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五年ぶりに失踪先から帰還した天才探偵・丹後丁字。助手のシユと訪れた警察署で、密室のロッカー火災に遭遇する。二人は密室の謎と犯人を暴くが、丹後は帰還後、奇妙な言動を見せていた。

部屋全体がひっくり返ったみたいな、そんな衝撃だった。


「ただいまー」


やる気のない飄々とした声に、私は耳を疑う。


だってこの声は、間違いなく先生だ。でも、先生は五年前……。


慌てて部屋を出た私は、転がり落ちるかといった勢いで階段を駆け降りる。体幹には自信があったので、怖くはなかった。


「先生ッ!」


玄関で佇んでいる人物に向かって、私は悲鳴に近い声を上げる。


逆光のせいで目が慣れるまでに時間がかかって、ようやく視認できた先生の姿は……最後に見たときの姿と、全く変わっていなかった。


黄金色の髪、チョコレートのような形と色をしたトランク、そして、トランクと同じ色のトレンチコート。


探偵らしい格好と言えば聞こえが良いが、一歩間違えれば初老の男性のように見えるコーディネートだ。先生が若くて美形だから成り立っているに過ぎない。


「今まで……今まで、どこに行っていたんですか?」


そう言いながら、自然と目から涙が出そうになるのを堪える。


寂しかったわけでも、恋しかったわけでもない。何なら、突然姿を消したことに苛立ちすら覚えていた。泣く理由なんてないはずなのに。


すると、先生はネクタイを外しながら、いつものへにゃりとした笑顔を浮かべた。


「ごめん、それは言えないんだ」


「は……?い、言えないって、そんな」


「俺自身、まだ頭の整理が付いていなくってさ。……考えがまとまったら絶対に伝えるから、それまで待ってくれないかな?」


「………………」


先生は——少なくとも、初めて出会ったときから——私に嘘を吐いたことは一度もない。……隠し事はたっっっくさんあるけど。


……まあ、もし一向に口を割らないようなら、伊智花(いちか)さんに来てもらえばいいだけだ。さすがの先生も、彼女の前では強くは出られない。問題は、いつまで待つべきかだ。


「それで早速だけど、仕事の依頼は来ていないのかい?」


出た、謎ジャンキー。一日に一度は謎を解明しないと気が済まない性分は、五年経っても変わっていないみたい。


心底呆れる反面、微かに安心感を覚える。けれど、それを先生に見抜かれないように、私はあくまで平然とした態度で睨みつけた。


「そんなことよりも、優先することがあります。まずは……ええと、そうだ!六原さんのところに行きましょう!」


「えぇ〜。今から警察署に行くの?」


当たり前です!という言葉をグッと堪える。先生との言い合いで勝てたことなんて一度もない。こういうときは、無理やりにでも引っ張った方が早い。


そう思って、彼の手を握る。骨ばった大きな手のひらに、少しだけ胸が跳ねた。


「……ああ。そうだ、シユちゃん」


「な、何ですか?」


先生が突然立ち止まったことで、私の足の進みも止まる。そして、先生は私の手を優しく握ったまま……深々と頭を下げた。


「俺がいない間、ココを守ってくれてありがとう」


「あ……い、いえ、顔を上げてください!私は……」


思わず、謙遜の言葉が口から出そうになる。でも、ここで私が卑下したら、先生は余計に気を遣うかもしれない。


「……そ、そうですよ!私に感謝してください!」


私はふいと視線を逸らし、目的地の方向へと歩き出す。先生が付いてくるかどうか気になったけど、今の真っ赤な顔を先生に見られたくないという気持ちの方が大きかった。


でも……でもきっと、私の思惑なんて、先生はお見通しなんだと思う。


私の力不足で、事務所の知名度も人気も、すっかり失墜してしまったことすら。


「シユちゃん、警察署はあっちだよ?」


「……あ」


しまった。ついボーッとしていた。私は慌てて近寄ると、先生は「失礼」と言って私の手を優しく握った。


肌に伝わる少し冷たい体温に、ようやく実感を覚える。


この毛糸(けいと)町に、天才探偵・丹後丁字(たんごていじ)が帰って来たことを。


+++


道路の端、店の軒下、家の前——あちこちに小さな水たまりが残っている。早朝の雨の名残だ。確か一時間ほど降ってすぐ上がったが、夕方の今もまだ完全には乾いていない。


探偵事務所から警察署までは、歩いて十五分ほど。その途中で、千芽(せんめ)メンタルクリニックの前を通る。看板の下の駐車場には院長先生の白い車が停まっていたが、その隣にあるはずの、可愛らしい水色の軽自動車は見当たらなかった。


……伊智花さん、今日は外回りなのかな。


最近はクリニックを訪ねても会えないことが多い。次期院長に決まったとメールで伺っているから、やっぱり、バタバタしてるのかもしれない。今度ゆっくり会いたいな、と思いながら、私は先生の半歩後ろを歩く。


そしてしばらくすると、四階建ての大きな建物が見えてきた。周囲には丁寧に伐採された低木が大人しく佇んでおり、黒と白の車が入口付近に並んでいた。多くは奥の駐車場に停められているようだが、よく見えない。


毛糸警察署。毛糸町で一番大きな警察署で、丹後探偵事務所とはよく親身にしてくれている。


最初の頃は、罪を犯しているわけでもないのに、入口を抜けるだけで緊張していた。それが、訪れる機会が多すぎて、いつの間にか慣れてしまった。


それどころか、警察官に顔見知りが増えるようになって、頼もしいような気まずいような……そんな感覚に陥っている。


「あの、すみません。六原(ろくはら)さんいらっしゃいますか?」


警察署に着くや否や、私は受付のお姉さんに声をかけた。彼女は先生の顔を見て、ぱちりと目を見開く。状況を察したのか、聞き返すこともなくすぐに内線で六原さんを呼び出してくれた。


