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7/8

香織の旦那さん

ある日のサフランのカウンターで


「香織は一番年下だったけど、考え方は一番オトナだったね。彼氏は大学生では物足りなかったのかな」


サイフォンから立ちのぼる香ばしい匂いとともに、美緒が丁寧に淹れたコーヒーをカウンターへ置く。


店内には落ち着いたジャズ。


香織は湯気の立つカップを両手で包み、ほっと目を細めた。


「それは関係ないけど……あの頃、みんな個性が強くてね。見てる分には楽しかったよ。でも、付き合うとなると話は別。結局、消去法で彼になっただけ」


「えっ、消去法!?」


美緒が目を丸くする。


その反応がおかしくて、香織はくすりと笑った。


だが、視線を黒い液体へ落とした瞬間——意識はすっと四十年ぐらい前の夜へ滑り込んでいく。


◆あの日、香織は洋風居酒屋「クローバー」のバイトに追われていた。


客席では馴染みの拓海さんと類がグラスを傾けている。


閉店作業が一段落した頃、拓海さんが声をかけて来た。


「香織ちゃん、あがり? この後、スナック『オーキッド』行こうよ」


「オーキッド」はマスターも行きつけの店なので何回か行った事が有る。断る暇もなく押し切られ、三人で夜の街へ繰り出すことになった。


「オーキッド」のドアを開けると、カラオケの重低音、紫煙、常連の歓声が一気に押し寄せる。


拓海は入店と同時にエンジン全開だ。


「ママ! 今日も綺麗だねぇ!」


「ちょっと拓海くん、また調子いいこと言って!」


歌い、口説き、騒ぎ倒す拓海。


その勢いに押し出されるように、香織と類はカウンター端へ並んで座った。


当時の香織は幼稚園での保育実習が始まったばかり。


子供たちの元気に毎日さらされ、気を張り詰め、人間関係の賑やかさに少し疲れていた時期だ。


拓海の明るさは嫌いじゃない。


でも今の自分には眩しすぎる。ふと隣を見ると、類は静かにグラスを傾けていた。


拓海の騒ぎの横でも、無駄に話しかけてこない。


不機嫌でもない。


ただ、そこに透明な空気のように佇んでいる。


「……実習、子供はかわいいんだけどね。時々、一人になりたくなるよ」


喧騒に紛れて漏らした独り言。


届いていないと思った。


しかし、類は氷をカランと鳴らし、横顔のまま短く言った。


「……子供は、全力だからな。受け止める方も、削られる」


静かで、短くて、でも的確。


その一言で、胸の奥がふっと軽くなった。


(喋らないんじゃなくて、言葉を選ぶのが不器用なだけ……)


沈黙が怖くない。


会話を探さなくてもいい。


沈黙すら心地よい。


(それに……一緒にいて、一番疲れない)騒がしい店の片隅で、香織は小さなオアシスを見つけた気がした。


◆現在へカランコロン、と可愛らしいドアベルが鳴り、香織はハッと現在へ戻る。


「いらっしゃい……あ、類さん!」美緒が明るい声を上げる。


入口には、白髪の混じった一条類が静かに立っていた。


昔と変わらない、すっきりした立ち姿。


美緒がニヤニヤしながら言う。


「ちょうど良かった! 今ね、香織ちゃんが昔の暴露話してたの。


『類さんと付き合ったのは消去法だった』って——」


類はその言葉を受け流すように、短く言った。


「……帰るぞ」


「ちょっと、相変わらず口数少ないんだから!」


美緒が苦笑する横で、香織は「はーい」と微笑んで立ち上がる。


上着を羽織り、カバンを肩にかけた。


「美緒、ごちそうさま。コーヒー、美味しかった」


「はいはい、お気をつけてね」


店を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でる。


類は香織の歩幅に合わせ、何も言わず隣を歩き始めた。


美緒には「消去法」なんて言ったけれど——


あの騒がしいオーキッドの夜から、ずっと分かっていた。


自分が選び続けてきたのは、他でもない「心が安らぐ場所」だったのだと。


香織は並んで歩く類の少し大きな手を、そっと握りしめた。

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