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第二話 後編


伊智花(いちか)さんはあの後、すぐに救急車を呼んだ。

親子ということもあり、事情の説明や付き添いは全て自分が引き受けると言っていた。


対して、私、先生、三ノ下(さんのした)さんは、千芽クリニックの給湯室を訪れていた。


三ノ下さんが院長に渡した差し入れ(グレープフルーツの果肉入りゼリー)が、ここの共用冷蔵庫から持ってきたと話したからだ。


給湯室は、診察室や院長室とは違い、どこか生活の匂いがする場所だった。

白い壁の一角に小さなシンクとコンロが据えられ、水切りかごには洗ったばかりのマグカップが伏せてある。


壁際の棚にはティーバッグや個包装のお茶菓子が並び、その横にはスタッフ共用の電気ポットと、年季の入った電子レンジ。部屋の隅では、大きめの業務用冷蔵庫が低く唸っていた。


慣れ親しんだ場所に来たからなのか、時間が経ったからなのか。三ノ下さんも、ここへ来て少しは気持ちが落ち着いたようだった。


とはいえ、先ほど見せた動揺や不安の心は、かなり深刻だったらしい。その証拠に、彼女はある重要な情報を失念してしまっていた。


「あれ? ゼリーの差し入れって、樽蓋(たるふた)さんからのお土産品だったんですか?」


冷蔵庫の中には、飲み物やサラダの他、院長室のゴミ箱にあったのと同じ銀色のパウチが、ズラリと並んでいた。

そしてそこに、『樽蓋先輩からのお土産です! by摺崎』と書かれた付箋が貼られている。


「あ……そ、そういえばそうでした。ここから持ち出して、院長に渡して……でも、だったら尚更、グレープフルーツなんて入ってるわけがないです」


柑橘類の持ち込みはNG。

それが院内の規則になっていた。当然それは、真面目な樽蓋さんも守っていたはずだ。


「フム、なるほど。……三ノ下さん。申し訳ないけれど、樽蓋さんと……この文章を書いただろう摺崎(すりざき)さんを呼んで来てもらえるかな」


「わ、わかりました! 今すぐ!」


咄嗟に走り出そうとした三ノ下さんだったが、廊下に出た瞬間、背筋を伸ばしてペースを緩めた。

競歩選手のような姿を見送ったあと、私と先生は、ゴミ箱や冷蔵庫などを漁り始める。

最初のうちはカラスみたいで嫌だったけど、今となってはすっかり手馴れた調査だった。


しばらくして、三ノ下さんと樽蓋さん、そして、もう一人の見知らぬ職員の方が姿を見せた。


「勤務中にごめんね、樽蓋さん。少し聞きたいことがあって、呼ばせてもらったよ」


「いえ……出版社の方との打ち合わせがちょうど終わったところでしたので、むしろタイミングが良かったです」


ただでさえ小柄な身体を縮こませ、視線を動かす樽蓋さん。

探偵とその助手らしい姿を立場を見るのが初めてだからか、やけにソワソワしている。


「お二人が動いているということは、何か事件があったんですか?」


「うん。まあ、ちょっとね……っと、その前に」


先生は、出入口の近くで佇んでいた見知らぬ女性へと視線を向ける。


「君が摺崎さん……で合っているのかな?」


