2-5、雨空
どれほど馬を走らせただろう――
二、三時間ほどかもしれない。
両側を埋めていた深い森は、いつしか再びまばらになってゆく。
街道沿いには小さな畑や荘園が点在し、その間にぽつぽつと家屋が見える。
「ここは……どこ?」
その静けさを破るのはロッリーア。
「……」
ネロは手綱を握り直し、わずかに眉を寄せる。
「おそらく……もうすぐフォルム・カッシーだ」
「……『フォルム・カッシー』? 」ロッリーアはその名を繰り返す。「市場?」
「そう」
「町じゃないの?」
「違う」
ネロは近づいてくる街道を見ながら、誰もいないのを確認すると、ペーガソスを渡らせる。
石畳と玉石で敷かれたこの道から向こうへは、ひと回り細い土道が伸びている。
草はロッリーアの足首ほどまで伸び、道端には茨と灌木で組まれた垣根。
その奥には、葡萄の蔓が広がっている。
葡萄の畑か……
「来たことある?」
ロッリーアは首を伸ばす。
だが、木々の隙間から見えるのは、いくつかの家の屋根と、薄く立ちのぼる炊煙だけ。
「ああ」ネロは振り返らないまま答える。「ここから、近道がある」
ロッリーアは足元の道へ視線を落とす。
『平坦』とは言い難く、浅い轍まで刻まれている。どうやら、普段から馬車や牛車も通っているようだ。
とはいえ、数はあまり多くないと見えるけど。
……この道も、人が通るんやなぁ。
もし途中で誰かと鉢合わせたら?
ロッリーアは不安げに、ネロの横顔を見上げる。
ネロは全然気にしてへんみたい。
……大丈夫やろ。
通るのは、せいぜい近くの農家くらいやろう。
ということは――
「……カッシア街道では、検問してるんだよね?」
ロッリーアはわずかに眉を寄せる。
「ふむ」ネロは市場の方へ目をやる。「市場には公営駅舎があり、利用には通行証が必要」
「どれくらい離れてる?」
「……気にしていなかったが、一、二哩ほどだろう」
「駐屯があったら……確かに厄介ね」ロッリーアもそちらへ視線を向ける。「人数、分かる?」
「わからぬ」ネロは首を横に振る。「印象では、この手の場所なら、多くても一個分隊程度だ」
ロッリーアは癖のように顎へ手を当てる。
……うーん。
たとえ五、六人程度でも、厳しい脅威になるやろ。
ほんまに鉢合わせしたら、この子でも無事では済まへんかもしれん。
あの場合、うちは足手まといになるだけやわ。
……やめよう。
縁起でもないことは考えない方がいい。
ロッリーアは視線を戻す。
とはいえ――
今は北へ向かっているはずやんな?
ロッリーアは空を見上げるが、太陽は見えない。
――いや、隠された。
西から流れてきた雲は次第に厚みを増し、最初は魚の鱗のようだったそれが、いつしか空一面を覆う綿布のような雲へ変わってゆく。
風向きも変わっている。
陽の光は雲の向こうへ閉ざされる。
……雨かなあ?
ネロは何かを察したように、西の空を見上げる。
「……もうすぐ降る」
とうとう口にする。
「どれくらいで?」
ロッリーアが尋ねる。
「おそらく……一時間以内だ」
ネロは少し間を置いてから答える。
「……じゃあ、市場から十分に離れてから、雨宿りできる場所を探そう」ロッリーアは小さく息を吐く。「今日はどれくらい進んだ?」
「……余もうまく分からぬけど……ストリウムからフォルム・カッシーまでは、街道沿いに進めば十一哩ほどだ」ネロはしばらくしてから続ける。「今日は二十哩前後、といったところか」
「……それだけ?」
ロッリーアは軽く眉をひそめる。
「汝、買い物と摘み物をしただろう」ネロは気にした様子がない。「それに、この子は昨日かなり走ったから、少し休ませねばならぬ」
……それは反論できんけど。
どう考えても、二十哩は短すぎるんやん。
……そういえば、こっちの『一哩』って、どれくらいなんだ?
まさか、英国のマイルと同じ?
一マイルって……どれくらいだったっけ。
1.609キロ?
