3-2、霧晴るる
薄い霧が、谷間にたゆたっている。
風に揺らぐこともなく、谷の底に沈むように留まっている。
誰かが湖の水気をひと掬いし、そっと落としたかのようだ。
草むらも、岩肌も、ペーガソスのたてがみも、うっすらと濡れている。
少し離れた湖面は煙り、その向こうはぼんやりとしか見えない。
時折、鳥のさえずりが響く。雲の中から届いてくるようだ。
草の葉には、朝露が残っている。
数匹の黒い蟻が、パンくずを引きずって大きな葉の上を歩いている。
草を食んでいたペーガソスがふいに顔を上げ、頭を軽く振り、ぶるるっと鼻を鳴らす。
「……ん」
ロッリーアはぼんやりと目を開ける。
梢のあいだの霧が、空を淡い灰白色に染めていく。
もう……朝かな。
多分。
まぁ……
あと少し、寝かせて……
ロッリーアは寝返りを打とうと、腰をひねったところで――
……痛っ!
深い眠気が、すっと吹き飛んだ。
体が……だるい。
『どこかが痛い』ちゃうくて――『どこもかしこも痛い』
腰から足まで。肩から腕まで。体の片隅すら抗議している。
「……っ」
体が凍りついたロッリーアは、それ以上動かない。
……どういうこと?
……あぁ、せやな。
昨日は馬に……
記憶が、よみがえってくる。
三日間、ずっと馬に乗っていたから。
せやな……
とにかく、一応起き上がろう。
ロッリーアは手を伸ばす。
腕が……だるえぇ……
彼女は歯を食いしばり、手で地面についてみる。
失敗。
……なんでこんなに無様な格好しとるん?
うちは。
ロッリーアは二度目を試すのを諦める。
……うち、もうおばあちゃんになってもうたん?
いや、ちゃう。
自分はいままで、こんな目に遭ってへんかったから。
ロッリーアは横になったままなのに、体のだるさは、さっきよりはっきりしてくる。
そんなだるさ、魂の翻訳機にはシミュレートできるか分からへんけど。
そういえば、こんなにしんどかったの、前はいつやったっけ?
神霊砦に登った時?
ちゃう。
恐らく、自転車で龍首ダム湖へ行った時や。
あれはほんま、えらい目に遭うたわ……
片道で90キロぐらい。しかも大きな坂ばかりやったし……
長い時間が流れていないのに、なんだか……もう何千年も経ったみたいな感じ。
なんでやろ。
ロッリーアは、大きな息を吐く。
力を入れた腕は、さっきより痛い。
うち、このまま死んじゃうん?
神様、どうか、酔って動けない女の子を連れ去るクズになんて、絶対に出会いませんように――
ロッリーアは咄嗟に手を振り上げて、自分の頬をぱしんと引っぱたく。
うち、なんでフラグ立ててんねん!
すぐそばで、物音がする。
ロッリーアはその音のほうを見る。
ネロはもう起き上がった。
彼女は少し猫背になり、片手でうなじを揉んでいる。
淡い銀色の短髪には、寝癖がついている。
……どうやら、うちより調子が良さそうやな。
まぁね。
昔の人やから、うちに比べて、体が強くてもおかしくないやろ。
弱者や病人やったら、第二話まで生き続けるなんて、ありえへんやろ。
ロッリーアの口元が少しゆるむ。
「……もう起きたかい?」
ネロは傍らの人に気付き、顔を向ける。
ロッリーアは「うん」と返事する。
「……余は洗いたい」ネロは続ける。「体がべたべたして気持ち悪い」
ほんま。
汗が体と服の間にべたべたして、どこもキモい感じ。
……いままでどんぐらいやっけ?
