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七つ丘の梨花の夢  作者: 遠坂雨柔
一、星の黎明
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6/16

1-6、始て見た人

  「……ふっ」

  ネロは草むらにしゃがみ込み、ただ野苺を一粒一粒、黙々と口に運んでいる。

  不満げなのは明らかだが、ネロは手を止めない。

  どんな人間でも、腹ペコや渇きには負けるもんどすな。

  皇帝どすえ、同じことどす。

  ロッリーアはネロを見つめる。

  でも次の瞬間、何か思い出したかのように、持っている器に目を凝らしている。

  その器はかなり重く、銀色に光っている。触ると滑らかで、作りも精巧なのは一目で分かって、決して普通の家庭で使えるものではない。

  こっちゃ……

  銀?

  ロッリーアは何回見返しても、断言できない。

  まぁぁ……

  どうでもええ……

  うちと関係あらへんやろう。

  ロッリーアは木栓を抜けて、眉をひそめながら水を流し切る。

  けどや……

  砂漠におる余純順(よじゅんしゅん)が、うちのやってんことを見たら……

  彼はきっと腹立てて、ぎゃあぎゃあ憤りをぶつけるやろなぁ……

  ロッリーアは、ふっと笑ってしまった。

  アホちゃう?

  こんなバカらしいこと。

  ここ、砂漠やん。

  彼女は首を振る。銀のような器をペーガソスの鞍袋(くらぶくろ)へと押し戻す。そして、そのまま逆側へ歩き出し、野苺を探し始める。

  二人はそれぞれ手元のことに忙しく、言葉を交わすこともない。森の中には、蝉の声と鳥のさえずり、そして葉が揺れる音だけが響いている。

  初夏とはいえ、林の中にいるせいか、ロッリーアは暑さをそれほど感じない。林の隙間を抜けて来た風が、やさしく体を撫でていく。

  なんか……

  ここにおるのは、結構心地ええやろ。

  虫がおらんかったら……

  ロッリーアがそんなことを考えていたとたんに、山雀の歌声がふっと途切れた。

  続いて聞こえてきたのは、甲高い鳴き声と、ばさばさと羽ばたく音だ。

  何やろ?

  敵?

  ほんまなん?

  ばれんの、ちょっと早いんちゃう?

  ロッリーアの耳は立ったまま。

  遠くない茂みが、ガサガサと揺れている。

  あれは決して風の音ではなく、暗殺者のように身を潜め、正体の分からない何か。

  追い手?

  他のもん?

  ロッリーアは身を弓なりに引く。

  彼女は目を逸らさずに見つめ、息までも止まってしまった。

  ガサガサの音とともに、何かが茂みからガッサーと飛び出す。

  ロッリーアは、あの物の正体を見つける――

  (イノシシ)

  「……ん?」

  ロッリーアは小さく声を漏らし、立ち尽くしたままでいる。

  肩がふっと落ちる。

  こりゃ……

  野猪(イノシシ)

  ほんまや!

  新聞にあった写真、ほんま似てるぅー!

  初めてやない?

  まさかここで、生きて動くもんを見るなんて。

  面白いやん。

  けど……

  なんで牙あらへんの?

  おぉぉ……

  雌の方、かな?

  ロッリーアは数歩、近づく。

  けどさぁ、豚かてな、元は猪を飼いならしたもんやろ?

  結局、同じ生き物やんな。

  ああ、食べたら、味はどうなんやろな?

  野生やけど、特別うまいわけでもないやんな?

  けどいかん。

  病気になるかも。

  猪はロッリーアに気づく。体を向け、低く(うな)る。

  何をやってる?

  おかしい。

  ロッリーアは頭を傾けて、そのまま立っている。

  猪は前足で地を掻き始める。

  何を?

  これ。

  地ぃ掻くなんて……ペーガソスに似てるやん!

  まさか、馬と競走したいんちゃう?

  面白いやん。

  ロッリーアはそのまま、あちこち見回しているうちに――

  猪が、全速力でこちらへ駆け出す。

  ……えっ?

  この子……

  戸惑う間もなく、猪は目の前に突っ込んでくる。

  ぶつかる直前、ロッリーアは本能のまま、咄嗟(とっさ)に横へ身を翻す。

  あぶなぁい!

  何をやるの?!

  ロッリーアは大きく息を吐いて、走り抜けていく猪を見据える。

  空振りに終わったその猪は、ホームから飛び降りた人影に気づいた電車のように、かなりの距離を駆け抜け、ようやく足を止める。

  だが、次の瞬間、向きを変え、再びロッリーアへと突っ込んでくる。

  その猪……

  こんなに荒すぎへん?

  うち、何もしてへんやろ……

  ロッリーアの思考は、ほとんど空白に近かった。

  逃げたい……

  けどどこ……

  反撃にしても、武器あらへん。

  ――いや、武器どころか、まともな木の棒さえあらへん。

  意識がわずかに途切れる、その刹那。猪は止めようのない勢いのまま、一直線に突っ込んでくる。

  ロッリーアは慌てて身をひねって避ける。

  だが足元が滑って、倒れ込んでしまった。

  足首に走った鋭い痛みが、一瞬で彼女の動きを奪う。

  次の瞬間、猪はもう目の前にいる。

  巨体の黒影が瞳に落ちる。

  ロッリーアは咄嗟に目を閉じる。

  「はっ!」

  誰かの怒号とともに、ある刃で断ち切るような音が耳に届く。

  予想していた、虎戦車に()かれたかのような骨が砕け散る激痛は、とうとう訪れない。

  彼女は恐る恐る目を開けると――

  さっきまで突進していた猪が地面に倒れている。

  首の傷口からどくどくと溢れて真紅の血は、長江(ちょうこう)の流れ。

  ……えっ?

