削除された星空
第9話 削除された星空
星空から、一つの星を消すことはできない。
望遠鏡の記録を削除することはできる。
観測予定を変更することもできる。
研究者へ守秘義務を課し、論文の発表を止め、数値を非公開にすることもできる。
だが、宇宙そのものを書き換えることはできない。
光は進む。
重力は空間を曲げる。
その痕跡は、どれほど小さくても、どこかに残る。
誰かが空を消そうとすればするほど。
消された場所だけが、不自然な空白として浮かび上がる。
◇
2251年5月8日。
地球圏報道ネットワーク。
調査報道部の壁には、数百枚の資料が貼り付けられていた。
月面造船所。
恒星間航行用エンジン。
完全閉鎖生命圏。
種子、動物細胞、微生物の収集。
小惑星資源の大規模採掘。
そして、世界中の天文台で同時期に起きた観測計画の変更。
レア・モーガンは、壁の中央に表示された星図を見つめていた。
そこには、一つの暗い領域があった。
星がないわけではない。
むしろ、背景には無数の恒星が存在している。
だが、その範囲だけ、過去数か月の高精度観測データが異様に少なかった。
「空白の形が、動いてる」
レアが言った。
編集長ナディーム・クロウが、彼女の隣へ立つ。
「空白が動く?」
「削除された観測座標を、日付順に並べた」
レアは星図を拡大した。
最初の月。
観測停止区域は広い。
翌月。
少し移動している。
さらに翌月。
また別の場所へずれていた。
「同じ場所を隠しているわけじゃない」
「何かの位置を追って、隠す範囲を動かしている」
「そう」
「衛星?」
「軌道が違う」
「彗星」
「明るさがない」
「ブラックホール」
「それなら、もっと早く騒ぎになってる」
レアは別の画面を開いた。
公開データの片隅に残っていた、背景恒星の光度変化。
星そのものが明るくなったわけではない。
光が一時的に増幅されている。
重力レンズ効果。
手前を通過する重い天体の重力によって、背景の星の光が曲げられ、明るく見える現象だった。
「この恒星は、二十三時間で光度が〇・七パーセント上昇して、元へ戻ってる」
「変光星では?」
「スペクトルは変わってない。恒星活動でもない」
「では、重力レンズ」
「それだけじゃない」
別の恒星。
別の日時。
似た光度変化。
さらに数週間後、別の方向にある恒星。
光の増幅量も、持続時間も異なる。
だが、それぞれの位置をつなぐと、一つの軌跡ができた。
何かが、背景恒星の前を横切りながら移動している。
目には見えない。
だが、そこに質量がある。
「これを隠すために、観測記録を消した」
レアが言った。
「まだ断定はできない」
「公開記録だけでここまで見えるなら、専門家はとっくに気づいてる」
「その専門家が誰も発表していない」
「発表できないのよ」
ナディームは壁の資料を見た。
「国際規模の秘密保持命令」
「月、火星、地球の研究機関が全部従ってる」
「何を隠していると思う」
レアは星図を見つめた。
「まだ分からない」
「でも、何かは来ている」
「ええ」
声に迷いはなかった。
「こっちへ」
◇
レアは、まず天文学者へ質問を送った。
対象は十二人。
重力レンズ観測。
恒星固有運動。
暗黒天体探査。
中性子星。
ブラックホール。
太陽系外縁天体。
それぞれの分野で世界的に知られた研究者たちだった。
質問は単純だった。
『過去一年以内に、非公開指定された重力レンズ観測は存在しますか』
『世界各地の天文台が、同一方向へ観測を集中させているのはなぜですか』
『移動する暗黒天体の検出事例を把握していますか』
『この天体は、太陽系へ接近していますか』
最初の三時間。
返事はなかった。
六時間後。
一人から返信が届いた。
『取材には応じられません』
理由は書かれていない。
その直後。
二人目。
『当該分野の研究から離れているため回答できません』
レアは眉をひそめた。
その研究者は、三週間前まで重力レンズ観測チームの責任者だった。
三人目。
『観測データの解釈には慎重さが必要です。根拠のない不安を広げるべきではありません』
質問への答えではない。
四人目からは、自動返信。
