第二話 前編
探偵・丹後丁字が帰ってきてから、二日が経った。
「ねぇちょっと〜。聞いてるの、四遊?」
「…………」
「もしも~し? 四遊さ~ん?」
「…………」
「あれれ〜? あっちにいるの、丹後探偵じゃな〜い? オ~イ!」
「えっ!?」
勢いよく身体を起こし、ポーチに入れてあった鏡を手にする。
前髪は……大丈夫。隈も目立ってない。服装も変じゃない。あとは……。
「アハハッ! 嘘、嘘! 冗談だってば!」
ぼんやりした頭と視界のまま、ゆっくりと食堂内を見渡す。
辺りにはたくさんの大学生と教授がいるばかりで、丹後先生の姿は見えなかった。
「ちょ、ちょっと、奈乃香ちゃん! 悪い冗談は止めてよ!」
「無視された仕返しだよ~。それに、こんなところにいるわけないじゃん。いたら事件だよ」
そう言って、奈乃香ちゃんはうどんのつゆを飲み干した。
確かに、基本出不精の先生が、事務所の外にいるわけがない。
もしいるとしたら、そこでは事件が起こっている。
「てか、朝からずっと上の空だったじゃん。どったの? 丹後さんが帰って来て、心が追い付いてないとか?」
「……奈乃香ちゃん、探偵向いてるんじゃない?」
「つまり、アタリってことか。……残念だけど、推理とかそーゆーのはパス!」
顔の間で手を振っているけど、口元は綻んでいた。
照れたときのいつものクセだ。まんざらでもないみたい。
「先生が帰って来てくれたのは、もちろん嬉しいよ。……でも、帰ってきてから、先生がずっと変なことを言ってて……」
私は、すっかり冷めてしまったお味噌汁に手を付ける。白だしのよく効いた、上品な味わいだ。
──丹後丁字。五年前に姿を消してからは、誰一人話題にも上げなくなった、元・天才探偵。
一体、何処に行っていたのか。その答えは、「異世界に転生されていた」だった。
とりあえずそれはいいんだけど(よくないけど)、問題は、その五年間の異世界生活の影響で、先生の語彙がすっかり侵蝕されてしまっていることだった。
やれ、イフリートだの、魔石だの……日常生活ならともかく、探偵業を続けるのなら、矯正しなきゃいけない。
「え、何それ。いつものことじゃん。アンタ、前も同じようなこと愚痴ってたでしょ」
「そっ……そうだけど、そうじゃないの!……どうすれば、直ってくれるのかな……」
「んー。よくわかんないけど、あの人なら解決してくれるんじゃないの? え~っと、何だっけ。四遊が仲良くしてる、美人の……」
「伊智花さん?」
「あー、それそれ!」
千芽 伊智花さん。
私と丹後先生が親身にしている、千芽メンタルクリニック院長の娘さんだ。
スタイル抜群で容姿端麗。おまけに、頭脳明晰。まさに、全女性の憧れの存在だと思う。少なくとも、私はそうだ。
「昨日会ったよ。警察署でね。……でも、詳しい話は結局できなくて、今日、改めて行くつもり」
奈乃香ちゃんは興味なさそうに「へ~」と呟くと、両手を合わせて、軽く頭を下げた。
お盆を持って返却口へと向かう彼女を見て、私も慌ててお味噌汁を飲み込む。
「ま、不安なのもわかるけどさ~。その時になってみないとわかんないっしょ」
コップの色のせいで、水なのか麦茶なのかわからない飲み物を持って、奈乃香ちゃんはニカッと歯を見せる。
小学生の頃から変わらない彼女のえくぼに、ほんの少し心が和らいだ。
「……ん?」
ふと、テーブルの上に置いておいたスマホが、一度だけ震えた。
すぐさま画面を見ると、そこにはただ一言、こう書かれてあった。
『本日よろしくお願いします。もし行かないと宣った場合は、縛り付けておいてください』
「…………」
噂をすれば影が差す、なんて言葉があるけど、それにしてもタイミングが良すぎる気がする。
「やっぱり、まだ怒ってる……」
せっかくの穏やかな気持ちが、大きな溜め息と共に、どこかへ抜けていった。
+++
残念なことに、丹後探偵事務所には、人を縛り付けておけるような紐は置いてなかった。