  これ……

  もぉ死んだんか?

  ロッリーアは頭をふっと振ると、ぼんやりしていた意識が少しずつ戻ってくる。

  視線を向けると、ネロが銀色の長剣をしっかり握り、彼女の前に立ちはだかっている。

  野猪は……

  彼女に?

  うち……

  救われた?

  真っ黒な夜空に、稲妻が走る。

  猪がまだ生きているかどうかを確認した後、ネロはようやく身をひねる。

  銀色の長剣は地を差していて、まだ血が残ったまま。微かな風は、彼女の短い髪を少し揺らす。

  だが、ロッリーアの瞳の奥底に映ったのは、決してこの皇帝の影ではない。

  地上(Mundus)に現れたワルキューレ。

  この子……

  うちのこと、心配するんや?

  ロッリーアの胸が、ふいに誰かにぎゅっと掴まれたように強く跳ねている。

  「無事なのか?」

  「あぁぁ……はい。大丈夫です……」

  声に呼び戻され、ロッリーアはようやく現実に意識を戻す。

  ネロは剣を収めると、彼女を立たせようと手を差し伸べる。だが、足首に走る痛みのせいで、ロッリーアは思わず顔をしかめる。

  「っ……」

  「ソナタは……」

  息を呑んだ彼女を見て、ネロはすぐに察したようだ。

  「……いえ、平気。地面が少し滑って、転んだときにくじいただけ。少し休めば、多分大丈夫」

  そう答えながらも、ロッリーアの表情はあまりうまく取り繕えていない。

  それを見たネロは、躊躇(ためら)わず彼女を抱き上げる。

  「……えっ、なに?!」

  突然体が浮き、ロッリーアは思わず肩を震わせる。彼女は声まで少し裏返ってしまった。

  「少し汚れておるね、やっぱり洗ったほうがよかろう?」

  「そん、そんな……少し待ってもらってもいいよ……いや、お手を煩わせるほうが……」

  「そのようなことはない」ネロは楽しげに笑う。「ロッリーアは背が高いわりに、意外と重くないのだな。小兎を抱いているみたい」

  「う、兎って……なんか……」

  ロッリーアは顔が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らす。ふわりと漂う淡い髪の香りが、心地良い風のようにネロの心を優しく揺らす。

  ネロは抱きかかえたまま、彼女を水辺の平らな石の上に置く。

  あまり大きくはない石だが、平坦で痛みもなさそうだ。

  「怪我は?」

  ネロが尋ねると、ロッリーアは裾を少し引き上げ、細い足首がひょいと現れる。

  そこは元々白く滑らかだったのに、今は大きく腫れて、痛々しいほどだ。

  裾を引き上げ続けると、何かに引っかかれてできた膝の傷が現れる。幸い、傷は浅く二本の線がついているだけで、わずかに滲んだ血もすぐに止まった。

  転んだ際、本能的に腕で地面を支えたため、肘にも小さな傷ができている。膝と同じくらいの浅さで、ほんの少し血がにじむ程度だ。

  ロッリーアは視線を逸らし、肩も少し竦める。

  「うん……思ったよりは深いなぁ」

  ネロはじっと確かめ、ペーガソスの傍に戻ると、鞍袋からさっきの器を取り出す。

  「……ま、まって、何をするつもり?」

  ロッリーアは声を上げて彼女を止める。

  「何って……傷を洗うんじゃろう?」

  ネロは首を傾ける。

  「ダメ!」ロッリーアは思わず声を出す。「細菌がいる、感染し……しまう」

  「……『サイキン』とは……何だ?」

  ネロは、また首を傾ける。

  「……」ロッリーアは一瞬、言葉に詰まる。「……簡単に言えば、目には見えない、小さな生き物だ。傷口に入り込んだら、人は病気になって、熱を出して、そして死んでしまう」

  「……えっ?目にも見えない生き物?水の中に?」

  ネロの視線は器に落ちたまま動かない。その表情が静かに強張っていって、手をそっと下ろす。

  「水だけじゃない。土にも空気にもいる」

  ロッリーアは眉をひそめ、足首を揉んでいる。

  「……」

  ネロの顔は、紙のように白くなった。

  この子……

  なんか、爆弾を抱えているみたいで……

  しかも、どう扱えばええのかも分かってへんみたいや。

  やっぱり、怯えてるんやん。

  爆薬なんて入ってるわけやないのに……

  「まぁぁ……心配するな。細菌はどこにでもいるけど、全部が人を病気にするわけじゃないよ」ネロはぎゅっと鼻をすぼめ、息を吸い込むのをこらえている。その様子を見たとたん、ロッリーアは笑う。「人間の体には、悪い細菌を防ぐ力があるから、簡単に病気にならないよ」

  「……なら、どうすればいいじゃろう。水を使わなければ……」

  ネロの強張っていた表情は、少しずつ和らいでいく。この先どうすればいいのか分からないまま、鞍袋の中を確かめてみる。

  だが、残っていたのは細かな銀貨がいくつか、それに粗末な服が数着だけ。

  「大丈夫よ、傷口を触らなければ、感染しないはずだよ」ロッリーアは軽く手を振る。「この程度、ほっといても治るでしょう。心配しないでね」

  「よ……良かろう」

  ネロの肩の力は、微かに抜ける。

  そして、ロッリーアは突然視線をネロの顔に落ち、口元をわずかに歪める。

  「もし、うちがいなくなったら、あんたはどうするんか?」

  彼女は口を開く。

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