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七つ丘の梨花の夢  作者: 遠坂雨柔
一、星の黎明
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7/15

1-7、名も知らぬ風

  「もし、うちがいなくなったら、あんたはどうするんか?」

  「……ん?」

  ネロは咄嗟(とっさ)に息を詰める。

  彼女は器を持ったまま、その手をわずかに止める。やがて、ゆっくりとロッリーアへと視線を向ける。

  ロッリーアもまた、何も言わずに彼女の視線を受け止める。

  二秒――あるいは、それ以上の空白。

  湖の(さざなみ)と、鳥の(さえず)りと、葉を揺らす風の音が混じり合ったまま。

  「……そんなこと、余は考えなかった」

  ネロは、ようやく声を出す。

  笑わない。

  「なんで?」

  ロッリーアは眉を微かにひそめる。

  「(ソナタ)はここにいるから」

  話し終わると、ネロはすぐ視線を別のところへ逸らす。

  説明もなく、言い添えることもない。

  彼女の横顔を見つめながら、ロッリーアは言葉を紡がない。

  風が湖の水面を吹き抜け、ネロの髪をそっと撫でる。

  この人……

  一体何を言うてるの、分かってんやろか?

  ロッリーアの視線は彼女の顔から離れ、まだ腫れたままの足首を見つめている。

  「まだ痛い?」

  「まぁ」

  「……ほんとう?」

  「……うん」

  ネロは、ロッリーアのそばにしゃがみ、腫れたところをじっと見つめる。手は触れず、ただ微かに眉をひそめて凝らしている。

  「……そんなに心配しなくてもいいよ、本当に大したことないんだから」

  「……分かってる」ネロは顔を上げずに言う。「それでも、心配」

  ロッリーアはふたたび、言葉を失ったままだ。

  どう返事すればええ?

  『心配するな』と?

  が、さっきもう言ったんやろ。

  『ありがとう』?