仕方ないので、貴重品だけを持って事務所の扉を開けたところ、先生はキョトンとした顔のまま、ロッキングチェアから立ち上がった。
「あれ、もう行くの? 伊智花ちゃんのところ」
その声色に抵抗や嫌悪感は一切ない。
いつものチョコレート色のトレンチコートを手にすると、それを翻しながら羽織った。
どうやら、近くのコンビニへ走る必要はなくなったようだ。
内心で胸を撫で下ろして、お父さんのお下がりの懐中時計を手に取る。……確かに、予定より二十分ほど早い。
とはいえ、いつ、先生の気が変わるかわからない。
頭の中で目的地だけを変更した私は、コクリと頷いて、先生の支度を待った。
「それにしても、先生の頬に痕が残らなくてよかったです」
「あはは。まあ、その場で、睦己くんに手当してもらったし」
六原さんが手馴れていたのか、それとも、伊智花さんにも多少の手心があったのか。
先生は、大きな手で、この前まで赤かった自分の頬を触る。
何人もの犯人を指差した、凶悪な手。
……なんて誹謗中傷を言われたこともあったけど、私の目は、小さい頃からずっと、優しく温かい手に映っていた。
警察署のボヤ事件が一段落して、六原さんと合流したあとのこと。
「横槍が入ったが、まだまだ聞きたいことがある」と言われて、再び会議室に通されたところ……そこには、疲れ切った顔の伊智花さんがいた。
彼女は、先生を見るなり、目玉が零れそうなほど目を見開いた。
伊智花さんが取り乱したところを見たのは、初めてだった。
「やあ、伊智花ちゃん。五年ぶりだね」
「………………」
先生の陽気な声が響くや否や、伊智花さんは口をへの字に曲げる。
心を見透かすかのような鋭い視線は、隣にいた私まで凍りつかせた。
ヒールが折れそうなほど強く足を蹴り上げて、ツカツカとこちらに向かって来る。元々背が高い彼女を見上げると、先生はまた、にへらと笑いかけた。
その時だった。
パチン!
突然の音に驚いて、反応が遅れてしまった。
目を開けると、右頬を赤く腫らせている先生の姿と、真っ直ぐに伸びた細く長い腕を突き出している伊智花さんの姿があった。
「おいおい、署内で暴行の現行犯かよ。いい度胸してるな、千芽先生」
六原さんは私たちを押し退けて、伊智花さんの両腕を握る。
とはいえそこに乱暴さは一切なく、あくまで形式上やっているだけ、といった印象を受けた。
「どの面下げて戻って来たんですか」
穏かな口調の中に、怒りが滲み出ている。先生は頬を押さえながら口を閉ざし、ただじっと伊智花さんの顔を見つめた。
「シユさんがどれだけ心苦しかったか、わかりますか。シユさんが、どれだけ……」
どうやら彼女の怒りは、私の分まで上乗せされてしまっているようだ。
何かを言い淀む伊智花さんの手を握り、私は「もう大丈夫ですから」と告げる。
何度も言ううちに、少しずつ、伊智花さんの感情も落ち着きを取り戻して来た。
「……ご迷惑おかけして申し訳ありません、六原さん。処分はお任せします。抵抗はいたしません」
「あー、いや……その、なんだ。千芽先生には色々と世話になってるから。俺の方で適当に誤魔化しておくよ」
そう言ってゆっくり手を離すと、両手挙げたまま、六原さんはそそくさと会議室を後にした。
「貴方には謝りませんよ、丹後さん。五年分がこれで済んだだけ、ありがたいと思ってください」
「うん、わかったよ」
気の抜けた、けれど、芯のある声だった。
伊智花さんは鼻を鳴らして、くるりと踵を返す。
揺れたポニーテールから、上品な桃のような良い香りがした。
「シユさん」
「えっ、は、はいっ!」
私の名前を呼ばれるとは思わず、声が裏返ってしまった。
伊智花さんは背を向けたまま、テーブル上にあった書類やらペンやら水筒やらを抱え込んでいる。
「近々、予定の空いている日はありますか。ウチに来てもらいたいのですけれど」
