第12章 生命の波形を刻め
最終章、第12章です。
四月。理亜瑠はエムルを携えて、五年前と同じ病院へ向かいます。萌と二つのモニターの前に並んで、命の波形を見ます。左の画面には整えられた波形、右の画面には削られなかった波形。室生教授が予告なく現れて、三人で同じものを見ます。
「ようやく、君の詩に単位がついたな」——その言葉が、現場で、命の前で、もう一度語られます。
第1節
四月になった。
大学院に入って、ちょうど二年が経った。
理亜瑠は試作デバイスを、専用のケースに収めて持ち歩いた。アルミの小さなケースで、中に緩衝材を詰めた。エムルの試料Aを固定して、接続端子に保護キャップをした。電源は外部から取る。測定系は携帯用に組み直した。研究室のラックに繋いでいたものを、ノートパソコンと小型のアンプで代替した。
準備に二週間かかった。
室生には事前に話した。「病院で現場の信号を取りたい」と言った。「研究目的での観察で、診療には介入しない。データは匿名化して持ち帰る」と説明した。室生は少し考えてから「病院側の許可を取れ」と言った。「それが取れれば、行け」と言った。
萌に連絡した。
「来てくれるんですか」と萌は言った。声に、驚きと何か別のものが混ざっていた。
「行けそうなら」と理亜瑠は言った。「病院側の許可が必要です。生理検査部の部長に話を通してもらえますか」
「します」と萌は即座に言った。「します。絶対にします」
一週間後に、許可が下りた。院内の倫理審査を経て、観察目的・匿名化・診療非介入の条件付きで承認された。患者への説明と同意取得は、萌が担当することになった。
萌が部長に説明した内容を、あとで聞いた。「大学院の研究者が、試作した計測デバイスの観察実験をしたい。診療への介入はなく、既存の記録装置と並行して動かすだけ。データは研究用に匿名化して持ち帰る」。それだけだったと萌は言った。あっさり通りました、と萌は付け加えた。部長が「面白そうだ」と言ったとも。
四月の第二週、理亜瑠は病院へ向かった。
駅から病院まで、歩いて十分だった。以前、臨床検査技師として通った道と同じだった。道の両側に植えられた木が、去年より少し大きくなっていた。葉が出始めていた。柔らかい緑が、朝の光の中にあった。
正面玄関を入ると、消毒液の匂いがした。
懐かしかった。
病院の匂いは、どこも少し似ている。清潔であろうとする匂いと、それでも拭いきれない何かの匂いが混ざった、独特の空気だった。工学部にも大学院にもない匂いだった。臨床検査技師として働いていた頃、毎朝吸っていた空気だった。
生理検査部へ向かった。
廊下を歩くと、患者と家族が行き交っていた。点滴スタンドを押して歩く人がいた。車椅子が静かに通り過ぎた。白衣の人間が早足で横をすり抜けた。この速度感が、研究室にはなかった。現場には、現場の時間が流れていた。
生理検査部のドアを開けると、萌がいた。
白衣を着ていた。胸ポケットにペンが二本挿さっていた。いつもの萌だった。
「先輩」と萌は言った。
「お世話になります」と理亜瑠は言った。
萌は少し笑った。「お世話になります、じゃないですよ」と言った。「久しぶりです、でしょ」
「久しぶりです」
「それでいいです」と萌は言った。「来てくれてよかった」
萌に案内されて、観察に使う部屋へ入った。周産期評価室に隣接した、記録用のスペースだった。モニターが並んでいた。既存の胎児心拍モニタリングシステムが、壁際に設置されていた。
理亜瑠はケースを開けた。
エムルを取り出した。接続端子の保護キャップを外した。既存のモニタリングシステムと並行して、同じ信号を入力として受け取れるように接続した。萌が手伝った。端子の位置を確認しながら、二人でケーブルを繋いだ。
準備が整った。
モニターが二つ、横に並んだ。既存のシステムの画面と、エムルの出力を表示するノートパソコンの画面。
萌が画面を見た。
「これが、エムルですか」と萌は言った。
「これが、エムルです」と理亜瑠は言った。
萌はしばらく画面を見た。何かを言おうとして、言わなかった。代わりに、小さく息を吐いた。
理亜瑠は接続の確認をした。信号経路に問題がないことを確かめた。ノートパソコンに収録ソフトを立ち上げた。サンプリングレートを設定した。記録開始のボタンに指を置いた。
窓の外に、四月の空があった。
理亜瑠は、五年前のことを思った。
同じ病院だった。同じ周産期評価室に隣接した場所だった。あの夜、21時30分に評価室に入ったときの空気を、今でも覚えていた。モニターの青白い光。142 bpmという数字。整いすぎた波形。
