第10章 壊れたように見えた波形
第10章です。
三層積層チップの初回統合測定。画面に現れたのは、予期しないスパイクの連続でした。失敗のデータを残し、原因候補を三つに絞り、一つずつ潰していく。繰り返すたびに残差が縮み、十三回目に三つの弧がそれぞれの場所へ。室生教授への報告まで、お付き合いください。
第1節
二月の測定室は、朝から冷えていた。
午前八時四十分。暖房が立ち上がりきっていない時間で、窓ガラスの内側に薄く結露が出ていた。理亜瑠は上着を脱がずに測定ステーションの前に座り、昨夜セットしたプローブの位置を確認した。ずれていなかった。チップは固定されたままだった。
インピーダンスアナライザの電源を入れた。
起動音が短く鳴って、画面が白く光った。測定レンジ、周波数スイープ、サンプリング間隔。昨夜確認した設定が、そのまま残っていた。変える必要はなかった。
測定開始のボタンを押した。
静かだった。装置が動いている音も、信号が走っている音も、何もしない。ただ画面の端に、スイープの進捗を示すバーが少しずつ伸びていく。
最初のデータが画面に現れたのは、四分後だった。
理亜瑠は画面を見た。
一秒ほど、何も思わなかった。
それから、手元のノートにペンを置いた。置いた、というより、落とした。
波形ではなかった。
画面に出てきたのは、スパイクの連続だった。コール・コール・プロットが描かれるはずの領域に、針のような突起が不規則に並んでいた。高周波側から低周波側へかけて、振幅がばらばらで、方向も定まらない。半円を描く気配がなかった。等価回路のフィッティングが当てられる形をしていなかった。
ノイズとも違った。ノイズにはそれなりの統計的な分布がある。画面に出ているのはもっと無秩序で、規則性の欠片もなかった。
測定を止めずに、理亜瑠はプローブの接触を確認した。パッドから外れていない。アナライザの設定を見直した。異常はない。試料の外観を拡大鏡で覗いた。剥離は見えない。クラックも見えない。
もう一度スイープを走らせた。
同じだった。
スパイクが、また別の場所に、別の高さで現れた。前回と似ているが、一致していない。再現性がない。
理亜瑠はしばらく画面を見ていた。
何かが、根本から壊れているか。
あるいは、全く予期していない何かが起きているか。
その二択しか、今は浮かばなかった。
午前十時過ぎ、廊下で声がした。
測定室のドアが開いた。九条だった。手元に自分のデータシートを持っていた。別の用事で来た、という顔だった。
画面を一瞥した。
一秒置いて、もう一度見た。
「……何だ、これは」
「分からない」と理亜瑠は言った。「三層の統合測定の初回だ。さっきから同じ形が出続けている」
九条はデータシートを脇に置いて、画面に近づいた。スパイクの列を見た。スイープの設定を確認した。理亜瑠が今朝から確認してきたことを、九条は黙って同じ順序で確かめた。
一通り見てから、九条は言った。
「失敗だ」
断定だった。温度がなかった。責めているのではなく、見たものを言葉にした、という言い方だった。
「どこかで界面が破綻している。この形は、材料の応答ではない。回路として成立していない状態だ」
「分かっている」
「どこだと思う」
「MoS₂とハイドロゲルの界面か、ハイドロゲルとHfO₂の界面か、どちらかだ。あるいは両方」
九条はしばらく画面を見た。
「パリレン封止は」
「問題ないはずだ。膜厚は確認している」
「はず、では分からない。剥がしてみるか」
「今日はもう少し測定を続けてから判断する」
九条はうなずいた。押し付けるでも引き下がるでもなく、ただ確認した、という動作だった。
「データは残せ。失敗のデータほど、後で使う」
それだけ言って、九条はデータシートを持ち直して出ていった。
午後になっても、波形は変わらなかった。
スイープを六回繰り返した。六回とも、スパイクの位置が少しずつ違った。再現性がない、ということだけが再現されていた。
