3-1、白百合
駆ける、駆ける。
大道を突っ切り、村を抜ける。
駆ける、駆ける。
道端の羊飼いがぽかんと見送る。
駆ける、駆ける……
やがて坂がふっと緩んだ。
樹線が前方で途切れる。
誰かが山の稜線に刃を走らせたかのように、そこで唐突に断ち切られている。樹木も灌木も蔓草も根こそぎ刈り払われ、その先には空白だけが広がっている。
視界が一気に開ける。
最初に飛び込んできたのは、光。
西から斜めに差し込む黄昏の光が、空間を押し潰すように落ちている――
細かく砕けて、絶え間なく瞬く金色。
何かが溶け落ち、そのまま谷間に広がって、まだ冷え切らずに光っているかのような眩さ。
目が、焼け付く。
ロッリーアは思わず細める。
光の輪郭が、少しずつ前に現れる――
湖だった。
とても広い湖。
彼女ですら、すぐには境界が分からないほどに。
周りの山々は、いびつな碗のように抱き込んでいる。
湖水は碗の底に横たわっている。
静かで、おだやかで。動いたことが一度もないかのように。
山は青く、遠くに葡萄園と畑が散らばっている。
向こうは遠い。
輪郭さえ霞むほど遠く、天と水の境にぴたりと貼りついている。
ロッリーアの手が、腰へと伸びる。
だが、何も触れない。
手は、また引っ込む。
ペーガソスは歩みを緩める。
だが、風はさっきより強くなる。
湿り気と名づけようのない匂いを連れて、ロッリーアの胸へ流れこむ。
「ウォルシニイの湖だ」
ネロはそれしか言わない。
「……」
なんや、陸渾ダム湖と同じほど広いなぁ。
ロッリーアは湖面を見つめる。
「今日は恐らく、ここまでしか行けない」ネロは続ける。「これより先は新ウォルシニイ……あれは大きな町ゆえ、抜けるには随分時間がかかる」
「『新』ウォルシニイ?」ロッリーアの視線が、ネロの顔に落ちる。「ってことは、『旧』という町もある?」
ネロは長いこと黙ったまま、やがて「……うん」とだけ返した。
「……どういうこと?」
「……話せば長い」
「じゃあ、手短に」
「……」
ロッリーアはネロの顔をじっと見つめる。
しかし、表情はない。
「……言いたくなかったらもういい」
ロッリーアは顔を背ける。
「いや、そういうわけじゃない……ただ、良いこととは言わないが」ネロは少し言いよどむ。「三百年ほど前、ウォルシニイの元奴隷たちは権力を握った。それゆえ、そこのエトルリア貴族たちは密かに使者を遣わし、ローマに援軍を求めた」
ロッリーアは黙ったまま、ネロを見詰める。
「……その間のことは話す価値もない」ネロは微かに息を吐く。「降伏のあと、フラックスはウォルシニイを徹底的に更地にして、元奴隷の領袖たちも鞭打ちにして殺した……生き残ったエトルリア人たちを、ローマは湖畔の新しい町へ移住させた」
「……」
ロッリーアは、聞きたいことがたくさんある。
だが、星の数ほどあって、かえってどこから問えばよいのか分からない。
ネロも口を開かない。
ペーガソスはゆっくりと前へ進んでいる。
足音は、拍を刻んでいる。
「……だから、あのエトルリアの貴族たちが悪いし、ローマも悪かった」ロッリーアはようやく口にする。「と、思っているでしょう」
ネロの背中がわずかに強張る。
だが何も答えない。
空気までもが流れを止めたかのようだ。
ロッリーアは、そのまま続ける。
「……この考えが正しいかどうかは評価しないけど、あなたの立場は、帝国そのものを背負っている。あなたにもわかっているはず。だから、心の中でどう思っていようと、口にできない言葉がある」
ネロはまた息を吐く。
手綱を握る手に、微かに力がこもる。
ロッリーアはそれ以上何も言わない。
馬は、なお前へ進んでいく。
ただ湖面の光が、さっきより少しだけ柔らかい。
「……」
「……」
ネロが手綱を引く。
ペーガソスが、谷のふちで足を止める。
「……どうしたの?」
「……降りろ。下りは歩きにくい」
「どこへ?」
ロッリーアは夕陽の下の湖を見晴るかす。
「……谷の中」
「……今夜はここで?」
ネロは小さく頷く。
ロッリーアは眉をわずかにひそめる。
視線が、谷の底へと向かう。
狭く曲がりくねった谷が、二人の目の前から湖へと伸びていた。その中は緑に満ちあふれ、白や黄の野花が散らばっている。
木がまばらに生えている。葉は茂っているが、実はなっていないみたいだ。
両側の斜面は険しく、剥き出しの岩肌が覗いている。
ごろろごろろ……
二人の目の前で、いくつかの石が岩壁から剥がれ落ち、斜面を転がっていく。
大きさは、大したことはないが。
いちばん大きいものでも、卵ほどだ。
ロッリーアとネロは顔を見合わせる。
「……」
「……」
「考え、変えるつもりはないの?」
「なぜ」
「……石が落ちてくるのが、怖くない?」
「今いちばん気にすべきは、石ではないだろう」
