第三十五話 自分、あるいは、乖離した自分
"ニナ視点"
全身を苦痛が襲っている。
特に痛むのは腹部だ。
だが、致命傷というほどではない。一時は少し危なかったが、自分の自動回復スキルもあり徐々に回復しているのが分かった。這うようにしてクモちゃんの方へと近寄り、彼女に触れ自動回復を共有する。彼女も命に別状はなさそうであり、苦しそうに身じろぐもその眼光は鋭く、一点をただ見つめていた。
私たちが受けたのは本来は致命傷といっても差し支えなかったと思う。
だが、今こうして命を保っているのはあの青年のおかげだ。
私たちを助けるために発狂した彼のおかげだ。
「ユキトのバカ……!」
私とクモちゃんが見つめる中、ユキトの身体が痙攣するように跳ねる。
彼の身体の周囲にズルズルと黒い靄のようなものが這い回り、それが足下から彼を包んでいく。
「あ、ァ、あ、アァあ、あぁああ」
開いた口から漏れるのは空気ではなく、やはり黒い靄。
澱みだ。
目は虚ろで、ただ中空に向いており、刀を握っていた手から力が失われ、からん、と軽い音を立てて短刀が地面に落ちた。
廃人になってしまった。
原因はもちろん、神聖領域への過剰干渉だ。
この世界の生き物が神聖領域にどれだけ干渉できるかはステータスによって決まっている。それは、神聖領域にどれだけ踏み込めるか、ということだ。限界を超えなければどれだけ干渉しようが頭痛や目眩など身体に異常が出る程度で済む。
だが、限界を越えれば別だ。
干渉された神聖領域は侵犯者に牙を剥く。
精神そのものを蝕み、二度と踏み込めないように破壊するのだ。
私はそうなった人を見たことは無い。だが、そうなれば終わりだということはオデット様から聞いてよく知っていた。
「……ユキトぉ……」
そして、精神の死はすなわちその人物の死を意味する。
ズルズルと澱みがユキトの身体を蝕んでいく。彼の身体の半分以上は澱みに飲まれてしまっていた。
「あぁ、あ、アァああおおおおああぁああああ――」
ズルズルとその虚ろな顔を澱みが覆っていく。まるで、苦しむ顔を隠す仮面のように。
手を伸ばす。
だが、血を失いすぎた身体は言うことを聞かず、その手は届かず落ちる。
私は、また失ってしまうのか。
奇しくも、両親を失った時と同じこの階層で。
「やだよ、ユキト……」
「……ニ、ナ嬢」
しかし、そこで掠れた声で呼びかけられた。
「……クモちゃん」
以前の姿とはかけ離れ、愛らしい少女の姿になった彼女は、厳しい目でユキトを睨み続けていた。
「あれは……普通の発狂じゃ、ない」
「え?」
「普通の発狂であんな風に澱みは発生しない! 何かがおかしい、何かが……」
おそらくは、アラクネレプリカの記憶から得た知識なのだろう。
だが、言われてみればそうだ。
神聖領域とは絶対神の領域。
絶対神の象徴たるエーテルと澱みは相反するものであり、神聖領域の干渉によって澱みが発生することはおかしいとも言える。
異常事態に重なる異常事態。
「……待って、じゃあ……何が、起きてるの」
「……分からない。だが……」
少なくとも、どちらにしろ状況は絶望的だ、と彼女は呟いた。
**
「……ふぅん」
狼の少女はゆっくりと距離を詰めながら、黒くなっていく青年を品定めするように眺めた。
すでに顔は澱みに覆われて一切見えず、ただ、靄の切れ目からまるで無数の目のように赫光が漏れ出ていた。
「ま、とりあえずここは普通に及第点か。当然かな。そうならないと困るよ」
「……」
青年は動かない。全身は黒い靄に包まれ、ただ立ち尽くしたまま身じろぎ一つしない。
「おーい、生きてる〜?」
気軽にスキップしながら少女は近づいていき、ツンツン、と黒い靄をつついた。だが、反応はない。黒い靄だけが少女の指を包み込む。彼女はぺろり、と靄を舐めとりながら首を傾げた。
「おかしいな。動いてくれなきゃテストの意味が無いのに。……んじゃ、まあ……力ずくでいこっか」
ずるり、と彼女の踵のあたりに澱みが発生し、爆発する。その勢いで急加速した蹴りが青年を吹き飛ばした。澱みが尾を引きながら伸びていき、轟音とともに彼は壁に激突した。
「ァ」
彼の口から声が漏れる。
違う。
声ではない。
「ァあァオレは俺は君でオマエで俺はどうして? 分かる分からないどうして違うちがうちがう違う違う!!!」
ただの、不協和音だ。絶叫とともに靄の仮面が裂け、真っ赤に変色した澱みが零れる。
そして、彼を包んでいた黒い靄が一気に口に集束した。
「チガクナイんだよ!」
そして、ジャベリンのようにして敵対対象に向けて射出された。
「ひゃっ!?」
音速以上の速度で飛来した澱みの槍を少女はギリギリで避けた。凄まじい速度ではあるが威力はそこまでではないと判断し、即座に澱みの爪を展開する。
「うわ、びっくりした。変な声でちゃったじゃん。んじゃ、ようやく試験開始だよ!」
「違う違うチガクナイチガワナイ、俺はボクハそんなんじゃそうなんだよ!」
発狂した残滓と断片が激突する。
澱みの爪が澱みを抉り、澱みの槍が澱みを貫く。
「俺はそんなんじゃァアアアアアアアアアア、ない!!!」
「さっきから何を言ってんだろうね、君は!」
少女の澱みの爪が青年を地面に叩き伏せる。が、激突の瞬間、青年の腕部、腰、脚部の三カ所から地面に水平に澱みが吹き出し、魔の手から身体を逃がすように吹き飛ばした。紫電一閃のようにも見えたが、以前よりも明らかに放出量が多かった。