「あ、ええと……明日の午後なら、講義がないので伺えると思います」
「わかりました。では十四時に。丹後さんも、その時間で構いませんね?」
疑問形なのに、NOとは言わせないぞという圧がひしひしと伝わって来る。
どうやらその予感は当たっていたようで、回答するよりも前に、伊智花さんは私たちを横切った。
スラリとした脚は、私じゃ持て余しそうな丈のズボンに包まれている。歩幅が広いせいか、あっという間に廊下まで出てしまった。
「ありゃ、もう帰るんですかい?」
丁度良いタイミングで、六原さんが帰ってきた。
骨ばった手には、小ぶりの救急箱が握られている。警察署のシンボルが、照明に反射してキラリと光った。
「はい。患者さんを待たせていますので、私はこれで失礼します」
伊智花さんはこちらを向き、深々と頭を下げた。さっきまでの内包された怒りはもうないように思えたけど、先生への視線は、最後まで冷たいままだった。
「明日、脳の他に診てもらう箇所増えたな」
「……ふむ。そう考えると、殴られたのが今日でよかったかも」
「ガハハ! 違いない!」
二人は軽口を叩き合っている。
ピリピリとした空気を和ませようとしているのは伝わったけど、彼女の心情を思うと、私はどうしても、そのムードに乗ることはできなかった。
千芽メンタルクリニックは、ビル街の一角にある。
小さいながらも、アクセス良さとの内装の綺麗さ。そして、女性の精神科医が多い点が評価されている。
待合室にいる女性たちに囲まれて、先生は肩身を狭そうにしていた。
曰く、この疎外感はいつまで経っても慣れないらしい。
「しっかりしてください、先生。男子禁制というわけではないんですから」
「性差を軽んじてはいけないよ。チャームの効果量の大小に影響するからね。特にサキュバスといった性的な誘惑をするモンスターは……」
「せ、性的な誘惑っ!? そそそ、そんな、恥ずかしいこと言わないでくださいっ!」
「……シユちゃん、声が大きいよ」
「……あ」
思わず口を覆い、辺りを見渡す。幸いなことに全員の視線は集めていなかったものの、何人かが眉を顰めて、私と先生を交互に見やっていた。
「ええと……ホラ、見て。あそこにいる作業服の人も、居心地悪そうにしているだろう? つまりまあ、そういうことなんだよ。もし男女逆だったとしたら、シユちゃんだって同じ境遇になるはずだ」
先生は珍しく言葉が詰まらせた。冷静を装っているようだけど、耳が微かに赤かった。
……確かに、作業服の男性はやけにソワソワしている。男性というだけでも目立つのに、服装もこの空間にはマッチしていなかった。
おそらく、外部の業者さんなのだろう。手にしている小包は、クリニックに仕入れるものだろうか。それにしては、お洒落すぎる気がするけど。
「丹後さん、シユさん、お久しぶりです」
ふと、可愛らしい声が聞こえた。いつの間にか目の前には、白衣に身を包んだ女性が立っていた。
私と先生は、ほぼ同じタイミングで会釈をし、席を立つ。
「千芽先生がお呼びです。こちらへどうぞ」
肩まで伸びる髪を揺らして、サンダルをパタパタと鳴らす。
それに付いて行く私たちは、まるで雛鳥のようだ。
けれど、体格差を考えると、前を歩く女性──樽蓋さんの方が雛鳥のように見える。
前に二人きりでお出かけしたとき、店員さんから姉妹だと勘違いされたのをよく覚えている。
彼女くらい体躯が小さいと、平均身長の私が隣でもそう思われるらしい。
「失礼します」
慣れた手つきで、真っ白なスライドドアをノックする樽蓋さん。
「どうぞ」という透き通った声が聞こえると、樽蓋さんはおずおずと扉を開けた。
「ご苦労様、仁菜」
昨日会ったときより、伊智花さんの顔色は優れているように見えた。
あれで最低限のメイクしかしていないとは思えない。素体が良いのだろう。……羨ましい限りだ。今度どんなスキンケアをしているのか、聞いてみようかな。
