第三十七話 忘却の残滓
長らくお待たせしました。無事帰還しましたので更新再開です。
ゆっくりと、どこまでも広く、白い部屋を漂っていた。
見えないほど高い天井からは大粒の雪がちらちらと舞っていて、遠くになればなるほど覆い隠されていく。ただ、遠くからうっすらとセミの鳴き声がしていた。そんな部屋だった。
夢の中のようにそこは心地よく、まどろみの中でどこまでも沈んでいく。
自分以外には何も無く、ただ自分という自意識だけが確かに存在していた。
『君は、隠している』
だが、そんな安らぎの中に、異物がいた。
侵入でもなく、発生でもなく、感染でもなく、まるで最初からそこにあったかのように、ただそれはいた。
白い空間の中で、ただ一点だけ、真っ黒なそれが渦巻いていた。
セミの鳴き声は、そいつからもしていた。不快な鳴き声だった。
『君は、隠しているんだよ』
「なんのことだ……俺は、何も隠してなんかいない」
『君は、忘れているんだ。隠したことを。隠したことすら隠して、無かったことにしようとしているんだよ』
「知らない」
そんな事実は存在しない。
だって、俺は何も知らないのだから。
『知らない。違うね。知らないんじゃない、思い出そうとしていないだけなんだ』
黒い渦はせせら笑うかのようにくるくると加速する。ころころと笑う。
「だから、何を」
『昔のこと』
「昔を忘れるなんて普通のことだ。たいしたことじゃない」
『違う。君は大事なことを忘れている』
「そんなものはない」
『あるよ。君が今の君である所以を君は忘れてしまっている』
「ない。そんなものはない」
否定する。無意識のうちに否定する。
それの言葉に耳を傾けてはいけないと思った。それの姿を見据えてはいけないと思った。黒い靄の向こうにあるものを見るわけにはいかないと、心そのものが叫んでいた。
『その拒否反応こそが証拠だよ』
「……」
『聞かないフリをするつもりかい? 無駄だよ。僕は君の心の中にいるんだから。どうやっても君の意識は僕の言葉を無視できない……拒否するということは後ろめたい何かがあるんだよ。違う?』
「……」
違う、はずだ。
俺は何も覚えていないのだから。
いや、違う。
自分は、何も覚えていないということを確かに知覚している。
何かを忘れた、ということだけは確かに覚えている。
『一体、何を忘れたのかな?』
「……うるさい、俺は知らない」
『君は、何を捨てたのかな?』
「うるさい、もう黙れ」
『どうして、妹は車椅子に座っているのかな?』
「うるさい!」
『どうして、君は叔父さんの家に住んでいたのかな?』
「だまれ!!」
『そうやって、耳を塞いで逃げ続けるんだ。逃げ続けた先で、世話になった叔父さんの跡も継がず、妹のために何ができるわけでもなく、大学で興味もないようなことを勉強し続けて、居場所なんか無くて、ただゲームに逃げて、何が残ったのかな?』
「ちがう! 叔父さんの仕事は継ぐつもりだし、大学に行ったのは風結に勧められてッ」
『人のせいにするなよ。君、この世界に来れて少し安心したんじゃないのかな? 自分のことを誰も知らない世界で、やり直せると思ったんじゃないのかな?』
「ちがう、ちがうちがう、違う!」
『迷宮にたたき落とされて、本当は安心したんだろ? ニナを助けて、自分が何かの役に立って死ねるって安心したんだろう? それなら自分で自分を認められるから』
「そんなことない! 違う!」
『分かってるくせに』
ゆらゆらと、黒い渦がほどけて広がっていく。セミの鳴き声が大きくなる。白い世界をゆっくりと浸食していく。
「違う……」
『僕に嘘はつけない。僕は君のすべてを知っている』
「……お前は……誰なんだ」
『君が隠した昔のことだよ。君が忘れた昔のことだ』
黒い渦は自分の意識の中核にも纏わり付きはじめる。嫌な感情が流れ込んでくる。ドロドロとしたそれは、不思議とすんなりと馴染んでいく。
『僕を思い出したいか?』
「……」
『僕を受け入れろ』
「……」
『黙るなよ。僕を思い出せ。僕を見ろ。君が隠した僕を』
「……嫌だ」
『目を背けるな』
「……嫌だ」
『なんで』
「……お前を知ったら、俺は……俺じゃなくなる気がする」
『……だから?』
「……」
『だからなんだよ! 僕が君になるんだ! もっと上手く立ち回ってやるよ、あの狼女も僕なら倒せる、この迷宮だって簡単に抜けてみせる、君を蔑んでいた大学の連中だって見返せる、なんなら皆殺しだ! 今の僕にはそれができる!』
「……違う」
『何を言ってるんだよ!』
「違うんだよ……」
『違わない! 君は僕になるんだ! 僕に戻るんだ!』
黒い渦が一気に広がり、俺を包み込んでいく。徐々に自意識が削られていくのを感じ、そこに他の何かが流れ込んでくる感覚を得た。
