2-7、習わぬ言葉
――大通りとの交差点――
穢れひとつない真っ白な巻雲が、羽のように晴れ渡った空へ浮かんでいた。
軽く、柔らかく、遥かな彼方へと流れてゆく。
青と白の染付の鉢を伏せたような空が、緑の原野の上に広がっていた。
まだ少しぬかるむ泥道を、ペーガソスはゆっくりと歩いている。
「この道、あとどれくらい歩くの?」ロッリーアは尋ねる。
「前のあの土手を越えれば、街道に戻る」ネロは周囲を見回す。「だが、余らは大道には出ない」
「じゃあ、どこを通るの?」
「坂の下の小路を、そのまま北へ向かう」
「遠くないの?」
「いや、遠くはない」ネロはロッリーアを一瞥する。「この辺りじゃ、むしろ街道のほうが遠回りなんだ」
「そうか」ロッリーアは静かに頷く。「じゃあ、今日はどこまで行ける?」
「……はっきり知らないけど」ネロは微かに頭を振る。「運がよかったら、ウォルシニイにも行ける。良くなかったら、フェレンティウムすら着けない」
「どれほど遠くの?」
「覚えてない」ネロは視線を前に戻す。「25哩くらいだろう」
「う……」
ロッリーアは、心の中で計算する。
25かける1.609は……
う……
25かける0.6は15、25足したら40か……
つまり、丸一日かけて40キロしか進めへんの?
……遅ぇー。
車あったらええのになぁ。同じ時間あったら千キロくらい余裕やろ。
めっちゃ大変やん、昔の人。
宝馬がなかったら、旅なんかやってられへんわ。
ロッリーアは微かに息をつく。
「どうした?」
今度は、ネロが振り向くことはない。
「いや、別に」ロッリーアは頭を上げる。「ただ……ずいぶん遅いなぁ、と思うだけ」
「――よそからの?」
見知らぬ声が不意に響く。
ロッリーアの肩がびくりと震えた。
ネロは腰に隠した短剣に、すっと手をかける。
道端の葡萄棚の下に、一人の農夫が立っている。
日に焼けた肌は黒く、腕にも脚にも余計な肉はほとんどない。長年の労働が、そのまま体に刻み込まれているようだ。
ごつごつとした手には厚い胼胝ができていて、鎌によく似た農具を携えている。
ロッリーアはそれを二秒ほど見つめたが、それが何に使うものなのかは分からない。
農具か、それとも武器か。
その農夫もまた、じっとロッリーアを見つめている。
だが、その目に浮かんでいるのは敵意ではない。
どこか説明のつかないもの――
強いて言うなら、戸惑いかもしれない。
ロッリーアは思わず目を瞬かせる。
その目配りが、よく見知った。
――ステリウムのボッタクリ、塩売の女、『水』と問い返すあの老人。
あの三人とも、同じような視線でうちのことを見た……
……またや。
一人も二人も。
そっちのローマのやつらは、頭大丈夫なん?
外国人見たことないん?
それとも黒髪ロング見てへん?
いっそいいところをおすすめしたろうか?
――宛平南路600号(※)に入ってな、『ローマ時代から来ました』って言ってみぃな。
しばかれるかどうか、見てたらええだけの話や。
「いかにもよ、東からの」
ネロはより早く口を出す。
ロッリーアの意識が現実へ引き戻される。
「長旅?」
農夫は続く。
ロッリーアは「うん」と返答する。
農夫は口を開き、何かを言いたげだったが。
結局、何も言わない。
彼は微かに頷くときびすを返し、葡萄棚の奥へと去っていった。
ペーガソスは再び歩き続ける。
ロッリーアは身を回し、農夫の背中を見つめる。「……頭おかしい」
「どうしたの?」
ネロは微かに横目を向ける。
「……あいつの目配り、ほんまおかしい」
ロッリーアは小さく眉をひそめる。
「ふむ」
「けど彼だけじゃなく、昨日、ステリウムにおる時、あのパン屋のボッタクリさん、塩を売る女、あとはワインを売る老人……あいつらの視線は全て、こいつと同じやったなぁ」
ネロは黙っている。
「……そうよ、うちなんて、しょせん『卑しい生まれの外人』やろう。『高貴なローマ市民さま』って呼ばれた存在と比べものにもならへんのやろうけど、どうせ」ロッリーアは一拍置く。「けどや、うちの顔はどこが怪しく見えるん?なんで珍しい獣でも見るみたいな目で……」
ネロはまた、ロッリーアを一瞥する。「……本当に知らないの?」
「なに?」
ネロはまた、少し黙る。
「……ロッリーアの顔立ちは、どう見ても異邦人のものだ」
「知っている」
「だが喋った言葉は――」ネロはわずかに間を置く。「多くのラテン人よりも自然だ」
「……あ?」
ロッリーアの身が固まる。
「ロッリーアのラテン語には訛りひとつない。文法の誤りもない。不適切な語彙を使うこともない。言葉に詰まることすらない」ネロはゆっくりと言い出す。「一度たりとも見たことがない。全くな……ロッリーアのラテン語を聞けば、都で最も礼儀正しく高貴な家柄に生まれた娘なのだろうと、誰もがそう思うだろう」
ロッリーアは息を呑む。
「その二つを考え合わせれば、矛盾が生じる」ネロは話を続ける。「よそからの人は訛りがあるものだし、違う単語を使うものだ。地元の人にしか通じない言い回しに戸惑うことだってある……それが当たり前のことなのだろう」
ロッリーアは息すら止まる。
「だが、ロッリーアはそういうわけではない。顔は『異邦人だ』と告げているが、舌は『いいや、違う』と告げている」ネロは見つめる。「彼らはどちらを信じるべきか分からないから、汝をずっと見つめているのだ」
ロッリーアは口を開く。
しかし今度ばかりは、言葉が出てこない。
……そうなんやろうか。
てっきり顔のせいやと思てた。
『顔を隠したらええ』と考えとったのに。
見当違いやったなぁ。
顔やない、舌の方やったんか。
……そうか。
うちが喋るん聞いたら、あんな目で見られる理由……
「……うちはどうしたらええん?」
「知らない」ネロは視線を戻す。「わざと間違った言い回しを使うなんて、できぬだろう」
「……やってみます」
ネロはただ黙っている。
ロッリーアは口を開き、とりあえず何か話そうとして――
……訛りって、どうやって出すんや?