もう三日や。
シャワーも浴びてへん。服も着換えてへん。
顔すら洗うてへん。
せやけど……
「うちに無理させないでくれよ。どこで風呂に入らせてあげるんねん?」
ロッリーアは体に『大』の字を作る。
「湖ならよいだろう」
ネロは湖を指さす。
ロッリーアは横になったままなので、湖面が見えない。
「冗談を言わないでよ、人は山ほどいるのに。アナタ、YouTubeにBANされたいの?」
「……『ゆうつうぶ』って、なんだろう。なにをバンする?」ネロはロッリーアと顔を見合わせる。「ここからウォルシニイまで、少なくとも二三哩はあるから、水辺に人はいないはず」
「まさかな。カッシア街道は近くを通ってるんだろう」
「街道は丘の向こう側を通るから、湖畔なんて見えるものか」
「……じゃあ漁師たちは?こんな大きな湖だって、魚を捕るために、あいつら必ずいるだろう」
「知らないのかい?正午を過ぎると、休むために漁師たちも引き上げる。だから、誰もいなくなる」
「……知らない」
「なら、これで知っただろう」
「泳ぐ人はいない?」ロッリーアは問い続ける。
「泳ぐ?何のため?」
ロッリーアはネロと顔を見合わせる。
この子、ほんまに分かってないのか、それとも分かってるふりなんか?
「……泳げなかったら、どうやって水に入るの?」ロッリーアは一字ずつ言う。
「余は洗いたい。なんで泳ぐ?」
「……」
ロッリーアは、まったく話が噛み合わない気がする。
「……」
ネロも何も言わない。
「……『洗う』って、どんな洗い方?」ロッリーアはまた、訊き方を変える。
「……洗い方なんて、いくつもあるものか」ネロは眉をひそめる。「水に入って、体をきれいに洗う」
「……水の中で泳がないの?」
「なんで泳ぐ?」ネロは、馬鹿を見るような目をする。「腰の深さの水に入れば十分だ」
ロッリーアは、言葉にぐっと詰まる。
まぁ……
二人の考えてることは、全然ちゃうわ。
「……だとしても、誰もいない時に行かないと」
ネロの顔に、『わざわざ言われなくても分かっている』という表情が浮かぶ。「午後に」
「……たとえ午後に着いても、もし誰かがいたら、ムリだと」
「なんで?」
「見られるから」
「それで?」ネロは微かに首を傾げる。
「……それでって、なんやねん」
「体がウェヌス様の賜物なのに、なぜ隠す」
「……」
ロッリーアは再び言葉に詰まる。
この子、一体何を思っとるんやねん。
「……今は、まだ亡命者なんだよ。もう忘れたか?」
ネロは少し黙ってから、口を開く。「……忘れてない」
「どこの誰とも知れない二人の女が、日差しを浴びながら湖畔で水浴びする――しかもその一人は、異邦人の顔をして――これほど自然な事はない、と思っているの?」
「……」
「『不審者だよ、早く通報しなさい』って、人々の前で声を荒げることとは、何が違う?」
「……」
ネロは何も言わない。
どうやら、耳に入ったみたいやなぁ。
ロッリーアは微かに息を吐く。
ソラはさっきより明るくなる。
「……そういえば、今って、何の時間?」ロッリーアは少し手首をぶらぶらさせる。
「うん……」ネロは空を見つめる。「第一時はまだ終わってないかも、けどもうすぐ」
「……『第一時』?」ロッリーアは、ネロの言葉を繰り返すだけ。
「うん」
「なんやねん?」
「昼と夜を、それぞれ十二に分ける。昼の第一時が日の出から始まり、夜の第一時が日の入りから始まる」
「……なら一日の始まりは?」
「もちろん、真夜中から」
「……」
あまり問題なさそうやけど。
てことは、今は日の出のあとの第一時やろ。
ただ、ローマの日の出は何時頃やろう……
五時から六時ぐらい?
そっから一時間経って、今は朝の六時から七時ぐらいやろ?
……ちゃう。
まだ終わってへんから、五時から六時の間に……
ややこしい!