ネロが、ちらりと彼女を見やる。
「……じゃあ、落石と勝負するつもり?頭で」
「そう都合よくはいかない」
「氷山にぶつかるまで、タイタニックの人たちも、あなたと同じことを思ってた」
「……」
ネロは、何も言わなかった。
ロッリーアも、説明するつもりはない。
どれほどの沈黙が続いただろう。
「……この辺りに、これ以上良いところはないはずだ」
ネロはようやく口を開く。
「なぜ分かる?」
「大切なものか!」
「……水辺でも、ここよりマシなところはあるはず」ロッリーアは湖畔へ目をやる。「せめて、爆弾なんて落ちないはず」
「じゃあ、蚊に食われる気か?」
「……」
ロッリーアは視線を戻す。
「とにかく、先に降りよう。落石がない所が見つかるかもしれない」
ネロは一瞥する。
「……あっちの林はもっと良いだろう」
ロッリーアは北を眺める。
「狭すぎよー」
「軍団でも隠すつもりなの?どれだけの広さが要るんだ?」
「蜂の巣がある――」
「よし、じゃあ場所を変えてみよう」
ロッリーアは咄嗟に言葉を変える。
彼女は馬の背から飛び降りる。
足が着地する途端、ロッリーアはぐらりと揺れた。
腰も、足も、尻も、腕も、いっせいに抗議してくる。
ペーガソスに手を添えなければ、危うく倒れていたかもしれない。
「だい、大丈夫?」
ネロも馬から飛び降りる。
「う……一応……」ロッリーアは眉をひそめ、ようやく立ち上がる。「尻や足が、ちょっと痛い」
「乗ったせいか?」
「さあ……」ロッリーアの顔から、波が引くように表情が消える。「それまで、乗馬なんて全然」
「三日間、ずっと我慢していたか?」
「……うん」
「どうして言わなかった?」ネロは彼女をあちこち見やる。
「……」ロッリーアは黙ったまま。
「……まあいい。どうせ貴様は、『尻と頭、どっちが大事だ』なんて、馬鹿げたことを問い返すつもりだろう」ネロは手を振りながら、話す速さを少しだけ落とす。「まったく、馬鹿みたいだ」
「……」
ネロはまたロッリーアを一瞥するが、それ以上言わない。
ペーガソスを引いて、坂を下りていく。
ロッリーアはそっと足を踏み出してみる。
……膝が、まだちょっと頼りない。
けど、歩けへんことはない。
彼女はゆっくりと、ペーガソスの後ろをついていく。
……それにしても。
この子、さっき『貴様』と『バカ』って言うたよな?
うち、なんで何も言い返さへんかったん?
反応が間に合わん?
……変や。
ほかの相手やったら、とっくに言い返してたはずやのに。
でも、さっきは……
「……うわぁ!」
不意に、ロッリーアの体がよろめく。
幸い、倒れることはない。
彼女はすぐ体を立て直す。
「どうした?」
ネロは足を止め、彼女を見つめる。
「……何も。ただ浮き石を踏んじゃった」
ロッリーアは息を吐く。
「気を付けろ。ここは結構険しい――」
ネロがまだ言い終わらないうちに、ペーガソスがよろける。
「……」
「……」
二人は、顔を見合わせる。
さっきの騒ぎなど自分には関係がないとでもいうように、ペーガソスがたてがみを振り、ブフッと鼻を鳴らす。
蜜柑のように熟れた夕暮れを見つめながら、ネロは前へ進み続ける。「……明日はここで休もう」
「……うん」
ロッリーアは相変わらず後ろについていく。
坂が次第に緩やかになり、視界もさっきほど狭くはない。
湖の向こうでは、燃えるような夕日が、ゆっくりと山々に溶けていく。
薄紅色の雲が空に浮かんでいる。
遠くで、カラスが鳴いている。
ロッリーアは振り返る。
下ってきた坂の上は、もう草や樹木に遮られて、わずかに覗くのみだ。
風が丘の上から湖のほうへと吹いていく。
彼女は目を閉じ、山風の感触を確かめる。
ひんやりとして、乾いていて、草や木の香りを運んでくる。
湖風とは全然ちゃうなぁ。
「ここはどう?」
ネロの声に、ロッリーアは思わず目を開けた。
膝丈ほどの草原に、色とりどりの野花が咲いている。
タイム、ヒナゲシ、ヒナギク、ラベンダー……
その中のいくつかには、見覚えがある。
「……まあ」
「では、ここで」ネロは馬を木のそばへ引いていく。「ここまで石は落ちてこないだろう」
「うん……」
何かに気づいたように、ロッリーアは顔を上げ、もっと遠くへ視線を投げる。
彼女はすぐにそれを捉える――緑の中で、ひときわ目立つその白。
ロッリーアは、その白いものへとゆっくり近づいていく。
ネロの目が、その背中を追う。
やがて、ロッリーアはその白の前に辿り着く――
白い野百合。
ロッリーアは微かに身をかがめ、そっと何かを呟いた。
ネロには聞き取れない。
だが、あれは決してラテン語ではない。
ロッリーアの顔には、複雑な感情が浮かぶ。
それは、久しぶりに旧友と再会したかのような、喜びと、意外さ、そして懐かしさの入り混じった気持ち。