それは絶望であり、羨望であり、怒りであり、憎悪であり、嫌悪であり、怨嗟であり、そして、それは。
『無理矢理にでも戻してやるよ。本来の形に』
それは。
**
「あぁああああアアアアア! あぁあ! ぉおおおああああ!」
青年は絶叫を上げ、靄の奥の顔を抑えながら暴れ続けていたが、周囲の澱みは徐々にその動きを収束させつつあった。その様子を睨みながら狼は警告する。
「マズいね。もう一人の人格の方が優位に立ちはじめてるんだ。急いだ方がいい」
「……じゃ、行くよ、クモちゃん!」
「うむ!」
意気込む少女2人。目を瞑り、青年に念話で干渉しようとする。
「……ッ!?」
だが、弾かれる。瞬間的な頭痛のような衝撃が走り、2人はふらついた。慌てて狼は彼女たちが倒れる前に抱きかかえた。
「言わんこっちゃ無い!」
「くっ……何が起きた?」
戸惑いながらクモの少女は頭を抑える。一方で、ニナは痛みに顔をしかめながらも冷静に状況を判断した。
「……もうかなりユキトの頭の中が浸食されてるみたい。もう一人のユキトに弾かれちゃったんだ。拒否された。距離も離れてるし……」
「多分そうだろうね。澱みが安定して来てもう一つが強固になってきてる。……ま、予想通りかな」
ニナに同意しながらも、狼の表情は変わらない。その表情に焦りは無かった。それを見てクモの少女は訝しげな表情を浮かべた。
「……何かどうにかする方法があるのか?」
「荒療治だけどね、あるよ」
「荒療治?」
「ま、簡単なことさ。気絶させちゃえばいいんだよ。気絶しちゃえば抵抗なんて出来ないしさ。その隙に念話を繋げて脳内に侵入すればいい……ま、気絶させるのは任せてよ。でも、アレは気絶しても澱みの影響ですぐ覚醒する。ボクもアレを気絶させられるのは不意打ちだけ、つまり油断してる今だけ……タイミングは一回、一瞬だけだ」
さらに、念話の効果を高めるためには直接青年に触れるべきである。そうなると、かなり条件はシビアになる。
「それに、今のもう一人の人格が定着しつつある状況だと、こっちから攻撃したら最後、君たちも攻撃対象になるよ。君たちが失敗したらそれは君たちが死ぬってことだ。それでもいいなら」
「いいよ、お願い」
「うむ」
即答する2人。狼はそんな様子を見て、ぽりぽりと頬を掻いた。
「……やれやれ。そんなに長い期間一緒にいるわけでもないだろうに。どうしてそんなに彼のために動けるのさ」
それを聞いて2人は顔を見合わせた。そして、すぐに狼に向き直る。
「だって、ねえ?」
「まあなあ? 主殿はなんというか、なあ」
「なんかほっとけないし、……もうユキトは家族みたいなものだもの」
狼は難色を示したように顔をしかめた。
「……あっそ。家族、家族ね。……まあいいか。じゃあ行くよ。5秒後に気絶させる。いつでもユキト君に触れるようにスタンバイしといて。念話が繋がったらすぐに共鳴を誘発させてバイパスを作るんだ。……まあ、そのあとは任せるよ」
「うん!」
「うむ!」
はあ、と一瞬嘆息した狼は、表情を切り替え青年を見据えると、一気に澱みを噴出させて彼に向かって突っ込んだ。
青年も即座に反応を返す。周囲を竜巻のように旋回していた澱みの槍が一斉に狼に向けて射出された。地面から空中まで、100メートル四方はあるかという壁となりそれは襲いかかる。絶対命中の一撃だ。
「甘いよん」
狼は澱みの爪を出現させ、地面を抉り取る。そして、抉れた地面に身体を落とし、槍の壁をくぐり抜けるるようにして攻撃をすべてやり過ごし、さらに澱みを噴出させて加速する。
「こういうの、君たちの世界じゃなんていうんだっけ?」
身体をロケットのように射出した一撃。両足をそろえた蹴りが青年の頭部に直撃した。さながら、それは。
「あーそうそう、ライダーキックだ!」
ドロップキックである。がくん、と青年の動きが止まる。
そんな間違いはつゆ知らず、ニナとクモの少女は昏倒しかける青年に向けて全速力で走る。
だが、射出されたままだった大量の澱みの槍が牙を剥いた。
狼は、ギョッとしたように振り返る。
「まさか……ッ、自動追尾!?」
思わず、ニナたちの脚は竦む。迫り来る澱みの槍。あまりに膨大なそれを避けることはできないだろう。
だが、ニナたちは戻らない。脚は竦んでも、意思は怯まない。
「ユキトぉおおおおお!」
全力で駈ける。ただ、前を見据えて走り、ニナは叫んだ。
その瞬間、その叫びに反応するかのように澱みの槍が揺らいだ。その隙を見逃さず、彼女たちは青年を目指して走り抜け、無事彼の元に到達する。
「ユキト!」
「主殿!」
そして、2人の幼い手が青年の仮面に触れ、小さな輝きを放った。
「念話!!」
2人の声が重なって、3人の意識が重なる。