長期休暇中。
五人目。
通信アドレスが無効。
研究機関のウェブサイトからも名前が消えていた。
「一人ずつ消えてる」
レアがつぶやく。
「研究から外された?」
ナディームが尋ねる。
「分からない。でも全員、同じ言葉を避けてる」
「接近」
「そう」
重力レンズについては否定しない。
暗黒天体についても否定しない。
ただし、太陽系への接近については答えない。
「答えないこと自体が、答えになっている」
レアは次の取材先を開いた。
◇
理論物理学者への質問状は、さらに具体的だった。
『太陽質量級の暗黒天体が太陽系へ接近した場合、どのような影響が考えられますか』
『水星軌道より内側を通過した場合、惑星軌道は維持できますか』
『カイパーベルトおよびオールト雲への重力攪乱は、内惑星への天体落下を引き起こしますか』
『人類文明が存続できる可能性はありますか』
この質問を作るために、レアは公開論文を読み続けていた。
恒星接近。
連星系の崩壊。
中性子星の固有運動。
重力散乱。
潮汐破壊。
惑星系の不安定化。
分からない用語を一つずつ調べ、専門家の計算を追った。
その結果、彼女の中に一つの恐ろしい仮説が生まれつつあった。
目に見えない天体。
非常に大きな質量。
高速で移動。
恒星間空間から接近。
政府が太陽系外へ向かう方舟を建造。
これらが同じ理由であるなら。
地球だけの危機ではない。
太陽系そのものが、危機にある。
◇
返信は、前回より少なかった。
多くの研究者は沈黙した。
だが、ある老物理学者が短い通信を返した。
ヘンリク・ファルク。
恒星重力相互作用の研究で知られる、八十二歳のスウェーデン人だった。
『質問の前提となる数値は、どこから得ましたか』
レアはすぐに返信した。
『公開観測データと、複数の削除記録から推定しました』
『水星軌道より内側という数値は、公開情報には存在しません』
レアの手が止まった。
彼女は質問状の中で、具体的な距離を書いていなかった。
ただ「太陽へ極端に接近した場合」とだけ書いた。
それなのにファルクは、自分から水星軌道という言葉を使った。
『私は水星軌道とは書いていません』
返信まで十五分。
『これ以上の通信はできません』
『あなたは何を知っているのですか』
『モーガン記者』
次の文章は、すぐに届いた。
『この記事を書こうとしているなら、数字を間違えないでください』
『どの数字ですか』
長い沈黙。
やがて、一行だけ返ってきた。
『残された年数です』
通信は切断された。
◇
レアは、ファルクとの通信記録を何度も読み返した。
残された年数。
それは、彼女が最も知りたかったものだった。
危機は来週ではない。
来年でもない。
そうでなければ、政府は数十年規模の建造計画を始めない。
第二次宇宙開発時代の計画期間は五十年。
方舟の想定航行期間は五百年。
建造開始はすでに始まっている。
「危機まで、五十年以上はある」
レアが言った。
「なぜ」
ナディームが尋ねる。
「完成まで五十年。それより前なら間に合わない」
「逆に、百年以上あるなら、ここまで急がない」
「数十年」
「曖昧だな」
「それでも、人類の歴史では一瞬よ」
レアは指で机を叩いた。
「生まれた子どもが、老人になる前に来る」
「それを百四十億人へ発表したら」
「世界は変わる」
「世界は壊れる」
月面技術者の言葉と同じだった。
だが、壊れるから隠してよいのか。
壊れないように、知らないまま働かせるのか。
人類生存計画のために税金を使い、土地を使い、資源を使い、人間を危険な現場へ送りながら。
その目的だけを隠す。
「彼らは、全員に嘘をついている」
レアが言った。
「全員を救えないからだろう」
「だからこそ知らせるべきよ」
「知ったら、誰もが船に乗ろうとする」
「当然でしょう」
「船には乗れない」
「それを誰が決めるの」
ナディームは答えなかった。
その問いは、取材の問題ではなかった。
人類全体の問題だった。
◇
レアは、国際連合地球圏評議会へ正式な質問状を送った。
公開質問状。
回答期限、七十二時間。
質問項目は二十六。
一。
第二次宇宙開発時代構想と、恒星間航行船建造計画の関係。