「はい。そうっす。摺崎っす。初めまして」


後頭部に手をやりながら、軽く頭を下げる。


あちこちに寝癖の跳ねた茶髪に、裾が片側だけはみ出したポロシャツ。裏返しの名札にも、本人は気づいていないらしい。

きっちりしている三ノ下さんや樽蓋さんとは対照的な、どこか緩んだ雰囲気の人だった。


「あの、丹後探偵っすよね? 後でサインもらっていいっすか? 母がファンだったんす」


「コラ。そういうのは後にしなさい」


そう言って、三ノ下さんは摺崎さんの脇腹を小突く。しかし、「サーセン」と笑って誤魔化されて、三ノ下さんはハァと大きな溜め息を吐いた。


「さて、時間は限られている。早速、本題に入ろうか」


非常事態とはいえ、三人は勤務中だ。拘束し続けるのは申し訳ない。

先生はニコリと微笑んで、ゆっくりと冷蔵庫を開けてみせた。


「まず確認したいのは、このゼリーは誰が持ってきたのかということだ。付箋には『樽蓋さんからのお土産』と書いてあるけど、間違いないかな?」


「違います」


「ええっ!?」


驚きの声を上げたのは、摺崎さんだった。二人は目を見開いたまま、顔を合わせる。


「違うんすか!? 樽蓋先輩、『これ、手土産だから』って言ってたっすよね?」


「あ……ち、違うの。そ、そういう意味で言ったわけじゃなくて、ええと……」


「先週の旅行のお土産だったんじゃないんすか!? 持ってくるねって昨日言ってたから、自分はてっきり……」


「お二人とも、少し落ち着いてください」


私は両手を広げて、二人の間に割って入る。しばらく無言が続いたあと、樽蓋さんは深々と頭を下げた。


「……主語が足りてなくて、ごめんなさい。このゼリーは、出版社の方からの手土産なんです」


「経緯を順に説明してもらえるかな」


探偵は、何かを尋ねた相手に『詰められている』『怒られている』と思われやすい。

かといって、聞き手の不安を軽んじたり、放置したりしてしまうと、肝心な情報を得られなくなる。


決して、責めているわけではない──丹後丁字は、それを言葉ではなく態度で示す。プライドが高い人が多い探偵界隈で、同じようなことをできる人は限りなく少ないのだ。


樽蓋さんは胸元に手を当てて、小さく深呼吸する。そして、ゆっくりと口を開いた。


「このゼリー詰め合わせを頂いたとき、出版社の方が、大事な書類の上に飲み物を溢してしまったんです。それで、布巾を取りに給湯室へ向かいました。ついでだから、手土産も一緒に」


私は咄嗟に、ハンガーにかけられている緑色のタオルに目をやる。清潔でありながら、皺が目立っていた。


「そして、給湯室に駈け込んだら、摺崎さんが居たんです。丁度良いと思って、頂いたゼリー詰め合わせを渡して、冷蔵庫に入れてもらうよう伝えました」


「樽蓋先輩、相当焦ってたみたいで。自分が口を開く間もなく、布巾をぶんどって、給湯室から去ってったっす」


「なるほど、そこで勘違いが起きていたんだね」


樽蓋さんが咄嗟に口にした『手土産』は、出版社の方から頂いたものを指していた。けれど摺崎さんは、昨日お土産の話をしたことも相まって、樽蓋さんからの旅行土産のことだと受け取った。


