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七つ丘の梨花の夢  作者: 遠坂雨柔
二、梨花の道
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9/15

2-2、刻まれぬ時

  夜明けの光が、少しずつ滲み込んできている。

  屋根の裂け目から、漆黒がゆっくりと灰色に、灰色が淡い白へと、静かに変わってゆく。

  水のように、床に滲み広がっていく。

  ネロは目が覚める。

  彼女は動かず、ただ裂け目の向こうで、次第に明るくなっていく空を見つめているだけ。

  外では、いつしか虫のさざめきが、遠くから聞こえてくる澄んだ鳥の(さえず)りに溶けていく。

  静かだなぁ……

  ネロは顔を横に向ける。

  ロッリーアの寝顔が目に入った。

  寝息は軽く、穏やかに。

  ネロの視線はロッリーアの横顔にしばらく留まる。

  月明かりの下で見せた、あの顔。

  そして、あの声。

  ネロの指先が、わずかに動いた。

  しかし、それもほんの一瞬。

  しばしの静けさの後、ネロは目を逸らす。

  ネロは身を起こす。

  屋外、木々の間には、ほのかな冷気が漂っている。

  主人の姿を認めると、ペーガソスが頭を振る。鼻息が朝の冷気の中で、白い吐息となった。

  ネロは手を伸ばし、馬のたてがみを撫でる。

  ペーガソスは鼻先を彼女の手のひらに、そっと擦り付ける。

  「昨夜(ゆうべ)、よく眠れたか」

  ネロはペーガソスの首すじをそっと撫でる。

  ペーガソスはブルルと鼻を鳴らす。

  「余も同じだ」

  柔らかな朝風が、草木の香りを乗せてくる。寝起きの(もや)が残るネロの意識を、わずかに晴らしてゆく。

  今日も晴れになりそうだ。

  ネロはふっと息を吐く。それから、ひとつあくびをする。


  「ん……ぅ……」

  ロッリーアは、わずかに眉をひそめる。

  それから、身を捩り、ゆっくりと目を開ける。

  だが、瞳孔がピントを合わせても、視界には何もない。

  「……ん?」

  ロッリーアは、寝ぼけたように何度か目をしばたたかせる。

  ネロがいない。

  しかし外から、ネロとペガソスの声が聞こえてくる。

  ……この子、馬と話しとるん?

  ロッリーアは軽く頭を下げる。

  昨日の出来事がふたたび、鮮やかに目の前に蘇る。

  ……信じられへん。

  夢のはずやのに、ちゃう。

  ロッリーアはふっと息を漏らす。

  ……よし。

  毛虫、おらん。

  ロッリーアは、ほっと息をつく。

  そして、廃屋の外へと出る。

  ネロは火打石を打っている。

  背後の物音に気づいたのか、ネロは振り向く。「……起きたのか?」

  「……うん」

  ロッリーアは昨夜の残り物に目をやり、銀の器を手に取ると、そのまま林の奥へと歩いて行く。

  ネロは彼女の後ろ姿をちらりと見やり、また自分の作業に戻った。

  だが、ネロが自分の分の肉を食べ終わる頃、ロッリーアは、うろうろした様子で戻ってくる。

  「……時間、ずいぶん掛かったね」

  ネロはわずかに片眉をひそめる。

  「……水、見つからんかった」ロッリーアは器を地面に置きながら、不機嫌そうに言う。「こんな所、溝ひとつもない」

  ネロの視線がロッリーアの少し乱れた髪に一瞬だけ留まる。「……ふむ。どうする?」

  「別に。どうしようもない」そう言って、ロッリーアはネロの隣に腰を下ろす。「この辺、水どこにある?」

  「……余もよく知らぬ」ネロは肉の串を一本差し出す。「ラティウムにはテベレ川以外、あまり大きな川はない」

  ロッリーアは受け取るが、すぐには口にしない。代わりに、ネロをちらりと見る。「……地元じゃないの?」

  「たとえ余が皇帝(第一市民)であろうとも、ローマの隅々まで知るわけではない」

  ロッリーアは、ふっと息を吐く。「……そうか。なら、あとは運に任せるしかね」

  沈黙。

  「……リタがいれば、良かったのに」ネロはわずかに首を下げる。「彼女なら、きっと水のある場所を知っておったはずじゃ」

  ロッリーアは何も言わない。

  肉を一口噛むと、思わず眉をひそめる。

  昨日の残り物だから、もう一度焼き返したけど、干からびて固くなってた。

  二口目を運ぶ。

  ……食えるけど。

  木を噛んでるみたいや。

  うち、いつから啄木鳥(キツツキ)になったんやろ?

