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七つ丘の梨花の夢  作者: 遠坂雨柔
二、梨花の道
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8/16

2-1、風乗せし言葉

  挿絵(By みてみん)

  ――世界の果てから、風に乗って届くかのような言葉――


  サバティヌス湖に離れてから、どれほどの時間が過ぎただろう。

  その問いはロッリーアまでも、はっきりとは分からない。

  日はゆっくりと傾く。もとは緑だった視野に、淡い黄金な光を薄く重ねていく。

  ペーガソスの蹄は、相変わらず規則正しく地面を叩いている。速くもなく、遅くもなく。

  規則正しい蹄の音に合わせるようにして、馬上の二人が小さく揺れている。

  前にいるのはネロ、後ろにいるのはロッリーア。

  来た時と、何一つ変わっていない。

  「……ロッリーア」

  「なんでしょう」

  「足、まだ痛い?」

  「全然」

  「……本当?」

  「本当」

  「なら良かった……」銀浅金の短髪が、その黒い瞳の奥に映り込み、夕日に染まり、やがて金色へと変わっていった。「また痛むようなら、絶対言うのじゃぞ」

  「……うん」

  ぼんやりとネロの背中を見つめていて、ロッリーアはそのような簡単的に返事を出すだけで、まだ無言に戻る。

  この子にもう少し……言葉をかけたほうがええんやろか。

  けど、何を話せばええんか、まったく分からへん。

  ロッリーアは、足首をじっと見つめる。

  赤みはとうにほとんど引いていて、目で見てももう違いは分からない。

  彼女は視線を引き戻し、静かに目を閉じる。

  あの、わずかに冷たさを帯びた湿った感触……

  本来なら、避けるべきやったのに。

  けど……

  あのとき、なんでうちは避けへんかったんやろう。

  抵抗さえへんかったどころか……

  ほんの少しだけ、終わってほしないと思てしもた。

  ロッリーアはわずかに眉をひそめる。

  ……え?