二。
月面ルナ・アークヤードで建造中の巨大構造物の目的。
三。
火星ガイア・ドームが、恒星間航行五百年を想定している理由。
四。
世界規模の種子、動物細胞、微生物保存計画の目的。
五。
オデュッセウス・ドライブの開発目的。
六。
世界各地の天文台で削除、非公開指定された観測記録の存在。
七。
移動する暗黒天体の検出有無。
八。
その天体が太陽系へ接近している可能性。
九。
太陽系の安全性に関する政府評価。
十。
人類存続への危険性。
そして最後。
二十六。
『世界政府は、人類の存亡に関わる情報を、世界市民から意図的に隠していますか』
質問状は、地球圏報道ネットワークの公式サイトに全文掲載された。
公開から十分で、閲覧数は一億を超えた。
一時間後には、世界中の言語へ翻訳された。
政府発表を疑う者。
陰謀論だと笑う者。
レアを英雄と呼ぶ者。
混乱を煽る危険人物と非難する者。
反応は分かれた。
だが、誰も無視できなくなった。
◇
国際連合地球圏評議会。
極秘会議室。
大型スクリーンには、レアの質問状が表示されていた。
エレナ・ヴァルガス議長は、最後まで黙って読んだ。
「どこまで漏れた」
情報統制局長が答える。
「方舟計画の全体像には到達していません」
「十分近い」
「ノクスという名称は出ていません」
「時間の問題です」
天野理沙は、会議室の端に座っていた。
質問状に並ぶ項目の多くは、正確だった。
推測で埋められている部分もある。
だが、方向は間違っていない。
「回答は」
エレナが尋ねる。
「全面否定を提案します」
安全保障担当者が言った。
「恒星間航行研究は長期的な科学計画。天文データの非公開は防衛上の理由。ガイア・ドームは火星自立研究」
「それで通ると思いますか」
理沙が尋ねた。
「通すのです」
「科学者たちが黙り続ければ?」
「守秘義務があります」
「全員が?」
理沙は画面を指した。
「彼女は、すでに観測座標を絞り込んでいます」
「公開データをさらに制限する」
「それこそ証明になる」
情報統制局長が言う。
「記者を拘束する案もあります」
理沙の顔が変わった。
「何の罪で」
「国家安全保障を脅かした」
「存在する資料を調べ、質問した罪?」
「世界秩序を守るためです」
「彼女一人を消して、空まで消せると思ってるの」
会議室が静まった。
理沙は続ける。
「望遠鏡は世界中にある。大学にも、企業にも、個人所有の観測機にも。ノクスは動いている。重力レンズはまた起きる」
「そのたびに統制する」
「七十年間?」
エレナの視線が理沙へ向いた。
会議室で、その数字を不用意に口にした者はいなかった。
七十年。
レアがまだ掴んでいない、最も重要な数字。
「天野博士」
情報統制局長の声が低くなる。
「発言に注意してください」
「ここは極秘会議室でしょう」
「問題は意識です」
「意識?」
「あなたは、公表すべきだと考えている」
理沙は否定しなかった。
「私は、最初からそう言っています」
「今公表すれば、方舟建造は止まる」
「隠し続ければ、漏れた瞬間に全部止まる」
エレナは目を閉じた。
議論は、発見直後から繰り返されてきた。
公表するか。
隠すか。
真実を知らせるか。
秩序を守るか。
だが状況は変わり始めている。
秘密は、もう閉じた部屋の中だけにはなかった。
◇
「モーガン記者へ限定的な説明を行う案はどうですか」
エルマン博士が提案した。
会議室の視線が集まる。
「何を説明する」
「危険な天体を観測中であること」
「ノクスを明かすのか」
「詳細は伏せる」
「彼女が受け入れると思うか」
「少なくとも、完全否定よりは時間を稼げる」
安全保障担当者が首を振る。
「記者一人だけに知らせるなど、あり得ない」
「では、彼女は自力で見つけます」
「その前に止める」
「どうやって」
エルマンの声が強くなる。
「彼女を逮捕する? 事故に見せかける? 記事を消す? 世界中が質問状を読んだ後で?」
「博士」
「秘密を守るためなら、何人でも犠牲にするのか」
「百四十億人の混乱を防ぐためです」
「百四十億人を救うためではない」
重い言葉だった。
