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氷の才女と俊の寿退社

本編のストーリー展開の都合で公開を早めました。

自分で言うのもなんですが、自慢のエピソード(回)です。

特にオトナの女性の皆さんに、ぜひ読んでいただきたいです!

2026年、初夏の夜。


かつての学生街の片隅に佇む「喫茶サフラン」のカウンターで、山下香織は手慣れた様子でスマホを操作していた。


画面に表示されているのは、【美緒・香織・遥】の3人だけのLINEグループだ。


◆サフランLINE(5)


香織: 遥先輩〜! 今、美緒先輩のサフランに来てます! 翔先輩も相変わらずカウンターでビール飲んでますよ。


遥: あら、いいわね! 私はちょうど俊とお夕飯が終わったところよ。みんな元気にしてる?


香織: 超元気です!美緒先輩と、昔の懐かしい話で盛り上がってました。


遥: ふふ、私たちの若い頃の話ね。なんだか照れちゃうわ。でも、おかげで今の私たちがあるのよね。


画面の向こうで微笑む遥のアイコンを見つめながら、香織はふと、懐かしい時代の空気感を思い出していた。


今でこそ誰もがこうして指先一つで瞬時に繋がり、お互いの居場所を確認し合える時代だ。


けれど、約40年前のあの頃は違った。


携帯電話もLINEもなく、遠く離れた恋人の声を聴くためには、何枚ものテレホンカードを握りしめて公衆電話に並ぶしかなかった時代。


序章:始まりの1985年


1985年、春。日本中がバブルというお祭りの前奏曲に湧き、新しく施行された「男女雇用機会均等法」が新聞の一面を飾っていた頃、俊と遥の二人は大学を卒業し、社会へと踏み出した。


誰もが羨む大手企業に就職が決まった二人。


理学部物理学科において、その冷徹なまでの頭脳明晰さから「氷の才女」とも囁かれていたスレンダーな美女、遥。そして、同じ物理学科の同級生で要領よく世間を渡っていく知的なイケメン、俊。


二人の交際、そして未来は洋々としているように思えた。


しかし、現実は非情だった。

俊の勤務地: 茨城県「つくば研究所」の研究職

遥の勤務地: 神奈川県「川崎事業所」の品質管理


東京を挟んで引き裂かれた遠距離恋愛が、彼らの社会人生活の一歩目だった。


決断の夜:1988年、26歳の論理


「今週末も、難しいかな……」


川崎のワンルームアパートで、遥は受話器を耳に押し当てながら小さくため息をついた。


1988年、二人は26歳になっていた。


就職して3年。


仕事はやりがいを増す一方で、殺人的な忙しさへと変わっていった。


最初の頃は新宿や渋谷など、お互いの中間地点で待ち合わせていた週末デートも、今や幻のようだった。


疲れ果てて電話すらできない日が増え、気がつけば、まるまる2ヶ月も顔を合わせていない。


当時の世間一般では、女性の「寿退社」が当然のレールだった。


キャリアに限界を感じ始めていた遥の頭を、その選択肢がよぎる。


「俊……。私、思い切って会社を辞めようかと思って。つくばに行けば、一緒の時間を過ごせるでしょう? 女性のキャリアなんて、この時代、いつかは途切れるものだし……」


久しぶりに新宿の静かな居酒屋で向かい合った夜、遥がそう切り出すと、俊は真っすぐに彼女の瞳を見つめ、即座に、しかし静かに言った。


「そんなこと、絶対にさせないよ、遥」


「どうして? 誰もがそうしているわ」


「俺が転職するよ」


「男の人が転職するなんて、親だって世間だって黙っていない」


遥の言葉は、当時の常識そのものだった。


1988年。一つの会社に骨を埋めることが男の美徳とされた時代だ。


しかし、俊は物理学者らしい理路整然とした笑みを浮かべたままだった。


その瞳は、突拍子もない感情論ではなく、極めて客観的なファクトを見つめていた。


「論理的に考えよう、遥。いくら男女平等と言っても、現在の市場において女性の転職は極めて厳しい。もし君が動けば、確実に今より待遇は下がる。それは社会的な損失だし、二人の未来における『最適解』じゃない。