そんなことを思っていると、樽蓋さんが伊智花さんと丹後先生をチラチラと見比べていた。
そして、意を決したように、小さく口を開く。
「……あの、伊智花先輩。……お手柔らかにお願いしますね?」
「わかってるわよ。それから、ココでは先輩はやめなさい。じゃあ、この後の出版社との打ち合わせ、頼んだからね」
伊智花さんは基本、誰に対しても敬語だけど、樽蓋さんにだけは砕けた言葉を使う。二人の仲の良さがうかがえて、微笑ましく思った。
「出版社って……もしかして伊智花さん、本を出すんですか?」
「ええ、まぁ。監修ですけれどね。詳しくは言えませんが、アンガーマネジメントに関する漫画です」
「……」
「シユさん。何か言いたいことがあるのなら、ハッキリ言いなさい」
私は笑顔を取り繕って、思いっきり首を横に振った。
まあ、あの怒りのビンタは、私のことを思ってのことだったわけだし、その気持ちを無下にはできない。
伊智花さんは六秒かけて、息を吸って吐いた。その間、樽蓋さんは逃げるようにこの場を去り、先生はニコニコと笑っていた。
「では、そちらにおかけください」
白で統一された空間の中に、同化するかのように白い革製の椅子はあった。
私たちがそこに座ると、入れ替わるようにして、伊智花さんは立ち上がる。
そして、透明な棚に置かれたティーカップとティーポットを取り出したあと、手早く茶葉を淹れ始める。
「早速ですが、本題に入りましょう」
喫茶アマシロ特製ブレンドの芳ばしい匂いが、部屋中を包み込む。テーブルの上に三人分のカップを置きながら、伊智花さんは口を開いた。
「丹後丁字さん。貴方、五年間何処で何をされていたのですか」
「ええと……」
先生は、チラリと私の顔を見やる。私もまた、先生の顔を見上げていた。
昨日、警察署のロッカー室で、先生は私に打ち明けた。「異世界に召喚されていた」ことを。
そして、私はそれを信じた。先生は嘘を言わない人だから。
──でも、伊智花さんはどうだろう。
……信じないような気がする。私はそっと胃のあたりを押さえて、アールグレイを啜った。
「ひとまず、私は何も言いません。聞くに徹します。ですから、素直に答えてください」
「うん、わかったよ。……これは、シユちゃんにだけ、既に伝えてあることなんだけど……」
先生は、深く息を吸った。
「実は俺、異世界に召喚されていたんだ」
伊智花さんの手が止まった。ティーカップの取っ手に触れるか触れないかくらいの位置で。
「五年前、霧台区で殺されかけた後、気が付いたら異世界にいたんだ。剣と魔法の世界で、モンスターがいたり、ギルドやダンジョンもあったよ」
「……」
「それで、俺を召喚したっていう王様から、魔王を倒してほしいって言われたんだけど……興味がなかったから、その場では了承したけど、無視して探偵業をやっていたんだ」
「……」
「でもしばらくして、別の勇者が魔王を倒してくれた。異世界に平和が訪れたから、僕は用済みになった。それで、ここに帰って来れたんだ。……ざっくりだけど、こんなところかな」
「わかりました」
伊智花さんはそれだけ言うと、熱々のアールグレイを一気に飲み干す。……まるでお酒みたい。
ぷはぁ、と、微かに息を漏らして、口を拭う。その仕草が妙に艶めかしくて、一瞬ドキリとした。
「午前中の身体検査の結果は?」
「特に問題はなかったよ。内臓も全部あるし、脳みそも異常なし」
「そうですか。……シユさん、一つ尋ねても?」
「えっ、は、はいっ」
この流れで私に振られるとは思わなくて、無意識に背中が伸びた。
「五年前と現在の丹後さん、どこか違いはありますか? どんな些細なことでも構いません」
「基本的は、どこも代わりありません。……けど、一つだけ」
私が指を一本立てると、伊智花さんの眉毛がピクリと跳ねた。
「先生の語彙が、変なんです。ダンジョンとか、ゴブリンとか……ファンタジー作品に出てくるものばかりで」
「……そうですか」
