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七つ丘の梨花の夢  作者: 遠坂雨柔
二、梨花の道
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13/16

2-6、sola

  挿絵(By みてみん)

  ――世界の果てへ続くような夕焼け――


  ロッリーアは目が覚めた。

  もう朝だった。

  雨も、いつの間にか止んでいた。

  ……今何時?

  ロッリーアは手を伸ばすが、何にも触れない。

  ……そうなんや。

  こっちはローマ。

  スマホなんて、あるわけあらへんやろう。

  彼女は小さく鼻で息を吐き、ゆっくり身体を起こす。

  ネロはまだ座っている。

  だが、その頭はこくり、こくりと落ちかけている。

  「……寝てた?」

  ロッリーアは、二秒ほど見てから口を開く。

  「……寝てない」

  ネロははっとしたように顔を上げた。

  ロッリーアはもう一度ネロを見る。

  「……なんで起こしてくれへんかったん?」

  「余は……平気」

  ロッリーアは少しだけ首を傾けたまま、何も返さない。

  ネロは唇を引き結ぶ。

  少し離れた場所で、ペーガソスが静かに鼻を鳴らす。

  音は洞の中へ広がり、やがて落ちていく。

  「……こっち来て、少し休もう」

  ロッリーアは掛けていた服をめくり、立ち上がる。

  「必要ない」

  「来て」

  ロッリーアはもう一度言い返す。

  「もう朝だ。そろそろ行くぞ」

  ネロは視線を洞の外へ向ける。

  「今は行かない」ロッリーアは動かない。「来て。寝ろ」

  「……」

  「横になろう」

  ネロは見つめている。

  ロッリーアもまた、見返している。

  やがてネロは静かに目を伏せ、剣を置いて、ゆっくりこちらへ移ってくる。

  「……二時間だけ」と、小さな声で。

  「五時間」

  「……長すぎない?」

  「五時間寝るか、落ちて一生寝るか――どっち?」

  「……」

  ネロはおとなしく横になる。

  ロッリーアは、自分のストラを掛ける。

  「ずっとそばにいるから」

  ネロはロッリーアを一瞥したが、何も言わないまま目を閉じる。

  ロッリーアは岩壁の下に腰を下ろす。

  連なる緑の丘は遠くでうねうねと、海の波のように打っている。

  朝日がそこへ少しずつ、金色の光を落としてゆく。

  ほどけた細糸みたいに、淡く、静かに浮かびながら。

  空気には、まだわずかな冷たさが残っている。

  露は枝葉の先で、かすかに震えている。

  風が吹いていて、土と青草の香りを運んでくる。

  ロッリーアの視線は少し、ペーガソスへ向く。

  向こう側の岩陰につながれている。

  傍らには、小さな木が一本。

  ペーガソスは頭を下げたまま。ロッリーアが見始めてから、一度として頭を上げようとしない。

  周りには草と灌木が生えている。

  濃い緑と薄い緑、その間に剥き出しの土が混じる。

  しかしペーガソスは、避けようとしていない。

  ただ噛み、引きちぎり、咀嚼する。

  そして半歩だけ前へ進む。

  立ち止まりもせず、選り分けもしない。

  同じ動きを繰り返すだけ。

  ロッリーアはペーガソスを見つめ続けている。

  今度は横へ首を伸ばす。

  縄がぴん、とわずかに張る。

  ロッリーアは馬の足元に目を凝らす。

  噛み千切られた草の茎しか残されていない。

  それでも、食べ続けている。

  ただ、少しだけ勢いが鈍くなっている気がする。

  ロッリーアの眉が、ゆっくりと八の字に寄った。

  ペーガソスはさらに、前へ探るように動く。

  今度はもっと、強く張り詰めたが――

