1-5、誰そ彼女
「『ロッリーア』か、可愛い呼び名だね~」
ネロの口調は軽やかになる。
いや、さっき思いついたところや。
少女は心の中では話すつもりはない。
「ロッリーアはどこの出身?」
ネロは少女に話し続ける。
「うーん……」
ロッリーアが迷っている間に、ネロは勘違いしたようだ。「……すまん、余は調子に乗りすぎたな。嫌なら答えなくてもよい」
「あぁ、違います。そういう意味じゃないんです」ロッリーアは慌てて否定する。「ただ、別のことを考えていただけです……」
「余に対しては、敬語を使わなくても良い。旅はまだ長いでしょう」
「そう言われても……ネロ様は天子なんでしょう。普通に話すなんて……」
「いいじゃないか。ロッリーアは特別だから、汝だけは許す」
「……わかりまし……わかった」ロッリーアは、ネロの言う通りにするしかない。「じゃあ、無礼を許してね」
「構わないよ、ロッリーアなら……」ネロは頭を軽く揺らす。「でも、『ネロ様』という呼び方が好きだから、余のことはそのまま呼んでくれよ。うん」
「あぁ……はい」
「で、さっき考えたのは、何のこと?」
「秘密よ」
「何よ、ロッリーアたら。もう~っ、そう言うと余はもっと知りたくなっちゃうじゃないか」
「そう言われても、アタシにも教えられないよ」ロッリーアはそう言いながら、口元をほころばせる。「秘密というのは、女性に魅力を失わせないためのものだ」
「じゃ、余が第一市民の名で命じたら、汝はどうする?」
ネロにも冗談の余裕がある。
「たとえ天子であっても、そんなひどいことを他人に無理やりさせてはいけないよ」
「さぁ、どうだろう~」
二人は小さく笑い合う。まだ逃亡の道中だが、そのことをしばし忘れてしまったようだ。
「……そう言えば、さっきの聞きたかったことを、ロッリーアはまだ話していないよね」
もし相手がローマと敵対する国の人間なら、自分はどうすればいいのか――そんなことを、ネロは考えもしなかったのかもしれない。
「うーん……結構遠い所からね……」ロッリーアは注意深く言葉を選ぶ。「貴女はセリカのこと、ご存知ですか」
『セリカ』という単語を聞いたネロは、一瞬固まる。二秒ほどして、彼女は頭の中が真っ白になった。
それは、街中で本物の戦車を目にした市民たちぐらいの精神的衝撃。
「……えっ、えぇぇぇぇぇ――?!」
ネロは目を丸くし、思わず身をよじって、危うく馬の背から落ちそうになる。
「危ない!」
ロッリーアは急に声を上げる。
ネロも慌てて馬を止め、身を落ち着かせて少女に目を向ける。「……まさか、ロッリーアは?」
「うん、ワタシがセレス人」
「本当?!」
ネロの目はさっきよりさらに大きくなる。
「うん、本当よ」
「セレス人、だよね?」
ネロはもう一度確認する。
「うん、セレス人だよ」
ロッリーアももう一度、ネロの確認に肯定の返事をする。
「そうか、そうだったのか。いいなぁ……」ネロは思わず体ごとロッリーアの方を向く。「まさか初めて出逢うセレス人――あの裕福な東の大国の人間が、アポローン様の使いだなんて」
「あぁ……そう……」
まだ神託のことを聞いたばかりで、ロッリーアは話をどう続けたらいいのか、全く分からない。
でもそう言えば、さっきは『月の女神の使い』と言われたなぁ。今度が『太陽神』なんて……
ロッリーアは彼女に翻弄されて、頭もクラクラする。
「そうよ」ネロは思わず頷く。「昔の航海家オネシクリトスは『セリカは自然に恵まれ、おとなしい性格の人々が住んでいる国なんだ』と褒めたそうだよ」
「う……それはどうも……」
ロッリーアは、顔は微かに赤くなる。
ネロの胸の奥で、何かがざわめく。
くっ……
彼女の照れた様子、たまらなく愛らしい。
抱きしめたい!