「「そ、それは本当か!?」」


重厚感のある声が二重に聞こえた。内線からと、近くのお手洗いから。


ややあって、ドタバタと大きな足音が辺りに響き渡ると、すぐに、六原さんが私たちの前に姿を現した。


ニキビも髭も一切ない、非常に綺麗な浅黒い肌。大きな目と口と耳。いつ見ても、三十代後半とは思えない。ギリギリ大学生でも通用しそうなほどの若々しさは、彼の熱いエネルギーによるものか、それとも、妻子の存在が大きいのか。


目を白黒させている六原さんの手は、微かに濡れていた。掻き上げた黒髪はほんの少し乱れていて、百人中百人が彼を動揺していると判断するだろうと思う。六原さんと知り合ってからかなり長い期間が経つが、こんな姿は初めて見る気がする。


六原さんは広い肩幅を上げ下げしながら、私と先生を何度も見比べていた。それから、ポケットから取り出した可愛らしい子供向けキャラクターのハンカチで、丁寧に手を拭き終える。


一瞬、彼の肩から力が抜けたのが見えた気がした。眉が少しだけ下がって、何かを言いかけて……穏やかな表情を止め、すぐに口を閉じた。


そして、みるみるうちに表情は険しくなっていく。への字に曲げた口と、眉間に刻まれた深い皺。……ああ、よく見る六原さんの顔だ。


「やあ睦己(むつみ)くん、久しぶり」


「久しぶり、じゃねぇッ!この野郎、お前どこ行ってやがった!?シユさんがどれだけーー」


六原さんが声を荒げかけたところで、若い警察官とジャージ姿の男性が近くの会議室から出て来た。若い警察官は迷惑そうに咳払いすると、ジロリと私たちを睨み付ける。六原さんはスマートに敬礼をすると、私と先生の肩を優しく掴み、廊下の脇に寄せた。


「あ、あの、鑑定の結果って、いつ頃……」


「後日、弁護士を通して伝えますから……」


そんな会話をしながら、二人は二階へ上がっていく。ジャージ姿の男性はげっそりとした表情で、微かに息を切らしている。相当ストレスが溜まっているようだ。


彼の足の裾には汚れのようなものが付いている。あまりジロジロ見るようなものではないのはわかっているけど、探偵の助手として、我慢するのは難しい。


一方、若い警察官は、上着を腕にかけて手に持っている。裾が黒く汚れており、かつ、ボタンの多くが見当たらなかった。服に気を遣う余裕もないほど参っているのかもしれない。


「シユさん、大丈夫か?」


そう六原さんに声をかけられて、ようやく我に返る。


「あっ、ごめんなさい。ええと……」


「止めちゃダメだよ、睦己くん。人間観察は探偵の基本だからね」


と、先生がのんびりと呟いた。六原さんは「それもそうだな」と苦々しく笑うと、親指を立てて背後を指す。先ほどの二人が出て来た会議室で話そう、ということだろうか。確かに、こんな往来の場で話すわけにはいかない。


私と先生は目を合わせて、六原さんの後を歩く。通された部屋に入って真っ先に目が入ったのは、白いタイルの床に映った、シマウマの柄のような影だった。格子とすりガラス越しに降り注ぐ夕日は、部屋全体を橙色に変化させている。


そして部屋の中央には、折りたたみ式の大きな机が広げられていた。机の端に、円状の水滴が小さく残っていて、それがキラリと光っている。先ほどの警察官が飲み物を飲んでいたのだろうか。


六原さんは奥の椅子に乱暴に座ると、既に置かれていた紙と白いペンを手に取る。そして、懐から小型の録音機器を取り出し、トントンと指で机をたたく。どうやら、すっかり尋問モードに入っているようだ。


私と先生は、横に並んで椅子に座る。机と同様に折りたたみの椅子は相変わらず固く、長時間座っているとお尻が痛くなりそうだった。


「お前、シユさんに感謝しろよ?言葉だけじゃなく、態度とか物とかで」


六原さんは質問よりも先に、私へのケアについて苦言を呈する。目の前に座る先生を睨みつけている姿には、証人じゃない私でも背筋が凍る思いだった。さすが、尋問のプロ。


しかし、先生は怯むことなく、ニコリと微笑みながら口を開く。


「わかってるよ、睦己くん。シユちゃんへのこの大きな借りは、絶対に返すつもりだ」


「ハハハ!だとよ、シユさん。このオレが言質取ったからな。なんかあったらすぐ言えよ。何なら弁護士も用意してやるからな」


六原さんは手元の録音機を指差して、豪快に笑った。


……正直、大人のこういうジョークは苦手だ。彼なりの気遣いであることはわかっているんだけど……反応に困って、愛想笑いを返す。


「それで、だ。探偵サマは、今までどこで何やってたんだ?まさか、覚えてない、言いたくないとは言わねぇよな?」


「ごめん。俺が過ごしていた場所について、今答えることはできない」


「ああ?できないって、何で」


「でも、そこに着くまでのことと、帰って来たときのことなら、いくらでも答えるよ」


「チッ……まあいいや。まずはそこから聞いてやる」


先生の話はこうだ。


五年前、先生はとある調査のために霧台区に向かった。


するとそこで、運悪く、数十年前にトリックを暴いた犯人と出くわした。


カッとなった犯人は手持ちナイフで先生に襲い掛かり、しばらく揉み合いになる。


脇腹を刺されてしまった先生は、大量に血を流しながら、気を失った。犯人は逃走した。


そして、先生が意識を取り戻すと、そこは毛糸町ではない別の地域だったという。


「……で?また気づいたら、毛糸町にいて、しかもそこが丹後探偵事務所の前だったと?」


先生はコクリと頷く。彼の言うことが本当なら、あの「ただいまー」の直前まで、毛糸町にいなかったということになる。


そんなことより、私個人としては、先生が怪我をしたことの方が気になった。そんな事件、警察からも報道も聞かされていない。犯人は未だに霧台区をうろついているのだろうか。