  戻ろうとはしない。

  そのまま縄を引っ張りながら立ち尽くし、尾をひとつ軽く振る。

  ロッリーアは立ち上がり、ペーガソスのほうへ歩いていく。

  ペーガソスは顔を上げ、じっと彼女を見る。

  「……お腹すいた?」

  ロッリーアは足音を殺しながら、ゆっくり近づく。

  ペーガソスは鼻先を寄せ、彼女のあちこちをくんくん嗅ぎ回る。

  一回。

  また一回。

  「動くな、連れて行ってあげるから」

  無理。

  ペーガソスは相変わらず擦り寄ってきて、鼻先をロッリーアの肩に何度も押しつけ、ついには髪にまで触れてくる。

  「こっ、こら――草じゃないこれ!」

  ロッリーアは結び目をほどきながら、懸命に肘で押し返す。

  ペーガソスはふっと鼻を鳴らす。

  縄が緩んだ瞬間、振り返りもせず歩き出す。

  ロッリーアがぐっと前へ引っ張られる。

  彼女は反射的に手綱を掴む。

  だが、そのまま一歩。

  また一歩。

  ペーガソスは頭を下げたまま、歩きながら足元の草を食んでいる。

  全然止まる気がない。

  草は次第に途切れなく広がり、色も深くなっていく。

  風に揺れて、さわさわと波打っている。

  ようやく足を止める。

  ペーガソスは頭を下げたまま、今度は勢いよく草を貪り始める。

  ロッリーアは振り返る。

  あの灰白色の岩壁は、まだそこに見える。

  灌木に遮られて二、三か所に途切れてはいたが、完全には隠れていない。

  彼女は縄を近くの木に回し、結び目を作る。

  麻縄は太くて硬い。

  手に喰い込んで、少し痛む。

  結び終えると、ロッリーアは手についた埃を払い、ペーガソスのたてがみを軽く撫でる。

  だがペーガソスは頭を下げたまま、夢中で呑み続けている。

  「……お腹空いてたんやね」ロッリーアはその頭をぽんと叩く。「ここで大人しくしてな。お前の主人を迎えに行ってくるから」

  ペーガソスは全く聞いていない。

  「はぁ……お前もお前の主人も、ほんま手ぇ掛かるねん」ロッリーアは小さく肩をすくめる。「……って、こんなこと言っても分かんへんやろう」

  それでもペーガソスは反応なし。

  ロッリーアは背を向け、洞へ戻っていく。


  ネロはもう眠っていた。

  胸が静かに上下し、眉間の力も抜けている。

  「……」

  その人の寝顔は、初めて見るかもしれない。

  ロッリーアはそう思う。

  ……うん。

  確かに、初めて。

  目には見えない月桂冠が、そっと外されたみたいだ。

  あの鋭さに張り詰めたものも、今はどこにもない。

  ロッリーアの前にあるのは、ただ静かな寝顔だけ。

  柔らかくて、どこか幼ささえ残っている。

  剣を握る姿を見たことがなければ、ただの普通の女の子にしか見えない。

  この子の夢の中やったら、起きる時より少しは楽になれるんやろうか。

  ……きっと、少しくらいやんな。

  ロッリーアはもうしばらくその寝顔を見つめ、それから静かに視線を逸らす。

  雲は青空の中へ、ゆっくり広がっている。

  風に押され、形を変えながら散り流れてゆく。

  ……こんなふうに空を眺めたの、いつ以来やろう。

  ロッリーアはそっと顔を上げる。

  ずっと昔、あるアニメを観たことがある。

  題名は、今でも覚えていた。

  そこには立派な人物がいて、素晴らしい物語があった。

  胸を打つ話で、涙も流したことがあるけど。

  今となっては、人物も筋書きも、記憶の海でぼんやりとセピア色になってしまっている。

  それでも、一番鮮やかに残っているものがある。

  ――ソラ。

  澄み渡る晴れ空。

  優しく降る雨空。

  どこまでも深い星空。

  そして、眩い夜明け。

  風が吹くと、雲はどうやって形を変え、また変え、やがて少しずつほどけるように消えてゆく。