ネロの目は、微かに細くなる。
「ところで、セリカの広さは一体どのくらい?」ネロは新しい質問をする。「ローマと比べると?」
「うん……今は多分……200万以上サルツスぐらい、かなぁー」
その数字を聞いたネロは「おぉ」と小さく驚く。「それなら、まるでローマくらいの広さではないか」
「はい、我が国は広い大国」ロッリーアは声まで思わず誇らしげになる。「あそこの人々は勤勉で素朴で、穏やかで親切な性格を持ち、輝かしく眩しい文明を築いた」
「一度だけでもいい、余も東の国へ行ってみたい……」ネロの口調には、羨ましさしか滲んでいない。「あのクソったれなパルティアの奴ら、いつも道をふさぐのか、セレス鋼で余を脅すのか」
不満をこぼす皇帝の背中を見ながら、ロッリーアはただ微かに笑うが、声さえ出せない。
「セレス人の鋼は征服と侵奪の工具じゃなく、むしろ耕作や自分を護るためということだから」彼女は淡々と穏やかに話す。「鋼製の兵器はセリカの長い歴史の中では、ただ隅にあって小さな塵のような存在にすぎない。心からの自信と余裕が、我が民族の真の宝なのだよ」
「『本物のチカラは誰にも見られたものではなく、あの実力をどう生かすかの知恵の中に隠れている』ということでしょう?」ネロは微かに横目で見る。「こりゃー、ずいぶん哲学的な言葉だよね」
ロッリーアはただ微笑むだけで、話し続けようとはしない。
だが、ネロは新しい質問を投げかける。
「……どころで、セレス人は本当に130歳まで生きられるの?」
「130歳って……」ロッリーアは唇までピクピクする。「私たち、何だと思って扱ってるの?カメか」
「あれー、そうじゃないの」ネロは首をかしげる。「じゃー、絹は汝の国のものでしょう」
「うん」
相手は見えなくても、ロッリーアが首を振る。
「いいなぁ……絹って、高価なだけじゃなく、すぐに売り切れちゃうんだね……一リプラの絹製品の値段は、同じ重さの金よりも高いんだ」
「えっ!?本当?」
ロッリーアは全然信じられない。彼女は耳が思わず働きを止めたかと思ったほどだ。
「本当だよ」
ネロは頷く。
「信じられない……同じ重さの金より高いなんて、私が最後に聞いたのはB-2爆撃機だったのね」
ロッリーアはひたいに手を当てる。
「……『バクゲキキ』とは、なんじゃろう?」
今日のネロは、次々と新しい言葉に触れている。
「あぁ……お忘れください」
自分は無心に余計な言葉を話したと気付いたが、ネロの好奇心はもうくすぐられている。「ねぇ……あの『B-2』と言われたものって、ひょっとするとセレス人に作られた、まだ知られていない商売品なの?」
「……」
ネロの矢継ぎ早の問いに、どう答えたらええんやろ?
その一瞬で、ロッリーアは全く迷ってしまった。
だが、ネロはこんな簡単に諦めるものか。「ロッリーアったら、もう~っ、言え~」
彼女は、ロッリーアの袖を引く。
「……」
「ねぇ、ロッリーア」
また引く。
「……」
「ロッリーア~」
三度目。
結局、ロッリーアは観念したように、ため息を吐く。「……『B-2』は商売品ではなく、他国で作られた兵器」
「そう……か、兵器……だよね……」
ネロの瞳の奥には、影が過る。
この子、多分戦争のことがあんまり好きやないやろなぁ……
うちに何回も言わせたのに、聞いたらセリカのもんやないってだけで、勝手にがっかりしとるんかいな。
……たく。
周辺には馬の蹄が地面を踏む音と、朝風が枝や葉を撫でる音以外、何もない。
「もし戦争というものが消えてしまったら、どんなに素敵なんでしょう……」
ネロは微かに息を吐く。
「でもセリカなら、きっと戦争はないはずだよね?」
今回はロッリーアが息を吐く番。
「えっ?例えセリカでも戦争があるの?」
ネロは首を傾ける。
「あのなぁー、よう知らんけど、うちらのことについてあれこれおかしなウワサを、あなたはったら、一体どんだけ作りはったんですか?」ロッリーアはツッコミどころがどこにあるのか、全然分からない。「うちらセレス人は衆神の国に住んでるわけやあらへんのやから、戦争がないなんて、ありえへんでしょう?」
「そっ、そうか……悪い」
「謝らなくても構わないよ、我らのことを知らなかったよね?」
そう言われても、ようやく気付いてしまったネロには、気にしないでいられるはずがない。たとえロッリーアが答えにくそうにしていても、ネロは矢継ぎ早に質問を浴びせ続けている。
セリカとローマの距離?首都はどこ?隣の国にはどんな国?
政治制度は?君主は?男女?
絹の材料は木の葉なの?
セレス人は異民族と売買することが好き?
もしそうなら、彼らはどうして一回でもローマに来なかった?