犯人に対する怒りを胸の内に抑えつつ、あくまで冷静に、先ほどの発言や二人の顔色を確認する。


おそらく、六原さんは今こう考えているだろう。コイツは夢でも見ていたんじゃないか、と。


しかし、五年という空白があるのは事実だ。現実的に考えれば、海外に売り飛ばされたというのが妥当なところだけど……その場合、五体満足で帰って来るとは思えない。


それから、先生が受けた傷が完全に塞がっているのも気になる。上半身を露わにして、刺されたという箇所を指差していたが、痕はおろか手術などの痕跡すらない。


……と、六原さんが言っていた。私は目を逸らしていたから、実際に見たわけじゃないけど。


「薬物接種の傾向はなさそうだが、内臓の一つや二つ取られててもおかしくねぇ。この後……は、無理か。明日、朝イチで病院行っとけよ」


先生はコクリと頷いた。……先生のことだ。謎が飛んできたらそっちを優先するだろう。私が家に帰る前に、何としてでも予約させよう。


とはいえ、身体の心配はもちろんだけど、今は精神状態が気になる。言えない理由というのが、記憶が混濁しているせいという可能性もあるし、やっぱりここは……。


「伊智花さんに来てもらいましょう。出先にいらっしゃると思いますが、先生の名前を出せばすぐに駆け付けーー」


「ああ、その必要はないよ」


一瞬、強がっているのかと思った。けど、それにしては先生の顔は依然として穏やかで、余裕がある。私と六原さんは、彼の言葉を待った。


「彼女、今は席を外してるだけだから。しばらくここに居れば、戻って来るよ」


それを聞いた六原さんは「マジか」と口にする。


「驚いた。五年経っても、実力は健在ってわけか」


「え……え?どういうことですか?まさか本当に……」


「ああ。千芽 伊智花(せんめいちか)は、さっきまでここにいたぞ。……ほら、さっき二人組の男とすれ違っただろ?そいつらが出る五分くらい前に、この部屋で精神鑑定をしていた」


「…………」


先生は、どうしてそれに気づいたんだろう。明確な理由が目の前にあるというよりは、複数の情報から予想して導かれたような気がする。


ということは、私にでもわかるということだ。咄嗟に室内を見渡し、思考を巡らせる。


今居る会議室の壁は防音で、窓はすりガラスで格子付き。かなり秘匿性が高い部屋だ。入口から近いということもあってか、よく満室になっている印象がある。


私と先生が警察官とお話するときも、大抵は一番最初にこの部屋を案内されるのだが、八割くらいの確率で「やっぱり別室にしましょう」という流れになる。


人気の会議室となると、部屋の選択がヒントになったわけではなさそうだ。となると、部屋の内部……レイアウトに何か違和感が……?


そう思って机の上に視線を戻したとき、六原さんが手元で弄ぶ白いペンが目に入った。よく見ると、うっすら文字が書かれている。


「それ、よく見せてください」


私は机に乗り出し、六原さんからペンを受け取る。よく見るとそこには、剥がれかけたプリントで『千芽メンタルクリニック』と書かれていた。伊智花さんが勤める病院だ。


「フフフ。シユちゃん、まだまだ観察が甘いね」


「ぐ、ぐぬぬ……で、でも、このペンだけで判断したわけではないでしょう?過去に精神鑑定をしに来たときに置き忘れた可能性だって」


……ん?精神鑑定?自分の言葉が妙に引っ掛かった。


「鑑定の結果って、いつ頃……」「……弁護士さんを通して伝えるから」


ジャージの男性と、若い警察官の声が、脳裏に蘇る。


そうか。鑑定というのは”事件の証拠資料を集める”方ではなく、”被疑者の犯行時の責任能力を診察する”方のことを指していたんだ。……ま、紛らわしい。


それに加えて、千芽メンタルクリニックに伊智花さんの車がなかったこと。二人の男性が出て来たのに、部屋には椅子が三つあったこと。全てひっくるめて、丹後先生は伊智花さんがいることを予想した。


「しっかり者の伊智花ちゃんが、備品のペンを置いてそのまま帰宅するとは思えない。それに、あそこの水滴。たぶん、水筒か何かの結露だと思う。拭いてすらいないってことは、慌てて飛び出たんじゃないかなって」


「お見事。その通りだよ、丹後。さっき俺の同期から緊急連絡があって、別件で席を外してんだ。残された二人も、一時休憩ってことになったんだろうよ」


一つ一つが小さくて、でも重要なヒントだ。気づかなかったことが悔やまれると同時に、懐かしさや安心感も覚える。


五年間、どれだけ事務所を守ろうと頑張っても、その背中に近づくことはできない。天才探偵・丹後丁字は、未だ健在だ。


……って、ちょっと待って。


「この部屋、使っててもいいんですか?伊智花さんが戻ってきたら、精神鑑定の続きが始まっちゃうんじゃ」


「ん?ああ、まあ大丈夫だろ。最初っから長話になるとは思ってなかったしな」


六原さんが溜め息を吐くと、先生はニヤリと口角を上げる。机の上に両肘を付いて、顎に手を当てた。


「それって、俺が素直に白状すると思ってたの?それとも、黙秘すると思ってたの?」


「どっちもだよ。白状の場合は簡潔に済ませるだろうし、黙秘の場合は例え殴っても言わねえだろうし」


フンッと鼻息を鳴らして、腕を組みながらそっぽを向く六原さん。さすが、私よりも先生との付き合いが長いだけはある。


でも、そうやって諦め……いや、甘やかすのは、先生の思うツボのような気がする。伊智花さんほどではないにせよ、本気モードなら彼だって負けてない。


まあ、六原さんは優しいから、被害者を責め立てるようなことはしないか。


「というわけで、睦己くん。伊智花ちゃんが戻ってくるまで、もう少し雑談しようよ」


「オイ、雑談よりもすることがあんだろ。刺したとかいう犯人の容姿とか、そういうの」


私もそれは気になる。私刑なんてバカバカしいことはするつもりないけど、先生を傷つけたという事実がある以上、警察に全面協力したい。


あれ?でも、傷が完全に塞がっているということは、刺されたという証拠もないということでは?