  「……彼女は今、どこにいるのだろう。無事なのか」

  ネロは、来た道の方へ目を向ける。

  「……しぶとい人はずでしょ」ロッリーアは肉を呑み込む。「あんな人は一般人より、生き残るのが上手いんでしょうね」

  「うん……」

  ネロが顔を伏せると、耳飾りがわずかに揺れる。

  「いいから、人のことばかり心配するな」ロッリーアは手を伸ばし、野イチゴを数粒口に運ぶ。「まだ安全じゃないよ、わたしたち」

  ロッリーアは一瞬だけ言葉を切った。

  「とりあえず、自分が生き残ることを」

  ネロは何も言わない。

  最後の肉の串を食べ終え、彼女は立ち上がり、ペーガソスのそばへ歩み寄る。

  そして、馬の片足を持ち上げる。

  ロッリーアは食べながら、ネロの手元をじっと見つめる。

  馬の蹄の上には、銀色の光がわずかに……

  あれは……

  蹄鉄?

  ネロはその足を下ろし、別の足を持ち上げる。

  繰り返されるその動作は、何か大切なものを探しているかのように見えた。

  「……何をしてるの?」

  「蹄を確かめる」

  ネロは顔を上げない。

  「……要るの?」

  ロッリーアは一瞬、間を置く。

  「もちろん。人とて遠出する前には、自分の状態を確かめるであろう」ネロはもう一本の足を持ち上げる。「先に確かめておかねば、何かあった時、間に合わぬからな」

  「……そう」

  ネロを見つめてから、ロッリーアは手を伸ばし、もう一本の肉の串を取る。

  ……タイヤでも点検しとるみたいやな。

  「結構しっかりしてんねやな」

  「この子、もう何年も共にしている。幼い馬から」

  ネロの声には、抑揚がない。

  「……ふーん、そう」

  馬を飼ったことあらへん。

  ほとんど見てへん。

  それやけど。

  ロッリーアは、最後の一本を手に取る。

  「初めて会った頃、この子は余に噛みついた」

  「……馬って、噛むん?」

  ロッリーアは思わず吹き出してしまった――

  あれを想像するだけで……

  「そうよ」ネロは首を振る。「もし余が止めなんだら、リタはあの時、きっとこの子を打ち殺していたんだ」

  ロッリーアの目線が、空へ向く。

  リタやったら……

  確かに『あんなこと』をやってのける人らしいね。

  いつもポーカーフェイスなリタも、あの時はきっと、表情が崩れとったやろなぁ。

  ネロはきっと、必死にリタを引き止めて、『子馬相手にムキになるな』と言うたんやとか……

  「よし、傷口はない」ネロは最後の片足を下ろす。「そろそろ行く?」

  「うん」と、ロッリーアは頷く。「……そう言えば、今までどれくらい?」

  「う……」ネロの視線はまだ、来た道の方を向ける。「多分、25(ミリヤ)かなぁ」

  「……25ミリヤだけぇ?」

  ロッリーアは頭の中で『1300』と『25』を比べる。

  『進捗がある』というよりは、『ほとんどあらへん』っていうた方がええわ……

  ……1300/25=52

  とは言え、これって理論的な結果。

  実際には、恐らく二ヶ月以上はかかるやろうな。

  何事もなく、たどり着ければええんやけど……

  ネロが先に馬に飛び乗り、手を差し伸べてロッリーアをぐいと引き上げる。


  周囲の森林は次第にまばらになり、代わって広い農地や果樹園が目立つようになっていく。

  地形も少しずつ、開け始めていた。

  時折、畑で働く奴隷の姿や、干し草を積んだ荷車が目を映す。

  ペーガソスは農道と林の際を縫うように駆けていく。

  灰色の影がぼんやりと浮かんでいる。

  ネロの視線が、そちらへ向いた。

  「……どうしたの?」

  ロッリーアは口を開ける。

  「ふむ……」

  「……あっちはどこ?」

  ロッリーアはネロの視線を追い、その先をじっと見つめる。

  「おそらく……ストリウム(Sutrium)だね」

  ネロは視線を戻す。

  「……ストリウム?」

  「ああ」ネロは頷き、声を低める。「まだ、ここなんだなって……」

  「……ん?」

  ロッリーアはわずかに首をかしげる。

  「……なんでもない」ネロは一瞥をくれる。「さて、どうする? 迂回するか?」

  「……ここに、軍隊はいるの?」

  ロッリーアは左手の甲で右肘を支え、右手の人差し指を顎に当てる。

  「ここは辺境じゃなくて、イタリアだよ……軍団が駐屯していることはないだろう」ネロは首を振った。「だが、確かならば……ここの市政官は恐らく、余の顔を覚えているはずだ」

  「……あ?」

  「うーん……確か、名前はアウルス(Aulus)カニニウス(Caninius)だったかな」ネロはそのまま独り言のように続ける。「近いからな。イタリアの地方官や公務員たちは、よく(Urbs)に来る」

