44年ぶりのオムハヤシ
平日の昼下がり。ランチのピークが過ぎた喫茶『サフラン』の厨房で、美緒は満足げに髪を払った。
カウンターには、とろりと半熟卵が揺れる特製オムハヤシ。
二人だけの“あの日の味”を、久しぶりに再現した。(本編16話)
カラン、とドアが鳴る。
白髪の混じった頭をかしげながら、翔がふらりとカウンターに腰を下ろした。
「……死ぬ。教授会で脳が死ぬ……」
「ちょうど良かったわ。はい、遺言代わりにどうぞ」
美緒はツンとした声で皿を差し出す。
翔は若い頃と変わらない勢いでスプーンを動かした。
一口、二口。
その瞬間、翔の表情がふっと緩む。
(……あの時の味だ)
徹夜明けの学生だった頃、救われたあの一皿。
忘れようにも忘れられない記憶が、舌の上で静かにほどけていく。
「……美緒のオムハヤシは、本当に美味い」
スプーンを止めた翔が、眼鏡の奥の真っ直ぐな目で美緒を見る。
頼りなかった留年生の目ではない。
長年連れ添った夫の、あの穏やかな目だった。
美緒は肘をつき、悪戯っぽく笑う。
「ねえ、翔。覚えてる? あの日のこと」
「もちろん」
「言ったわよね。“このオムハヤシを一生食べたい”って」
「言ったね」
「生意気なプロポーズもどき。まさか本当に一生一緒にいるとは思わなかったけど」
翔は照れたように頭を掻いた。
美緒の胸の奥で、あの日の鐘が鳴る。
盛大なウェディングベルが――
「……あの時は何も考えてなかったけど」
――チーーーン。
鐘は一瞬で仏壇の音に変わった。
美緒の肩が落ちかける。
翔はふっと目元を和らげた。
「でも今はちゃんと考えてる。退官したら家にいる時間も増えるし、君ばかりに負担をかけたくない。食事は交代で作らせてほしい。……まあ、僕のカレーライスじゃ、このオムハヤシには敵わないけどね」
「……ほんと、一言多いのよ、あんたは」
美緒はそっぽを向いた。
その瞬間、翔が静かに言葉を継いだ。
「……美緒。君、あの頃のことを思い出してるだろう?」
美緒の手が止まる。
「……40年前のこと?」
翔は小さく頷いた。
美緒は少しだけ遠くを見る。
カウンターの向こうに、40年前の景色がゆっくりと立ち上がる。
◆40年前――二人の最大の危機
大学を卒業した美緒は、翔と離れたくない一心で、この街の高校教師になった。
翔は修士までは同じ大学だったが、博士課程で関西へ。
携帯のない時代。連絡手段は、翔のアパートの留守番電話だけ。
美緒は毎晩、短いメッセージを残した。
「今日も頑張ってる? 無理しないでね」
「こっちは雨。そっちはどう?」
「……返事なくてもいいから、聞いてくれてたら嬉しいな」
しかし翔は研究室に泊まり込みが続き、返事はほぼゼロ。
月に一度、美緒は関西へ行った。けれど翔は疲れ切っていて、デートらしいデートにならない。
帰りの新幹線、窓に映る自分の顔を見て、美緒は思った。
(……このまま、離れていくのかな……)
ある夜、美緒は留守電にこう残した。
「……ねえ翔。私、あなたの声を忘れそう」
その瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
初めて“別れ”を覚悟した夜だった。
翔からの連絡はないまま、数日が過ぎた。
◆そして――一週間後
美緒が仕事から帰ると、アパートの前に翔が立っていた。
研究室の床で寝たような格好。髪はぼさぼさで、目の下には深いクマ。
「……ごめん。君の声、忘れるわけないだろ」
美緒は言葉を失った。
「研究が怖かった。結果が出なくて、君に情けない姿を見せたくなかった。……逃げてたんだ」
美緒の胸に、張りつめていた何かが音を立てて崩れた。
「そんなの……全部言いなさいよ……!」
涙がこぼれた。翔も泣きそうな顔で笑った。
その夜、二人は初めて“対等な恋人”としてぶつかり合った。
この夜が、二人の関係を決定的に強くした。
◆現在へ戻る
翔はオムハヤシを見つめながら、静かに言った。
「……あの時からだよ。君となら、全部話そうって決めたのは」
美緒は息を呑む。
44年経っても、言葉足らずで天然なところは変わらない。
けれど、その不器用な優しさだけは、絶対零度より揺るがない。
「……ほんと、あんたは昔から一言多いのよ」
そっぽを向いた美緒の耳に、今度は本物の、柔らかな幸福の鐘が鳴り響いた。