そんなことを思った——その時だった。


ドアが乱暴に開き、若い警察官が転がるように飛び込んできた。


「六原警部補!大変ですッ!」


「部屋に入るときはノックしろ、宇都宮(うつのみや)!で、何があった!?」


注意しつつも、すぐに話を聞く姿勢に入る。私と先生は顔を見合わせて、椅子から立ち上がった。


「じ、次川さんのロッカーで……ボ、ボヤが……!」


「はぁ?……消火は?したのか?」


「しっ、しまし、ハァッ……しましたけど、じ、状況が、謎、なんです」


宇都宮と呼ばれた屈強な警察官は、両膝に大きな手をついて息を切らしている。玉のような汗を顎から垂らし、上着の袖でそれを拭った。


と、いうか、そんなことより……マズいことになった。


「へぇ、謎かぁ」


先生は、「謎」と聞いたら黙っていない。止まっていられない。まるで蝶々が花の蜜に向かっていくように、ごく自然に、これが自分の生き甲斐だと言わんばかりに、吸い寄せられていく。


「いいね。キミ、宇都宮くんと言ったね?現場に案内してもらえるかな?」


「えっ……?え、ええと……?」


「コイツらは丹後探偵事務所のモンだ。信頼できる奴だし、ロッカールームくらいなら入ってもいいだろ。俺が許可する」


「はぁ……」


宇都宮さんは困ったように眉尻を下げて、先生と六原さんの顔色を交互に窺う。


「つかそれより、お前は先にロッカールームの廊下の監視カメラデータを持って来い。いいか?あんまり騒ぎ立てすんじゃねぇぞ。面倒なことになるからな」


「わ、わかりました!」


背筋をピンと伸ばして敬礼をすると、宇都宮さんは駆け足で部屋を出て行った。私と先生は六原さんの案内で、目的地のロッカールームへと足を進める。


先生は鼻歌を歌いながら、私よりも半歩前を早歩きしている。普段のんびりしているけど、運動神経の良さと足の長さは折り紙付きだ。……私も、体力には自信がある方なんだけどな。


……と、いうか。


「あの、先生。つい私も飛び出ちゃいましたけど、大丈夫なんですか?伊智花さんとまた入れ違いになったりしたら……」


「んー?ああ。まあ、大丈夫だよ。時間はたっぷりあるからね」


いつもの言葉を口にすると、早歩きではなくスキップに変化した。少年のように浮足立っている姿を見て、微笑ましく思う反面、ちょっと不謹慎だと思った。人死にはしていないようだけど、事件は事件なわけだし。


意を決して、そのことを指摘しようと口を開きかけた、その時だった。


「ボヤかぁ。大抵は、炎の精霊が暴走したっていうのがオチだけど。今回はどうだろう」


「…………は?」


あまりに突拍子もない発言に、何を言おうとしていたのか忘れてしまった。


……聞き間違いじゃないよね?今、炎の精霊って言った……?


聞き返したくて仕方がなかったけど、小声の独り言にツッコむような気力もなく。一旦聞かなかったことにして、宇都宮さんが言っていた「謎」とやらに集中することにした。


+++


事件が起こったのは、警察署の地下にある男性用ロッカールームだった。


私たちがいた会議室と距離自体は近かったものの、階段が多かった。あれだけの段数を一気に駆け上がったのだとしたら、マッチョな宇都宮さんが汗を掻いていたことも頷ける。


ボヤのことはまだ表沙汰にはなっていないようで、ロッカールームには私、先生、六原さん、宇都宮さんの他に、呆然と廊下で立ち尽くしている痩せぎすの男性が一名いた。


煙や焦げたような匂いは階段下まで漂っており、安全のために全員がハンカチを口元に運ぶ。


次川(じかわ)!何があったんだ!?」


「あ……ろ、六原警部補……」


青白い顔をしている次川さんを押しのけるように、六原さんと先生はロッカールームの中に入る。男性用ということを思い出した私は、一瞬立ち止まったけど、すぐに後を追った。


「暑……」


思わず言葉が漏れる。葉の色が色づくほど涼しい季節だというのに、ここは異様なほど蒸している。火災の影響というよりは、風通しの悪いジメジメした部屋の位置が関係しているように思う。


火の元のロッカーはすぐ目に入った。出入口から最も近く、酷い焼け跡が生々しく残っている。それを掻き消すかのように、消火剤の白い跡が周囲に飛散されていた。


一つのロッカーはかなり小ぶりで、それが三段立てに積み上がっている。次川さんが使っていたという真っ黒なロッカーは、ちょうど真ん中にあった。


「そ、早退しようと思いまして、それで、ロッカーを開けたら、火が……」


宇都宮さんが言っていた通り、ボヤが起こったロッカーは次川さんが使っていたようだ。彼は上着の襟に指をかけながら、息苦しそうにしている。


「次川さん、ハンカチはありますか?大規模ではないとはいえ、口元は覆った方が身の為ですよ」


「あ、そ、そうですよね、すみません……」


先生の言葉で何とか冷静さを取り戻したのか、皺も汚れもない綺麗なハンカチをポケットから取り出す。ちゃんと口元を覆ったのを確認した後、六原さんはあくまで穏やかに問いかけた。


「ここの鍵は今の今までずっと閉まってあったのか?」


「は、はい、そうです。出勤してから一度もロッカールームには足を運んでいませんし、鍵もずっと財布の中に閉まっていました」


「……つまり、こういうことか?密室のロッカー内で火事が起きたと?」


次川さんは必死に頭を縦に振る。なるほど、宇都宮さんが言っていた「謎」というのは、これのことか。


でも、現代では密室で火事なんて珍しいことじゃない。……そう、例えば……。


魔石(ませき)の暴走という可能性はない?低品質な炎の魔石なら、蓄魔量(ちくまりょう)が限界を超えると自然発火することが多いから」


「そう、魔石……って、いや、先生、何を言ってるんですか?それを言うなら、モバイルバッテリーですよね?最近、そういった事故も多いですし」


「モバ……?そんな種類の魔石、あったかな?」


先生は心底不思議そうな顔をして、首を傾げる。そのような状況ではないので、誰もツッコむことはなかった。


……やっぱり、さっきの頓珍漢な言葉は聞き間違いじゃなかったのかもしれない。もしそうなだとしたら、一刻も早くこの件を片付けて、すぐに伊智花さんに診てもらわないと……。