理亜瑠は六回分のデータを保存して、ノートに記録した。条件、時刻、温度、湿度。九条が言った通りだった。失敗のデータを残す。残してから、次を考える。
測定を終えて、チップを取り出した。
拡大鏡でもう一度、表面を丁寧に見た。
パリレンの膜に、目視では分からない微細なクラックが入っている可能性がある。あるいは、ハイドロゲルの含水率が測定中に変化した可能性がある。あるいは、MoS₂の成膜が均一でなかった可能性がある。
可能性が三つある。一つずつ潰すしかない。
ノートに書いた。
「初回測定:回路として成立せず。スパイク連続、再現性なし。原因候補:①パリレン微細クラック ②ハイドロゲル含水率変動 ③MoS₂成膜不均一。次回:各層を切り離して単体測定し、問題箇所を特定する」
書き終えて、ペンを置いた。
画面はもう消えていた。スパイクも、スイープのバーも、何も残っていない。白い画面だけがあった。
廊下に出ると、夕方の光が窓から差していた。
理亜瑠は窓の外を少し見た。
失敗だった。九条の言葉は正しかった。回路として成立していない状態だった。ただ、何が壊れているかはまだ分からない。分からないということは、まだ終わっていない、ということでもある。
棚の失敗作のことを思った。七つのケース。それぞれに理由があった。理由が分かるたびに、次の問いが生まれた。
今日の失敗も、同じだ。
ただ今日の失敗は、三層が揃った状態での最初の測定だった。七つの失敗とは重さが違う。設計の根幹に問題がある可能性を、否定できない。
それが今夜の問いだった。
理亜瑠はコートを着て、廊下を歩いた。
「失敗だ」という九条の言葉が、耳の奥にあった。批判ではなかった。正確な観察だった。だから余計に、重かった。
第2節
単体測定は、三日かけて終わった。
まずパリレン封止の状態を確認した。チップの表面を走査型電子顕微鏡で見た。微細なクラックがあった。二箇所。どちらも幅は百ナノメートル以下で、光学顕微鏡では見えない大きさだった。パリレン膜が薄い部分で、ハイドロゲルの水分が微量に蒸発した痕跡だった。
ただし、クラックの位置はコンタクトパッドから遠かった。測定に直接影響を与えるほどではない、と判断した。
次にハイドロゲル層を単体で切り出した試料を作って、含水率を測定した。測定開始から三十分後と、六回のスイープが終わる二時間後で、含水率を比較した。
差があった。
三十分後は四十二・八パーセント。二時間後は三十九・一パーセント。パリレン封止をしていても、長時間の測定中に水分が微量に抜けていた。含水率が三・七ポイント低下した。
ノートに書いた。
「含水率変動、三・七パーセント。測定二時間で。時定数への影響を計算する」
理亜瑠は、予備測定で取ったデータに戻った。含水率と時定数の相関グラフを引き出す。含水率が四十三パーセントから三十九パーセントへ低下したとき、時定数は百十二ミリ秒からどこへ動くのか。グラフを読むと、八十五ミリ秒前後まで縮む。
二十七ミリ秒のずれだ。
時定数がずれれば、三層の重なり合う窓がずれる。窓がずれれば、差分を取るタイミングがずれる。スパイクとして現れたノイズは、この時定数のずれが積層全体の応答を不安定にした結果かもしれない。
単体では安定していた。積層すると崩れた。
その構造が、見えてきた。
三日目の午後、MoS₂層の成膜均一性を確認した。
四探針法で膜全体の抵抗分布を測定した。端と中央で、抵抗値に十一パーセントの差があった。均一ではなかった。スパッタリングの条件が最適ではなかった。
ただし十一パーセントの不均一性は、これまでの測定でも同程度あった。問題がなかったわけではないが、今回の失敗の主原因とは考えにくかった。
原因の優先順位が、絞られた。
ハイドロゲルの含水率変動が、第一候補だった。パリレン封止の微細クラックが、それを助長している可能性がある。MoS₂の不均一性は、二次的な問題として残る。