「……とにかく、時間なんて放っとけよ」ロッリーアはネロを見る。「うちを引っ張ってくれる?」
「……汝、立ち上がれないの?」
「立ち上がれたら、なんでグズグズしてると思う?」
ネロはロッリーアを、二秒ほど見つめる。
そして、プッと笑ってしまう。
「……何を」
「別に」ネロは手を地面につき、立ち上がる。「汝はダラダラしたいだけか、と思ってた」
「……あんなヤツに似てるか」
「似てる」
「……」
ネロは手を伸ばす。「つかまって」
ロッリーアは、その手に目をやる。
小さくて、しなやかで、華奢な手だ。
手の甲が、こちらに向いている。
ロッリーアも手を差し出す。「……そっとして」
「分かってる」
ネロが力を込める。
ロッリーアの尻が、地面から離れると――
腰と、足と、肩は、再び抗議する。
彼女はよろめきながら、ネロのほうへ倒れこむ。
ネロもふらつく。
二人はぐらりと揺れながら、ぎりぎりで倒れずにすむ。
しばらく沈黙が続く。
「……そっとって言ったのに」
「もう十分そっとしたぞ」ネロは彼女の腕を支える。「ロッリーアが重すぎるから」
「……ひどいね、女の子に重いって言うなんて」ロッリーアは、赤黒い顔になる。「それに前、ウサギのように軽いって言ったのに」
「言っていない」
「言ったのに」
「覚えてない」
「こら、とぼけんといて!」
ロッリーアは抗議する。
「……まぁ、ただ冗談だよ」
「最初からそう言えばええやんか」
ロッリーアは口をとがらせる。ネロの肩に手をかけ、重心を自分の足へと戻す。
「立てる?」
「うん」と、ロッリーアは足元に目をやる。
なんとか、まっすぐ立てた。
太ももとふくらはぎに力が入らないけど、せめてちゃんと立てる。
彼女は足を踏み出してみる。
太ももの内側が、まだ痛む。
しかし、歩ける。
「どう?」ネロは聞く。
「……平気」
少し歩くと、ロッリーアは、さっきほどの痛みを感じなくなる。
彼女は再び座る。
ネロは鞍袋から、パンと干し無花果を取り出す。
「……パンは食べとうない」ロッリーアはネロの手に目をやる。「水、まだ残っとる?」
「飲み切った」
「……」
二人はしばらく、空の器を前に黙り込む。
「……あとは、湖へ水を汲みに行かなくちゃ」
そう言うと、ロッリーアは干し無花果を一つ手に取る。
ネロは「うん」と答える。
湖の向こうが、いつの間にか輪郭を現していた。
しかし、まだはっきりと見えない。
干し無花果や干し葡萄を食べる二人のそばで、馬は草を食んでいる。
たまに、鳥のさえずりが聞こえてくる。
なぜか、ロッリーアは咄嗟に手を上げ、ペーガソスのほうへ干し無花果を一つ投げる。
干し無花果が、見事な弧を描き、ペーガソスの二、三歩手前に落ちる。コロコロと転がって止まる。
ペーガソスはびっくりしたかのように、後ろに一歩飛びのいたり、頭を振ったりして、フンッと鼻を鳴らす。
「何を」
ネロは顔を上げ、ロッリーアを一瞥する。
「……こいつも食べさせてあげようと」
ロッリーアは口を開く。
「そんなやり方があるか」ネロの口元がピクピクする。「この子をびっくりさせた」
「……じゃあどうする?」
ネロは立ち上がる。干し無花果を手に取り、手のひらを広げる。そして、ペーガソスの口元へ差し出す。
ペーガソスは彼女を一瞥する。さっきのことで、まだ不満そうだ。
それでも、結局は我慢できなかった。うつむいて、唇でその干し果物を巻き取る。
「手のひらを広げないと、どれが食べ物か分からない」ネロはそう言う。
「……手を噛まれるのが怖い」
「全然」ネロは首を振る。「余は何年も、ずっと飼ってきた。噛まれることなどない」
「……この前、噛まれたと言ったでしょう」
「あれは子馬のとき」ネロはロッリーアを一瞥する。「あの頃は、まだ人見知りしてた」
「それでも噛まれた」
「う、うるさいよ」ネロは顔を背ける。「今はそうしないよ」
「……やっぱり見送り」
「なぜ」