今日、その隣に、エムルがある。
削らないものが、そこにある。
記録を開始した。
第2節
最初の症例は、妊娠三十二週の管理入院中の患者だった。
既存のモニタリングシステムが先に動いていた。胎児心拍数が画面に出た。139 bpm。安定していた。波形はきれいだった。ベースラインが揃っていた。アラームは鳴っていなかった。
エムルの画面にも、同じ入力信号が入ってきた。
出力波形が現れた。
理亜瑠は二つの画面を並べて見た。
心拍数は同じだった。ベースラインの形も近かった。周期も一致していた。大きな構造は、二つの画面でほぼ同じだった。
違いは、細部にあった。
既存システムの波形は、終末部が滑らかだった。整っていた。フィルタが通った後の、きれいな波形だった。アラームが鳴らないための波形だった。
エムルの出力波形には、その整い方がなかった。
終末部に、わずかな揺れがあった。小さかった。見落とすほど小さかった。でも、そこにあった。
正常範囲の揺れだった。病的な意味があるとは言えない。この患者のこの波形が、何かを示しているとは言えない。それは理亜瑠にも分からないし、今日の観察でそれを判断する立場にもない。
ただ、エムルはそれを消さなかった。
そこにあるものを、そこにあるまま、出力した。
萌がエムルの画面を覗き込んだ。
「先輩」と萌は言った。声が少し低かった。
「うん」
「これ、前の機械なら、ここ、消えてた」
理亜瑠は画面を見た。
「うん」と理亜瑠は言った。
萌は画面から目を離さなかった。
二つのモニターが、横に並んで光っていた。左の画面には整った波形。右の画面には、整えられなかった波形。どちらも同じ命から来た信号だった。同じ胎児の心臓が出した電気信号が、二つの機械を通って、二つの形になっていた。
どちらが正しいか、という話ではなかった。
左の画面が嘘をついているとも言えない。フィルタは設計の意図通りに動いている。正常に見せるために、正常に動いている。その結果として、何かが消えている。
消えたものが何かは、まだ分からない。
でも消えた、ということは、分かる。
理亜瑠は収録データを確認した。エムルの出力波形がログに入っていることを確認した。サンプリングが止まっていないことを確認した。
次の症例に移った。
妊娠二十八週。切迫早産で管理入院中だった。心拍数は142 bpm前後で推移していた。
理亜瑠は、その数字を見た。
142。
五年前と同じ数字だった。偶然だった。でも、見た瞬間に、あの夜の評価室が戻ってきた。青白いモニター光。佐竹の「数値は正常域だ」という声。整いすぎた波形。自分の違和感が引っ込んだ瞬間。
理亜瑠は画面を見た。
エムルの出力に、終末部の揺れがあった。
前の症例より、揺れが少し大きかった。依然として正常範囲だった。病的な意味があると言える段階ではない。でも、五年前に理亜瑠が「なんか変だ」と思ったあの感覚と、同じ種類の揺れが、今日のエムルの画面にあった。
既存システムの画面は、きれいだった。
139から142 bpmの間で安定していた。アラームは鳴っていなかった。波形は整っていた。正常だった。
正常だった。
理亜瑠は両方の画面を見た。
左の画面の正常と、右の画面の正常は、同じ正常ではなかった。左は整えられた正常で、右は整えられていない正常だった。どちらが本当の正常かは、理亜瑠には言えない。言える立場にない。
でも、右の画面には、左の画面にないものがある。
消さなかったものがある。
萌が記録用紙に何かを書いていた。観察記録だった。萌は理亜瑠に何も言わなかった。でも、手が止まる瞬間があった。エムルの画面を見て、手が一瞬止まって、また動き出す。その繰り返しがあった。
午後になった。
三つ目の症例を観察した。四つ目も入った。それぞれの波形を収録した。エムルは全ての症例で、整えなかった。削らなかった。入力として来た信号の構造を、来た形に近いまま、出力し続けた。
四つ目の観察が終わったとき、萌がコーヒーを二つ持ってきた。
「休憩しましょう」と萌は言った。
二人でスペースの端に置かれた椅子に座った。モニターの光が横から見えた。
「どうでしたか」と萌は言った。
「予想通りでした」と理亜瑠は言った。「エムルは削りませんでした。全ての症例で」
「それが、答えですか」
理亜瑠は少し考えた。
「答えというより、始まりです」と理亜瑠は言った。「削らないことが確認できた。次は、削らなかったものが何を意味するかを調べる段階です」