一方で、僕の条件を見てほしい。


この3年間、つくばの研究所で死に物狂いで開発を進め、すでに特許を10件以上出している。


技術職としての僕の市場価値は客観的に見て高い。


どんな企業も僕を欲しがるはずだ。


それに、神奈川の方が圧倒的に求人が多い。


確率論的にも、僕が動く方が二人の未来にとってプラスになる」


遥は絶句した。


当時、男が結婚のために大企業を辞めるなど狂気の沙汰とされていた。


しかし、俊の並べる冷静な論理は、驚くほど滑らかに、誰をも納得させる絶対の方程式へと姿を変えていく。


「だから、僕が会社を辞める。転職して、神奈川へ行くよ」


その現実離れした愛の言葉は、完璧な『論理』となって遥の頑なな心を優しく解きほぐしたのだった。


38年後の現在、2026年

◆サフランLINE(5)


香織: 今、1988年の例の「俊先輩大転職事件」の話を思い出してました。俊先輩のあの論理、今考えても凄すぎますよね。


遥: ふふ、あの時の俊は本当に自信満々だったわ。でも、おかげで今の私たちがあるのよね。


香織はスマホの画面を美緒に見せながら、ニヤニヤと楽しそうに笑う。


「ほら美緒先輩、遥先輩もこうおっしゃってますよ。俊先輩のあの転職劇は本当に何回聞いても痺れますよねえ……。でも!」


香織はわざとらしく声を張り上げ、カウンターの奥にいる翔と美緒を交互に見つめた。


「俊先輩の『1988年の大転職』も凄いですけど、その翌年、1989年の翔先輩の『大学院電撃中退・夜行バス疾走事件』も相当な男気ですよね! さっき奥で話してるの、聞こえちゃいましたよ?」


「な、何よ香織、盗み聞きしてたの!?」


美緒がガタッと音を立ててグラスを置く。香織は待ってましたとばかりに、さらにニヤニヤと追撃した。


「だって、別れの危機にパニックになって、バブル崩壊で大不況になる一歩手前に、正式な採用通知も出切ってない薄給助手のポストに飛び込んだんでしょ?


もしあと数年遅れてたらポストは完全に凍結されて、翔先輩は美緒先輩に養われる本物のヒモになってたかもしれないなんて……。


最高の女神に引き戻してもらったって話、ごちそうさまでした!」


美緒の頬が、一瞬にして二十代のあの頃のように赤く染まる。


高校教師を退職し、今や店の「ママ」として凛としているはずの彼女の脳内が、一瞬で懐かしい暴走モードへと突入しかける。


「あの高飛車だった美緒先輩が、お熱だった翔先輩の前で『男気ってああいうことよ!』って大騒ぎしてたの、今でも覚えてるもん」


「ちょっと、香織! 昔の話はやめなさいってば!」


美緒は慌てて顔を背け、トレイで自分の顔を隠すようにしながら、小さく唇を尖らせた。


その様子を、カウンターの端でビールグラスを持った翔が不思議そうに眺めている。


「なんだ? 何の話だ?」


相変わらずの鈍感さで首を傾げる翔に、香織はケラケラと笑い、美緒は「翔くんは明日のお供え物(カレー)の具材が溶けないように煮込む方法でも考えてて!」とそっぽを向いた。


時代は変わり、昭和から平成、そして令和へ。


あの頃、若さの中で激しく揺れ動いていた彼らの選択と熱い絆は、今もなお、スマホの画面とサフランの温かな空気の中で、色褪せることなく息づいている。

次は香織です。いったい誰と結婚しているのか?

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