伊智花さんはこめかみを押さえて、どこか残念そうに溜め息を吐いた。
「信じてくれたかい?」
「信じるとか信じないとか、そういう次元の話ではないですよ」
「そう? シユちゃんは結構すんなり信じてくれたけど」
「シユさんは優しい子ですから。……それに」
伊智花さんは、しばらく無言で先生を見つめていた。
それからややあって、キリリと吊り上がった目が細まった。
「丹後さんは、隠し事はあっても嘘は吐きません。特に、シユさんに対しては」
伊智花さんは、もう一度溜め息を吐いた。ほん少し、諦めの混じっているように聞こえた。
「正直に言います。丹後さんが本当に異世界に行ったのかは、この際、どちらでもいいです」
意外な言葉に、私と先生は視線を交錯させる。薄茶色の瞳は、大きく見開かれていた。
「察するに、今の丹後さんの常識は、五年前とは異なっている。……正確には、異世界とやらの情報が上書きされている状態。問題があるとすれば、そこだけです。違いますか?」
「うーん。でも、誰からもレガリアなんてされてないよ? ちゃんと刻印は生きてるし」
ホラ、と言って、先生は手の甲を見せつける。そこには、つるりとした肌色があるだけだった。
「せ、先生。レガリアって何ですか?」
「脳や精神を操る禁忌魔法だよ。探偵業をするにあたって厄介な代物だと思ったから、真っ先に魔術師に刻印を付与してもらったんだ」
「丹後さん。この世界に魔法という概念は存在しませんよ」
「え? ……あ」
謎を解くときも、加害者と対峙するときも、先生は落ち着いた態度を崩さない。
でも、自分のミスや不手際があったときは、明らかに動揺する。笑顔が引きつって、頬がピクピクと動く。
「指摘されるまで気が付かないとは、かなり重症のようですね」
「そうみたいだね……僕としては、普通に会話しているつもりなんだけどな……どうしてこうなっちゃったんだろう」
「症状自体は珍しいことではありません。長期間アメリカで生活していた日本人が、日本に戻ってきた際、会話の中で英単語が混ざってしまうことだってあります」
「使い慣れた方の単語が先に出てしまうのでしょう」と、伊智花さんは補足する。
そして、『千芽メンタルクリニック』と描かれたペンで、サラサラと何かを書き始めた。この位置から僅かに見えた筆跡は、見本のように整っていた。
正直、ホッとした。
確かに言われてみれば、高校のときのALTの先生も、日本語で話している最中にぽろりと母国語を混ぜてしまうことがあった。
異世界という単語に頭を引っ張られすぎて、そんな身近な例にすら考えが及ばなかった自分が恥ずかしい。
──けれど、と、私はそっと胸の内で言葉を継ぐ。
英語と、異世界の言葉。この二つでは、受け取られ方があまりにも違う。
ゲームやファンタジー小説の中でしか耳にしないような、創作上の語彙。
それを、真剣に事件と向き合う場で、探偵が口にしたら……相手は、きっとこう思うだろう。ふざけているのか、と。
探偵という仕事は、何よりも信用が肝だ。相手が心を開いてくれなければ、真実は見えてこない。
真剣に言葉を交わしてくれなければ、推理は空を切るだけだ。
それなのに、口を開くたびに絵空事のような単語が混じっていては、容疑者も、被害者遺族も、耳を傾けてくれなくなるだろう。
私たちが発する一言は、常に、誰かの人生や心を大きく左右してしまう。
言葉一つが、あらぬ誤解を抱かせ、勘違いを生み、それが火種となって新たな事件へと発展する……そうなりかけたことは、過去に何度もあった。
だからこそ、探偵の言葉というものは、誰よりも誠実で、澄んでいなければならないのだ。
「……伊智花さん。先生のこの症状……治すことってできるんでしょうか」
私は縋るような思いで、そう呟いた。無意識に、声と唇が微かに震えた。
伊智花さんはペンから手を離し、私の顔をじっと見据える。