理亜瑠はノートに整理した。
「主因:含水率変動による時定数ずれ。対策:封止強化または測定時間短縮。次の試作では、パリレン膜厚を二マイクロメートルから三マイクロメートルへ増加。測定スイープを一時間以内に収める設定に変更」
設計変更の方向が出た。
変更を加えた試料を作るのに、一週間かかった。
パリレン成膜を三マイクロメートルに変えた。借用している装置の条件を組み直す必要があった。佐野さんに相談して、成膜サイクルを調整した。
測定スイープの設定も変えた。周波数の下限を絞った。低周波側のデータ点を減らす代わりに、測定時間を四十分から五十五分に縮めた。一時間以内に収まる。
新しい試料で、測定に入った。
最初のスイープが終わった。
画面を見た。
スパイクではなかった。
歪んだ弧が、一つ出ていた。半円とは呼べない形だったが、方向があった。低周波側に向かって、弧が伸びていた。ノイズの連続ではなく、何かの応答の片鱗だった。
理亜瑠はもう一度スイープを走らせた。
同じ位置に、同じ形が出た。
再現した。
二回続けて同じ形が出たとき、理亜瑠は少し息を吐いた。
回路として成立し始めている。まだ読める形ではない。等価回路を当てるには、弧が歪みすぎていた。フィッティングを試みたが、残差が四十パーセントを超えた。
それでも、一回目とは違った。
スパイクが消えた。形が出た。再現した。その三つが揃ったことが、今日の全部だった。
ノートに書いた。
「二回目の試作測定:スパイク消失。歪んだ弧を確認、再現性あり。フィッティング残差:40%超。形として読めるが、まだ回路として解析できる段階ではない」
その下に書いた。
「印加を続けると、形が変わる可能性がある。同じ試料で明日も測定する」
翌日、同じ試料で三回目のスイープを走らせた。
弧の形が、昨日より少し整っていた。
歪みが小さくなっていた。フィッティングを試みた。残差が二十八パーセントになった。まだ高いが、昨日の四十パーセントから縮んだ。
印加を繰り返すことで、何かが変化していた。
四回目のスイープを走らせた。残差が二十一パーセントになった。
五回目。十七パーセント。
弧は、印加を繰り返すたびに整っていった。ゆっくりと、しかし確実に、歪みが収束していく方向へ動いていた。
理亜瑠はその変化を、スイープごとにノートに記録した。数字が並んでいくにつれて、形が見えてきた。
材料が、落ち着いていく。
初めて電圧を加えられた積層構造が、繰り返しの中で何かを学習しているように見えた。学習、という言葉は正確ではない。界面の電荷分布が、印加によって徐々に安定する。物理的に言えばそういうことだ。でも数字の並び方は、学習という言葉の方が近かった。
ノートの端に小さく書いた。
「落ち着いていく。繰り返すたびに」
第3節
三日目の朝、理亜瑠はクリーンルームに入る前に測定室に寄った。
昨日の最後のスイープで出たデータが、画面に残っていた。電源を落とさずに帰ったわけではなく、自動保存されたファイルを開いた。残差十七パーセントの、歪んだ弧。昨日の目で見ると、少し違って見えた。
歪みの形に、方向があった。
低周波側の弧の端が、特定の方向へ引っ張られていた。ランダムな歪みではなかった。何かが、そちらへ向かって引いている。
理亜瑠はカーソルを動かして、引っ張られている端の座標を読んだ。実部と虚部の比を計算した。
HfO₂の時定数に対応する周波数帯だった。
遅い応答が、弧の端から顔を出し始めていた。
その日の測定は午前中から始めた。
六回目のスイープ。残差が十四パーセントになった。
七回目。十一パーセント。
弧の端の引っ張りが、回を追うごとに明確になっていく。低周波側の弧が伸びて、HfO₂の応答領域へ近づいていく。MoS₂の高周波側とHfO₂の低周波側の間に、ハイドロゲルの中間帯が少しずつ形を作っていく。
