠はグラフを手渡した。

 九条はグラフを持って、自分のデスクへ戻った。座って、グラフを机の上に置いた。プリンターへ行くのを忘れているようだった。

 理亜瑠は自分の資料整理を続けた。

 しばらく、研究室に音がなかった。空調だけが低く続いた。

 九条が立ち上がった。自分のデスクのパソコンを操作して、何かを出力した。プリンターが動いた。今度はプリンターへ取りに行って、そのまま理亜瑠のデスクへ来た。

 一枚の紙を置いた。

「同じデータを、先月うちのシミュレーションに通した」と九条は言った。「解析時間と消費電力の記録です」

 理亜瑠は紙を見た。

 解析時間:四十一秒。消費電力:推定十二・三ワット時。

 一行だった。それだけが書いてあった。

 九条は理亜瑠が渡したグラフを返した。そしてもう一度、自分のデスクへ戻った。

 理亜瑠はその一行を見た。

 エムルが同じデータを処理した時間は、測定開始から出力が安定するまで七秒だった。消費電力の計測は今回行っていない。だが三材料の駆動電圧と電流の値から概算すれば、ワット時の桁が違う。

 理亜瑠はその計算を頭の中でしなかった。数字を比べることが、今やりたいことではなかった。

 九条が紙を持ってきた意味は、数字を比べてほしかったからではないと思った。でも、どういう意味だったかを、理亜瑠はすぐには言葉にできなかった。

 十分ほど、それぞれが自分の作業をした。

 九条がまた立ち上がった。廊下へ出るつもりのようだった。だが、出口の手前で足が止まった。

 振り返らなかった。

「あのデータに終末部の乱れがある、という判断は、どこから来ているんですか」と九条は言った。壁に向かって言っているように聞こえた。

「フィルタ処理前の原波形に、終末部の構造があります」と理亜瑠は言った。「フィルタが削った部分を、原波形は持っています」

「それが臨床的に意味のある信号かどうかは、まだ分からない」

「分かりません」

「エムルがそれを残したことも、偶然である可能性がある」

「可能性はあります。ただ、十回の測定で十回とも同じ形で残りました」

 沈黙があった。

 九条はまだ振り返らなかった。廊下への出口のところに、立っていた。

「嫌いなタイプの発想だ」と九条は言った。

 低かった。感情を押さえた声だった。

「比喩から入って、材料の個性に頼って、理論より先に現象を信じる。自分は、そういうやり方が好きじゃない」

 理亜瑠は何も言わなかった。

「でも」と九条は続けた。

 少し間があった。廊下のどこかで扉が開く音がした。

「現象は現象だ」

 それだけだった。

 九条は廊下へ出た。

 理亜瑠はデスクに座ったまま、九条が出ていった方向を、少し見た。

 勝ったとは思わなかった。負けたとも思っていない、と九条が言いたかったわけでもないと思った。ただ九条は、自分が見たものを、自分の言葉で言った。それだけのことだと思った。

 嫌いなタイプの発想だ。でも、現象は現象だ。

 九条がそれを言えるのは、現象を見たからだ。グラフを見て、数字を見て、フィルタが沈む場所でエムルが沈まないことを、自分の目で確認したからだ。九条はそういう人間だった。見たものを、見たと言う。好き嫌いと、あるかどうかは、別の話だと知っている。

 理亜瑠はその点で、九条を信頼していた。口に出したことはなかった。

 給湯室から九条が戻ってきた。コーヒーのカップを持って、自分のデスクに座った。画面に向かった。それ以上、何も言わなかった。

 理亜瑠も資料の整理に戻った。

 翌日、金曜の午後。

 室生の部屋のドアをノックした。「入れ」という声がした。

 八枚の資料を持って入った。再現性確認の四枚と、生体信号実験の四枚。室生は窓を背にして座っていた。前回と同じ位置だった。机の上にコーヒーのカップがあった。それも前回と同じだった。