「それが最近、妻のモバイルバッテリーが発火しまして。騒ぐほどのことではなかったのですが、神経質な妻が、モバイルバッテリーを我が家から撤廃したんです。ですから、僕が持っていることはありません」


「それ以外に、発火しそうな原因のものは?」


「ありません。煙草も吸わないし、電子機器は全て持ち運んでいるので」


そうなると、他に自然発火しそうなものというのは限られてきそうだ。


何にせよ、これは単なる事故だろう。鍵が閉められていたというのは確かに違和感があるけど、特段珍しいことではない。


「うーん。その話が本当なら、誰かが次川くんのロッカーを開けて、火を放って、閉めた。という線も考えられるね」


この場にいる全員が、一斉に先生の方を向く。


ややあって、視線が集まっていることに気付いた先生は、小首を傾げた後、右手の人差し指を立てた。


「考えられる、と言っただけだよ。見た感じ、次川さんはとても誠実な人だ。ロッカーの鍵を紛失するようなことはないと思うけど、万が一ということもあるだろう?」


「……まあ確かに、ここの管理人が管理鍵を使って開けた。という発想もできるにはできるが……一体、何の為に」


「睦己くん。推理で最も肝心なのは、動機よりも行動と事実だよ」


何故事件は起こったのか、に着目する”ホワイダニット”。


誰が事件を起こしたのか、に着目する”フーダニット”。


どのように犯罪を行ったのか、に着目する”ハウダニット”。


どれもミステリー小説では度々見かける手法だけど、先生は昔からずっと、ハウダニットだけを考え続けていた。


曰く、人間の心は、俺にも解けないほど複雑怪奇で、謎だらけだからだと。


「六原警部補!監視カメラの映像、持って来ました!」


すると、絶妙なタイミングで宇都宮さんがロッカールームに入ってきた。


彼は手元のスマートフォンを横にして、全員が見えるような位置で画面を向けた。


「次川くんがロッカールームに入ったのは、15時53分。ということは、火災に気づいたのもこのタイミングと言ってよさそうだね」


小説でも現実世界でも、時間というのは重要な手掛かりになる。


しかし、ハンカチで手が覆ってメモ帳が出せない今、情報は頭に詰め込むしかない。


新調したペンを使う機会を逃したことを少しだけ残念に思いながら、傾聴モードに入る。


「次川の前にロッカールームを出入りしてたのは……画質が悪いが、これは蟹江(かにえ)だな?今どこにいる?」


「あ、ええと、監視カメラのついでに確認しましたが、出先にいるようでした。対応中の仕事を全て押し付けられたと、新人が」


「クソッ、タイミング悪ぃな……んで、蟹江の前にロッカールームを出入りしていたのは……これは誰だ?」


「あ、僕です。宇都宮です」


そう言って、スッと手を上げる宇都宮さん。六原さんは目を細めると、穴が開きそうなくらい彼の顔を見つめた。


それが疑いの目だと気付いた宇都宮さんは、大きな身体を縮こませる。先ほどまでの誇らしげな態度は、どこかへと消えてしまった。


「……じ、実は、薬を取りに……。次川さんの悲鳴と焦げたような匂いがするまでは、付近のトイレで用を足していました」


そして、トイレから出た宇都宮さんが、次川さんと一緒に火消しを行う。


茫然自失としていた次川さんを他所に、一人で慌てて六原さんの元へ向かった……と。


「では、容疑者は蟹江さんと宇都宮さん、ということになるのでしょうか」


ふと、次川さんが独り言を呟く。


「えっ……ちょ、ちょっと待ってください!僕はやってません!」


宇都宮さんの声は、廊下に響くほど大きかった。額や顎から垂れる汗は、おそらく疲労によるものではないだろう。


次川さんに負けないくらい真っ青な顔をして、六原さんの両肩を掴んだ。


「六原さんへの報告も、監視カメラの提供も、僕がしたんですよ?もし仮に犯人だとしたら、こんなに協力的なことしないでしょう!?ねぇ、探偵さん!」


探偵さん、と呼ばれたにもかかわらず、先生は視線を向けることもなく、口を閉じたまま火元のロッカーの上の方を眺めていた。


答える気がないのか、それどころではないのか。判断付かなかったが、私は宇都宮さんの悲鳴を無下にすることはできず、探偵助手として返答することにした。


「協力的なフリをする犯人は、珍しいことではありません。疑いの目を背けるため、罪悪感から逃れるため……理由は様々ですが、私はこれまでに何度か見てきました」


釈迦に説法とは、こういうことを指すのだろうか。加害者の思考回路なら、探偵気取りの小娘よりも警察官の方が詳しそうなものだけど。


もしかしたら、宇都宮さんはあまり事件現場に赴いたことがないのかもしれない。


「宇都宮さん。ロッカールームを出た15時30分から、火災が発生した15時53分の間、トイレにいたという証拠はありますか?」


「そ、それは……ないです、けど」


なんとも歯切れの悪い答えを返した後、宇都宮さんは項垂れてしまった。


しかし、今回の事件で怪しいのは彼だけじゃない。宇都宮さんの後にロッカールームに入った蟹江さんも、鍵を持っている管理人さんも、次川さん本人ですら疑わしい。


今朝の天気のように、どんよりとした気まずい沈黙が室内に流れる。そんな空気を払拭するかのように、先生はポンと大きく手を叩いた。


先ほどまでの真剣な表情は一変し、穏やかで掴みどころのない微笑みを浮かべている。


そして、先生は宇都宮さんの側に近寄り、優しく背中に触れた。


「大丈夫だよ、宇都宮くん。犯人はキミじゃない」


先生の口ぶりに、慰めや宥めといった気持ちは一切こもっていない。ただ淡々と、冷静に、事実だけを述べた……そんな印象を受けた。