どちらも嘘はついていないし、わざとでもない。

ただ、言葉足らずだったことで、こうして意味がすれ違ってしまったのだ。


樽蓋さんは、まだ申し訳なさそうに指先を握りしめている。摺崎さんも後頭部に手をやったまま、バツが悪そうに視線を泳がせていた。


「じ、じゃあ、つまり、出版社の方が、院長のアレルギーを知らないまま、グレープフルーツゼリーを持ち込んでしまったってこと?」


「え? グレープフルーツ?」


三ノ下さんの発言に、樽蓋さんは小首を傾げる。


「頂いたのは、白桃ゼリーだよ。出版社の方には、事前に柑橘系の飲食物は持ち込まないように伝えていたし……詰められていた袋の外装にも、桃の写真が掲載されていたから」


三ノ下さんも、樽蓋さんも、困惑した顔で互いを見つめている。摺崎さんは、後頭部に手をやったまま、気まずそうに視線を落としていた。


「一度、状況を整理しようか」


その沈黙を破ったのは、先生だった。


「院長室のゴミ箱にあったパウチの数は四個だった。三ノ下さんも、四つ渡したと証言している」


先生は指を折りながら、ゆっくりと言葉を区切る。

私は、ついさっき見た銀色の空パウチを思い出していた。


「そして、今、冷蔵庫に残っているパウチは三十個ある。……樽蓋さん、そして摺崎さん。出版社の方から頂いたゼリーが何個入りだったか、覚えているかい?」


「はい。頂いたのは、三十個入りのものでした」


「っす。……あ、でも」


摺崎さんが、何かを思い出したように声を上げた。視線が宙を泳いでいる。言うべきかどうか、迷っているようだった。


「……冷蔵庫にゼリーを入れる前、似たようなパウチが四つ、既に置かれていたっす。多めに買っておいたものを、樽蓋先輩が先に置いたんだと思って、特に気にしなかったっすけど……」


「え? わ、私、そんなことしてないよ?」


樽蓋さんが慌てて首を横に振る。摺崎さんは、バツが悪そうに頬を掻いた。


「千芽クリニックの職員は、非常勤や事務の方も合わせると、三十名だ。白桃ゼリーの個数は辻褄が合う。……つまり」


「三ノ下さんが手にした四個は、別の誰かが置いた、グレープフルーツゼリーだった……ということですね」


言葉の続きを、私が引き取る。先生は、満足そうに笑った。


……同じ銀色で、形も大きさもそっくりなパウチ。もしかしたら、二つは同じ会社の商品なのかもしれない。

偶然とはいえ、紛らわしいにも程がある。そもそも、こうやって中身を取り違える事故が発生したのだから、パウチそのものに味くらい書いておくべきだ。


この件が終わったら、お問い合わせしてみようかな。

そんなことを思っていた矢先、三ノ下さんが、肩を落として小さく呟いた。


「……ここまでやって、何も進歩がないんですか……結局は、院内の規則を破ったのが誰か、一人ずつ聞いて探すしかないってことですよね……」


「いいや、その必要はないよ」


先生の声は、不思議なほど軽かった。三ノ下さんが、ぱっと顔を上げる。


「規則で禁止されているグレープフルーツゼリーが、冷蔵庫にあった。その事実がわかっただけ、大儲けさ」


先生は楽しそうに、冷蔵庫の扉をぽんと叩く。


その横顔が、謎に出会ったときのそれだと気づいて、私は思わず息を呑んだ。


「せ、先生……まさか、もう目星がついているって言うんですか?」


「うん」


先生は、いつものようにあっさりと頷いた。

私たちはポカンと口を開けたまま、何も言葉を発することができずにいた。


「勿論、見当違いの可能性もあるよ。単に、職員が規則を破っただけかもしれない」


言動のすれ違いが連鎖的に発生して、事件化したケースは少なくない。

私と出会うよりも前から探偵業をやっている先生にとっては、多いと言ってもいいくらいだろう。


それでも、無事に解決したあとは、毎度こう口にする。「難儀な謎だったね。骨が折れたよ」。


先生は昔から、ハウダニットを重視するタイプの探偵だ。

けれど、今回のような事件は、フーダニットやホワイダニットが肝になってしまう。


だからこそ……自信がないからこそ、先生は、気がかりな点を虱潰しに捜査する。そこに、何かしらの道筋が隠れているはずだと、そう思って。地道に言葉を交わし、愚直に足を動かすのだ。


「でもね、一つだけ、気になったことがあるんだ。シユちゃんも、見かけているはずだよ」


突然話を振られて、ドキリと心臓が跳ねる。

……考え事をしている場合じゃない。集中しないと……。私は目を瞑り、千芽クリニックを訪れて以降の記憶を反芻した。


先生は『気になったこと』に対して、視線を向けたり、口にしたりすることが多い。

伊智花さんに会うまでの間にやり取りしたことと言えば……そうだ。先生が突然、卑猥な話を……性差……あっ!


「もしかして、あの作業服の人のことですか?」


女性だらけの空間を気まずそうにしていた、あの男性。……でも、特に怪しい素振りはなかったように見えたけど……?