ロッリーアは乱暴に頭を掻く。
数学の教科書で確かめたら良かったのに。
風が次第に強くなってきた。
道端の草は東へ向かって波打ち、枝葉がさわさわと擦れ合う。
長い髪が風に煽られ、何度も視界を覆う。ロッリーアは手で払おうとしても、すぐまた乱される。
何度か繰り返した末に、彼女はとうとう諦める。
不意に西の空が白く光る。
十数秒後、遠くから鈍い雷鳴が響く。
「……これ以上は進めぬな」ネロはペーガソスを止める。「雲は予想より速い」
「……このあたり、厩舎さえも見えないけど、どこに行くの?」
ネロは、ペーガソスを右へ向けて土道から外れる。「……あっち」
ロッリーアも目を凝らす。
だが、遠くに濃い緑が盛り上がっているほかには、何も見えない。「……何あれ」
「チミニウス山」
ネロはそれだけ言う。
「山?」ロッリーアは目を細める。「……全然そう見えないけど」
「だが山だ」ネロはわずかに横目で一瞥をくれる。
「……高く見えない」
ロッリーアは改めて目を凝らす。
「森が深すぎるから」ネロは遠方を見たまま続ける。「だが、実際はかなり急斜面になっている」
「ふぅん……そうなの?」
ロッリーアはそう言う。
だが、ネロは何も答えない。彼女の視線は遠くに、小さな灰色の影へ釘付けになっていた。
蹄の音が、先ほどより少し激しくなる。
距離が縮まるにつれ、その淡い灰色の影は二人の目の前に、次第に形を現す――
露出した凝灰岩によって形成された、U字状の窪地だった。
崖そのものはそれほど高くない。
精々二、三階建て程度。
だが、このU字の最奥部には、外側へ張り出した岩壁がある。
深くはない。
それでも、風雨を凌ぐ程度なら十分そうだ。
さらに奥には、もっと深い穴のような口もかすかに見える。
「運が良かったな」
ネロがそう口にした途端、ロッリーアは頬に冷たいものを感じた。
手で触れる――
水。
続いて二滴目。
三滴目、四滴目もすぐに落ちてくる。
二人はほぼ同時に馬から飛び降りる。
ネロはペーガソスを引いて、岩壁の下へと駆け込む。
だが後ろを歩くロッリーアには、ペーガソスが鼻を鳴らしながら、どこか嫌がっているかのように見える。
「中に何かいる。気をつけろ」
ネロはそう言うが、歩みは緩めない。
「……うん」
ロッリーアはゆっくり後に続く。
二人はペーガソスを引いて、岩壁の下へ辿り着く。
ネロは先に剣を抜き、開口部へ数歩近づく。
ロッリーアはその背後から中を覗き込む。
暗い。
湿っている。
それに、何とも言えない臭いが……
「……中に何かいる?」
ロッリーアが言い終える前に、奥からガサガサと音が響く。
彼女の足が止まる。
次の瞬間。
白黒まだらの、丸っこい何かが飛び出してくる。
ロッリーアの足元を掠めるように駆け抜ける。
彼女の肩がびくりと震える。
その姿を捉えるよりも早く、それは脇の茂みに飛び込み、そのまま一目散に消えていく。
茂みだけが、ばさばさと二度ほど揺れる。
「……アナグマだ」ネロは茂みを見つめたまま言う。「もう逃げ去った」
「アナグマ?」ロッリーアの意識がようやく身体へ戻ってくる。「人を噛んだりする?」
「普通はしない」ネロは少し間を置く。「追い詰められれば別だが」
「……ならよかった」ロッリーアはほっとしたように息を吐く。「びっくりした……」
ネロは、洞穴の奥へと歩を進める。
せいぜい数歩だけ、深くはない。
しかし、アナグマが掘り進めた小穴が、さらに奥にある。
どこまで伸びているのかは分からない。
ただ、獣臭が激しく鼻を突く。
ネロは耳を澄ませるが、物音は聞こえない。
「……大丈夫?」
ロッリーアは様子を窺うように中へ入ってくる。
「安心しろ。何もいない」
ネロの言葉を聞き、ロッリーアはほっと息をつく。食べ物の入った袋を取り出し、洞口近くに置く。
雷鳴がごろごろと響き続ける。
外では雨粒が筋となって落ち始めている。
ロッリーアは洞口の縁に腰を下ろす。
ぱらぱらという雨音は、やがて途切れのない響きへと変わり、さらに白い雑音のように胸の奥まで染み込んでくる。
あの臭い、まだ残っている。
先ほどよりは薄いが、雨と湿気に押し下げられたせいか、より低く、鈍く、それでいて妙に鼻へ刺さってくる。
ロッリーアはより遠くに座る。
ペーガソスは張り出しの下に繋がれている。大半は雨を避けられている。頭を下げ、耳を後ろへ伏せている。
なぜだか分からないけれど、その姿を見るたび、ロッリーアは妙に笑いそうになる。
ネロは向こう側に腰を下ろしている。
雨脚はさらに強まり、空もいっそう鈍い灰色へ沈んでゆく。
山の外から吹き込む風に、洞口の草葉がざわざわと揺れる。
ロッリーアの様子は、どこか普段と違っている。
だがネロは、それが何なのか上手く言葉にできない。
無理に言葉にするなら――
たぶん、安堵?
