香織の旦那さん
ある日のサフランのカウンターで
「香織は一番年下だったけど、考え方は一番オトナだったね。彼氏は大学生では物足りなかったのかな」
サイフォンから立ちのぼる香ばしい匂いとともに、美緒が丁寧に淹れたコーヒーをカウンターへ置く。
店内には落ち着いたジャズ。
香織は湯気の立つカップを両手で包み、ほっと目を細めた。
「それは関係ないけど……あの頃、みんな個性が強くてね。見てる分には楽しかったよ。でも、付き合うとなると話は別。結局、消去法で彼になっただけ」
「えっ、消去法!?」
美緒が目を丸くする。
その反応がおかしくて、香織はくすりと笑った。
だが、視線を黒い液体へ落とした瞬間——意識はすっと四十年ぐらい前の夜へ滑り込んでいく。
◆あの日、香織は洋風居酒屋「クローバー」のバイトに追われていた。
客席では馴染みの拓海さんと類がグラスを傾けている。
閉店作業が一段落した頃、拓海さんが声をかけて来た。
「香織ちゃん、あがり? この後、スナック『オーキッド』行こうよ」
「オーキッド」はマスターも行きつけの店なので何回か行った事が有る。断る暇もなく押し切られ、三人で夜の街へ繰り出すことになった。
「オーキッド」のドアを開けると、カラオケの重低音、紫煙、常連の歓声が一気に押し寄せる。
拓海は入店と同時にエンジン全開だ。
「ママ! 今日も綺麗だねぇ!」
「ちょっと拓海くん、また調子いいこと言って!」
歌い、口説き、騒ぎ倒す拓海。
その勢いに押し出されるように、香織と類はカウンター端へ並んで座った。
当時の香織は幼稚園での保育実習が始まったばかり。
子供たちの元気に毎日さらされ、気を張り詰め、人間関係の賑やかさに少し疲れていた時期だ。
拓海の明るさは嫌いじゃない。
でも今の自分には眩しすぎる。ふと隣を見ると、類は静かにグラスを傾けていた。
拓海の騒ぎの横でも、無駄に話しかけてこない。
不機嫌でもない。
ただ、そこに透明な空気のように佇んでいる。
「……実習、子供はかわいいんだけどね。時々、一人になりたくなるよ」
喧騒に紛れて漏らした独り言。
届いていないと思った。
しかし、類は氷をカランと鳴らし、横顔のまま短く言った。
「……子供は、全力だからな。受け止める方も、削られる」
静かで、短くて、でも的確。
その一言で、胸の奥がふっと軽くなった。
(喋らないんじゃなくて、言葉を選ぶのが不器用なだけ……)
沈黙が怖くない。
会話を探さなくてもいい。
沈黙すら心地よい。
(それに……一緒にいて、一番疲れない)騒がしい店の片隅で、香織は小さなオアシスを見つけた気がした。
◆現在へカランコロン、と可愛らしいドアベルが鳴り、香織はハッと現在へ戻る。
「いらっしゃい……あ、類さん!」美緒が明るい声を上げる。
入口には、白髪の混じった一条類が静かに立っていた。
昔と変わらない、すっきりした立ち姿。
美緒がニヤニヤしながら言う。
「ちょうど良かった! 今ね、香織ちゃんが昔の暴露話してたの。
『類さんと付き合ったのは消去法だった』って——」
類はその言葉を受け流すように、短く言った。
「……帰るぞ」
「ちょっと、相変わらず口数少ないんだから!」
美緒が苦笑する横で、香織は「はーい」と微笑んで立ち上がる。
上着を羽織り、カバンを肩にかけた。
「美緒、ごちそうさま。コーヒー、美味しかった」
「はいはい、お気をつけてね」
店を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でる。
類は香織の歩幅に合わせ、何も言わず隣を歩き始めた。
美緒には「消去法」なんて言ったけれど——
あの騒がしいオーキッドの夜から、ずっと分かっていた。
自分が選び続けてきたのは、他でもない「心が安らぐ場所」だったのだと。
香織は並んで歩く類の少し大きな手を、そっと握りしめた。