萌はコーヒーを一口飲んだ。
「長いですね」と萌は言った。
「長いです」と理亜瑠は言った。
萌は笑った。声を出さない、静かな笑い方だった。
「でも」と萌は言った。「来てよかった。見てよかった」
理亜瑠はその言葉を聞いた。
来てよかった。見てよかった。それだけの言葉だった。でも萌が言うと、その言葉には重さがあった。現場に残り続けた人間の言葉だった。毎日、整えられた波形を見続けてきた人間の言葉だった。
「来てよかったです」と理亜瑠も言った。
第3節
五つ目の症例に入る前に、室生が来た。
廊下に人の気配がして、萌が「あ」と言った。
ドアが開いた。室生だった。
白衣は着ていなかった。スーツでもなかった。グレーのジャケットに、地味な色のシャツだった。研究室で見る室生と同じ格好だった。病院の廊下に立つと、少し場違いに見えた。でも室生の立ち方は変わらなかった。背が真っ直ぐで、視線が静かだった。
「先生」と理亜瑠は言った。
「来た」と室生は言った。それだけだった。
理亜瑠は室生が来ることを知らなかった。萌も知らなかったようで、「いらっしゃるとは聞いていませんでした」と言った。室生は「真知には言わなかった」とだけ答えた。
室生はスペースに入って、モニターの前に立った。二つの画面を見た。既存システムの画面と、エムルの出力画面。横に並んだ二つを、黙って見た。
萌が五つ目の症例の準備を始めた。
妊娠三十週。モニタリング開始から数分後、二つの画面に信号が現れた。
室生は二つの画面を交互に見た。
何も言わなかった。
理亜瑠は収録の状態を確認しながら、室生の横顔を見た。室生の目が、エムルの画面の終末部あたりで止まった。止まって、動かなかった。
萌が室生の隣に来た。
三人で、画面を見た。
萌が口を開いた。
「これ」と萌は言った。エムルの画面の終末部を、指先で示した。「前の機械なら、ここ、消えてた」
室生は画面を見たまま、動かなかった。
「うん」と理亜瑠は言った。
沈黙があった。
モニターの光が、静かに揺れていた。信号が流れていた。命が、波形として、画面に描かれていた。
室生がゆっくり口を開いた。
「……消えていないな」
低い声だった。独り言のように低かった。でも部屋の中に、確かに届いた。
「黙らせなかっただけです」と理亜瑠は言った。
室生は画面を見ていた。
理亜瑠も画面を見ていた。萌も画面を見ていた。
三人が、同じものを見ていた。エムルの出力波形。整えられなかった波形。削られなかった終末部。そこにある、小さな揺れ。
室生が、また口を開いた。
今度は、少し間があった。
「……ようやく」と室生は言った。
理亜瑠は室生の声を聞いた。
研究室で聞いたときと、同じ言葉だった。でも今日は、萌がいた。現場がいた。波形が目の前にあった。患者がいた。命が流れていた。
「ようやく、君の詩に単位がついたな」
萌が理亜瑠を見た。
理亜瑠は萌を見た。
萌の目に、何かがあった。泣いているわけではなかった。でも何かが、萌の目の中にあった。現場に残り続けた五年間が、今日この部屋で、この波形を見ている、ということの重さが、萌の目の中にあった。
理亜瑠は画面に視線を戻した。
波形が流れていた。
エムルの出力が、命の揺れを、揺れのまま描いていた。
削らずに。黙らせずに。整えずに。
そのとき、理亜瑠には見えた。
見えた、というのは比喩だった。実際に見えたわけではない。でも、そうとしか言いようがなかった。
三材料が、今この瞬間、波形の形に沿って動いていることが、分かった。MoS₂が信号の立ち上がりを受け取って、先に走る。ハイドロゲルが界面でそれを受け渡す。HfO₂が終末部の揺れを、消さずに抱き込む。HfO₂が終末部の揺れを、消さずに抱き込む。あの夜、デジタルフィルタがノイズと判断して切り落とした場所を、HfO₂は切り落とさなかった。覚えていたからだ。ゆっくりと、緩やかに、誘電体の中に電荷として刻んでいたからだ。三つの時定数が、命の信号の時間軸に、それぞれのペースで折り合っている。
原子が、信号の形に、並び替わっている。
デバイスの原子が、命の波形に応えている。
それが、エムルだった。計算するのではなく、形になる。命の揺れに、材料の揺れが応える。整えるのではなく、共にある。
理亜瑠はその感覚を、言葉にしなかった。
言葉にする必要がなかった。今この部屋に、波形がある。エムルがある。萌がいる。室生がいる。それで全部だった。
画面の波形が、静かに流れ続けた。
第4節