「再現性確認の結果と、追加実験の結果を持ってきました」と理亜瑠は言った。

「追加実験」と室生は繰り返した。

「はい。生体信号を入力としてチップに流す実験です。事前に告げずに進めました」

 室生は少し眉を動かした。怒気ではなかった。確認するような動きだった。

「座れ」

 理亜瑠は座った。資料を机の上に置いた。

 室生は一枚目から順に見た。再現性確認のグラフ。収束曲線が三試料で揃っていることを確認した。残差の数字を読んだ。設計パラメータの定義を読んだ。

 五枚目に移った。

 生体信号実験の目的と条件を書いた枚が、五枚目だった。匿名化済み臨床データ。フィルタ処理前後の対データ。エムルへの入力条件。室生はそこをゆっくり読んだ。

 六枚目。入力波形とエムル出力の比較グラフ。

 七枚目。三波形の重ね合わせ。

 八枚目。終末部の拡大。

 室生は八枚目を見て、止まった。

 前回、コール・コール・プロットの前で止まったときと同じ止まり方だった。指先が、紙の上で静止した。

 長い沈黙があった。

 理亜瑠は待った。

 室生が口を開いた。

「フィルタが沈む場所で、チップは沈んでいないな」

「はい」

「これは、臨床的な検証ではない」

「分かっています。チップの応答特性の確認として行いました」

「九条は見たか」

 理亜瑠は少し意外に思った。室生が九条の名前を出すのは、珍しかった。

「はい。昨日、見てもらいました」

「何と言った」

「嫌いなタイプの発想だと言いました。でも、現象は現象だとも言いました」

 室生は静かに頷いた。一度だけ、小さく。それ以上の反応はなかった。

 室生は資料を揃えて、手で返した。前回と同じ返し方だった。

「チップに名前はついたか」と室生は言った。

「つけました。エムルです」

「エムル」と室生は繰り返した。

 感想は言わなかった。いつも通りだった。

「次の段階を考えろ」と室生は言った。「チップの応答特性が確認できた。生体信号に対して削らないことが確認できた。次に必要なのは何だ」

「感度と安定性の定量評価です。どの周波数帯の信号に対して、どの程度の精度で応答するか。温度や湿度の変化に対して、特性がどう変わるか」

「そうだ」と室生は言った。「それをやれ」

「はい」

「それと」と室生は続けた。「報告書にまとめろ。学術的な形式で。実験条件、使用データの概要、結果、考察。今日の資料の内容を、論文の骨格として書けるレベルに仕上げろ」

「分かりました」

 理亜瑠は立ち上がった。

 ドアへ向かおうとして、室生が言った。

「真知」

「はい」

「エムルという名前は」と室生は言った。少し間があった。「悪くない」

 それだけだった。

 理亜瑠はドアを開けた。廊下に出た。ドアが閉まった。

 廊下に三月の光が差していた。

 「悪くない」という言葉が、耳の中にあった。

 室生がそれを言うのは、珍しかった。測定値でも、次の指示でも、現象の確認でもなく、名前への評価を、室生が口にした。

 理亜瑠は廊下を歩き始めた。

 次にやることは決まっていた。感度と安定性の定量評価。報告書の骨格。やることは山積みだった。でも今日の廊下は、いつもより少し広い気がした。気のせいかもしれなかった。

 窓の外に、春の空があった。


第5節

 報告書の骨格を書くのに、一週間かかった。

 実験条件、使用データの概要、結果、考察。室生に言われた通りの構成で組んだ。書きながら、何度も止まった。止まるのは言葉が出ないからではなかった。書こうとすると、言いすぎになる。言いすぎた文を削って、また書く。その繰り返しだった。

 考察の欄が、特に難しかった。

 エムルが生体信号の終末部を削らなかった、という事実は書ける。三材料の時定数分離型実装が、デジタルフィルタとは異なる応答特性を示した、という記述もできる。でもそこから先、それが何を意味するかを書こうとすると、言葉が走りすぎた。臨床的な意義を示唆する言葉が出てくる。まだそこまで言えない。言えないことを書くのは、嘘をつくことと同じだった。

 言えることだけを書いた。

 削らなかった。再現した。それだけを、数字と波形で示した。

 一週間後の金曜に、室生に提出した。

 室生はその場では読まなかった。「置いておけ」と言った。理亜瑠は机の上に置いて、研究室に戻った。

 三日後の月曜の朝、室生からメッセージが来た。「夕方、時間を取れ」とだけあった。

 夕方五時に、室生の部屋へ行った。

 ドアをノックすると、「入れ」という声がした。

 入ると、室生は窓際に立っていた。いつもは机に座っている。立っているのは珍しかった。窓の外に夕方の空があった。三月の終わりの空だった。雲が低く、光が水平に差していた。

 机の上に、提出した報告書が置いてあった。余白に書き込みがあった。赤ではなく、黒いペンで。修正指示ではなく、数式と記号が書いてあった。室生が読みながら手を動かした跡だった。

「座れ」と室生は言った。

 理亜瑠は椅子を引いて座った。室生は立ったままだった。窓を背に、腕を組んだ。

「報告書を読んだ」と室生は言った。

「はい」

「考察が短い」

「言えることだけを書きました」

「そうだな」と室生は言った。「それで正しい」

 理亜瑠は少し意外だった。短いと言われたから、指摘されると思っていた。

「事実を事実として書いた。言えないことを書かなかった。それは科学の文章として、正しい態度だ」

 室生は窓のほうを一度見た。それから理亜瑠に視線を戻した。

「ただ」と室生は続けた。「一点、確認したいことがある」

「はい」

「この実験を、なぜやった」

 理亜瑠は少し間を置いた。

「チップが嘘をつかないかどうかを、確かめたかったからです」と理亜瑠は言った。「電気化学的な測定だけでは、それが分からなかった。生き物の信号に対して、エムルが何をするかを見たかった」