三層が、同じ試料の中で、それぞれの場所を見つけていく過程だった。
八回目のスイープが終わったとき、理亜瑠はフィッティングを走らせた。
R-C三段のモデルを当てた。
残差が八・九パーセントになった。
手が止まった。
一回目の統合測定で出た残差は、フィッティングすら当てられない状態だった。二回目の試作で形が出て、繰り返すたびに数字が縮んだ。今日の八・九パーセントは、四回目の試作でPEDOT:PSS端子から信号を取り出したときに出た八・三パーセントと、ほぼ同じ水準だった。
積層した三層が、ようやく前回と同じ出発点に立った。
ノートに書いた。
「8回目スイープ:残差8.9%。R-C三段フィッティング成立。時定数読み取り可能な段階へ」
その下に数字を並べた。
MoS₂:十一マイクロ秒。ハイドロゲル:百二十八ミリ秒。HfO₂:一・八秒。
ハイドロゲルの時定数は、単層値の百十二ミリ秒より十六ミリ秒長かった。積層環境に入れたときに見えていた変動と、同じ方向だった。原因はまだ特定できていない。だが、数字の範囲は予測の中に収まっていた。
昼過ぎ、九条が測定室に入ってきた。
データシートも持っていなかった。用事があって来たのではなく、通りかかった、という様子だった。
画面を見た。
フィッティングが当てられた弧が出ていた。前回見たスパイクの連続とは、全く違う形だった。
「整ってきたな」と九条は言った。
「繰り返すたびに収束した」
「印加回数は」
「今日で八回目だ。最初の試作も含めると、十四回以上になる」
九条は少し間を置いた。
「同じ試料で繰り返したのか」
「そうだ」
「それは設計に組み込むのか。何回か印加しないと安定しない回路というのは、実用上の問題になる」
理亜瑠は九条を見た。
「分かっている。ただ今は、安定した後の形を見ることが先だ」
「順序の話をしているのではない」九条の声は変わらなかった。「最終的に安定するなら、安定までの過程を設計として織り込めるかどうかの問いだ」
理亜瑠はしばらく考えた。
「織り込める可能性はある。生体に貼り付けるデバイスなら、装着後に体温と動きの中で自然に安定する。その過程を前提にした設計ができる」
「生体に貼り付ける、という前提が必要になる」
「もともとそのつもりだ」
九条は画面に視線を戻した。何かを言いかけて、止めた。止めてから、出ていった。
理亜瑠は画面に向き直った。
九条の問いは正しかった。安定までの印加回数を設計に組み込む、という発想は、これまで明示的に考えていなかった。でも今日の数字の変化を見れば、それは避けられない問いだった。
ノートに書き足した。
「印加回数と残差の相関を記録する。安定化に必要な回数を定量化する」
九回目のスイープを走らせた。
残差が七・二パーセントになった。
十回目。六・八パーセント。
数字の変化が、緩やかになっていた。八回目から九回目の変化は二パーセント近くあったが、九回目から十回目は〇・四パーセントだった。収束が始まっている。
理亜瑠はグラフを描いた。横軸に印加回数、縦軸に残差。点を打つと、急峻に下がってから緩やかに収束する曲線が見えてきた。
指数関数的な減衰だった。
材料の応答が指数関数の形をしているように、収束の過程も指数関数の形をしていた。速く変化してから、ゆっくり落ち着く。走ってから、覚える。
ノートの端に書いた。
「収束曲線:指数関数的減衰。材料の性質が、安定化の過程にも現れている」
書いてから、少し手が止まった。
設計が材料の性質を使うだけでなく、安定化の過程も材料の性質に従っている。回路が落ち着く速さと形が、EML関数の構造と同じ文法を使っていた。
意図していなかった。設計していなかった。
でも、そこにあった。
理亜瑠はペンを置いた。画面の弧を見た。整ってきた、しかしまだ完全ではない弧。その弧が、次の印加でどこへ向かうのかを、今夜はまだ知らなかった。
明日、続きを見る。
第4節