  一体、どうしてしもたんやろう。

  おかしい。

  こんなん、うちらしないわ。

  ……まぁええわ。

  それ以上は。

  「ロッリーア!」ネロの声が急に高まる。「あそこに、小屋があるぞ!」

  「……ん?」

  ロッリーアは目を開け、そちらへと視線を向ける。

  斜め前方には、木陰に遮られていない、わずかな空の切れ間がある。

  その緑の裂け目の下に、ひっそりと一軒の木の建物が佇んでいる。

  無理に言えば、確かにそれは辛うじて『小屋』と呼べなくもないが。

  扉はとうに失われ、ぽっかりと黒い口を開けるばかり。屋根は半分近く崩れ落ち、獲物が罠にかかるのを待ち構えているかのようだ。

  より正しく言うなら――『廃屋』と呼んだほうが、相応しいのかもしれない。

  「……もう遅いから、今日はここに泊まってはどう?」ネロはそっと頭を巡らせ、視線だけでロッリーアをうかがう。「日が落ちたら、他の場所を探すのも難しいじゃろうし」

  ロッリーアはすぐには答えない。わずかに間を置いてから、微かに頷いた。

  「……ええ」

  ペーガソスは木の小屋の前で止まる。

  ロッリーアとネロは馬から降りる。痺れて重くなった手足と腰を軽くほぐし、それから手綱を戸口脇の枝にかけ、ようやく中の様子をうかがう。

  朽ちかけた梁の下では、苔が壁際から静かに広がっている。埃と蜘蛛の巣が、すべてを過去の中に閉じ込めていた。

  先に踏み入るのはネロ。

  戸口の外で二秒ほど躊躇った後、ロッリーアはわずかに頭を下げるようにして、ネロについて中に入る。

  三秒も経たないうちに、顔色がさっと白くなる。

  それ以上は踏み込めず、逆に外へと後ずさる。

  「どうかしたの?」

  ネロは首をかしげる。

  「……く……蜘蛛が、虫も……」ロッリーアの顔まで崩れる。外へ逃れるように身を引きながら、声を押し殺すように言う。「……か……かわってもあかんか?」

  「けど……こんな場所、見つけにくいでしょう」ロッリーアに向けるネロは、声が優しい。「夜になったら、狼が出るかもよ?」

  「……おおかみ?」

  ロッリーアの声は震えてはいない。

  ただ、唇だけが、わずかに震えていた。

  「そうよ」ネロは首を振る。「この辺りは人間が少ないから、狼とか熊とかよく出るぞ」

  空白。

  けど、遠くから山雀のさえずりが聞こえる。

  ロッリーアは近づくことも、後ずさることもない。釘づけにされたように、じっと立ち尽くしていた。

  ネロはそれ以上、何も言わず。

  彼女はさっと腰をかがめ、地面に落ちていた枝を一本拾い上げると、隅々をこつこつと叩いていく。

  全てを叩き終えて、ようやく枝をぽいと放り出す。

  ロッリーアには、ネロが何をしているのか分からない。

  何度か外と中を行き来しながら、ネロは部屋の中のがらくたを一つずつ運び出していく。

  蜘蛛の巣はぱさりと払い落とされ、埃はふわりと舞い上がっては、やがて静かに落ちていった。

  室内には、ようやく足を下ろせるだけのわずかな空間ができる。

  「入ってもいいよ」ネロは中から声をかける。

  ロッリーアはじーっと視線をつける。

  だが最後、彼女は入っていった。

  あっちこっちを見回すが、怖いものは何も見つからない。

  ……多分。

  裂け目から見上げると、ロッリーアは流れる雲を見つめる。

  そうか、中庭か……

  ロッリーアは何も言わずに視線を戻した。

  「そうだ」

  ネロは手や服についた埃をぱっぱっとはたき落とす。

  それから顎を上げ、胸を張る。

  「……なんだこれ。アンタ、子供か」

  ロッリーアはくすりと小さく笑っただけで、それ以上は何も言わない。

  ネロもまた、ただ笑みを返すだけ。

  「……では、泊まろうか」

  「ええ」

  外では、赤い夕陽が遠くの緑を抱いている。


  地平線の彼方では、最後の海老色の光が消え去ろうとしていた。空はゆっくりと、闇へと沈みつつある。

  ロッリーアとネロは焚き火のそばに座っている。

  焚き火はあまり大きくない。薪は湿ったせいか、煙が少し目に()みる。だがこの二人は何も言わず、それぞれの食べ物を口に運んでいる。

  もう硬くなった半切れの蜂蜜パン。細い木串に刺された猪肉。森で摘んだ野いちご、木いちご、そして野桜桃。

  ――それが、今夜のすべてだった。

  その薪はときおりぱちりと音を立て、小さな火の粉がぱっと跳ねる。

  火の上には、水を満たした銀の器が置かれ、栓はされていない。うっすらと、立ちのぼる湯気が揺れていた。

  ロッリーアはパンを噛みながら、心の中で秒を数えていた。

  硬い……

  甘すぎて……喉までやられそう……

  この子、一体どれだけ蜂蜜が好きなんや。

  金宮のパン職人、まさか蜂蜜を酵母みたいに扱ったか?