まさか、犯人が誰かわかったのだろうか。それとも、事件ではなく事故だったのか?この場にいる全員が、再び先生の言葉を待った。


「今回の事件の犯人。それは、15時39分にロッカールームを出た、この彼だよ」


そう言って指を差したのは、監視カメラに映る男性。六原さん達から蟹江と呼ばれていた警察官だ。


確かに、宇都宮さんの後に、次川さんの前にロッカールームに出入りしたという点では、最も怪しいと言えるけど……でも。


「やっぱり、蟹江さんだったんですね。でも、どうやって……?」


「ん?ああ、違うよ。この彼は蟹江くんじゃない。さっきすれ違った、ジャージ姿の男性だ」


思わぬところから浮上した人物像に、驚きを隠せなかった。


私たちが会議室に入る前、やつれた姿でぐったりとしていた、あの男性。警察官と連れ添っていた彼が、何故突然話題に上がったのだろうか。どうにも、このボヤとは結びつかない。


詳しく話を聞かせてください。と言う前に、六原さんが軽く右手を上げて割り込んだ。


「つまり、蟹江とジャージ男がグルで、俺らとすれ違う直前に犯行に及んだっつーことか。アイツら、会議室でそんな計画を……」


「……?ちょ、ちょっと待ってください。会議室?その二人って、接点あるんですか?」


「ん?ああ、そうか。シユさんは知らねぇよな。当然だ」


ポリポリと後頭部を掻き、六原さんは続けた。


「ジャージ男に付き添ってた、警察官がいただろ?アイツが蟹江なんだよ」


なるほど、そうだったのか……だとすると……。


「……先生は、ジャージの男性が蟹江さんの上着を着て、放火に走ったと。そう言いたいんですね?」


「その通りだ、シユちゃん。二人がグルかどうかまでは、わからないけどね」


先生はそう言葉を漏らし、両目を閉じる。推理を披露するときの合図だ。


「まずは、何故監視カメラに映っていた人物が、蟹江くんではないという理由から話そう。重要なのは、彼の上着のボタンだ。何故かは知らないが、蟹江くんの上着からはボタンが三つほど消失している」


そう宣言すると、六原さん、次川さん、宇都宮さんが、各々納得したような顔や思い出し笑いを浮かべる。ただ一人付いていけていない私は、宇都宮さんが持っていたスマホを頂戴した。


再度映像を流し、よく見えるところで停止する。……確かに、15時39分。次川さんの前にロッカールームに出入りしていた人物の上着には、ボタンが無いように見えた。


画質が悪いせいで、一瞬見逃してしまいそうになるけど、宇都宮さんのときと比べて光の反射が少ない。しかし、警察官のボタンは金色の豪勢なものだから、廊下の灯りでキラリと輝くはずだ。


それを確認した後、私は記憶を辿る。すれ違ったときに、怪訝そうな顔でこちらを睨んで来た警察官。彼が手にしていた上着には、ボタンがなかった。先生は、このときに気づいたんだ。


「先週くらいだったかな。蟹江の奴、全体訓練中にド派手に三つもボタンを飛ばしたんだ。皆大笑いしてたから、よく覚えてる。……アイツ、まだ新調してなかったのか」


警察官の三人は、呆れたように顔を見合わせる。


そうか。……監視カメラに映る宇都宮さんは誰かわからなかったのに、蟹江さんのときはすぐにわかったのは、そういうことだったんだ。


「ということは、この上着の人物=蟹江さん、という式は、署内の人間であればすぐに成り立つということですね」


「そうだね。だから、もし彼が蟹江くん本人だとすれば、わざわざ容疑者の絞り込みに繋がるようなことはしないだろう。僕は蟹江ですって宣言しているようなものだ」


すると、次川さんが恐る恐る手を挙げた。何か引っかかることがあるようだ。


「だ、だからといって、どうしてその……ジャージの男性?なんですか?裏を返せば、蟹江さんの上着を着ている人なら、誰でも当てはまるってことじゃ」


「その辺りは時間が関係している。シユちゃん、時系列をまとめてくれるかい?」


先生に頼られたことが嬉しくて、私も両目を閉じる。……まず、私が蟹江さんたちとすれ違ったのは……。


「15時45分頃、ジャージの男性を見かけましたね。手足の裾が汚れていました」


「正確には、15時44分だね」


先生の細かい指摘が入る。フォローはありがたいけれど、思考に集中させてほしい。


「監視カメラによると、蟹江さんの上着を着た人物がロッカールームに入ったのは15時37分、出たのは15時39分。つまり、この2分間で放火を済ませたことになります」

会議室からロッカールームまでの長い階段は、歩いて6分くらいだった。急いで駆け上がれば、片道3分といったところ。上着を借りて駆け下り、ロッカーに細工をして、駆け上がって戻る……。


マッチョな宇都宮さんですら汗をかいていたほどだ。私たちとすれ違ったとき、ジャージの男性が微かに息切れをしていた理由も頷ける。


でも一体、この短時間で、どうやって鍵のかかったロッカーに火を付けたのだろうか?……気になるけど、それは一旦置いておこう。


「伊智花さん……もとい、蟹江さんたちと一緒にいた精神科医が会議室を出たのは……ええと、六原さん。何時頃かわかりますか?」


「うーん、15時30分頃だったはずだが……すまん、正確な時間は覚えていない」


「ありがとうございます。となると、15時39分の時点で蟹江さんとジャージの男性は二人きりだったんですね」


とはいえ、この間に蟹江さんとジャージの男性が他の人と接触した可能性も十二分にある。……でも、それよりも。


「蟹江さんの上着を借りて、ジャージの男性が犯行に及んだ。そう考えた方が確実ですね。人が多ければ多いほどバレる確率は上がりますし、ジャージの男性は息切れをしていました。あの息切れは、階段を駆け上がったことによるものかも」