普段と変わらないポーカーフェイスだったけど、視線には温かさが籠っていた。
「直接的な治療方法があるわけではありませんが、時間が経てば自然に改善するでしょう。意識して日本語を使う機会を増やすことで、徐々に戻っていくことは期待できます」
「人は時の流れには逆らえないからね。向き合い方次第で、記憶や経験を良いものにも悪いものにも変えていく」
被害者遺族が幸せを取り戻した様子は、何度も見たことがある。
もちろん、恨みが積もった遺族が、警察に捕まってしまうところも。
先生の仕事は、あくまで事件を解決すること。
悲しみを背負って生きるのか、復讐に走るのかは、その人の選択と時間が決めるのだ。
私が助手になるよりも前から事件に関わってきたからこそ、先生の言葉には重みがあった。
「とはいえ、世の中には、時の流れだけでは解決しないこともあります。ですので、今後は定期的にココに通ってくださいね」
「あらら、結局はそうなっちゃうのか」
先生はにへらと口を綻ばせて、後頭部を掻く。……まさか、定期健診が嫌で、言いくるめようとしてあんなことを言った……わけじゃないよね……?
私と伊智花さんの訝しげな視線が交錯する。そして、伊智花さんは溜め息を吐きながら立ち上がり、またポットのお湯を沸かし始めた。
「そこで提案なのですが、もし、お二人のお時間が許すのであれば、引き続き診察を続けても良いでしょうか?」
「うん、僕は平気だよ。世間に忘れられた探偵に、仕事が来ることもないだろうからね」
先生の口から漏れ出た自虐に、少しだけ寂しさを覚えた。確かにこの街には探偵事務所が他にもあるし、事実ではあるんだけど。
「私も問題ないです。積もる話もありますし……むしろ、いいんですか? 今は、伊智花さんの方が忙しいんじゃ……?」
「心配無用です」
伊智花さんはチラリとカレンダーを見やる。
「院長にお願いして、午後の私の仕事を、丹後さんに充てるよう調整してもらったんです。本来、特別待遇は許されていませんが、長い付き合いですので大目に見ると」
「そっか……じゃあ後で、院長先生にもお礼を言っておかないとだね」
こうして私たちは、クリニックの一室で長話をした。
先生は五年間、どんなところで暮らしていたのか。異世界でどのような謎を解いてきたのか……それを、伊智花さんは定期健診のために。私は小説のネタにするために、記録を取った。
そして──診察室を訪れてから、丁度、時計の短針が一周半回ったくらいの頃。
ドアが、慌ただしくノックされた。
「失礼します、千芽先生! 大変です!」
伊智花さんが返事をするよりも前に、若い女性の看護師が、青ざめた顔で飛び込んできた。
「どうしましたか、三ノ下さん。そんなに慌てて……」
「い、院長先生が……倒れていらっしゃるんです! 今すぐ院長室に来てください!」
伊智花さんの表情は変わっていない。けれど、明らかに目の色は変わっていた。彼女は拳を固く握ったまま強く頷き、勢いよく立ち上がった。
「僕らも着いて行っていいかな?」
同時に、先生も椅子から立ち上がる。ピリついた空気にそぐわないのんびりとした声色は、伊智花さんの手の力を緩ませた。
「事件の可能性もありますし、許可します。何かあれば、私が全て責任を持ちますから」
相変わらず毅然とした態度ではあったものの、口元が微かに震えていたのを、私は見逃さなかった。思わず彼女に近づき、手を握る。きめ細やかで、綺麗な手だった。
「い、いいんですか? 千芽先生。この方たちは部外者では……?」
三ノ下さんは眉間に皺を寄せたまま、不審感を露わにする。当然の反応とはいえ、少しだけ寂しく思えた。
しかし、その気持ちはすぐに上書きされることになる。
「お二人は探偵と助手なんです。それも、優秀な。ね」
伊智花さんは、私の手を優しく握り返した。
+++
千芽クリニックの院長とは、何度か顔を合わせたことがある。