「うちの手、まだ役に立つ」ロッリーアは干し果物をもう一つ手に取る。
ネロはじとっとした目で、ロッリーアを見つめる。そして干し無花果を地面から拾い上げ、馬の口元に差し出す。
ペーガソスは受け入れる。
ネロはペーガソスの首やたてがみを撫でて、元の場所に戻って座り、食事を続ける。
「……そういえば、なぜ馬を飼ってるの?」
「『なぜ』って……」ネロは一瞬、口ごもる。「……理由なんてない。ただ好きだ」
「馬を?」
「好き」ネロは言う。「戦車競走も好き」
「……『戦車競走』?」
ロッリーアは目をぱちぱちさせる。
「うん」と、ネロは大きく頷く。「四頭の馬が横に並び、戦車を引いて走るとき――」
ネロの話が不意に止まる。
ロッリーアは彼女に目をやる。
「……とにかく、余は好き」
息苦しいような沈黙が、再び落ちる。
ただ、ペーガソスの草を食む音だけが、やけに大きく響く。
「……じゃあ、剣闘士の試合は?」
どれだけの時間が過ぎただろうか――ほんの数秒だったのか、あるいは数世紀が流れたのか――ロッリーアは沈黙を破る。
ネロはしばらく答えない。
「……あんなもの、余は好きじゃない」
十数秒後、彼女はようやく口を開く。
「どうして」ロッリーアは、なおも問う。
「『どうして』はない」ネロの口調が少し冷たくなる。「あんなもの、好きじゃないから」
「何かを嫌うなら、せめて理由くらいあるはずだよね」
ロッリーアはまだ、諦める気がない。
「……見る価値がない」とうとう、耐えきれなくなったようだ。「競走は速さを競い、歌は技を競う。野次馬は周りを囲んで、他人が死にに行くのをただ見て待つ――何だそれ」
「……じゃあ、物足りないと思ってるの?」
「……」
ネロはそれ以上何も話さない。ただ顔を背け、ロッリーアにうなじだけを向けている。
彼女の短髪を見つめながら、ロッリーアはそれ以上問わない。
何か、さっきの言葉には、妙なものが入り混じっている気がする。
しかし、それが何なのか、自分でもはっきりとは説明できない。
向こうの山々の輪郭が、もう少しはっきりしてきた。
どこからか、山雀のさえずりが聞こえてくる。
ロッリーアは顔を上げる。
何も見えない。
「……とにかく」彼女は続ける。「『剣闘士の試合が好きじゃない』って、悪いことじゃないと思う」
ネロは何も返事しない。
が、背を向けた肩が、微かに動いた。
「……私も好きじゃない」ロッリーアは言葉を選びながら言う。「理由は違うかもしれないけど、せめてこの点では、私たちは同じような考えのはずだ」
ネロは相変わらず、何も言わない。
「……けどアナタのことが、本当に分からない」ネロのうなじを見ながら、ロッリーアは続ける。「剣闘士たちの試合は見たことないけど、大体想像できる――野次馬が周りを囲んで、別の人間たちが互いに、死ぬまで殺し合う」
微かな風が、二人の間を吹き抜ける。
風は、ネロの短髪を撫でる。
そして、ロッリーアの長い髪をなびかせる。
「血が流れるのを、息が止まるのを、他人の痛みや死を楽しむ――あんな連中が、恥ずかしげもなく『好きだ』と言える」ロッリーアは少し声を荒げる。「なのに、アンタは?ただどっちの馬が速いか、誰が先に終点に着くか、誰の歌が素晴らしいか……そんなキレイな趣味を、アンタは口に出せないの?」
「……」
「いったい、何が恥ずかしいの?」ロッリーアは手を広げる。「分からへんやん、うちは」
ネロは、ロッリーアに顔を向ける。
その眼差しが、ロッリーアには読み取れない。
納得しているようでもない。
怒っているようでもない。
だがその瞳の奥に、何か言い表せないものがほんの一瞬、微かに煌めいた。
「……何だそれ。汝は、キケロなの?」ネロは体を元に戻す。「変な台詞ばかり言う」
「どこ?」
「……」
ネロは説明しない。
ただ手を挙げ、自分の短髪を軽く撫でる。
彼女を見ると、ロッリーアはそれ以上、何も言わない。
蒼い山々が、ついにはっきりと見えてきた。