十一回目のスイープが終わったのは、翌朝の十時過ぎだった。
残差が六・一パーセントになった。前日の六・八から〇・七ポイントの変化だった。収束が進んでいるが、速度はさらに落ちていた。指数関数的な減衰が、平坦域に近づいていた。
理亜瑠はフィッティングのパラメータを見直した。
時定数の読み取り値が、前日より安定していた。MoS₂:十一マイクロ秒。ハイドロゲル:百二十四ミリ秒。HfO₂:一・九秒。スイープごとのばらつきが、前日の半分以下に縮んでいた。
設定を変えずに、十二回目を走らせた。
残差が五・八パーセントになった。
〇・三ポイントの変化だった。さらに緩やかになっていた。
理亜瑠はその数字を見て、今日が変曲点だと感じた。感じた、というより、グラフの形がそれを示していた。急峻な変化から緩やかな収束へ、曲線の傾きが変わる場所が、この付近にある。
十三回目を走らせた。
スイープが終わるまでの五十五分、理亜瑠は別の作業をしていた。印加回数と残差の相関データを表に整理した。縦に回数、横に残差と時定数のばらつき。数字を並べていくと、三つの時定数がそれぞれ独立して収束していく過程が見えた。
MoS₂の時定数は、最初から安定していた。
ハイドロゲルは、五回目あたりから急速に安定した。
HfO₂は、最も遅かった。十回目を過ぎてからようやくばらつきが縮んだ。
速いものから順に落ち着く。MoS₂が先に安定して、ハイドロゲルが続いて、HfO₂が最後に来る。三層の安定化が、時定数の速い順に起きていた。
当たり前のことだった。速く動くものは速く落ち着く。遅く動くものは時間がかかる。でも三層が積層された状態でその順序が保たれているということは、三層が互いに干渉しながらも、それぞれ独立した時間軸で動いていることを意味していた。
設計した通りだった。
アラームが鳴った。
十三回目のデータを開いた。
残差が出るまで、少し時間がかかった。フィッティングの計算が、いつもより長く回っていた。
数字が出た。
理亜瑠は画面を見た。
二・七パーセントだった。
一瞬、読み間違えたと思った。前回が五・八パーセントだった。〇・三ポイントずつ縮んでいた流れで、三ポイント以上跳んだ。
もう一度、数字を確認した。
二・七パーセント。
間違いではなかった。
画面のコール・コール・プロットを見た。
弧が、整っていた。
歪みが消えていた。MoS₂の高周波弧、ハイドロゲルの中間弧、HfO₂の低周波弧。三つの弧が、それぞれの周波数帯に分かれて、きれいに並んでいた。干渉していない。重なっていない。それぞれが、自分の場所にいた。
理亜瑠はしばらく、画面を見ていた。
弧の形を、目で確かめた。高周波側から低周波側へ向かって、小さな弧、中くらいの弧、大きな弧の順に並んでいる。MoS₂の応答は急峻で、弧が小さく鋭い。HfO₂の応答は緩慢で、弧が大きく丸い。その間にハイドロゲルが、両者を繋ぐ形で中間の弧を作っている。
eml(x, y) = exp(x) − ln(y)。
速い側と遅い側の差が、中間層に現れている。
数式と材料が、同じ形をしていた。
フィッティングのパラメータを確認した。
時定数の値が、これまでの測定の中で最も安定していた。MoS₂:十一マイクロ秒。ハイドロゲル:百二十二ミリ秒。HfO₂:二・〇秒。ばらつきが、測定誤差の範囲に収まっていた。
EML曲線との比較を走らせた。
eml(x, y)のパラメータを最適化して、ハイドロゲルの中間弧のデータに当てはめた。
収束した。
残差が二・四パーセントだった。
四回目の試作でPEDOT:PSS端子から出た八・三パーセントを、三ポイント以上下回った。積層した三層が、単体では出せなかった精度を出した。
理亜瑠はノートを開いた。
書こうとして、手が止まった。
何を書くか決めていたわけではなかった。決めていないのに開いた。開いてから、何を書くべきかが分からなかった。