  ロッリーアの手が、顎から額へと移った。

  蹄鉄の音が戦太鼓のように響く。

  一秒。

  また一秒。

  「食べ物もあまり残っていないし、入らないといけないと思う」

  ロッリーアはようやく口を開く。

  「それなら……」

  「……いや」ネロの言葉を遮った。「ペーガソスと街の外で待ってて、買い終わったら合流しよう」


  「……分かった」

  ネロの声がわずかに低くなる。

  ペーガソスは林の縁を歩いている。

  数百メートルほど先、街道が脇を走っている。

  黒灰色の小さな影が、その上をゆっくりと動いていた。

  この距離やったら……

  誰かに気付かれる心配はないやろ。

  ロッリーアはあたりを見回す。だが、怪しいものは見当たらない。

  「……ここまででいいよ。それ以上は。」彼女は視線を巡らせながら、距離を見積もった。

  「……良いの?」ネロはペーガソスを止め、ロッリーアへ視線を向ける。「まだ半哩ほどあるけど、大丈夫?」

  「半哩くらいなら、鍛練と思えばいいよ」ロッリーアはゆっくりと馬を降りる。「もし首と体が別れてしまったら、何哩を歩くのかなんて悩み、それこそ消えてなくなっちゃうんやろう」

  「……」

  ロッリーアの顔を見る。

  「……」

  二人はそのまま見詰め合っていた。

  「……何か、忘れていないの?」

  「あっ?」

  ロッリーアは息を吐く。「……お金は?」

  「……あぁ」

  ネロはハッと我に返った。鞍袋から革袋(marsupium)を取り出した。

  「……これだけ?」

  ロッリーアは革袋を開けて、銀貨七枚と銅貨十四枚を数える。

  「……残されたのは、今やそれだけ」

  「……ごめん」

  ロッリーアは黙って袋の口をきつく縛る。

  ネロは首を横に振りながら、もう一つの大きな革袋を差し出す。

  ロッリーアは、首をう俯く。

  だが、すぐに顔を上げる。

  「……とりあえず、どこにも行かないで、ここで待っててね。四十五分……ちゃう、一時間半ぐらいで戻ってくるから」

  「……『四十五分』?」

  ネロの視線が向けられた。

  「……うん」

  「時間を数える単位?」

  「うん」

  「……では、一分とはどのくらい?」

  「一分は……六十秒になるんだ」

  「……」

  ネロは何も言わないまま、じーっとロッリーアを見ている。

  「……一秒は、こんな風に数えます。長くもなく、短くもないように。」ロッリーアの眉が少しずつ和らいた。「一、二、三……そのまま六十まで数えたら、一分になります。」

  「……」

  「……理解できませんか?」

  ネロが分かっているのかどうか、ロッリーアにはさっぱり見当がつかない。

  「分かるのは分かるけど……」冬の海上に浮かぶ薄霧のように、ネロの灰青色の瞳には、戸惑いというものが映っていた。「これほど細かく刻むことは一体、何の意味がある?」

  ロッリーアはきょとんとした。

  「……時間が以前よりも精確になって、それに、もっと統一された目盛りが必要になったから」

  「だから、そこまで精確にしてどうするのだ?意味は分からないよ」

  ロッリーアは口を開けた。

  何か言おうとしたけれど、結局、何も言えなかった。

  そうだ。

  時、分、秒……

  それらに、一体どんな意味があるというの?

  電車の発車時刻表には、一分まで精確にしなければならない――

  ローマ(この時代)には、鉄道なんて存在しない。

  外科手術では、麻酔時間を精算しないと――

  ローマ(この時代)にそんな医学はない。

  自分(わたし)が何時何分に、どこへ着くのか分からなければ――

  だが、そもそも『それを必要としている』という感覚自体、外の社会が『わたし(自分)』に求めたものではなかったか。

  ――そう。

  より精確な時間には、確かに意味がある。

  近代産業の大規模運営、緻密(ちみつ)な役割分担、何百万以上の人々を巻き込んだ同調……現代社会の基本原理は全部、その精確な時間体系の上に築かれている。

  だが、ローマ(ここ)は現代社会ではない。

  ここには、それが要らない。

  ロッリーアの目の焦点が合わなくなる。息も咄嗟に止まってしまった。

  何かが、心の中で崩れ落ちていく。

  あれはゆっくりと罅割(ひびわ)れていくようなものではない。心の最も深い場所から、支えそのものを引き抜かれたように、一気に雪崩れていくような感覚だった。

  そのせいか、目の前にいる『ネロ』という存在さえ、今はひどく遠く、見知らぬもののように感じられる。

  ――いや。

  ネロが変わってしまったわけじゃない。

  もしかすると、自分は最初から、この人のことを何ひとつ理解できていなかったのかもしれない。

  「……う、ウチ、先に買い物行ってくるわ。話は……あとや、あとでええ……」

  そう言い残すと、ロッリーアは逃げるようにその場から足早に立ち去った。


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