その頃、世界は別の問いと戦っていた。
データセンターの消費電力が、ある国の年間電力消費を超えた年から、冷却という問題が文明の問題になった。計算を速くすること、それ自体は達成された。人類は計算の速さで、かつて想像できなかった問いに答えを出した。疾患を予測した。気候を模擬した。言語を生成した。画像を創造した。
だが、速さには熱があった。
熱には電力が要った。
電力には燃料が要った。
速く計算するために、膨大な電力を消費し、膨大な熱を出し、膨大な冷却設備を動かす。その連鎖が、ある時点から持続できなくなった。より速いチップを作るたびに、冷却のコストが加速度的に増えた。物理の壁だった。シリコンの電子は、速く動けば熱くなる。それは回避できない。
別の道が必要だった。
計算ステップを速くするのではなく、計算ステップそのものをなくす道。演算をするのではなく、演算の形になる材料。数式を解くのではなく、数式の形をした回路。
その道を、一人の臨床工学技士が、工学部時代の基礎と、胎児心電図の夜の傷と、医療材料の界面研究と、EML論文の数式から、手繰り寄せていた。
エムルは、その最初の一歩だった。
最初の一歩は、いつも小さい。
医療用の試作デバイスが、病院の一室で、胎児の心拍信号を削らずに出力していた。それが全てだった。世界の電力問題を解決したわけではなかった。計算革命が起きたわけでもなかった。ただ、三材料が折り合って、命の揺れを黙らせなかった。
でもその小ささの中に、別の計算の形があった。
熱を出さない計算。冷却を必要としない演算。電力を食わずに、物理現象として答えを出す回路。エムルが最終的にそこへ向かえるかどうかは、まだ分からなかった。理亜瑠にも分からなかった。これから先に、壁がいくつあるかも分からなかった。
ただ、方向は見えていた。
数年後、あるデータセンターで実証実験が行われた。アナログ演算素子を組み込んだ新型推論チップが、従来のGPUクラスタと並べて動かされた。消費電力は三分の一以下だった。発熱量は計測誤差の範囲だった。担当エンジニアが記録に残した言葉は短かった。「冷却ファンが、要らなかった」。
その素子の設計思想の源流に、エムル関数回路チップの原型があった。
病院の一室で、胎児の波形を削らなかった、あの小さなデバイスの記録が。
世界はまだ、その繋がりを知らなかった。
でも繋がりは、あった。
ノイズを消さなかった夜から、冷却ファンが要らなくなった朝まで。
その距離は、一人の人間が歩ける距離だった。
第5節
病院を出たのは、夕方だった。
四月の日が、まだ長かった。西の空が橙に染まっていた。病院の正面玄関を出ると、光が正面から来た。目を細めた。
萌が玄関まで見送りに来た。白衣のままだった。ポケットにペンが二本あった。
「また来ますか」と萌は言った。
「来ます」と理亜瑠は言った。「感度と安定性の評価が終わったら、もう少し系統的なデータを取りたい」
「待ってます」と萌は言った。
それだけだった。
萌は病院の中へ戻った。自動ドアが閉まった。白衣の後ろ姿が、廊下の向こうへ消えた。
理亜瑠はケースを持って、駅へ向かった。
来た道を戻った。木の葉が、朝より少し光を受けていた。夕方の角度の光が、葉の裏側から透けていた。緑が、光の色を混ぜていた。
歩きながら、今日の波形を思った。
五つの症例。それぞれの終末部。エムルが削らなかった揺れ。萌の「前の機械なら、ここ、消えてた」という言葉。室生の「消えていないな」という声。
黙らせなかっただけです、と理亜瑠は言った。
それは本当のことだった。
エムルは偉いわけではない。賢いわけでもない。ただ、削らなかった。そこに来た信号を、来た形に近いまま、演算の素材にした。三材料がそれぞれの時定数で動いて、整えるという処理をしなかった結果として、消えなかったものがある。
それだけのことが、五年かかった。
駅の手前にベンチがあった。
理亜瑠はケースを膝の上に置いて、そこに座った。鞄からノートを出した。いつも持ち歩いているノートだった。ページを開いた。
書こうとした。
何を書くかは、決まっていなかった。
決まっていないのに開いた。開いてから、手が動き始めた。
スケッチだった。
回路図でもなく、波形でもなかった。形だった。三材料が折り合う場所の、形のスケッチだった。MoS₂の層をこう置いて、ハイドロゲルをここに挟んで、HfO₂をこの角度で積む。それを少し変えたら、どうなるか。界面の形を変えたら、時定数の分離はどう動くか。
手が止まらなかった。