  理由は分からんけど……どうやっても口に出されへん。

  喉に魚の骨がひっかかっているようだ。

  ロッリーアは、微かに目を伏せる。

  二人の間は、ふたたび空白に包まれている。


  ネロは咄嗟に、立ち上がる。

  「……どこへ?」

  ロッリーアは、思わず彼女の後ろ姿を目で追う。

  「ちょっと待っててね」

  ネロは説明もせず、さっき野いちごを探していた方へ歩いていく。しばらく近くの茂みを探り、やがて戻ってくる。

  だが、その手にあったのは、大きな葉が数枚だけ。

  「これは……?」

  「車前草(オオバコ)」ネロはロッリーアの足元に再び身をかがめる。「その前、余が怪我をしていたとき、リタはこれを使ってくれた」

  その車前草を見ると、ロッリーアは何も口に出せない。

  ネロは葉を揉み潰し、ゆっくりと、そっと、少しずつロッリーアの足首に乗せている。

  湿った感触はひんやりとし、ロッリーアの肌にじんわりと染み込んでいる。

  どういうわけか、彼女の肩の力が、わずかに抜ける。

  「役に立つかな、これ」

  「分からないけど」ネロは顔を上がって、ロッリーアの目を受け止める。「せめて、何もせずより良いじゃろう」

  足首に乗せていた葉を見たまま、ロッリーアは少しぼんやりする。

  『分からないけど、せめて何もせずより良いじゃろう』

  ――なぜか、その言葉が思い浮かんだとたん、ロッリーアはなんだか思わず可笑しくなってしまった――

  皮肉っぽい可笑しさではなく、もっと軽やかな、ほんの少しのもの。

  こらえようとしたが、やはりこらえきれず、口元をそっと上げる。

  「……何、笑ってるの?」

  「別に」

  「……笑っているのに」

  「うん……何とか……」ロッリーアは少し視線を逸らす。「随分変な人」

  「どこ?」

  「分からないけど」

  ロッリーアは、ネロの答えをそのまま返す。

  ネロは一秒ほど呆けた後、同じように口元を少し上げる。

  皇帝のようではなく、彼女自身がもともと持つはずの――普通の若い女の子。


  涼しい風の中で、木の影は少しずつ長くなっている。

  多分、一時間ぐらい……やなぁ……

  ロッリーアは思わず手を(かざ)し、陽射しを遮る。

  ネロは、その細い白い腕を見つめている。

  「行くつもり?」

  ネロは彼女より先に声をかける。

  「うん、ここにいる時間も結構長いし。それに、足首はあまり……」

  視線が足に落ちたとたん、ロッリーアの言葉は不意に消えてしまった。

  足首には、いつの間にか毛虫が、のろのろと()っている。

  気づいたときには、それはすでに(うごめ)いている。

  「……っ、woccao!!!」

  静かに座っている人は、時間を飛び越えるかのように、石から飛び上がってしまった。

  聞いたことのない、鋭く荒い叫びが一息に弾ける。

  ネロは思わず耳を塞ぐ。

  分からない言葉だったが、とても穏やかなものには聞こえない。

  「余の耳!ロッリーア、うるさい!」

  しかし、ネロの抗議は届いていないようだ。

  ロッリーアは足を激しく揺らす。

  ……が、無駄だ。

  そいつは相変わらず、じわじわとこちらへ迫っている。

  「っ……」

  ロッリーアはもう考える余裕がない。

  息を吸い込むと、彼女は片手を大きく振り上げ、毛虫を叩き飛ばす。

  その毛虫にとって、こんな荒っぽい扱いを受けるのは、多分生まれて初めてのこと。

  それはくるくると回転しながら、二メートル先の草むらへと舞い上がり、空中に見事な弧を描く。

  しかしロッリーアは、どうしてもじっとしていられない。

  足首はまだ少し痛むにもかかわらず、なんとか地面に力を込め、立ち上がったのだ。

  ネロは、全てのことを目にする。

  ロッリーアの目は、探照灯になるようで、自分の体を何回も見回す。

  「……ロッリーアは、虫のこと、怖い?」

  ロッリーアはただ『うん』としか返事しなかった。

  自分は、どこか微かにむずむずしてチクチクしていたと。

  「こちもいる」

  「どこ?!」

  ネロの話を聞くと、ロッリーアは身を回る。

  「背中よ、まだ数匹が」

  「――いっやっ!」

  ロッリーアは激しく震えていた。彼女は目的もなく手を後ろに振り回し、何度も跳ね上がる。

  「アハハハハ……」

  ネロは荒々しく笑いながら、しゃがみ込む。

  ネロの様子を見ると、ロッリーアはようやくどこかおかしいことに気づき、動作を止める。「……ウソ?嘘ついたの!?」

  「ハハハハ……ロ……ロリアは……面白すぎー……ッハハハ……」

  「……わ……笑わないで!」

  ネロの笑い声の中に、ロッリーアの顔は、少しずつトマトになっていく。

  そう言われても、ネロの笑いが全く耐えない。彼女は笑いすぎてお腹を抱え、腰も伸ばせない。

  目の隅で、涙さえ流れる。

  「くっ……笑うな!」

  ロッリーアは恥ずかしさと怒りで、顔を真っ赤にしながらも、歯を食いしばり、足を踏み鳴らすことしかできない。

  「ご……ごめん……」ネロはようやく口を開いたが、眉間の笑みはまったく消えず、震える声で言う。「余……余はただ……ロッリーアって……普段は冷静で落ち着いているから、虫を怖がるなんて、信じられなくて……」

  ロッリーアの頭からは湯気が立ち上るように熱がこもり、もはや優雅さも分別も保てない。

  「……くっ……!いい加減にしてぇよ!」

  ネロの眉間には、まだ笑みが残っている。

  だが、体は自然に反応し、突進してくるロッリーアをかわす。

  ロッリーアはあきらめず、さらにネロに向かって拳を振り上げる。

  「えっ、怒らないでよ。余が悪かった、ねぇ?」

  ネロは苦笑しながらも、決して本気で応戦しない。ただ軽く身をかわすだけで、子供と遊んでいるかのようだ。

  二人はそのまま、ほぼ二、三分間も続ける。

  結局、力を使い果たしたのはロッリーアの方で、先に動きが止まった。

  彼女は大きく息を弾ませ、胸が上下に激しく動く。汗は髪の毛を伝って顔や首、額に滴り落ち、さながらマラソンを走り終えたかのようだ。

  自分を追ってこないのを見つめたネロは、ロッリーアの前に歩み寄って言う。「……ふう、思ったよりも……勢いがあるな、(ソナタ)は」

  ロッリーアは一瞬ネロを睨みつけ、拳を小さく握り上げる。

  だが、今回はその拳を振り出すことはない。

  「けどなぁ、こういうロッリーアは」ネロは下がらない。「やっぱり、ちゃんと生きている人間らしいよね」

  ロッリーアの息が止まる。ようやく引きかけていた頬の赤みが、またじわりと戻ってくる。

  「……って、この前のうち、人間らしくない、と言いたいやろう」

  「そういう意味じゃないよ。ただ……さっきまでのロッリーアは、なんというか……ちょっと手の届かないところにいるようでね」

  「……じゃ今は?」

  ロッリーアは食い下がる。

  「もちろん、可愛い女の子なんじゃろう」

  「……きみ!……ふっ、嘘つき」

  ロッリーアは一瞬、動きを止める。

  そして、ぷいと顔を背ける。

  ネロはためらいながら、手を伸ばす。風に乱れたロッリーアの長い髪をそっと撫でる。

  「なんで(ソナタ)に嘘を?」

  ロッリーアは答えない。

  ただ、顔をさらに背け、視線をサバティヌス湖へと落とす。

  風にかき乱された漣が光を砕き、湖面には自分の姿さえ映らなくなっている。

  「……どうせ、さっきのは嘘だったんでしょ」

  しばらくしてから、ロッリーアが小さく呟く。

  ネロはくすりと笑う。

  「それとは違うよ」

  「どこが?」

  「あれは冗談。でも、これは違う」

  ロッリーアは黙り込む。

  そして、頬がまた熱を帯びる。

  彼女は俯いたまま、足元の草を軽く蹴り、ネロの手をそっと払いのける。

  「……触らないで」

  「なんで?」

  「なんでじゃない、とにかくダメ」

  「だが、さっきは余を打ったではないか」

  ネロは小さく首を傾げる。

  「それは、あんたが悪いだけでしょ。……ふん」

  ロッリーアは頬をふくらませる。

  「じゃあ今は?」

  ロッリーアは答えられない。

  そっけなくネロを無視し、しゃがみ込む。

  先ほど落とした器を拾い上げ、付いた土を軽く払う。

  「……行こう」

  そう言い残すと、そのままペーガソスの方へと歩き出す。

  その背影を見つめながら、ネロはゆっくりと口元に笑みを浮かべる。

  「うん」

  二人は距離を置いたまま、それぞれ歩き出す。

  風は相変わらず、湖面を渡っている。

  けれどロッリーアは、誰もいない心の野原に、名も知らぬ風がひとすじ、吹き込んでくるのを感じた。


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