けれど、院長室に入るのは初めてだった。伊智花さんは臆することなくドアを開け、机に突っ伏している院長の元に駆け寄る。
「……お母さん……」
消えてしまいそうなほど小さな呟きに心を痛めながら、改めて室内を確認する。
診察室の延長のように生活感がなく、壁も、天井も、備え付けの本棚も、淡い白で統一されている。その中に整然と並ぶ医学書の背表紙だけが、控えめな色彩を添えていた。
正面の壁一面に嵌め込まれた大きな窓からは、外からの光が柔らかく差し込んでいる。ブラインドは半分ほど下ろされていて、細い縞模様の陽射しが、床に幾筋も線を引いていた。
その窓の前には、木製の重厚な執務机が鎮座している。ノートパソコンなどの端末機器や、書類の束がいくつも積み重なっているけど、散らかっている印象は受けない。
しかし、几帳面な景色の中に、一つだけ整っていないものがあった。
千芽 瞳さん。千芽クリニックの院長だ。
黒革の椅子に腰かけたまま、上半身だけを机上に預けるようにして、微動だにしない。腕は力なく投げ出されていて、乱れた髪の隙間から覗く横顔は、眠っているようにも見えた。
そして、机の隅には花柄模様のティーカップが一つ置かれていた。湯気が立おり、ほんの少し前まで、ここで作業をしていた気配が残っていた。
「……意識はないようですが、呼吸や脈は確認できました」
伊智花さんの言葉に、ひとまずホッと胸を撫で下ろす。
「……でも、どうして意識を失ってしまったのでしょう。一時間の間に、一体何が……」
「一時間? どういうことですか、三ノ下さん?」
私の問い掛けと視線を受けて、彼女は背筋をピンと伸ばす。
「今から一時間くらい前、ここを訪れたんです。院長ともお話をしました」
「なるほど……その時、院長にどこか変わった様子とかはありましたか?」
「え……ええと」
……しまった、前のめりになりすぎてしまった。探偵は信頼第一で、怖がらせるような尋問はしてはいけないと先生に教わっていたはずなのに。
両手を挙げ、敵意がないことを主張する。しかし、笑顔を浮かべても、三ノ下さんの表情は固いままだった。
「つ、疲れは溜まっていたようでしたが……特には……謎ばかりで、私には何が何だか……」
「へぇ。謎、かぁ」
これまで黙っていた先生の口が、ようやく開く。先生は『謎』という言葉が大好きだ。こんな状況だから落ち着いた態度を取っているけど、心の中は水を得た魚の如く飛び跳ねているに違いない。
「意識を失う原因は、数え上げればきりがない。でも、大きく分けると二つになるんだ」
室内をぐるぐると歩き回りながら、人差し指を立てる。革靴の底が、床の縞模様の陽射しを一本ずつ踏んでいった。
「一つは、誰の手も介さずに起きたもの。持病の発作や、不慮の事故……ああ、そうそう。魔力の暴走って線もあり得るね」
ここで一度言葉を止めると、今度はもう片方の人差し指を立てた。窓の前で足を止めた先生は、ブラインドの隙間から外を眺めている。逆光で、金色の髪が透けていた。
「そして、もう一つは、誰かの手が介在したもの。魔力を奪われたり、毒を盛られたり……悪意の有無関係なく、意図が存在する事象だ」
「あの……すみません。さっきから言っている、まりょくというのは一体……? 比喩か何かでしょうか?」
「うん? ああ、それは」
「その話はあとにしていただけますか、丹後丁字さん」
重く圧し掛かるような声色に、背筋が冷たくなる。伊智花さんの鋭い目付きを受けて、先生は申し訳なさそうに眉を八の字にすると、無言のままそそくさと室内の調査に戻った。
「ええと、つ、つまり先生は、こう言いたかったわけです。第三者が絡んでいる事象なのかどうかを調べる必要がある、と」
慌ててフォローするが、三ノ下さんの頭上にはハテナマークが浮かんだままだった。
……どうしよう。先生に改めて弁明させるべきだろうか。でも、逆に掘り起こす方が不審がられるかも。