実際に方舟へ乗れるのは、さらに減っていた。
一隻あたり十二万人。
建造予定船数も、資源と時間の制約から見直されつつある。
救える人数は、最良でも数百万人から一千万人程度。
百四十億人の大半は、地球に残る。
それを知った時、世界はどうなるのか。
◇
国連の公式回答は、期限の十八時間前に発表された。
『第二次宇宙開発時代構想は、人類文明の長期的発展と地球圏の持続可能性向上を目的とするものです』
『恒星間航行技術および閉鎖生命圏研究は、将来の科学探査に備えた基礎研究です』
『現在、太陽系の安全を直ちに脅かす天体は確認されていません』
『一部の天文観測記録は、機器校正、個人情報、知的財産、安全保障上の理由から非公開とされています』
『人類の存亡に関わる情報を意図的に隠しているとの指摘は事実ではありません』
全文を読み終えたレアは、椅子へ深く座った。
「否定した」
ナディームが言った。
「言葉を選んでる」
「どこが」
「直ちに脅かす天体は確認されていない」
「直ちに」
「今すぐではない。でも将来は否定してない」
「考えすぎじゃないか」
「公文書で偶然こんな書き方はしない」
さらに。
移動する暗黒天体の存在については、直接答えていない。
恒星間方舟の建造についても否定していない。
質問へ答えたように見せながら、核心だけを避けている。
「何かを隠している」
レアが言った。
「それはもう分かってる」
「違う」
彼女は国連回答を閉じた。
「規模が分かった」
「どういうこと」
「ただの軍事機密や新技術なら、こんな答え方はしない」
質問状を無視することもできた。
レア個人を信用できない記者として切り捨てることもできた。
それなのに国連は、世界向けに公式回答を出した。
それだけ、質問が核心に近かったということ。
「彼らが恐れているのは、技術が漏れることじゃない」
「何を恐れてる」
「世界が真実を知ること」
◇
その夜。
レアの個人通信へ、暗号化された着信が入った。
発信元不明。
音声のみ。
「モーガン記者ですか」
女性の声だった。
変声処理が施されている。
「そうです」
「質問状を読みました」
「あなたは誰」
「答えられません」
「国連関係者?」
沈黙。
「天文学者?」
返事はない。
「何を知っているの」
「あなたが探しているものは、星ではありません」
レアは録音を開始した。
「目に見えない天体?」
「はい」
「ブラックホール?」
「違います」
「では何」
「死んだ星です」
レアの心臓が強く打った。
「白色矮星?」
「もっと小さい」
「中性子星」
通信の向こうで、短い呼吸音がした。
否定しない。
「孤立中性子星ですね」
「これ以上は言えません」
「太陽系へ近づいている」
「……はい」
レアは立ち上がった。
「どのくらい近くまで」
「その質問には答えられません」
「地球へ衝突する?」
「地球ではありません」
「太陽?」
長い沈黙。
その沈黙だけで、十分だった。
「いつ」
「記者さん」
「何年後なの」
「今は、まだ書かないでください」
「理由を教えて」
「方舟が造れなくなる」
レアは目を閉じた。
すべてがつながった。
「やはり方舟なのね」
「今の世界に、真実を受け止める準備はありません」
「準備を奪っているのは、あなたたちでしょう」
「私たちにも正解は分かりません」
「でも、選ぶ権利はある」
「選択肢がない人にも?」
レアは言葉を失った。
「船に乗れる人は、ごく一部です」
「何人」
「答えられません」
「選考はもう始まっているの?」
「いいえ」
「本当に?」
「少なくとも、公式には」
不穏な言い方だった。
「あなたは、なぜ私に話したの」
「誰かが、記録を残す必要があるからです」
「公表しろということ?」
「分かりません」
「では何を望んでるの」
相手はしばらく黙っていた。
「私たちが、正しいことをしているのか」
声が少し震えた。
「誰かに判断してほしい」
通信は、その言葉を最後に切れた。
◇
レアは、通信記録を何度も再生した。
死んだ星。
中性子星。
太陽系へ接近。
地球ではなく、太陽が危険。
方舟。
乗れるのはごく一部。
もう疑いではない。
