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七つ丘の梨花の夢  作者: 遠坂雨柔
三、青はうつろふ
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15/16

3-1、白百合

  駆ける、駆ける。

  大道を突っ切り、村を抜ける。

  駆ける、駆ける。

  道端の羊飼いがぽかんと見送る。

  駆ける、駆ける……

  やがて坂がふっと緩んだ。


  樹線が前方で途切れる。

  誰かが山の稜線に刃を走らせたかのように、そこで唐突に断ち切られている。樹木も灌木も蔓草も根こそぎ刈り払われ、その先には空白だけが広がっている。

  視界が一気に開ける。

  最初に飛び込んできたのは、光。

  西から斜めに差し込む黄昏の光が、空間を押し潰すように落ちている――

  細かく砕けて、絶え間なく瞬く金色。

  何かが溶け落ち、そのまま谷間に広がって、まだ冷え切らずに光っているかのような眩さ。

  目が、焼け付く。

  ロッリーアは思わず細める。

  光の輪郭が、少しずつ前に現れる――

  湖だった。

  とても広い湖。

  彼女ですら、すぐには境界が分からないほどに。

  周りの山々は、いびつな碗のように抱き込んでいる。

  湖水は碗の底に横たわっている。

  静かで、おだやかで。動いたことが一度もないかのように。

  山は青く、遠くに葡萄園と畑が散らばっている。

  向こうは遠い。

  輪郭さえ霞むほど遠く、天と水の境にぴたりと貼りついている。

  ロッリーアの手が、腰へと伸びる。

  だが、何も触れない。

  手は、また引っ込む。


  ペーガソスは歩みを緩める。

  だが、風はさっきより強くなる。

  湿り気と名づけようのない匂いを連れて、ロッリーアの胸へ流れこむ。

  「ウォルシ(Lacus)(Volsin)(iensis)の湖だ」

  ネロはそれしか言わない。

  「……」

  なんや、陸渾(るふん)ダム湖と同じほど広いなぁ。

  ロッリーアは湖面を見つめる。

  「今日は恐らく、ここまでしか行けない」ネロは続ける。「これより先は新ウォル(Volsinii)(Novi)ニイ……あれは大きな町ゆえ、抜けるには随分時間がかかる」

  「『新』ウォルシニイ?」ロッリーアの視線が、ネロの顔に落ちる。「ってことは、『(vetus)』という町もある?」

  ネロは長いこと黙ったまま、やがて「……うん」とだけ返した。

  「……どういうこと?」

  「……話せば長い」

  「じゃあ、手短に」

  「……」

  ロッリーアはネロの顔をじっと見つめる。

  しかし、表情はない。

  「……言いたくなかったらもういい」

  ロッリーアは顔を背ける。

  「いや、そういうわけじゃない……ただ、良いこととは言わないが」ネロは少し言いよどむ。「三百年ほど前、ウォルシニイの元奴隷たちは権力を握った。それゆえ、そこのエトルリア貴族たちは密かに使者を遣わし、ローマに援軍を求めた」

  ロッリーアは黙ったまま、ネロを見詰める。

  「……その間のことは話す価値もない」ネロは微かに息を吐く。「降伏のあと、フラックス(Flaccus)はウォルシニイを徹底的に更地にして、元奴隷の領袖たちも鞭打ちにして殺した……生き残ったエトルリア人たちを、ローマは湖畔の新しい町へ移住させた」

  「……」

  ロッリーアは、聞きたいことがたくさんある。

  だが、星の数ほどあって、かえってどこから問えばよいのか分からない。

  ネロも口を開かない。

  ペーガソスはゆっくりと前へ進んでいる。

  足音は、拍を刻んでいる。

  「……だから、あのエトルリアの貴族たちが悪いし、ローマも悪かった」ロッリーアはようやく口にする。「と、思っているでしょう」

  ネロの背中がわずかに強張る。

  だが何も答えない。

  空気までもが流れを止めたかのようだ。

  ロッリーアは、そのまま続ける。

  「……この考えが正しいかどうかは評価しないけど、あなたの立場は、帝国そのものを背負っている。あなたにもわかっているはず。だから、心の中でどう思っていようと、口にできない言葉がある」