数字はある。フィッティングの結果がある。時定数の値がある。EML曲線との残差がある。全部書けば、今日の記録になる。
でも今この瞬間、数字よりも先に、別のものが胸の中にあった。
うまく言葉にならなかった。
あの夜の波形を思った。整いすぎた、嘘をついていた波形を。フィルタが削って、正常に見せた波形を。消えていた裾野を。
今日、画面に出た三つの弧は、消えていなかった。
それぞれが、自分の場所にいた。
削られていなかった。
理亜瑠はノートに数字を書き始めた。時刻、スイープ回数、残差、時定数、EML曲線との比較結果。一行ずつ、手を動かして書いた。書きながら、別のことを考えていた。
書き終えてから、最後に一行書き足した。
「EML曲線との一致:残差2.4%。三層それぞれの弧、確認」
それだけだった。
三つの弧を見ながら、別の画面が重なった。
あの夜のモニターの画面だった。百四十二という数字が光り、整いすぎた波形が流れていた。あの波形の終末部に、フィルタが削った尾があった。尾の中に、アラームを鳴らすべき異常があった。アラームは鳴らなかった。モニターは正しく動いていたから。
今夜の画面には、三つの弧がある。MoS₂の弧は小さく、急峻だ。HfO₂の弧は大きく、緩やかだ。ハイドロゲルの弧は、その間で変曲点を作っている。三つが、それぞれの場所にいる。消えていない。削られていない。来た形のまま、画面の上にある。
もしあの夜のモニターの中に、今夜のこの回路があったなら。フィルタが均一にする前に、速い応答と遅い応答の差分を、消さずに抱き込む構造があったなら。あの終末部の尾は、画面の上にあり続けたかもしれない。アラームが、二十一時四十分より前に鳴ったかもしれない。
かもしれない、という言葉を、理亜瑠は声に出さなかった。出せなかった。かもしれない、という言葉は、あの夜を変えない。あの夜は変わらない。変えられるのは、次の夜だけだ。
感想は書かなかった。書けなかったのではなく、書かなかった。数字が全部を言っていた。
廊下に人の声がした。
夕方になっていた。測定室の窓に、斜めの光が差していた。理亜瑠は立ち上がって、伸びをした。背中が鳴った。
データを保存した。バックアップを取った。室生への報告資料を作り始めた。どのデータを持っていくか、どの順序で見せるか、頭の中で並べながら、手を動かした。
今日の結果を、室生はどう見るか。
測定値として正しいかどうかを、まず見る。次にフィッティングの妥当性を見る。それから設計の根拠を聞く。感想は求めない。数字で語れ、と言う。
数字はある。
今日初めて、数字が揃った。
第5節
室生への報告は、木曜の午後に入れた。
資料は四枚だった。印加回数と残差の相関グラフ。三つの弧が整列したコール・コール・プロット。時定数の収束過程を示す表。EML曲線とのフィッティング結果、残差2.4パーセント。並べ方は、失敗から始めて、収束して、一致で終わる順序にした。
ドアをノックすると、「入れ」という声がした。
室生は窓を背にして座っていた。手元に論文はなかった。珍しかった。机の上にコーヒーのカップだけがあった。
「積層チップの統合測定結果を持ってきました」
「座れ」
理亜瑠は椅子を引いて座った。資料を机の上に置いた。
室生は一枚目から順に見た。
相関グラフを見る時間が長かった。横軸の印加回数、縦軸の残差。急峻に下がってから平坦に近づく曲線を、室生は指先でなぞった。触れるか触れないかの距離で、グラフの上を動いた。
「これは」と室生は言った。「全部、同じ試料でやったのか」
「はい。試料を替えずに、印加を繰り返しました」
「何が変化したと考えている」
「界面の電荷分布が、印加によって徐々に安定したと考えています。三層それぞれの時定数が速い順に収束していて、MoS₂が先に安定し、ハイドロゲルが続き、HfO₂が最後でした」
室生は二枚目に移った。
三つの弧が整列したコール・コール・プロットを見た。
何も言わなかった。