いや。
そもそも、訛りって一体何や?
発音を変えるん?
アクセントの位置をずらすん?
それとも、語尾を飲み込むん?
具体的にはどうやって?
ロッリーアは、いくつか発音を変えて話してみる。
しかしどう言ってみても、正しい音にしかならない。
どう頑張っても、外国人っぽい話し方にはならない。
何が『正しい』のか、ロッリーア自身にも分からない。だから、何が『間違い』なのかも、知りようがない。
彼女にとって、その言語は歩くことや息をすることと同じだった。あまりにも自然なものとなっていた――体に染みつきすぎて、わざと不自然な歩き方をすることすらできないかのように。
さらに、自分がラテン語を話しているのかどうかさえ、意識していない。
ロッリーアにとっては、ただ喋っているだけ。
自分が漢語を話していた時と、全く区別がつかない。
何かを思えば、言葉がそのまま口から出てくる。その間に通訳は入らない。『今、外国語で喋っている』という自覚もない。
母語を話している時と、同じだった。
……ちょっと。
ロッリーアはふと、もっと奇妙なことに気付いた。
さっき、心の中で『訛り』という言葉を思い浮かべたとき――それは、漢語やった。
それでも、この子と話す時は、ラテン語になってる。
この二つは、一体どうやって切り替わっているのか?
ロッリーアには分からない。
自分がどっちの言語を使うか、『決めた』ことなど一度もない。
何かを言おうとした瞬間、その言語が、ひとりでに口をついて出てくる。
……考えるほど、おかしい。
「……言えへん」
ロッリーアは諦めたらしい。
「ん?」
「訛り……」ロッリーアは続ける。「つけられない。つけ方が分からない」
ネロは一瞥を投げる。「……その意味、解せない」
「……うちにも解せません」
ロッリーアの肩が微かに落ちる。
二人は黙り込む。
ペーガソスだけが、のんびりと坂を登っている。
坂の下には、灰色の細い線が横たわる。
足元の泥道は斜めに前へと延び、どこかでその灰色の線と交わっている。
だが、そこから少し先でまた一本、別の道が分かれて、北へと続いてゆく。
近づくにつれ、灰色の線は次第にはっきりしてくる――
カッシア街道。
ペーガソスは石畳の街道を横切り、そのまま分かれ道へ入り、北へ向かう。
ロッリーアは振り返る。
街道を横切るのも……これで二度目やな。
この先、あと何回あるんやろな。
「そういえば」ネロが口を開く。「汝は、誰に言葉を習った?」
「……習ってない」
「何?」
「一度も習ったことがない」ロッリーアは少し間を置く。「ここへ来るまで、単語一つも知らなかった」
「……」
「あの日、目が覚めたら、もうここにいた」ロッリーアは続ける。「気付いたら、もうラテン語を喋っていた」
ネロはロッリーアを振り向く。
その視線の意味を、ロッリーアははっきりと読み取る――信じていない。
「ということは――」ネロはゆっくりと言い出す。「汝は、一夜だけで、新たな言語を覚えた……そういうことだろう」
「『覚えた』じゃない」ロッリーアはその言葉を正す。「そもそも勉強なんてしてない。気づいたら、もう話せるようになっていた……その間に何も起きなかった」
「……」
ネロは黙り込む。
ロッリーアもそれ以上は言わなかった。
二人はどうやら、息止め大会でもしているかのようだ。
「……ということは」結局、沈黙を破るのはネロ。「ミネルウァ様やメルクリウス様が、汝に我が国の言葉を賜ったかもしれない」
「そういうものか」ロッリーアは眉をひそめる。
「何故あり得ぬと」
「神なんてもの、信じていません」
ネロの眉が寄る。
彼女は怒ってはいない――ロッリーアは気づく。
他の人なら、『神なんていない』などという言葉を聞けば、こんなに平然としてはいられないはずだ。
しかしネロはただ、バカげたことを口にした幼子でも見るように、ロッリーアを見つめている。
「では何故だ。汝は自分で言ってみよ」
ロッリーアはもう一度黙り込む。
なぜだろう……?