  夕暮れのとき、陽差しはどのように雲の隙間から零れ落ちてゆく。

  夜明けには、その青がどんなに地平線から彼方へ広がってゆく。

  あの作品は、そんな様々な空を描いた。

  気づけば、ロッリーアの肩から力が抜けている。


  幼い頃から、空を見るのが好き。

  小学生の頃、同級生たちが校庭で遊び回る中、ロッリーアはいつも隅に立って空を見上げているだけだった。

  中学時代、授業終了のチャイムが鳴っても席に残り、窓の外を眺めていた。

  雨上がりの夕方には、わざわざ屋上へ行くこともあった。

  ただ、流れてゆく雲を見たかったから。

  ロッリーアに、誰かの付き添いは必要ない。

  空を見るなんて、自分だけで十分。

  誰かに話しかけられると、魂すら空に満たされていくような、あの感覚が消えてしまうから。

  こんなにも空に惹かれる理由は、ロッリーアにも分からないけど。

  空というものは、この世で数少ない『ずっと変わり続けながら、それでも変わらないもの』だということ。

  それだけは、ロッリーアの分かっていることだった。

  だから、彼女にはあの作品が理解できる。

  あれほど何枚も空を描いたのは――

  きっと空だけが、言葉にならないものを全て抱え込めるから。

  空は、あの頃と同じ空。

  雲も、あの頃と同じ雲。

  地上から見上げている人間も、同じまま。

  けれど、(世界)だけは、もう変わってしまったはずだ。

  ……ソラって、いつでもいつまでも、こんなに青く蒼く……やなぁ。

  ロッリーアはふっと瞬きをする。


  雀が数羽、ばたつかせながら、追いかけ合っている。

  ロッリーアの口元が、少しだけ緩やかな弧を描く。

  ……ええなぁ。

  気楽で。

  行きたい場所があれば、羽を二、三度ばたかせるだけでええ。

  毎日毎日、終わりもなく慌ただしく生きているのは、人間というものばかりや。

  ほんま疲れんなぁ……

  来世があれば、絶対鳥になろう。

  雀たちは飛び去ってゆく。

  ロッリーアは視線を戻す。

  ……リタは今平気?

  ロッリーアは分からない。

  いや、むしろ『分かる方法がない』というべきなんや。

  リタが馬で駆け去った時、ロッリーアには、その後の行動や要事を確認する時間すら与えられなかった。

  追い手を騙した後はどうするんや?失敗したらどう動くんや?

  合流する場合は?予備のプランが?

  確認するべきことは、何も間に合わへんかった。

  それにしても、あの偽装はどれくらい持つ?

  一日?

  二日?

  相手の勘が鋭かったら、一日すら持たへんかも知らん。

  不注意なら……

  いや。

  そんなことに望みを懸けるなんて、絶対にアカン。

  ロッリーアは微かに息を吐く。

  じゃあ、もしバレたら、元老院はどう動くん?

  ロッリーアは右手の拳で頬杖(ほおづえ)をついている。

  『生死を問わず』、手配書にはそう書いてあったけど……

  元老院の立場からすると、あいつらはどっちの結果になってほしい?

  答えはあまりにも明るい――

  『死』や。

  それも油断せんと、確実に殺さなあかん。

  逃亡中で死んだネロが、彼らの思惑には一番都合ええんや。

  裁判で言い争う必要もあらへん。市民たちに見世物にする必要もあらへん。説明すら要らへん――

  『罪を恐れての自殺』や『武力抵抗』って、それだけで真実なんか闇に葬られてまう。

  やから、あいつらは必ず、本気でネロを捜しにくる。

  下手したら、その場で斬り捨てられるかもしれへん。

  降伏する間すら与えられんまま。

  ロッリーアの左手の人差し指が、膝の上を静かに叩いている。

  その時、ネロの傍におるうちは?