  心で180まで数えたころ、ロッリーアは火の上の器を取り、そばの地面に置いたままにする。

  「……飲めるの?」

  口の中の猪肉を飲み込み、ネロは我慢できず声を出す。

  「……沸かしたばかり」

  ロッリーアは眉をわずかにひそめる。

  「違う。聞きたいのは……その『細菌』というものがいる……んじゃないか」

  「沸かしたら、全部死んでる」

  「そうなの」

  ネロは自分に言い聞かせるように呟く。

  ロッリーアは彼女をじっと見て、もう一本の猪肉を取り、噛んだ。

  苦い。

  けれど、少しだけ。

  苦みがわずかに混じる中に、その草と木の匂い。焦げた柴火の煙の匂いと、濃い獣の匂い。その三つが混ざり合い、舌の上に残っていた。

  そう言えば……

  焼かれた骨付き羊肉のようだ。

  けれど、味はあれより濃く、ざらつくようだった。

  味はロッリーアの口の中に、じわりと広がる。

  「どう?」

  ネロは視線を落とした。

  「うん……思ったより、しっかりした歯ごたえがある」ロッリーアは肉を飲み込んでから、のんびりと言う。「これまでも食べられるのが、想像もしていなかった。さすがだね」

  「セレス人は、イノシシの肉を食べない?」

  ロッリーアは顔を上げる。

  だが、ネロは、答えを待っているだけのようだった。

  ロッリーアは視線を落とし直す。

  「そんなこと、聞いたことがない」

  「そう……なの……」

  ネロはうつむく。

  そして、もう一口の肉を噛む。

  焚き火の中で、柴はまだぱちりと音を立てている。

  「……なら、普段は何の肉を食べる?」

  その静けさは、長く続くことはなかった。

  「うん……豚、牛、羊、鶏、鴨や魚の肉……かなぁ」

  「それは、ローマとほとんど同じだろう」

  ロッリーアは「うん」とだけ答え、野桜桃を一粒手に取る。

  理由は分からない。だが、午後のことがふと心に浮かんでいた。


  あの時、ロッリーアは藪の前に足が止まった。

  丸くて黒い液果は、つやつやしていた。野桜桃や野生のブルーベリーにも似たそれは、枝にぶら下がっていた。

  ……熟れたんやなぁ。

  食べられるんやろう、多分。

  彼女は一粒を手に取って、目の前でじっと見つめた。

  「何をする?!」

  不意に、背後から鋭い声が弾けるように飛んだ。

  ロッリーアは体がびくりと震えてしまった。

  次の瞬間、ネロはすでにロッリーアの前へ飛び出していた。手首を掴み、その果実を叩き落とした。

  「これは、ベラドンナじゃ!」

  「……べら……べら何や?」

  「ベラドンナ!」ネロの声はわずかに震えていた。彼女はロッリーアの手首を放し、落ちた果実を踏み潰した。「もう食べちゃったのか?!」

  「ううん」

  「まことか?」

  「……ほんま」

  ロッリーアを見つめ、ネロは息を吐いた。「……良かろう」

  ネロに掴まれたままの手首を見下ろし、ロッリーアは藪に残った黒い実へ目を向けた。「……毒なん?」

  「当たり前だろう、数粒でも死ぬ」

  ロッリーアの目が細くなった。

  「本当に食べてなかった?」

  「食べてへん」

  「けど、さっき摘んでいただろう」

  「摘んだだけや」

  「でも――」

  「食べてへんって言ったやろ」ロッリーアは、ネロの手を振りほどいた。「こんなことで、嘘つくわけないやろ」

  ネロは、空いたままの自分の手を見ている。

  「……分かった……とにかく、知らぬ実には触らないでくれ」

  「……うん」


  意識は戻ってきた。

  ロッリーアは手の中の野桜桃を口へ運ぶ。

  ちぃと酸っぱいけど……

  食べられる。

  ロッリーアは焚き火の向こう側にいるネロをちらりと見る。

  ネロは野いちごをひと掴みすると、そのまま一気に口へ放り込む。

  頬が膨らんだ。

  リスみたいや。

  ……そう言えば、雀はリスを喰うんの?

  喰わへんと思うわ。

  そう思いながら、ロッリーアの中で、二人のネロの姿が重なっていく。

  ロッリーアは手元の野桜桃の種を、何気なく横へ吐き出した。

  そして、また一粒を取る。

  最後の薪が崩れ落ちるまで、焚き火はそのまま燃えていた。

  「寝ようか」

  ロッリーアは首を振る。

  二人はそれぞれ古い服を床に広げる。

  最初に横になるネロは、ロッリーアに背を向ける。

  ロッリーアは顔を上げ、裂け目から夜空を静かに見詰める。

  星の群れが、海中の島々のように広がっていた。

  銀砂(いんしゃ)――

  ほんまに、素晴らしい描写やなぁ……

  誰の言葉やったの……

  ロッリーアは目を開けたまま、いつの間にか口が開いていた。

  彼女はしばらく星空を見上げてから、ネロに背を向けて横になる。

  ……足は重く、腰もひどくこわばっとる。

  こんなにつらいことは、今まであんまりなかったはずや。

  朝まで、どうなるんやろう……

  まぁ、きっとすぐに寝付けるはずや。

  明日はどこまで行けるんやろ。

  反乱軍に遭うんやろか。

  リタは今、どこにおる?

  無事なんやろ。

  捕まってへんやろうか。

  ――あの、少し冷たく湿った感触。

  いや。

  考えたらあかん。

  闇の中で、ロッリーアは黙ったまま、眉をひそめた。

  他のことを考えな……

  この屋根、雨降ったらどないするんや。

  けど空見る限り、雨は降りそうにないわ。

  ……

  ……

  ロッリーアの意識は、ゆっくりと闇へ沈んでいった。

  消えかけた焚き火の残り火だけが、わずかな温もりを残している。


  虫の声が、さらに大きくなる感じみたい。

  遠くのもの、近くのもの、高いもの、低いもの、太いもの、細いものが重なり合い、境界のない網を織り上げていく。

  さながら、優雅な交響曲のようだ。

  ネロは寝つけていない。

  理由なんて、自分でも分からない。

  ひどく疲れているのに、目を閉じても意識はどうしても沈んでいかない。

  どれくらい経ったのかも分からないまま。

  隣から、ふいに音がした。

  寝返りの音でも、息が重くなる音でもない。

  人の声。

  ネロの目が開いた。

  あれは泣き声ではない。

  うめき声ではない。

  ため息でもない。

  言葉だ。

  抑揚(よくよう)があり、感情があり、流れがある。

  断片的に途切れながら、何かを語っているようだ。

  だが、ラテン語ではない。

  ギリシア語でもない。

  ケルト語でも、ゲルマン語でもない。

  アラム語でも、マケドニア語でもない。

  ネロが聞いたことのある、どの言語でもない。

  彼女は身を寄せ、ロッリーアの方へ目を向ける。

  破れた屋根の裂け目から、明るい月の姿が見える。斜めに差し込む光が、床に細い帯を落としていた。

  ロッリーアは、その光の中に横たわり、深く眠っている。

  しかしその寝顔の上に、細く、光を帯びた銀の線が浮かんだ。

  ネロは、その横顔から目を離さない。

  声はまだ続いている。

  低く、柔らかい。

  世界の果てから、風に乗って届くかのように。

  ネロの手がそっと伸びる。

  だが、宙で止まる。

  一秒、二秒、三秒……

  ロッリーアの声がふと、わずかに浮き上がる。

  そしてまた、静かに沈んでいく。

  ネロはそっと手を引いた。

  ネロは首を振り、音もなく息を吐く。

  それから、しばらくロッリーアのことを見つめたあと、ゆっくりと背を向ける。

  ロッリーアの寝言は、次第に小さくなっていく。

  少しずつ、少しずつ。

  やがて、闇の中へ溶けてゆく。

  あとは、穏やかな寝息だけが残っている。

  規則正しく、静かな呼吸。

  ネロは目を閉じない。

  虫の声は、まだ続いている。

  夜明けはまだ遠い。

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