ロッリーアにも分からない。
ワームホールでも、胡蝶の夢でも、バグでも。それらは、自分の言語モジュールに、ラテン語が読み込まれていることの説明にはならない。
筋の通った原因なんて、何ひとつ思いつかない。
もしあるとしても、その理由はきっと、『外部』にしかない。
「……分かりません」ロッリーアは微かに視線を下げる。
「汝は、分からない」ネロは繰り返す。
「……うん」
ネロは前に視線を戻す。が、少し間を置いてから、再びロッリーアを振り向く。
「キケロやカトゥルスの如く淀みなく、活き活きと言葉を操り――生まれながらにそうであるかのような異邦人を、いずれで見た?」
ロッリーアは何も言わない。
「余は様々な異邦人を見知ってきた。使節、人質、商人、学者、奴隷……」ネロの言葉は続く。「その中には、たゆまず学ぶ、賢い者も少なくなかった。それでも、彼らの言葉には必ず、どこかしら微妙なところがあった。単語も文法も意味も、どれも正しい。だが似ていない」
ロッリーアは変わらず黙っている。
「しかし、ロッリーアは違う」ネロは振り戻す。「汝が話していると、その顔を見ていなければ、異邦人だということをよく忘れる」
ペーガソスは前へ進み続ける。
「神々の賜物以外――」ネロは間を置く。「他に説明できる?」
「……」
ロッリーアは視線が落ちる。
説明できない。
どうやってここに来たのかすら分からないから。
持てる限りの知識も、あらゆる懐疑論も、『どんなことにも、必ず科学の理屈がある』という信念さえ、この世界の前では、次々と壁にぶつかった。
神が存在するなんて信じていないけれど、もっとましな答えを、何ひとつ出せない。
二人は、ふたたび沈黙へと沈み込む。
白い雲が、澄んだ風の中で、ゆっくりと伸びていく。
風はそよそよと流れ、初夏の草木の淡い香りを運んでくる。
野を渡り、ペーガソスのたてがみを優しくなびかせる。
さらに遠くでは、緑の原が日差しを浴びて、のびのびと揺れている。
緑の海原のうねりのようだ。
不意に頭上から、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
ロッリーアはソラを見上げる。
白と黒の大きな鳥が三羽、ソラを飛んでいる。
「カササギ!」
その言葉はするりと、ロッリーアの口から飛び出した。
ネロはつられて、顔を上げる。「……どうした」
「ううん、何でもない」ロッリーアは首を振りながら、視線を戻す。「ここにもいるって、ちょっと驚いたから」
「セリカもカササギがおるの?」
「うん」ロッリーアは微かに頷く。「セリカの文化では、カササギは好運や幸せを連れてくる鳥。だから、みんなに好かれている」
「そうかぁ」
ネロはわずかに間を置いてから、ロッリーアを一瞥する。
「どうしたの?」
「いいや、何でもない」
ロッリーアは微かに首を傾ける。
風は音を立てずに野原を撫でる。遠く緑の波となって、遥かな遠く地平へと押し寄せてゆく。
ネロは前を見据えて、手綱を軽く引く。
「好運や幸せを連れてくる鳥、か……なら、今ここにいるのは、悪くない兆しだということじゃろう」
ロッリーアは少し息を呑む。そして口元を上げる。「さぁね」
「よし」ネロは足で馬の腹を締める。「走れ、ペーガソス!」
ペーガソスは勢いよく前へ駆け出す。
「……うわあぁ!」
ロッリーアは必死にネロの腰をしがみつく。
「どうじゃ?血が騒ぐであろう?」
ネロの唇がわずかに動く。
「ええ、スリル。ほーんまに死ぬほどスリルやわ」ロッリーアは恐ろしくて手を離さない。「今度は予告してくれへん?やる前に」
「さあ、どうだろう~」
ネロは笑う。
ペーガソスは、ますます速く駆ける。
広がる野原を、二人の女の子をのせて。
田畑を過ぎ、村を抜け、丘を越えていく。
日差しは心地よく。
風もまた清らかに。
※、宛平南路600号とは、中国・上海市にある精神科病院の所在地であり、その病院を指すネットミームとして定着している。
『宛平南路600号に行け』は、相手を『頭がおかしい』『精神科へ行ったほうがいい』といった揶揄表現として使われることが多い。
ただし、ここでロッリーアが言わんとしているのは、単なる罵倒ではない。かの病院の医師たちは、世の『尋常ならざる』人々を日々相手にする、何を見ても動じぬはずの玄人である。
つまり、相手の所業は専門家すら思わず手が出てしまうほど、正気の沙汰ではない、という意味なのだ。