「それは技術的な理由だ」と室生は言った。「聞いているのはそこではない」

 理亜瑠は黙った。

 室生が聞いていることが、分かった。

「あの夜のことがあったからです」と理亜瑠は言った。「五年前に、機械が削った信号がありました。あの夜に必要だったものが、エムルにあるかどうかを確かめたかった」

 室生は頷かなかった。頷く代わりに、少しだけ目を細めた。

「面接のとき」と室生は言った。「君は言った。きれいな波形が、いちばん怖い時があると」

「はい」

「あの一言で、君を残した」

 理亜瑠は何も言わなかった。

「感想だと思った。現場で傷ついた若者の、整理できていない感情だと思った。そこに技術があるとは、あの時点では思わなかった」

 室生は窓のほうをまた見た。夕方の光が、室生の横顔に当たっていた。

「だが君は、感想を測定値に変えた」と室生は言った。「比喩を設計図にした。現場の傷を、回路の論理に翻訳した」

 理亜瑠は室生の言葉を聞きながら、自分がやってきたことを、外側から見るような感覚があった。自分の中から見ていたときには、そういう言葉にならなかったことが、室生の口から出てくると、別の形をしていた。

「感想には単位がない」と室生は言った。「きれいな波形が怖い、という感覚には、単位がない。測定できない。再現できない。他人に渡せない」

 室生は理亜瑠のほうに体を向けた。

「だが今日、君が持ってきた報告書には、単位がある。残差の値がある。時定数の値がある。再現性がある。他人が検証できる形がある」

 窓の光が、報告書の置かれた机の上に落ちていた。

 室生は少し黙った。

 長くはなかった。でも、その沈黙には、何かが詰まっていた。

「……ようやく」と室生は言った。

 声が、いつもより低かった。指示を出すときの声ではなかった。

「ようやく、君の詩に単位がついたな」

 理亜瑠は、その言葉を聞いた。

 何かが、胸の奥で静かに動いた。動いた、というより、止まった、という感じに近かった。ずっと動いていたものが、一瞬だけ止まった。

 何も言えなかった。

 言う必要があるかどうかも、分からなかった。言葉を探したわけではなかった。ただ、その言葉が耳の中にあって、それ以上のものが、今この部屋には何もなかった。

 室生はそれ以上、何も言わなかった。

 窓の外の光が少し傾いた。夕方が、夜に向かっていた。

 理亜瑠は立ち上がった。「失礼します」と言った。声が、思ったより落ち着いていた。

 室生は小さく頷いた。

 ドアを開けた。廊下に出た。ドアが閉まった。

 廊下に、夕方の光が長く伸びていた。窓から差す光が、廊下の床を斜めに横切っていた。

 理亜瑠はしばらく、その光の中に立っていた。

 「君の詩に単位がついたな」という言葉が、耳の奥にあった。

 詩、と室生は言った。理亜瑠がこれまでやってきたことを、室生は詩と呼んだ。比喩で考えること。感覚から入ること。現場の傷を手放さないこと。それを、室生は嘘をつくな、と言い続けながら、横で見ていた。

 詩に単位がついた。

 感想が測定値になった。比喩が設計図になった。傷が、回路になった。

 理亜瑠は歩き始めた。

 廊下の終わりに、階段があった。一段降りるごとに、光の角度が変わった。建物の外に出ると、夕方の空気が冷たかった。三月の終わりだった。空の端が、橙と青の境界をつくっていた。

 キャンパスに人が少なかった。遠くで自転車の音がした。

 理亜瑠は少し立ち止まって、空を見た。

 エムル、と頭の中で呼んだ。

 ノートの中の、小さな名前。三材料が折り合う場所につけた名前。詩に単位がついた、その名前。

 やることは、まだある。感度と安定性の定量評価。論文の骨格の肉付け。次の試料の設計。室生が次の話をすると言った。その次が、始まる。

 でも今夜だけは、それを考えるのを少し後にしてもいい気がした。

 理亜瑠は歩き始めた。

 夕方のキャンパスを、ゆっくり歩いた。

 「ようやく」と室生は言った。

 その一言が、一番重かった。すぐにではなく、ようやく。時間がかかった、という意味だった。かかるべき時間がかかった、という意味でもあった。急いでいたら届かなかった場所に、今日、届いた。

 橙の空が、少しずつ暗くなっていった。

 理亜瑠は歩き続けた。


 お読みいただきありがとうございました。

 「ようやく、君の詩に単位がついたな」——室生教授がこの言葉を言った瞬間、理亜瑠は何も言えませんでした。言う必要があるかどうかも分からなかった。ただその言葉が耳の中にあって、それ以上のものが、今この部屋には何もなかった。

 次回、最終章・第12章「生命の波形を刻め」です。

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