人類の存亡に関わる危機が、隠されている。
ナディームは通信を聞き終え、長い時間黙っていた。
「本物だと思うか」
「細部が、これまでの資料と一致する」
「声の人物は」
「分からない」
「罠の可能性」
「ある」
「なら記事にはできない」
「今はね」
レアは星図を開いた。
重力レンズの発生地点。
観測データの空白。
移動方向。
速度。
専門家との通信。
ファルクの発言。
すべてを組み合わせれば、天体の軌道を大まかに推定できるかもしれない。
「証拠を取る」
「どうやって」
「自分たちで観測する」
「報道局が望遠鏡を持っているとでも?」
「持ってない」
レアは検索画面を開いた。
「でも、空を見てる人は、政府だけじゃない」
◇
世界各地には、独立した天文学者がいる。
大学を離れた研究者。
民間観測所。
市民科学者。
小型望遠鏡を連携させる観測ネットワーク。
個人所有とはいえ、二十三世紀の装置は一世紀前の大型望遠鏡を超える性能を持つものもある。
レアは、国連の管理下にない観測者へ呼びかけた。
公開文には、ノクスのことは書かなかった。
『特定領域で発生している微小重力レンズ現象の共同観測者を募集します』
『対象座標は別途送付』
『観測データは複数地点で分散保存』
『結果は参加者全員で共有』
最初は、十数人。
その後、記事を読んだ天文学愛好家が参加。
さらに、国立天文台の統制に反発していた研究者たちが匿名で加わる。
地球。
月。
火星。
小惑星都市。
異なる場所から、同じ空を見る。
政府が一つの天文台を止めても、すべては止められない。
「観測開始まで」
「三時間」
ナディームが答える。
「本当に何か映ると思う?」
「映らない」
「え?」
「天体そのものは見えない」
レアは星図を見た。
「だから、その向こうの星を見る」
◇
観測対象は、一つの淡い恒星だった。
地球から約一万二千光年。
通常なら、報道機関が気に留めるような星ではない。
だが、推定軌道が正しければ。
目に見えない天体が、その前を通る。
観測開始。
一時間。
変化なし。
三時間。
変化なし。
六時間。
一部の参加者が離脱。
十二時間。
恒星光度に〇・〇一パーセントの上昇。
「誤差?」
「複数地点で一致してる」
二十分後。
〇・〇三パーセント。
さらに上がる。
「レア」
ナディームが画面を指す。
「来てる」
恒星の光が、少しずつ増幅されていく。
天体そのものは見えない。
だが、その重力が光を曲げている。
「位置のずれを測定」
「重力レンズ中心を計算」
匿名参加していた天文学者たちが、リアルタイムで解析を始める。
背景恒星の像が、わずかに二つへ分かれる。
片方は非常に暗い。
だが確かに存在する。
「レンズ質量を推定」
「距離が分からない」
「過去の三件と合わせる」
「固有運動を入力」
数値が更新される。
推定質量。
太陽の一・六倍から二・二倍。
推定サイズ。
通常の恒星よりはるかに小さい。
光学放射、ほぼゼロ。
弱いX線源との位置一致。
「中性子星」
誰かが通信上でつぶやいた。
その言葉が、参加者の間を走る。
「孤立中性子星だ」
「移動速度は」
「秒速千キロを超えてる」
「方向は」
計算が続く。
数分。
数十分。
そして、軌道予測線が画面に表示された。
暗黒から伸びる一本の線。
太陽系の方向へ。
レアは息を止めた。
予測誤差はまだ大きい。
それでも、単なる接近ではない。
線は、太陽の近くを通っていた。
あまりにも近くを。
「最接近距離は」
複数の計算結果が並ぶ。
〇・一二天文単位。
〇・二九天文単位。
〇・一八。
〇・二四。
中央値。
〇・二一。
レアは、ファルクの言葉を思い出した。
水星軌道より内側。
「時期は」
観測者の一人が計算する。
軌道予測。
誤差範囲。
複数モデル。
数字が一つへ近づく。
六十八年から七十三年。
中央値。
七十年。
誰も声を出さなかった。
レアは画面の数字を見つめた。
七十年。
ようやく、すべてが揃った。
◇
観測ネットワークに、突然警告が表示された。
『不正な天体観測活動を確認』
『安全保障規定に基づき通信を停止します』
いくつかの観測所が切断された。
「国連が気づいた」