私がゆっくりと目を開けると、目の前に六原さんの大きな手のひらがあった。一瞬ギョッとしたが、彼が言わんとしていることはすぐにわかった。


「俺がジャージの男を捉えてくる。まだ署内にいるはずだ。動機や真実は、ソイツを尋問すればすぐにわかるしな。その方が手っ取り早い」


六原さんは、思考よりも先に足が動く人物だ。それに、先生のことをすごく信用している。もちろん、推理が外れることもごく稀にあるけど、それでも、先生が名を出した人物が、犯人に結び付く存在であることは確実だった。


……でも、やっぱりわからない。大きな足音を立てて六原さんがロッカールームを出て行った後、私は焼け跡を覗き込んだ。


「さすがシユちゃん。ハウダニットが気になるんだね」


どうやら、先生にはお見通しだったようだ。彼が真相に辿り付いているのかはわからないけど、ここは力を借りずに自力で推理したい。このくらいできなきゃ、探偵の助手として顔向けできない。


私は改めて、ロッカーの内部を見やる。よく見ると、完全には灰になっていないものがほとんどだった。次川さんのトレンチコート、ひざ掛け、タオル、鞄……きちんと整理されている。次川さんの几帳面さが非常によく伝わって来る。


「……ん?」


ふと、ロッカーの裏戸……網状の小さな棚の上に、単行本サイズの本が挟まれていた。半分ほど焼け焦げてしまっているが、私は慎重にそれを手に取る。


「……これ、図書館の本ですか?」


表紙を捲ってすぐに、毛糸図書館のスタンプが押印されているのに気が付いた。独り言のつもりだったのだが、次川さんは「あっ!」と言葉を漏らし、返答する。


「そ、そうです。退勤の時に返すつもりで……ああ、弁償しなきゃ……」


……可哀想に。次川さんも、司書さんも。でも、比較的新しそうな本だから、本屋さんに行けばすぐに手に入るだろう。そこだけは、不幸中の幸いだったかもしれない。


私はロッカールームのベンチにそっと本を置いて、慎重にページを捲る。すると、とある違和感を覚えた。それは……ーー水滴の痕。


本の上部に、円状の水の跡が重なっていた。一箇所に集中して、何重にも重なっている。


波打つページを指差して、私は次川さんの顔を見た。それに気づいた次川さんは、覗き込むように私の人差し指の先を見る。


「えっ。な、なんですか、それ。僕、そんな汚れ知りません」


「……わかっています。几帳面な次川さんが、図書館の本に水をこぼしたまま放置するとは思えませんから」


次川さんが頷く。私は本を見つめながら、頭の中で考えた。


この水の痕が過去に付いたものではないとしたら、いつ?放火犯が水をかけた……はずはない。それにこれは、ちょっと水がかかったくらいのことでできるような痕じゃなくて……。


「水滴の蓄積だね。それも、かなり長い時間。……迷宮内でもよく見たよ。床の物が腐ったり、錆びたりしていた」


「迷宮?」


先生の頓珍漢な言葉が、私の思考の邪魔をする。頭を振ってそれを払うと、火元の上のロッカーに手を伸ばした。


本は戸の裏に沿うような形で、縦に置かれていた。そして、水の痕は本の上側に残っている。


「あれ?開いてる……?」


使用中で、鍵が掛かっているのだろうと勝手に思っていた。けど、扉はすんなり開き、中からツンとした不快な臭いが鼻に届く。


その匂いは、服を室内干ししたときの臭いによく似ていた。私は背伸びをして、ロッカー内の物を取り出す。


そこに入っていたのは、湿ったコートだった。まだ完全には乾いていない。


まさか、水の痕の原因はこれ?だとすると、次川さんのロッカーは……。


「……最初から、鍵なんて閉まっていなかった。次川さんのロッカーは、ずっと開いていたんですね」


私は次川さんの顔を見て、そう告げる。彼の瞳孔が開くと、黒目をキョロキョロと動かした。


「え……そ、そんなまさか。朝、ちゃんと鍵をかけました」


「申し訳ないのですが、次川さんの行動は問題ではありません。事実として、ここのロッカーは開いていたんです」


私はそう宣言すると、手にしていた湿ったコートを差し出す。


「図書館の本の水痕は、戸に掛けられたこのコートから、長時間水が垂れたことによるもので間違いないと思います」


それ以外に、水源と思われるものは見当たらない。……まあ、このコートは関係ない可能性もあるけど、そこはポイントではない。


「おそらく、今朝一時間だけ降っていた雨によって濡れたのでしょう。ちょうど通勤時間でしたから。私もびしょびしょに濡れましたよ」


すると、先生は一瞬だけ目を見開いた。「え、そうだったの?」と言いたげな表情だ。


「出勤時、誰かがロッカーの戸にコートを掛けて、干していたのではないでしょうか。その水滴が下部にまで垂れて、この本に浸透した」


とはいえ、このジメジメした室内では、あまり乾かなかったようだ。生乾きの臭いがキツくなってきたので、コートをもとにあった場所に戻す。


「でもその推理って、扉が開いていないと成立しませんよね?少なくとも僕か出入りしたときは、きっちり閉まっていましたよ?」


すると、宇都宮さんが疑問を投げかける。宇都宮さんが戸を閉めたわけではないのか……じゃあ、見かねた誰かが閉めたのだろう。その辺りを突き止めることは、今の私にはできない。