「作業服?……それって」


「御津(みつ)さんのことっすよね?」


「たぶん」


三ノ下さん、摺崎さん、樽蓋さんは次々に口を開く。小声で話しているようだけど、狭い給湯室では付け焼刃だ。


「お知合いなんですか?」


私の問い掛けに応えてくれたのは、樽蓋さんだった。


「知り合いというか……御津さんは、当院の清掃員の方です」


「へぇ、そっか。清掃員だったのか」


含みのある先生の独り言は、宙へ消えた。

私自身、清掃員という言葉に違和感を覚えたが、具体的な理由はわからなかった。


「最近担当になったばかりで、だからなのか、元々の性格なのか……共用冷蔵庫に、マカロンなどのお菓子を置きっぱなしにしたことがあって。伊智花先生から注意を受けていました」


その言葉に、摺崎さんはピクリと肩を震わせた。……何か思い当たる節があるのだろうか。

確かに、あの綺麗な顔と毅然とした態度で注意されると思うと……かなり心に来そうだ。


「ありがとう、樽蓋さん。早速その人に会いたいんだけど、今何処にいるかわかるかな?」


「ええと……休憩室か控室だと思います。私、案内します」


樽蓋さんと摺崎さんを給湯室に残し、三ノ下さんの背中を追う。優しい声色で「二人の協力に感謝ですね」と零していた彼女の姿からは既に、不安の色が薄まっているような印象を受けた。


けれど、まるで身代わりになったかのように……今度は、私の心に不安の種が巻かれていた。


だって……今はあくまで、先生の『気になること』を解消しているだけだ。解決に近づいているかのように見えても、院長先生が倒れてしまった原因は、まだ暗闇の中にある。


終わりが見えないのは、やっぱり怖い。この感覚は、いつまで経っても慣れることはないだろう。




+++




作業員の男性──もとい、御津さんがいたのは、休憩室だった。


職員がいると警戒させるかもしれない、と、三ノ下さんは自ら、廊下での待機を要請した。先生は元よりそのつもりだったようで、それを了承した。


扉の小窓からは、御津さんがスマートフォンを操作しているのが見えた。

最初に見かけたときは遠かったのもあり、よくわからなかったが、かなり顔が整っている。背も高く、恋愛関係で苦労していそうだ、なんて想像を膨らませてしまっていた。


「失礼します」


三度ノックして、スライドドアを開ける。

小窓から見えていた通り、休憩室は畳敷きだった。足を踏み入れるより先に、ふわりと藺草の匂いが鼻先をかすめる。


手前の小さな土間には、大きな作業靴と、いくつかのサンダルが揃えて並んでいた。広くはないけれど、掃除の行き届いた、ホッとする和のテイストが素敵だ。


急な来訪者に驚いた御津さんは、慌ててスマートフォンを膝の上に伏せ、こちらを見る。


「ど、どうかしましたか? というか、貴女たちは……? ここは関係者以外、立ち入り禁止ですが……?」


「休憩中すみません、伊智花さ……千芽先生からの許可は下りています。私たち、こういう者です」


「は、はぁ……? 探偵さん……」


私と先生は靴を脱いで畳に上がり、座卓を挟んで向かい合う。

名刺を受け取る手は大きく、ゴツゴツと骨ばっている。荒れているのは、清掃員としての仕事によるものだろうか。


近くで見ると、やはりイケメンだ。眉毛が太く掘りが深いので、ハンサムという方が合っているかもしれない。大きな目はきょろきょろと落ち着きなく、私と先生の間を行ったり来たりしていた。


「単刀直入に聞こう。御津さん。君は一時間ほど前、給湯室へ向かったね?」


「……っ!?」


私と御津さんは、同時に息を漏らす。


どうして先生は、御津さんが給湯室に向かったと想定しているんだろう。確かに数分前、「作業服の男性が気になった」とは言っていたけど、一体どうして……?