「データを保存して」
「分散先へ送信」
「月面ノードが切られた」
「火星側へ」
通信経路が次々と遮断される。
だが、遅かった。
観測データは数百の端末へ複製されていた。
レアの端末にも。
ナディームの端末にも。
独立観測者たちの私的記録にも。
空は、すでに証言していた。
◇
国際連合地球圏評議会。
緊急会議。
「民間観測網がノクスを検出しました」
情報統制局長が報告する。
「推定質量、速度、最接近距離、到達時期まで計算されています」
エレナの顔から血の気が引いた。
「データの拡散状況は」
「完全回収は不可能です」
「モーガンは」
「データを保持しています」
「記事は」
「まだ公開されていません」
理沙は静かに言った。
「もう隠せません」
「まだです」
安全保障担当者が反論する。
「観測誤差を強調し、誤解析として処理する」
「質量推定も、軌道も合っている」
「専門家に否定させる」
「何人が応じると思いますか」
「応じさせる」
エレナは片手を上げた。
会議室が静まる。
「モーガン記者と接触します」
「議長」
「私が話します」
「危険です」
「拘束すれば、データが自動公開される可能性がある」
「では説得を」
「説得できると思いますか」
エレナはスクリーンに表示されたレアの顔を見た。
「それでも話すしかない」
◇
レアの端末に、国際連合地球圏評議会から正式な通信要請が届いた。
発信者。
エレナ・ヴァルガス議長。
面会場所。
ジュネーヴ地球圏評議会本部。
条件。
単独。
記録機器の持ち込み禁止。
内容は最高機密。
ナディームは要請文を読んだ。
「行くのか」
「行く」
「危険だ」
「分かってる」
「戻れない可能性もある」
「データは公開予約してある」
「何時間後」
「私が解除しなければ、二十四時間後」
ナディームは彼女を見た。
「全部?」
「観測データ。国連回答。匿名通信。質問状。全部」
「本当に公開する気か」
レアは星図へ目を向けた。
見えない中性子星の軌道。
太陽から〇・二天文単位。
七十年後。
百四十億人。
方舟へ乗れるのは、ごく一部。
「まだ決めてない」
「今さら?」
「真実を伝えることと」
レアは答えた。
「伝えた後の責任は、同じじゃない」
世界が知れば、方舟計画は混乱するかもしれない。
戦争が起きるかもしれない。
国家が崩壊するかもしれない。
だが、隠し続ければ。
人類の大半は、自分たちが見捨てられたことさえ知らないまま、最後の日を迎える。
どちらが正しいのか。
簡単な答えはなかった。
◇
ジュネーヴ。
地球圏評議会本部。
厚い扉の向こうで、エレナ・ヴァルガスが待っていた。
部屋には、二つの椅子と、一枚の机だけ。
警備員はいない。
記録装置も見えない。
「レア・モーガンです」
「エレナ・ヴァルガスです」
「知っています」
レアは椅子へ座らなかった。
「私の観測データを消しましたね」
「安全保障上の措置です」
「中性子星は実在する」
「はい」
あまりにも簡単に認められたため、レアは一瞬言葉を失った。
「名称は」
「ノクス」
「質量は」
「太陽の約一・九倍」
「到達まで」
「約七十年」
「太陽から〇・二天文単位」
「現在の最有力軌道です」
エレナは否定しなかった。
言い逃れもしなかった。
「太陽系はどうなる」
「分かりません」
「ごまかさないで」
「本当に分からないのです」
エレナは正面からレアを見た。
「確率しかありません」
「最悪の場合は」
「太陽の外層が大規模に失われる。惑星軌道が崩れる。地球は居住不能になる。太陽系外縁から大量の小天体が内側へ落下する」
「最良の場合」
「地球は残ります」
「生きられる?」
「いいえ」
その答えは、あまりにも静かだった。
「方舟は」
「太陽系外へ脱出するためのものです」
「何隻」
「未確定です」
「乗れる人数は」
「現在の計画では、一隻あたり十二万人」
「総数」
エレナは答えなかった。
「何人を救えるの」
「最良条件で、一千万人未満」
百四十億人のうち。
一千万人未満。
レアは、ゆっくり椅子へ座った。
「それで、隠した」
「はい」
「誰が乗るかも、あなたたちが決める」