  ネロはまた息を吐く。

  手綱を握る手に、微かに力がこもる。

  ロッリーアはそれ以上何も言わない。

  馬は、なお前へ進んでいく。

  ただ湖面の光が、さっきより少しだけ柔らかい。


  「……」

  「……」

  ネロが手綱を引く。

  ペーガソスが、谷のふちで足を止める。

  「……どうしたの?」

  「……降りろ。下りは歩きにくい」

  「どこへ?」

  ロッリーアは夕陽の下の湖を見晴るかす。

  「……谷の中」

  「……今夜はここで?」

  ネロは小さく頷く。

  ロッリーアは眉をわずかにひそめる。

  視線が、谷の底へと向かう。

  狭く曲がりくねった谷が、二人の目の前から湖へと伸びていた。その中は緑に満ちあふれ、白や黄の野花が散らばっている。

  木がまばらに生えている。葉は茂っているが、実はなっていないみたいだ。

  両側の斜面は険しく、剥き出しの岩肌が覗いている。

  ごろろごろろ……

  二人の目の前で、いくつかの石が岩壁から剥がれ落ち、斜面を転がっていく。

  大きさは、大したことはないが。

  いちばん大きいものでも、卵ほどだ。

  ロッリーアとネロは顔を見合わせる。

  「……」

  「……」

  「考え、変えるつもりはないの?」

  「なぜ」

  「……石が落ちてくるのが、怖くない?」

  「今いちばん気にすべきは、石ではないだろう」

  ネロが、ちらりと彼女を見やる。

  「……じゃあ、落石と勝負するつもり?頭で」

  「そう都合よくはいかない」

  「氷山にぶつかるまで、タイタニックの人たちも、あなたと同じことを思ってた」

  「……」

  ネロは、何も言わなかった。

  ロッリーアも、説明するつもりはない。

  どれほどの沈黙が続いただろう。

  「……この辺りに、これ以上良いところはないはずだ」

  ネロはようやく口を開く。

  「なぜ分かる?」

  「大切なものか!」

  「……水辺でも、ここよりマシなところはあるはず」ロッリーアは湖畔へ目をやる。「せめて、爆弾なんて落ちないはず」

  「じゃあ、蚊に食われる気か?」

  「……」

  ロッリーアは視線を戻す。

  「とにかく、先に降りよう。落石がない所が見つかるかもしれない」

  ネロは一瞥する。

  「……あっちの林はもっと良いだろう」

  ロッリーアは北を眺める。

  「狭すぎよー」

  「軍団でも隠すつもりなの?どれだけの広さが要るんだ?」

  「蜂の巣がある――」

  「よし、じゃあ場所を変えてみよう」

  ロッリーアは咄嗟に言葉を変える。

  彼女は馬の背から飛び降りる。

  足が着地する途端、ロッリーアはぐらりと揺れた。

  腰も、足も、尻も、腕も、いっせいに抗議してくる。

  ペーガソスに手を添えなければ、危うく倒れていたかもしれない。

  「だい、大丈夫?」

  ネロも馬から飛び降りる。

  「う……一応……」ロッリーアは眉をひそめ、ようやく立ち上がる。「尻や足が、ちょっと痛い」

  「乗ったせいか?」

  「さあ……」ロッリーアの顔から、波が引くように表情が消える。「それまで、乗馬なんて全然」

  「三日間、ずっと我慢していたか?」

  「……うん」

  「どうして言わなかった?」ネロは彼女をあちこち見やる。

  「……」ロッリーアは黙ったまま。

  「……まあいい。どうせ貴様は、『尻と頭、どっちが大事だ』なんて、馬鹿げたことを問い返すつもりだろう」ネロは手を振りながら、話す速さを少しだけ落とす。「まったく、馬鹿みたいだ」

  「……」

  ネロはまたロッリーアを一瞥するが、それ以上言わない。

  ペーガソスを引いて、坂を下りていく。

  ロッリーアはそっと足を踏み出してみる。

  ……膝が、まだちょっと頼りない。

  けど、歩けへんことはない。

  彼女はゆっくりと、ペーガソスの後ろをついていく。


  ……それにしても。

  この子、さっき『貴様』と『バカ』って言うたよな?

  うち、なんで何も言い返さへんかったん?

  反応が間に合わん?

  ……変や。

  ほかの相手やったら、とっくに言い返してたはずやのに。

  でも、さっきは……

  「……うわぁ!」

  不意に、ロッリーアの体がよろめく。

  幸い、倒れることはない。

  彼女はすぐ体を立て直す。

  「どうした?」

  ネロは足を止め、彼女を見つめる。

  「……何も。ただ浮き石を踏んじゃった」

  ロッリーアは息を吐く。

  「気を付けろ。ここは結構険しい――」

  ネロがまだ言い終わらないうちに、ペーガソスがよろける。

  「……」

  「……」

  二人は、顔を見合わせる。

  さっきの騒ぎなど自分には関係がないとでもいうように、ペーガソスがたてがみを振り、ブフッと鼻を鳴らす。

  蜜柑のように熟れた夕暮れを見つめながら、ネロは前へ進み続ける。「……明日はここで休もう」

  「……うん」

  ロッリーアは相変わらず後ろについていく。


  坂が次第に緩やかになり、視界もさっきほど狭くはない。

  湖の向こうでは、燃えるような夕日が、ゆっくりと山々に溶けていく。

  薄紅色の雲が空に浮かんでいる。

  遠くで、カラスが鳴いている。

  ロッリーアは振り返る。

  下ってきた坂の上は、もう草や樹木に遮られて、わずかに覗くのみだ。

  風が丘の上から湖のほうへと吹いていく。

  彼女は目を閉じ、山風の感触を確かめる。

  ひんやりとして、乾いていて、草や木の香りを運んでくる。

  湖風とは全然ちゃうなぁ。

  「ここはどう?」

  ネロの声に、ロッリーアは思わず目を開けた。

  膝丈ほどの草原に、色とりどりの野花が咲いている。

  タイム、ヒナゲシ、ヒナギク、ラベンダー……

  その中のいくつかには、見覚えがある。

  「……まあ」

  「では、ここで」ネロは馬を木のそばへ引いていく。「ここまで石は落ちてこないだろう」

  「うん……」

  何かに気づいたように、ロッリーアは顔を上げ、もっと遠くへ視線を投げる。

  彼女はすぐにそれを捉える――緑の中で、ひときわ目立つその白。

  ロッリーアは、その白いものへとゆっくり近づいていく。

  ネロの目が、その背中を追う。

  やがて、ロッリーアはその白の前に辿り着く――

  白い野百合。

  ロッリーアは微かに身をかがめ、そっと何かを呟いた。

  ネロには聞き取れない。

  だが、あれは決してラテン語ではない。

  ロッリーアの顔には、複雑な感情が浮かぶ。

  それは、久しぶりに旧友と再会したかのような、喜びと、意外さ、そして懐かしさの入り混じった気持ち。

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