  答えは、嫌になるほど明白や――

  ネロの仲間や支える者として、まとめて殺される。

  それが一番キレイで、一番安全な結末や。

  しかも、ローマ(この時代)は法の国やない。異邦人ていう身分も、うちを守ってはくれへん。

  ロッリーアは岩壁に背を預け、そっと目を閉じる。

  ……それでも。

  絶対に、諦めるわけにはいかへん。

  この子(ネロ)と同じように。

  ロッリーアは静かに目を開ける。

  再び、空が視界に戻ってくる。

  「……」

  空って、綺麗やな。

  死んだら、もう二度と見られへん。

  せやから、生きる。

  ロッリーアは黙ったまま、そっと視線を逸らす。

  「……」

  正規軍団こそ置かれてへんけど、街道沿いの治安を維持する補助部隊は各地に散らばっとる――ネロはそう言うとった。

  せやから、公的な施設や仕組みは、ほとんど使えへん。

  街道。

  郵便。

  検問所。

  公営の宿駅。

  主要な山道や関所。

  重要な橋や渡し場。

  それに各都市の出入口――

  人がおる場所なら、理屈の上ではどこで見つかってもおかしくあらへん。

  うちとネロの繋がりを知る者は、おそらくそう多くはおらへんやろう。

  せやけど、うちの顔は……

  もうちょっと人混みに紛れやすい顔やったら良かったんやけどな……

  向こうは、堂々と制限なく動ける。それが相手の強み。

  せやけど、こっちも見つからんまま時間を引き延ばせれば、あるいは状況が動くかもしれへん。

  ゲルマニアでの戦勝報告かも知らんし、反乱軍の内輪揉めかもしれん。あるいは、別の介入者が現れて、元老院の注意を逸らす――それも可能性がある。

  どれであれ、ネロの死を確認できへん限り、ほかの勢力には互いを警戒し、駆け引きし、取引する理由が残る。

  それこそが、利用できる隙間や。

  ほんのわずかな隙間やけど、それだってあり得る話や。

  ロッリーアは足を少し伸ばす。

  問題はやっぱり、いかに秘匿し続けるかや。

  出来る限り時間を稼ぎ、元老院の手から逃れ続ける。そのため、こっちの意図を悟らせんことが重要になる。

  ――いや。

  元老院も、そこまで間抜けやない。

  おそらく、こっちの狙いそのものは見抜いてくるはずや。

  もうお見通しやったりしてなぁー。

  それでも、意図が知られたとしても、行き先や今の居場所さえバレへん限り、こっちはまだ安全や。

  バタヴィアへ向かうっていう話そのものは、リタとファオンしか知らへん。

  そして、あの二人は口を割らへん。

……多分。

  ロッリーアはわずかに眉を寄せる。

  せやけど、たとえ行き先なんか分からんかて、元老院の中には頭の切れる連中がおるはずや。

  少しでも頭が回る奴なら、大体の当たりは付けてくるやろう。

  帝国は確かに広い。

  けど、逃げ込める場所は、実際にはそう多くあらへん。

  東――小アジア方面へ向かうなら、地中海を渡らなあかん。

  つまり、大型船が必要になる。

  せやけど、オスティア港の艦隊は、もう忠誠を拒んどる。

  海路は使えへん。

  南――エジプトや北アフリカ方面も、行かれへん理由は同じや。

  せやから、残るのは北しかあらへん。

  北へ向かう道はどこ?

  その答えは考えるまでもないーー

  カッシア街道。

  「……」

  ロッリーアは静かに息を吐く。

  幸い、この時代には身分証があらへん。

  写真も、指紋も、ネットで繋がっとる戸籍システムも、遍在しとる天網も……全ては存在してへん。

  自然に振る舞って、注目さえ集めへんかったら、誰かに疑われにくいはずや。

  手配書に描かれた特徴かて、薄い金髪、青い瞳、小柄――その程度しかあらへん。

  (ローマ)の街だけでも、そんな女はいくらでもおる。

  しかもこの国(ローマ)の支配力なんか、おそらく思とったより弱い。

  ……商鞅(しょうおう)(しん)の法をローマまで持ち込んでへんで、ほんま良かったわ。

  この公演(ステージ)はさぁ――

  まだ第一幕すら終わってへんわね~

  ロッリーアの唇が、微かに緩やかな弧を描く。


  太陽はゆっくりと昇っていく。

  日差しは東の岩から斜めに切り取るように、まだ湿り気を残した地面へと差し込む。

  浅い窪地に溜まった雨水は、黄金色の朝日を反射し、眩く輝く金貨一枚のように光っている。

  気温が少しずつ上がっていく。

  風は吹き続けているが、空気はまだ涼しい。

  ロッリーアは空を見上げている。

  雲は次第に薄れていく。

  時折、鳥が空を横切って飛び、一声二声だけ鳴いて、すぐさま青空の彼方へと消え去っていった。

  ロッリーアは、どれほど時間が過ぎたのか分からなかった。

  ただ、背後からかすかな衣擦れの音が聞こえてくる。

  彼女は振り返り、ネロと目が合う。

  「……どれくらい経った?」

  ネロの声は少しかすれている。

  ロッリーアは銀の器を手にしたまま彼女の傍へ歩み寄る。

  「分からないけど……まだ正午にはなってなさそうだから、多分三時間ちょっとくらい?」

  ネロはゆっくりと身を起こす。

  「もっと早く起こすべきだ」

  「そんな急がなくてもいいでしょ。ここにいるなんて、誰も知らないんだから」ロッリーアは小さく首を振る。

  ネロはロッリーアを一瞥し、黙ったまま器を受け取って、水を飲む。

  「まだ早いから、もう少し寝てれば?」

  ロッリーアはそう言う。

  「眠れぬ」ネロは目をこする。「明るすぎー」

  「服でかぶせれば?」

  「蒸す。余計に眠れなくなる」

  ロッリーアはネロをちらりと見る。

  もうすっかり目は覚めとるようだし、視線にもはっきりと力が戻っとる。

  多分、ほんまに眠れへんのやろな。

  ……まぁ、ええわ。

  ロッリーアは袋の中から半分のパンを取り出し、さらに干し無花果と干し葡萄を引っ張り出して、布の上へ並べる。

  「……とりあえず、食べよう」

  ネロは、ロッリーアが塩まで取り出すのを見詰めている。「……これだけか?」

  「これだけ」

  「……」

  「あら?まだご注文は?」ロッリーアは眉を上げて、手中のパンを二等分にした。「うさぎはいかがですか?」

  「……」

  ネロは黙ったままパンを受け取る。

  それ以上、二人は口をきかない。

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