「まだ決まっていません」
「でも決めるのでしょう」
「誰かが決めなければならない」
「誰に、その権利があるの」
「誰にもありません」
「なら、なぜ」
「権利がなくても、決断しなければ全員が死ぬからです」
レアはエレナを睨んだ。
「人類には知る権利がある」
「あります」
「なら公表して」
「今はできません」
「なぜ」
「建造が始まったばかりだからです」
「完成してから発表するつもり?」
「方舟の存在を守れる段階まで」
「何年後」
「分かりません」
「十年? 二十年? 五十年?」
「分かりません」
「その間に、誰かが生まれて、家族を作って、未来を信じて生きる」
「はい」
「全部、失われるのに」
エレナの表情がわずかに揺れた。
「だからこそ」
彼女は言った。
「今の人生まで奪うべきではないという意見もあります」
「嘘の上の人生でも?」
「真実だけが、人を生かすとは限りません」
「でも、嘘は選択を奪う」
二人の間に沈黙が落ちた。
正しさと正しさが、互いを傷つけていた。
◇
「あなたを拘束するつもりはありません」
エレナが言った。
「信用しろと?」
「あなたのデータが自動公開されることは把握しています」
「監視してたのね」
「はい」
「正直ね」
「もう、完全な嘘は意味がない」
「では、何のために呼んだの」
「見てほしいものがあります」
壁面が開き、巨大なスクリーンが現れた。
月面造船所。
方舟の骨格。
火星ガイア・ドーム。
ヘファイストス採掘場。
オデュッセウス零号機。
そして、事故で亡くなったマリク・オセイの記録。
「この計画は、秘密を守るためだけに動いているのではありません」
「分かってる」
「では」
「本気で人類を救おうとしている」
レアは映像を見た。
「でも、救えない人に何も言わないことまで正当化はできない」
「私も、そう思う時があります」
レアはエレナを見る。
「議長なのに?」
「議長だからです」
エレナの声は疲れていた。
「毎日、どの計画へ資源を回すか決めています。船体か。生態系か。推進機関か。地球防衛か」
「地球防衛?」
「最接近前に落下する小惑星への対策です」
「地球に残る人たちも守るつもりなの」
「最後まで」
「救えないのに」
「救えないから、何もしないわけにはいきません」
その言葉に、レアはすぐには反論できなかった。
◇
「あなたに提案があります」
エレナが言った。
「何」
「計画の記録者になってください」
「政府の広報係?」
「違います」
「では」
「方舟計画のすべてを見て、記録する」
「公表は」
「当面、できません」
「断ります」
即答だった。
「最後まで聞いてください」
「秘密を守るために記者になったんじゃない」
「記録がなければ、後世は何も知らない」
「後世」
「方舟で生まれる世代です」
地球を見たことのない子どもたち。
なぜ祖先が太陽系を離れたのか。
誰が決めたのか。
誰が残されたのか。
どんな犠牲があったのか。
勝者が美しい物語だけを残せば。
方舟計画は、英雄たちが人類を救った伝説へ変わる。
百四十億人の大半が残された事実は、数字の一行へ押し込められるかもしれない。
「政府に都合の悪いことも?」
「すべて」
「検閲なし?」
「保存記録に関しては」
「公表時期は政府が決める」
「はい」
「それでは同じ」
「それでも、記録は残る」
レアは画面の中の方舟を見た。
一本の梁。
小さな骨格。
あれが完成した時。
誰が乗り、誰が残るのか。
その決定を、誰かが見ていなければならない。
◇
「二十四時間ください」
レアが言った。
「自動公開までの時間ですか」
「そう」
「延長を」
「しません」
「では、明日には世界が知る可能性がある」
「はい」
「その結果、方舟計画が崩壊しても?」
「あなたたちが隠した結果でしょう」
エレナは目を伏せた。
「そうです」
レアは立ち上がった。
「私は、あなたたちが正しいとも、間違っているともまだ決めていない」
「はい」
「でも一つだけ確信した」
彼女は扉の前で振り返った。
「これは政府だけが決めていい問題じゃない」
◇
その夜。
レアはホテルの窓から、ジュネーヴの街を見下ろしていた。