そう思っていると、御津さんの額にジワリと汗が滲んでいるのが見えた。

そしてややあって、彼は口を開いた。


「そ、そうですけど、それが何か?」


すると、先生は目を見開いて、顎に手をやる。


「おや、本当に給湯室に行っていたんだね」


探偵は信頼されてナンボだ。だからこそ先生は、ハッタリを仕掛けるようなことをあまりしない。

そう思い込んでいたからこそ、私までも騙されてしまった。


御津さんは口をへの字にして、鋭い目付きをこちらに向けている。


「申し訳ない。確証が無かったものでね」


先生は悪びれもせず、いつものへにゃりとした笑みを浮かべている。

その軽さが御津さんの神経を逆撫でしないかと、私は気が気でなかった。


これ以上空気がこじれる前に、私は先生の袖を引いて口を開く。


「先生……そろそろ教えてください。どうして先生は、御津さんのことが気になったんですか?」


至って自然に、温厚な口調を繕って尋ねると、先生は座卓の上で指を組んだ。


「簡単な話だよ。さっき院内で御津さんを見かけたとき、装備を一つも持っていなかった」


「そ、そうび……?」


御津さんが目を丸くする。


……これはマズい。異世界脳の発作が出始めている。


「せ、先生。一旦落ち着いて」


「剣や盾おろか、回復薬も持っていなかったね。迷宮の中で丸腰になる冒険者なんて、中々いないから、珍しいなと思ったんだ」


「剣? 盾? 一体、何を言っているんですか? ふざけているの?」


「ち、違うんです。ごめんなさい。ええと、その……」


チラリと先生の顔を見やる。

けれど彼は、キョトンと首を傾げるだけだ。自分が今何を言ったのか、気付いていないみたいに。


私は深く溜め息を吐いて、再度、待合室でのことを思い出す。


「丸腰……そっか。確かに御津さんはあのとき、掃除道具を何も持っていませんでしたね」


清掃員と言われて、ピンと来なかったのもその所為だ。あの段階では彼が外部の方であることはわかっても、具体的な業種までは特定できなかった。


「お手洗いとか……職員の方に何かを尋ねに行っただけ、かもしれないじゃないですか」


「もちろん、その可能性はあったと思います。ですが、あのときの貴方の手には、小包がありましたね。それも、お洒落なラッピングがされた……」


何で今まで気づかなかったのだろう。アレはほぼ間違いなく、誰かからの贈り物だ。


「拠点に置きに行ったり、パーティメンバーに預けておくこともなかった。ということは少なくとも、急ぎの用事ではないと推測したんだ」


「……でも、だからって……」


「もう一つ。君、あの小包を手にしていたとき、やけにソワソワしていたよね。まるで、これから敵の巣穴に忍び込むみたいだった」


御津さんはまたしても、眉間に皺を寄せる。口を一文字に結んだまま、先生を真っ直ぐ見ていた。


「ここは、女性ばかりの迷宮だ。もし君が男なのだとしたら、居心地の悪さで落ち着かなかったのかもしれない。……でも、君は女性だろう? それなら、あの落ち着きのなさには、別の理由があったことになる」


……ん? 女性?


「あの、先生。御津さんは、男性では?」


御津さんは「あー……」と言葉を溢す。そして、気まずそうに俯いた。


「よく間違われるんですけど、私、女です。ホラ」


彼──否、彼女は人差し指で襟を引っ掛ける。そこには、男性にしかないはずの喉仏がなかった。


「ご……ご、ごめんなさい! 私、とんだ失礼な勘違いを……!」


「いや、いいんだ。よく間違われるし」


恥ずかしさで頬が熱くなる。御津さんは怒った様子もなく、小さく肩を竦めた。


そして、観念したかのように息を吐き、座卓の上に手のひらを置く。彼女のアンニュイな表情は、女性とわかっていてもドキリとした。


「こうやって間違われることも多いんですけど、同じ女性からアプローチをされることも多いんです」


「……じゃあ、あの贈り物は……」


私の問い掛けに、御津さんはコクリと頷いた。


「ここの管轄になってから、色んな職員さんから、何度も声をかけられていたんです。プレゼントも……でも、全部お断りしていました。そもそも物を受け取ってはいけない決まりがありますし、トラブルになっても困りますから」