一ページ書いて、次のページに移った。別の積層の形。別の界面の構造。エムルの次の形。エムルが向かう先の形。
今日のエムルは原型だった。最初の一歩だった。次の形がある。次の次の形がある。命の揺れに応えられる材料の組み合わせが、他にもある。生体信号だけでなく、別の信号にも応えられる形がある。熱を出さずに演算できる形がある。
シグナルの胎動は、止まらない。
夕日が、ノートの白いページに落ちた。
橙の光の中で、理亜瑠はスケッチを続けた。
鉛筆の音が、静かだった。
あたりに人の声がした。駅へ向かう人たちが、横を通った。誰も、ベンチに座ってノートに向かう男を気にしなかった。
理亜瑠はスケッチを続けた。
手が動いた。形が生まれた。また手が動いた。また形が生まれた。
どこかで鳥が鳴いた。夕方の、細い声だった。
ページの端に、今日の日付を書いた。
四月。エムルが病院に行った日。萌が「消えてた」と言った日。室生が「ようやく」と言った日。
波形が命と並んで走った日。
理亜瑠はノートを閉じた。
立ち上がって、ケースを持った。駅へ向かって、歩き始めた。
夕日を背中に受けながら歩いた。
光が長く伸びて、影が前に落ちた。理亜瑠の影が、足より先に進んでいた。
あの日、ノイズの裏で途切れたはずの声が、今度は消えずに残っていた。
エピローグ
その後、世界は少しずつ変わった。
変わり方は、派手ではなかった。革命と呼ばれる出来事は起きなかった。ある日突然、全ての機械が嘘をつかなくなったわけではない。そういう変わり方を、技術はしない。技術はいつも、誰かの研究室の片隅から、静かに始まる。
エムル関数回路チップの原型が医療現場で観察実験を行った翌年、査読付き論文が掲載された。著者は真知理亜瑠、共著者に室生厳の名があった。論文のタイトルは長く、専門家以外には届きにくいものだった。だが論文の中に一行、こういう記述があった。「本チップは入力信号の終末部構造を削除せず、原信号の特性を保持したまま出力する」。その一行を、何人かの研究者が読んだ。
読んだ研究者の一人が、別の素材でエムルの設計思想を試みた。
試みた研究者の発表を、また別の誰かが読んだ。
そうやって、輪が広がった。
数年後、アナログ演算素子を組み込んだ推論チップが、データセンターで実証された。消費電力は従来の三分の一以下だった。担当エンジニアの記録には「冷却ファンが、要らなかった」とあった。その設計思想の源流を辿れば、一本の細い線が、ある病院の周産期評価室まで続いていた。
線の端に、モニターの青白い光があった。
百四十二という数字があった。
整いすぎた波形があった。
そしてその前に立った若者が、波形の裾野が消えていることに気づいて、それでも言葉にできずに、その夜だけは引っ込んだ違和感があった。
引っ込んだが、消えなかった。
消えなかった違和感が、五年間をかけて、エムルになった。エムルが論文になった。論文が輪になった。輪が世界のどこかのデータセンターまで届いた。冷却ファンが要らなくなった。
嘘をつかない機械は、一台では終わらなかった。
削らない回路は、一つの研究室では終わらなかった。
シグナルの胎動は、止まらなかった。
真知理亜瑠は、今日もスケッチを続けている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「黙らせなかっただけです」——理亜瑠はそう言いました。エムルは偉くも賢くもない。ただ削らなかった。整えなかった。そこに来た信号を、来た形に近いまま、演算の素材にした。それだけのことが、五年かかった。
あの夜、142 bpmという数字の前で引っ込んだ違和感が、今日は二つのモニターの差として、目の前にある。感想には単位がない。でも今日、エムルの出力波形には単位がある。数字がある。再現性がある。
萌が「来てよかった」と言いました。現場に残り続けた五年間を持つ人間が言う言葉でした。
そして夕暮れのベンチで、理亜瑠はノートを開きます。次の形のスケッチを描き始めます。手が止まらない。エムルの次がある。次の次がある。シグナルの胎動は、止まらない。
この物語を書いた理由は一つです。「なんか変だ」という感覚を、捨てないでほしかった。数値が正常域であっても、波形が整っていても、自分の感覚が「ここに何かある」と言うなら、その感覚を手放さないでほしかった。理亜瑠はその感覚を五年間、回路にするまで手放さなかった。
読んでくださった皆様に、心からお礼を申し上げます。
智有英土