そうだ――
安堵。
ずっと彼女を縛っていた何かが、雨の中でだけ、そっと緩んでいるようだ。
洞の外は雨幕に閉ざされ、木々も山影も遠い丘陵も、すべて滲んだ輪郭になっている。
風は雨粒を巻き込みながら斜めに吹き込んでくる。
それでも奥までは届かず、ロッリーアの足元に微かな水の跡を散らす程度だけ。
ロッリーアは一度だけ奥へ下がろうとして、結局やめた。
膝の上の腕に顎を乗せたまま、静かに雨音へ耳を傾けている。
ネロはそっと視線を逸らす。
「……こんな雨じゃ、今夜はもう進めないよね?」
ロッリーアがふいに振り向く。
「……おそらくなぁ」
ネロは彼女を一瞥し、わずかに眉を上げる。
「こっちは、アナグマの巣?」
「たぶんな」
「じゃあ今の私たちって……あいつの家を乗っ取っちゃってるよね?」
「そうかもしれぬ」
「夜になったら戻ってこない?」
「来るだろうな」
「じゃあその時は……どうするの?」
「追い払う」
「……群れで来ても?」
「同じだ」
「……怖くないの?」
ロッリーアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「アナグマは臆病だ。汝が怖がれば、向こうはもっと怖がる」
ネロは鞍袋から火打石を取り出す。だが外の雨脚を見て、すぐまた戻してしまう。
ロッリーアは袋からパンを一つ取り出す。「なら安心」
ネロの視線が、そのパンの上でしばらく止まる。何か言いかけて、結局口にはしない。
彼女は静かに目を逸らす。
ロッリーアはパンを一瞥して、それからネロを見る。顔には『言いたいことは分かってる』とでも言いたげな色が浮かぶ。
彼女はパンを真ん中から割り、その半分を差し出す。
「言いたいなら言おう?」ロッリーアは言う。「見つめてても、勝手にそっちの手へ飛んでいったりしないし」
「……余は、そういう意味ではない」
ネロは唇を軽く結ぶ。
「うん」ロッリーアはさらに少しだけパンを差し出す。「分かってる」
ネロは小さく首を振り、ようやくパンを受け取る。
風はさらに強くなった。
巻き込まれた湿気が二人の間をすり抜け、細かな水滴が、静かに冷たさを刻んでいく。
ペーガソスが濡れた鬣をぶるるっと振り、低く鼻を鳴らす。
ネロはパンをひと口かじる。
ロッリーアは首を傾けながら彼女をちらりと見て、また外へ視線を戻す。
空、先ほどよりさらに暗い。
今って……
もう六時近いのやなぁ。
……まあ、ええか。
なるようになる。
ロッリーアもパンをかじる。
……硬っ。
セステルティウスみたいに硬い。
しかも塩辛い。
あのクソ店主、海水で生地でも捏ねたんちゃうか。
それに、なんで砂まで入ってる?
最低のボッタクリや。
キモい、下衆め、クズや。
死んだらええねん。
いや、死になさい、頼むから。
「……どうした?」
ネロが食べる手を止める。
「……砂入ってる」ロッリーアは眉をひそめる。「パンの中に」
「ん?」ネロはもう一口かじり、口の中でゆっくり噛む。「……砂じゃない。麩だ」
「ふ、麩って……何?」
ロッリーアの問いに、ネロは少しだけ言葉を詰まらせる。
「……麦の殻だ」
「……」
ロッリーアは黙り込んだ。
ネロは再び視線を落とし、黙ってパンを食べ続ける。
ロッリーアももう一口かじる。
この妙な異物感……
やっぱり慣れへん。
ごめん、ボッタクリさん。
疑って悪かった。
悪いのはうち。
謝ります……本当にごめんなさっ――
――いや、ちゃう。
砂は入ってへんかったけど、お前はこの子のお金をぼったくったんや。
やから、お願い。
どうぞ、お死にください。
ロッリーアはわずかに眉を寄せたまま、袋から桑の実を取り出す。「……喉、渇いてる?」
「……少しな」ネロは小さく頷く。
「雨じゃ薪も見つからないし、水も沸かせない」ロッリーアは桑の実を差し出す。「喉乾いたなら、これ食べて凌いで」
ネロの視線が、その包みの上へ一瞬だけ落ちる。
「……ああ」
彼女は静かに頷く。
ロッリーアは、きれいそうな布をもう一枚取り出し、桑の実の大半をそちらへ分ける。
ネロは受け取らない。
「……」