「学習しないね、君も! そんなんじゃ駄目なんだってば!」
少女は即座に追撃にかかる。多方向に澱みを吹き出すことでより三次元的な動きを可能にする彼女の技に対し、彼のそれは直線的すぎる。
「オマエは俺じゃない!」
「なっ」
だが、彼は吹き飛びながら口から澱みの槍を射出する。不意打ちのような一撃は少女の身体に次々と直撃し大きくのけぞらせた。
「ッ、いったいなあ!」
だが、彼女の身体に目立った傷は無い。自動的に展開された澱みの膜が槍を弾き飛ばしてダメージを和らげているのだ。
「オマエは俺で俺はボクじゃない!」
だが、彼の攻撃は止まらない。連続して放たれていた槍は次第に繋がってレーザーのようになる。彼は地面に転がったまま顔だけを彼女の方へ向け、さらに出力を増し澱みの膜を貫こうとする。一方、少女は不適に笑った。
「あは! 出力は流石、ホンモノってところかな! でも駄目、工夫が足りなッ……って複数同時撃ち!?」
貫けないことが分かったのか、彼は絶叫しながら熱線を乱射した。口元に集束する澱みの球は6。それが断続的に熱線を放ち、少女を襲う。
「うわ、焦った焦った。まあ、発狂してて助かったかなー。狙いが曖昧すぎて無駄撃ちにしかなってないよん。じゃ、そろそろこっちからも……ッぁあ!?」
そんな彼女の言葉は途中で途切れた。かは、と息が漏れる。
彼女の背中には数十本に及ぶ澱みの槍が突き刺さっていた。その出所は地面。正確に言えば、地面に寝転がったままの青年の背中だ。
彼の背中からは複数本の澱みの鞭が生えはじめていた。一見クモの少女のものにも似ていたが、それはおぞましさと言う一点で大きく異なっていた。その鞭が地中から少女を奇襲したのだ。
「耐えるなよ! 認めろよ! ボクを認めろ! ボクを隠すな! オマエなんて存在しない! 俺は俺だ!」
「ッ、熱線は……デコイかッ!」
少女は口の中に広がる血の味に顔をしかめながらも澱みの爪で背中に突き刺さった槍を切り落とすと、分断された槍は霧散した。
少女は表情を一転させ、青年を睨む。
「君が偽物なんだよ! ボクがホンモノなんだよ! ちがうちがうちがう!」
「君……発狂してないな?」
本来ならば神聖領域干渉限界を越えれば廃人になる。しかし、唯一それを回避する方法が存在する。
大量の澱みを内包することで神聖領域、すなわちエーテルによる精神崩壊を拒絶することだ。だが、体内で澱みとエーテルがぶつかり合うことで結局のところ精神的には大きなダメージを負う。それが発狂に繋がるのである。理論上は一般的な残滓が澱みとエーテルの競合によって好戦的になったり、廃人になるのと一緒である。
だが、彼の場合は状況が異なる。
発狂した場合、一般的に理性は消滅する。廃人のように植物同然になるか、獣のようになってしまうのだ。
であれば、今の戦い方はおかしい。
なにより、彼は脈絡が無いように聞こえるものの言葉を発している。
つまり、理性は存在している。
ついでに言えば、大量の澱みが彼の周囲に発生し続けていることも本来ならば異常であり、クモの少女同様真っ先に警戒すべきなのだが、狼の少女はそこについては気にも留めていなかった。
迫り来る槍の追撃を空中を駈けて避けながら少女は思考する。
「いや、もともと発狂に対する防衛機構は組み込まれてる。でもそれは発狂を一時的なものに抑えるだけのものだったはず……! 理性を失っていない、でも……様子は明らかにおかしい。発狂の方向が変なんだ……好戦的なのは間違いないし、元の人格じゃない、なにかおかしいんだ、なにかが。防衛機構はしっかり発動してるからエーテルの干渉は間違いなく起きてる、精神に異常を来さないはずが無い。でも、精神を保つスキルはない……あー、もう! あのバカ! 一体どんな奴を現世から持って来たのさ!」
「ボクボクボクボクボク俺は何も見てない俺は何も知らない俺は何もやってないボクハやった! ボクがやった! ボクは知っている!」
青年の身体から吹き出す澱みはさらに勢いを増し、階層そのものを埋め尽くす勢いで澱みの鞭が広がっていく。その数は数百、数千に及び、避け続ける狼を執拗に追い続ける。
「ていうか、とっくに発狂はストップしててもおかしくないんだけどね! エーテルの干渉なんてとっくに終わってる! それに合わせて澱みの噴出も止まるはずなんだけどなー、これは……意図的なのか?」
「ボク以外はどうなったっていいじゃないか! 違う! 俺以外が大事なんだ! チガウ! ボクだけがシアワセでボクだけがコウフクでボクだけが助かればいい!」
絶叫を続ける青年。靄の仮面の隙間から見えていた苦痛に歪められていた顔が、徐々に何かに取り付かれたように歪んだ笑みを浮かべはじめた。それに伴ってさらに爆発的に澱みの放出量が増す。
まさに悪鬼。赤黒い澱みを放出し続ける仮面と、漆黒の澱みを垂れ流し続ける身体。
それを見て、狼の少女は何かに気付いたように動きを止めた。紙一重の所を澱みの槍が通り過ぎていく。
「ボク、俺……? そうか、そういうことなのか! なるほどね——」
「ボクを、ボクを、ボクを!」
彼女はゆっくりと、表情をぐるぐると変え続ける仮面の奥の青年の顔を見据えた。
「——ユキト君以外に、もう一人中にいるのか」