そんな様々な問いが、雹のように次々と降り注ぐ。ロッリーアは、歯が立たないままだ。
まさか……
うちが心から上手く学ばなかったことを、こんな形で後悔するとは、ほんま思わへんかったわ。
しかもその理由が、美少女の質問に答えられへんからやなんて……
他人だったら、きっと全身全霊で何百年かけて、神々に祈っても得られないようなチャンスやろ……
なのに、うちはそれに値する能力さえ持っておらへんかった。
天は、ほんま黒いユーモアが好きなんやなぁ。
そこまで思うと、ロッリーアは微かに息を吐く。
どれくらいの時が流れたのか分からない。森の木々は、先ほどほどには茂ってはいない。緑はまだ多いが、視界は次第に開けていく。
ロッリーアは東へ目を向ける。
鏡のようにきらきらと光る水面が広がっている。
続けて西の方を見ると、さらに広大な湖面が静かに輝いていた。
「えっ?湖が二つもあるの?」
ロッリーアは、首を傾ける。
「うー……そう言えば、今はアルシエティヌス湖とサバティヌス湖の間なんじゃろう……」
ネロは左右に見ながら、ペーガソスを西へ歩かせる。
「アルシエティヌスと……サバティヌスって……長っ!しかも、男性形を使うのはどうして?」
「男性形って……そう問われても、余も答えられないなぁ」ネロはその問いに、わずかに面食らった様子だ。「lacusは男性形だから、後に続く単語も男性形にしなければならない。余はそれしか答えられない」
「……でも、変だと思わないの?aquaは正しくは女性形なのに、lacusが男性形に変わるなんて」
ネロはかなり説明したけれど、ロッリーアを納得させられない。
「……そう言えば確かに、そんなことは余も考えなかったね」ネロは文法の枠を越えて考えてみる。「無理に説明したら、多分全ての語彙には生まれながらの『天性』があって、理性や論理で作られることではない、と感じるかもね」
「で、先祖たちは使うときに何も考えない、というわけでしょう?」
「そうであったかのう?」
ラテン語を作った人々がどう思ったのか、ネロには分からなかった。
しかし、もし何か方法があって、二千年前に彼女を送れば、それは別のことかもしれない。
「この言い訳、なんか……結構テキトーそうだなぁ」ロッリーアは肩の力を抜く。「でもまぁ、現実は時々文学作品さえ常識を超えることがあるから、絶対にないこともないけど……」
「アハハ……言葉というものは、感情を表すための道具だけなんじゃろう」
ネロも苦笑いするだけ。
「そうよね……」
ロッリーアが何かを考えている間に、ペーガソスはゆっくり最後の小さな坂を登りきっていた。
サバティヌス湖は、二人の目の前に静かに横たわっていた。
大自然に磨かれた宝石のように澄み渡り、蒼い丘の連なりの間で緩やかに波打っている。
正午の陽射しが差し込むたびに、浅海の色を帯びた水面は銀の粒のようにきらめいた。
どんだけキレイな風景やろなぁ。
ロッリーアまで黙って、その景色に目を凝らしている。
「一応、休憩ってどう?」
ネロは水辺の野原にペーガソスを止め、ロッリーアはギリギリで馬から飛び下りる。
「……本音を言えば、今危険が抜けたと思うのは早い。やっぱり出来る限りローマを遠く離れてほしい」
ロッリーアは目を細めて太陽の位置を確かめ、口を開く。
「そうだけど、ペーガソスもずっと歩き通しだっただろう?この子の状態も考えないと無理じゃろう」
ネロはペーガソスを優しく撫でて、馬上から下りる。
「……しょうがないなぁ」
ロッリーアは周りを見回して、異常なものには何も気づかない。聞こえるのが、耳に心地よく響く山雀たちの歌声だけ。
もし誰かがそこに来たら、その可愛い精霊たちはきっと相手よりいち早く警報を発するに違いない。
ペーガソスに自由に草を食ませながら、ネロは鞍掛け袋から金属でできた器を取り出し、湖辺で水を汲む。
「……一応キレイだけど、やっぱり直接生水を飲まないほうがいいと思う」
ロッリーアはネロが生水を飲もうとしているのを見て、声をかける。
「そんなつもりはないよ」ネロは迷わず動作を続けている。「余は火打ち石を持っているよ。火ぐらい付けられるぞ」
「アンタ本気?今の状況で、火なんて付けられるの?」
「じゃあどうしよう。目の前に水があるのに、死ぬまで渇いたままなの?冗談じゃないよ」
ネロはぷいっとする。
「……とにかく今はダメ!これ、没収!」
ロッリーアはそれを直接取り上げる。ネロは相手よりやや頭ひとつ分低く、たとえ跳び上がっても、ロッリーアの頭より高く掲げた器には手が届かない。
「喉渇いたぁー!飲みたいぃー!」
「ダーメ!」ネロがどんなに拗ねても、ロッリーアは折れない。「渇いたら、苺を取って食べればいい」
ロッリーアの視線を追ったネロは、隣の木の根元に野苺を見つける。
「ムゥ……ひっどぉーい。ロッリーアの言う通りにしたら、たとえ天地が果てしなく続いても、渇きは解消できないのよ」
文句を言いつつも、ネロは素直にかがむ。
それを見たロッリーアは、小さく息を吐く。