ロッリーアが彼女を見る。
ネロもまた、ロッリーアを見ている。
「……」
ロッリーアはもう一度きっちり半分に分け直し、その片方を差し出す。
ネロは今度、受け取った。
空の明かりが、少しずつ薄れていく。
雨脚は先ほどより弱まったようだが、止む気配まではない。
ロッリーアはゆっくりと食べ続ける。
パンは塩辛い。
やけど、桑の実の甘さまでは消せへん。
逃げる途中じゃなかったら――こりゃ案外、『心地ええ時間』と呼べたのかもしれん。
ロッリーアは静かに目を伏せる。
また、雨空が白く光った。
十数秒後。
響いてきたのは鋭い落雷ではなく、低く長く腹に残るような雷鳴だ。
風雨が再び強まる。
ペーガソスの毛並みはさらに濡れ、ぶるるっと激しく頭を振る。
ロッリーアは思わず吹き出す。
馬やのに、なんだか犬みたい。
こいつまさか、犬年(戌年)生まれなんちゃうやろね。
「……何を笑ってる?」
ネロはロッリーアを見て、それから彼女の視線を追うようにペーガソスへ目を向ける。
「……別に」
ロッリーアは最後の一口を飲み込み、服についたパン屑を軽く払う。
雨脚はまた少し弱まっている。
だが空は、もう雲の形すら分からないほど灰色に沈んでいた。
「……寒ない?」
ロッリーアは振り向いてネロに尋ねる。
「寒くない」
ネロは首を振る。
「……ほんと?」
「本当」
ロッリーアはそれ以上聞かない。
実際、彼女も寒くはない。
外套はまだ乾いているし、風も吹き込んでこない。
ただ、岩肌から滲む湿気のせいで、長く寄りかかっていた背中だけが少し冷たかった。
彼女は小さく座り直す。
……そういえば。
ここに来て、まだ二日目なんや。
ロッリーアの呼吸がふと止まる。
……たった二日?
もっと、ずっと長く過ごした気がする。
昨夜の出来事なんて、もう一ヶ月前みたいや。
街でのことさえ、どこか夢の中みたいに遠い。
……変なん。
きっと、起きたことが多すぎたんや。
しかも、どれも現実感がないくらいに。
ロッリーアは顔を上げる。
ネロはすでにパンを食べ終え、鞍袋から古着と布を取り出し、乾いた場所へ敷いている。
だが、その広さはどう見ても一人分しかない。
ロッリーアは立ち上がる。
「どうした?」
ロッリーアはその布へ視線を落とし、それからネロの顔を一瞥する。「……寝る準備」
「汝だけでよい」
ネロは布と衣服を整え終える。
「……あなたは?」
「少し見る」
「……何を?」
「外を」
ロッリーアはネロを見詰める。
「なんで?」
「『あちら』に近すぎるゆえ、少々気にかかる」
「……どちら?」
ロッリーアは少しだけ目を瞬かせる。
「そこだ」
ネロの視線を辿る。
そこには何も見えない。
それでも、ロッリーアはもう分かった。
「……じゃあ、夜中になったら起こして」
「構わん」
「起こして」ロッリーアは繰り返す。「交代で見る」
ネロはすぐには答えず、ただ闇を見つめる。
少し後から、雨音の中に小さな「うん」が混じる。
ロッリーアは横になった。
服の下にある岩は冷たく、彼女は身体を丸めながら、ストラを引き寄せる。
硬い。
冷たい。
湿気が地面からじわじわと染み上がってくる。
……思ったよりきつい。
それでも、野ざらしよりはずっとマシや。
ロッリーアは目を閉じる。
柔らかな雨音が広がり、周囲のすべてを覆ってゆく。
……この子、本当に起こしてくれるんやろか。
たぶん、無理や。
この子は恐らく、そのまま朝まで無理に起きとる。
……まあええわ。
起こさへんかったら、朝は少し寝かせてあげればええ。
そんなことを考えているうちに、ロッリーアの呼吸はゆっくり深くなっていく。
さながら、眠る者を起こすまいとするように、いつしか雨音も静かになる。
ネロは変わらず座っている。
空は完全に闇へ沈み、互いの輪郭すら見えない。
時折、ペーガソスが小さく鼻を鳴らす。
どれほど時間が過ぎただろう。
ネロはふと、ロッリーアの方を振り向く。
見えない。
だが、彼女はそこにいる。
ネロは何も言わず、再び前へ視線を戻す。
雨空はただ真っ黒。
それ以外は、何も存在しない。




