アゲマン
美緒が淹れてくれた食後のコーヒーをそっとすすり、翔は一息ついた。
目の前の皿は、美緒特製のオムハヤシが米粒一つ残らずきれいに平らげられている。
「でも、あの時は本当にビックリしたわよ」
美緒は空いた皿を片付けながら、呆れたように、けれど愛おしそうに目を細めた。
「あなたが関西の大学院を急に中退して、ボロボロのクマだらけの顔で私のアパートの前に立ってたじゃない? あれ、今考えても本当に無茶苦茶な決断だったわよね。一歩間違えたら、あなた、ただの職を失った無気力な粗大ゴミになるところだったんだから」
「ははは、粗大ゴミはひどいな。でも、確かにあの時は完全に行き詰まっていたし、別れの危機だったからね。美緒から『声を忘れそう』なんて電話をもらった夜は、パニックになって研究室のシュレッダーに大事な資料をぶち込みそうになったよ」
「ちょっと、何やってんのよ……」
「そんな時に、ちょうど出身研究室から『助手のポストが急遽一つ空いた』って連絡が来たんだ。信じられないくらい薄給で、いつクビを切られるかもわからない不安定なポストだった。だけど、君のいるこの街に戻れる。その一心だけで、僕は教授の引き止めも無視して関西の大学院に退学届を叩きつけて、そのまま夜行バスに飛び乗ったんだ。あれがすべての始まりだったな」
翔は遠い目をして、三十七年前の記憶を辿るように呟いた。
「本当に肝が冷えたわよ」
美緒は小さくため息をつく。
「いくらポストの連絡があったからって、まだ正式な採用通知も届いていないのに退学しちゃうなんて。私、あの時ばかりはあなたの脳内がどうなってるのか、心理学の知識を総動員しても理解できなかったわ。……まあ、結果的にはそこから死に物狂いで論文を書いて博士号を取って、トントン拍子で准教授、教授へと上り詰めたんだから。改めて思うわ。翔は本当に運がいいのね」
「そうだね。でもね、美緒。あの『薄給助手のポスト』の連絡が、もしあと一年遅れていたら、僕は今ここにいないかもしれないんだ」
「え? どういうこと?」
美緒が小首を傾げると、翔は真面目な顔をして言った。
「僕たちが二十七歳だった一九八九年は、まさにバブル経済の絶頂期だった。だからこそ、大学にも急なポストの空きを埋める予算的な『余裕』が残っていたんだ。もしあの時、僕たちの間に危機がなくて、僕が『あと一年、博士号を取るまで関西に残ろう』と普通に考えていたら……」
「……修了する一九九〇年には、バブルが崩壊していた」
美緒がハッとしたように目を見開いた。元高校教師として、歴史のターニングポイントの不気味さが肌で理解できた。
「そう」
翔は頷く。
「そこから一気に就職氷河期へと突入していった。もしあのまま関西にしがみついていたら、大学の予算は削られ、薄給の助手ポストすら綺麗さっぱり凍結されて消えていたはずなんだ。一般企業への就職だって一気に門前払い。そうなれば僕は確実に、君に養われる本物のヒモになっていたよ」
「……」
美緒の脳裏に、昼間からビールを飲みながら『美緒、今日のお小遣い、あと300円くれない?』とすり寄ってくる、冴えない三十路の翔(ヒモ仕様)の姿がリアルに浮かび上がり、ぶるりと身震いした。
危ないところだった。
当時、世界経済の動向など知る由もなかった翔は、タイタニック号が氷山に衝突する直前の最後の瞬間に、奇跡的に救命ボートへ飛び乗ることができたのだ。
それもすべて、「美緒が寂しがって、二人の関係が壊れそうになったから」という理由だけで、なりふり構わず走ってきた結果だった。
翔はコーヒーカップをそっとテーブルに置くと、白髪の混じる短髪を少し揺らしながら、深く包み込むような優しい笑顔を美緒に向けた。
「美緒。楽しい人生を送って来たよ。でも、その中で一番ラッキーだったのは、やっぱり君に出会えた事だ」
迷いのない声だった。
「あの時、美緒が僕を引き戻してくれなかったら、僕は今頃ここにいない。僕を最悪の未来から救い出してくれたのは、君なんだ。……そう考えると、美緒は僕にとって最高のアゲマン、最高の女神だったんだね」
「……っ!」
不意打ちだった。
美緒の頬が、一瞬にして二十代のあの頃のように赤く染まる。
高校教師を退職し、今や喫茶店の「ママ」として凛としているはずの彼女の脳内が、一瞬で懐かしい「暴走モード」へと突入しかける。
(な、何よもう、六十を過ぎてそんな殺し文句……! 昔はあんなに鈍感で、私の気持ちなんてこれっぽっちも気づいてくれなかったくせに! だいたい、アゲマンだなんて、そんな俗っぽい褒め方、調子が良すぎるわよ……!)
美緒は慌てて顔を背け、トレイで自分の顔を隠すようにしながら、小さく唇を尖らせた。
「……ずるいわ、そういうことを平気で言うようになって。やっぱり、あの頃からあなたの『無自覚なずるさ』は変わらないわね」
「え? そうかな? 僕としては、若い頃はもっと頼りなくて、冴えない男だったと反省しているんだけど」
「大違いよ。昔のあなたは、自分がどれだけ破壊力のある言葉を言っているか、これっぽっちも自覚していなかったもの」
美緒はトレイの陰から、上目遣いで翔を睨むように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「その天然なずるさに引っかかっちゃったんだから、私の目に狂いはなかったってことね。これでも心理学をかじった元教師ですもの。最高の女神なのは、最初から分かってたわよ。だから、これからも女神へのお供え物(美味しいご飯)はサボっちゃダメだからね」
「ははは、もちろん。じゃあ、明日の夜は僕の特製カレー(お供え物)にしようかな」
「……それ、具材が全部溶けてドロドロのやつでしょ。女神の胃袋を破壊する気?」
翔は美緒のそんな抗議すらも愛おしそうに眺めながら、再び愛用のカップを手に取った。