理亜瑠は余計なことを言わずに待った。室生が黙るときは、読んでいる。
沈黙が続いた。
長かった。面接のときの沈黙より長かった。報告の中でこれほど長い沈黙は、初めてだった。
室生の手が、プロットの三つの弧の上で止まっていた。動かなかった。
「真知」
室生が口を開いた。声が、いつもと少し違った。低さは同じだった。だが何か別のものが混ざっていた。
「はい」
「フィッティングのモデルは何を使った」
「R-C三段の等価回路です。各段がMoS₂、ハイドロゲル、HfO₂に対応しています」
「EML曲線との比較は」
「四枚目に出ています。ハイドロゲルの中間弧のデータにeml(x, y)を当てはめました。残差は2.4パーセントです」
室生は四枚目を引き出した。フィッティング結果のグラフを見た。実測の点とEML曲線の重なりを、眼鏡の奥で確認した。
また黙った。
今度は短かった。十秒ほどだった。
室生は眼鏡を外した。レンズを布で拭いた。それからかけ直さずに、眼鏡を手に持ったまま、グラフを見た。
眼鏡を外すのは、理亜瑠はこれまで見たことがなかった。
室生の手が、わずかに動いた。
グラフを持っている指先が、紙の端を一度だけ、強く押さえた。
「……現象だ」
室生が言った。
独り言のように低かった。理亜瑠に向けた言葉ではなかった。画面でも、グラフでもなく、室生自身に向けた言葉のように聞こえた。
「現象として、ここにある」
それだけだった。
理亜瑠は何も言わなかった。言う必要がなかった。言えるものが、今この部屋には何もなかった。
室生はしばらく、グラフを見ていた。
窓から午後の光が差していた。光が室生の手の上に落ちて、紙の白さと混ざっていた。
室生がゆっくり眼鏡をかけた。
「測定の再現性を確認しろ」と、室生は言った。声が、報告を受けるときの声に戻っていた。「同条件で三回以上、別の試料で同じ結果が出るかどうかを確かめる。出なければ、今日の結果は偶然だ」
「はい」
「出れば、次の話をする」
「分かりました」
「それと」と室生は続けた。「印加回数と収束の関係を、設計パラメータとして定義しろ。何回印加すれば安定するかを、数字として出せ。感覚ではなく」
「出します」
室生は資料を揃えて、理亜瑠の側に返した。
返し方が、いつもと少し違った。
いつもは机の上に置く。今日は、手で渡した。
廊下に出た。
ドアが閉まった。
理亜瑠はしばらく廊下に立っていた。
「現象だ」という言葉が、耳の中にあった。
室生が感想を言うことはない。評価を言うことも、滅多にない。測定値を見て、次の指示を出す。それがいつもの室生だった。
今日、室生は「現象だ」と言った。
現象として、ここにある。
設計が正しかったかどうかの話ではなかった。材料が期待通りに動いたかどうかの話でもなかった。それよりも前の話だった。物理として、そこに存在している、という確認だった。
室生がそれを言った、ということの意味を、理亜瑠はうまく整理できなかった。整理しようとすると、言葉が滑った。
整理しなくていい、と思った。
数字はある。再現性の確認が残っている。設計パラメータの定義が残っている。やることはある。
廊下の窓から、夕方の空が見えた。
雲が低く、白かった。二月の終わりの空だった。
理亜瑠は歩き始めた。
資料を抱えながら、再現性確認の手順を頭の中で組み始めた。別の試料を三枚作る。同じ印加条件で測定する。残差が三枚とも三パーセント以内に収まれば、今日の結果は偶然ではない。
それが次にやることだった。
「現象だ」という言葉は、廊下を歩く間も、耳の奥にあった。消えなかった。
お読みいただきありがとうございました。
「現象だ」——室生教授がそう言ったとき、理亜瑠は言葉を整理しようとして、整理できませんでした。整理しなくていい、と思った。数字はある。やることはある。それだけでよかった。
次回、第11章「冷たいまま速い」です。