湖沿いの光。
行き交う人々。
レストラン。
音楽。
笑い声。
誰も知らない。
七十年後、太陽系が壊れるかもしれないことを。
だが、今この瞬間の笑いが偽物なわけではない。
未来を知らないからといって、今日の人生まで嘘になるわけではない。
レアは端末を開いた。
公開予約。
残り十八時間。
解除。
実行。
それだけで、世界は真実を知る。
指を置く。
だが、押せない。
隠蔽に加担したくない。
同時に、方舟建造を壊したくもない。
どちらを選んでも、誰かが死ぬ。
「記者は、真実を伝える仕事でしょう」
彼女は自分に言った。
だが。
真実をいつ伝えるのか。
どのように伝えるのか。
伝えた後、誰を守るのか。
それもまた、記者の責任なのかもしれない。
◇
レアは、ファルクへ通信を送った。
『七十年ですね』
返信はすぐに来た。
『ついに知りましたか』
『公表すべきだと思いますか』
長い時間。
『私は科学者です』
『答えになっていません』
『科学は事実を示します。人間がその事実をどう扱うかは、科学だけでは決められません』
『では、あなた個人としては』
さらに長い沈黙。
『孫には真実を知ってほしい』
『世界には』
『怖い』
それだけだった。
世界的な物理学者も、答えを持っていない。
誰も持っていない。
◇
公開予約まで、残り一時間。
レアは、端末の前に座っていた。
ナディームが通信越しに待っている。
「決めたか」
「まだ」
「時間がない」
「分かってる」
「公開すれば、世界は戻れない」
「公開しなくても、七十年後には戻れない」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
残り三十分。
十五分。
五分。
レアは目を閉じた。
マリクの死。
ガイア・ドームの五千人。
ヘファイストスへ向かった百二十人。
月面で方舟を造る作業員。
真実を知らない百四十億人。
そして、まだ生まれていない方舟の子どもたち。
残り十秒。
九。
八。
レアの指が動く。
七。
六。
五。
画面を押した。
公開予約。
停止。
データは、世界へ出なかった。
ナディームが息を吐く。
「止めたのか」
「二週間」
「何?」
「二週間だけ待つ」
「なぜ」
「記録者として中へ入る」
「レア」
「政府の言葉を信じるわけじゃない」
彼女は立ち上がった。
「自分の目で見る」
「その後は」
「全部見てから決める」
その表情に、迷いは残っていた。
だが、逃げる気はなかった。
◇
同じ頃。
オリオン観測所。
理沙は、新しい観測結果を見ていた。
ノクスの軌道誤差は、さらに縮小している。
最接近距離。
〇・一九八天文単位。
到達まで。
六十九年十一か月。
計算値は、ほとんど動かなくなった。
「オーロラ」
「はい」
「世界が知るまで、どのくらいだと思う」
「予測条件を指定してください」
「レア・モーガンが、計画内部へ入る」
「情報拡散確率は上昇します」
「数字で」
「一年以内に全面公表へ至る確率、六十八・四パーセント」
理沙は小さく笑った。
「方舟が完成するより早いわね」
「はい」
彼女は、青い地球を見た。
秘密はまだ守られている。
だが、終わりは始まっていた。
星空から消された暗黒は、すでに一人の記者に見つかった。
次は。
世界全体が、その影を見ることになる。
⸻
第9話 終
次回予告
孤立中性子星ノクス。
到達まで七十年。
太陽から〇・二天文単位。
人類最大の秘密へ到達したレア・モーガンは、真実の即時公開を止めた。
与えた猶予は、二週間。
その間に、彼女は方舟計画の内部へ入る。
月の造船所。
火星の生命圏。
オデュッセウス・ドライブ。
そして、まだ白紙のままの乗船者選考基準。
だが、彼女が最初に見せられたのは、船ではなかった。
世界各地から集められた人口データ。
遺伝情報。
職業。
年齢。
健康状態。
技能。
家族構成。
人間の命を、数字へ変えるための資料だった。
百四十億人から、誰を残すのか。
誰を選ぶのか。
そして。
家族を一緒に乗せるのか。
個人だけを選ぶのか。
次回、
第10話「選ばれる命」
方舟の座席表に、まだ名前はない。