「前もって申し上げますが、私の知る限り、母……院長に持病はありません。最近になって食物アレルギーと花粉症を発症しましたが、いずれもアナフィラキシーが起こるほどの重さではないはずです」
そんなことを思っていると、伊智花さんが何事もなかったかのようにポツリと呟いた。
「え、食物アレルギーですか? 具体的にどういうものか、お伺いしてもいいですか?」
「はい。柑橘類です。特に、グレープフルーツが該当すると言っていました」
ゴミ箱を漁りだした先生を横目に、私と伊智花さんは言葉を交わす。すると、三ノ下さんが控えめに手を挙げた。
「その件は、職員の間でも共有されていました。アナフィラキシーが起こるほどではないとはいえ、万が一のことがないよう、院内では柑橘系の飲食物や香水を持ち込まない、使わないという規則もあります」
「ん? それはおかしいね」
そう言って、先生は銀色の包み紙のようなものを突き出した。私たちは全員顔を見合わせて、恐る恐る近づく。
「それならどうして、このゴミからグレープフルーツの匂いがするのかな」
そこにあったのは、手のひらに収まるほどの小さなパウチだった。
飾り気のない、艶消しの銀色。商品名も、絵柄も、原材料の表示もない。中身を絞り出した口の部分がくしゃりと潰れていた。
もう片方の先生の手には、それと同じものが三つほど握られている。私はそれを頂戴して、空になっている中身を覗き込む。
「確かに、グレープフルーツの匂いがしますね。僅かに残った果肉も、グレープフルーツに間違いなさそうです」
「そ、そんな……!」
突然、三ノ下さんが大きな声を挙げた。力なくその場に座り、頭を抱える。
「そ、それ、わ、私が差し入れに渡したものなんです……ま、まさか、グレープフルーツが使われていたなんて……!」
「落ち着いてください、三ノ下さん」
立場上、気が動転してしまった人の対応は慣れている。顔面蒼白になった彼女の背中をゆっくりと擦り、息を整えさせることに注力する。
「丹後さん」
伊智花さんは再び院長の元へ移動し、改めてバイタルサインチェックを始める。
動揺している様子はなく、普段通り凛とした佇まいで、先生に呼び掛ける。
「先ほども言いましたが、院長のアレルギーは重大なものではありません。先週のディナーで、果実が少量使われていたサラダを口にしていたところも見ています」
二人は視線を交わしていない。それでも、お互いの気持ちや思想が通じ合っているような、そんな気がした。
長い付き合いがそうさせるのだろうか。私の心が、チクリと痛んだ。
「それと、三ノ下さんが仰ったように、当院では柑橘類の持ち込みは禁止されているんです」
「フム。となると、誰かがその規則を破っていたということになるね。聞いた感じだと、そこまで強制性のある規則ではなかったようだし」
先生はポケットティッシュを取り出し、四つのパウチを並べる。
「で……でも」
ふと、三ノ下さんが顔を上げた。私に身体を預けたまま、目に涙を浮かべている。
「職員一同、院長には感謝しているんです。尊敬しているんです。今回私が呼び出されたのだって、病気になった母との時間を作るために……業務量を調整してくださって……」
「……先生、安易に結び付けすぎではありませんか? 他にも考え得る要因はありますよ。ストレスなどで血糖値が急上昇したり……」
震える彼女を見ていられず、思わず口を挟む。すると、先生はニコリと微笑んだ。
「もちろん、これが原因と決まったわけじゃないよ。……でも、何か引っ掛かるんだ」
手を顎に当てて、真剣な眼差しで院長の姿を見ている。五年前と変わらないその横顔に、懐かしさと敬いを覚えた。
──先生が『引っ掛かり』を感じた物事は、大抵、事件解決を導くヒントになる。
けれどそれは、良い結果をもたらすことも、悪い結果をもたらすこともあった。
……今回は、どうなのだろう。先生の直感をもってしても、そこまではわからないのだ。