でも、宇都宮さんの疑問は尤もだ。だからこそ、頼りなのは次川さんの記憶しかない。


「次川くん。鍵を確実に閉めたというはっきりとした記憶はあるかい?鍵を回した感触とか、閉じられているか確認したとか」


あくまで優しく、穏やかな口調で先生は問い掛ける。すると、次川さんが、ゆっくりと床を俯き、項垂れた。

「……すみません」


肩を落として、深く息を吐く。


「実は今朝、遅刻ギリギリでして……人生初の寝坊でしたから、慌てていたんです……」


人生初、というのは驚きだ。私でさえ、高校生の頃は数回遅刻したのに。


ただでさえ、次川さんはしっかり者だ。動揺するのは、仕方ないのかもしれない。


「……僕としては、閉めたつもりでした。でも、確かに閉めたという記憶はありません……もしかしたら、閉め忘れていたのかも……」


この世の終わりのような表情を浮かべる彼の肩を、宇都宮さんが優しく叩く。


むしろ、次川さんは被害者だ。人間誰しもうっかりすることはあるし、何も悪いことはしていない。何だか、申し訳ない気持ちというか罪悪感が私の胸に広がった。


「ま、まあ、これはただの、私の推測ですから。2分の間に犯人が抉じ開けたのかもしれませんし」


「そ、そうそう。六原さんの報告を待とうよ、次川くん。それで全てがわかるさ。動機もね」


「……そう、ですね。僕、六原さんのところに向かいます……」


フラフラと千鳥足のまま、顔面蒼白の次川さんは歩き出す。宇都宮さんは慌てて寄り添い、大きな肩を貸した。


部屋を出る前に、宇都宮さんは眉を八の字にして軽く会釈をする。私がそれに応えると、そのまま彼らは去っていった。


ロッカー室には、私と先生だけが残された。煙の臭いがまだ薄く漂っている。とはいえ、もうハンカチで口を押さえる必要はなさそうだ。


私は思わず、ふぅ、と肩の力を抜く。それから、先生を見上げた。


「……先生。さっき言ってた、迷宮?魔石?炎の精霊?とかって、一体何のことですか?」


「ん?……ああ!」


先生は思い出したように、飄々と微笑んだ。


「どちらも、この世界の言葉で言い換えただけだよ。迷宮はダンジョン。魔石はマジックストーン。炎の精霊はイフリート。そう呼んだ方がよかったかな?」


「い、いえ!そうではなく!」


私は思わず声を上げた。先生は小首を傾げて、キョトンとしている。


「どうして突然、ファンタジーアニメみたいなことを言い出したんですか?ってことですよ!」


先生は、しばらく私を見つめ続ける。


ややあって、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。


「……しまった。ごく自然的に、そう発言してしまっていたみたいだ」


困ったように頭を掻く先生。私は先生の言葉を静かに待つ。ここまで来て隠そうとするつもりなら、私も心を鬼にしなければならないと思った。


けれど、その必要はなかった。先生は目を伏せてポツリと呟く。


「……実は俺、異世界に召喚されていたんだ」


「………………………………は?」


私の言葉を無視して、先生は話を続けた。


脇腹を刺されて意識不明になった後、気が付いたら魔法陣の上にいたこと。


サンタさんのような白髭の王様から、魔王を倒すように言われたこと。


でも先生はそれを無視して、異世界で探偵業をやっていたこと。


そして別の転生者の勇者が魔王を倒し、用済みになった自分は帰還したこと。


「……それって……それって、そんなのって……」


先生の言葉は、相変わらず理路整然としている。それなのに、先生の言っていることが何一つわからなかった。


異世界。魔王。勇者。転生……頭の中で、思考が回転する。


普段なら、絶対に信じない単語。アニメとかラノベとかで、よく聞く御伽話。


混乱したまま、私はゆっくりと口を開いた。


「……そ、それ、面白いですよ、先生!小説家になったらどうですか!?」


「え?」


申し訳なさそうにしていた先生の目が、丸くなった。ポカンと口を開いて、私を見やる。


「その話、本にしたら絶対売れますよ!異世界でどんな謎を解いてきたんですか?やっぱり、異世界特有のトリックとかあったりするんですか!?」


「え、あ……い、いやいやいや、本にはしないよ。というかシユちゃん、俺の言うこと信じてくれるの?」


「当たり前です」


私は腰に手を当てて、胸を張る。


「だって先生は、隠し事はあっても、嘘を言うことは決してありませんから」


パチクリと瞬きすると、先生は声を上げて笑い出した。少しだけ、肩から力が抜けたような気がした。


「ありがとう、シユちゃん」


その声は、いつも以上に優しかった。


妙に照れくさい気持ちになった私は、先生に向き直って話題を変えた。


「ほ、本にする話は本気ですよ?探偵・丹後丁字、異世界で謎を解く。……うん、絶対に売れます!」


「シユちゃん。さっきも言ったけど、本にするつもりは」


「……いや、待って。推理小説の市場と、ファンタジー小説の市場、両方狙えますよ!私、片っ端から出版社に連絡してみます!」


「シ、シユちゃん、落ち着いて」


先生は苦笑して、私の頭をぽんと撫でた。懐かしさを感じて、自然と口が閉じる。


「とりあえず、この後のことは六原くんに任せて、俺たちは事務所に戻ろう。話はそこでゆっくり聞くから」


「本当ですか?約束ですよ……あ、そうだ。それよりも前に、伊智花さんに連絡しないと」


私は慌ててスマホを取り出した。そこでふと、彼女の氷のような顔を思い浮かべる。


……先生のこと、伊智花さんにどう話そう。異世界転生のこと話しても、信じてくれるかどうか……。


私はモヤモヤと考え事をしながら、ロッカールームを後にする。階段を上っていると、何人かの警察官とすれ違った。六原さんたちから話を聞いたのか、かなり慌てた様子だった。


地上に戻ると、窓や玄関の向こうはすっかり薄暗くなっていた。


……今日はいろいろなことがありすぎた。体力に自信がある私でも、ドッと疲れが押し寄せる。


私は思わず、先生の顔を見た。視線に気づいた先生は、「どうしたの?」と微笑む。


そうだ……毛糸町に、丹後丁字が帰って来たんだ。天才探偵が、帰って来たんだ。


今日の収穫は、それで十分。むしろ、有り余るくらいだ。家族と同じくらい、大切な人。


スマホを操作する手が震える。視界がボヤける。私はゆっくりと深呼吸をして、伊智花さん宛にメールを送信した。

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