一部の人にとっては、何たる贅沢な悩みだ。なんて思われるのだろう。

でも、当事者にしかわからない辛さというものがある。それを蔑ろにしてはいけない。


「それなのに……今朝、受け取ってしまったんです。大好物の、虎井屋というお店のゼリーだったもので」


ゼリー。

それを聞いて、私と先生は顔を合わせる。


「後悔しました。他の職員の方に知られてしまえば、絶対に揉めてしまいます。始業ギリギリだったので、車まで戻る時間もなく……かといって、道具入れには洗剤や雑巾が入っているので、食べ物は入れたくない」


「だから包装を解いて、冷蔵庫の中に入れて置いたんですね。もしそれが御津さんのものだと知られても、私物で持ってきたのだと言い張れる」


御津さんは小さく「はい」と呟くと、不安そうにこちらを見た。


「あの……何か、トラブルでもあったんでしょうか。私のせいで、大きな事件とか……」


少し躊躇ったけど、私は御津さんに、事件のあらましを告げることにした。

彼女が自分を責めることのないように、端的に。


しかし、無駄だった。私の言葉では、御津さんの気は紛れなかったようだ。彼女の顔がサーッと青くなり、唇と瞳が微かに揺れている。


「で、でも、決して御津さんだけの責任じゃないですよ。それに……」


私はチラリと先生の顔を見る。


「……院長先生が倒れた原因が、グレープフルーツゼリーにあると決まったわけでもないですから」


そう。この事件は解決していない。


規則で禁止とされていたグレープフルーツゼリーが、院内に存在していた。その原因がわかっただけだ。


あくまでこれは、院長先生が倒れた原因がグレープフルーツだった、という仮定の上で成り立っている。前提が間違っていたとしたら、結局は振り出しに戻るのだ。


「その通り。謎はまだ残っている」


先生は、胸ポケットにある懐中時計を手に取った。古いけれど美しい、植物がデザインされた一点もの。

そして先生は、時間はたっぷりあると言わんばかりに、ゆっくりと立ち上がる。


「俺たちには、君の行動の是非を判断することはできない。そこは、千芽先生の管轄だからね。……ただ」


御津さんに対して笑顔を向ける。


「人間には、様々な意思がある。だからこそ、事件は起きてしまうんだ。そして」


それだけ言い残すと、先生は踵を返して廊下に出た。私も慌ててそれに続く。

廊下で待っていた三ノ下さんに軽く事情を話したあと、先生は私の目を見た。


「一度、伊智花ちゃんの元に戻ろう。院長室にいるはずだ」


私は頷き、先生の背中を追う。

しかし、内心は不安でいっぱいだった。今の状況で伊智花さんに会ったところで、進展はないのだから。


──これが全くの思い過ごしだなんて、このときの私には、知る由もなかった。




+++




「なるほど、そのような経緯があったのですね」


伊智花さんは、私たちの話を聞き終えると、手を止めないまま短く頷いた。その視線は、こちらではなく、手元の引き出しに落ちたままだ。


院長室に、院長の姿はなかった。窓の前の執務机には、突っ伏していたはずの人影の代わりに、乱れた書類や小物が散らばっている。整然としていた部屋は、見る影もなくごちゃついていた。


伊智花さんの話によると、簡易ベッドのある部屋で安静にしているらしい。救急車を待つまでの間、別の職員さんが面倒を見てくれているそうだ。


伊智花さんは付き添うことなく、部屋中の物を一つずつ確かめていた。それと、院長の私物も。


「まるで、家宅捜索みたいだ。睦己くんが見たらきっと舌を巻くよ」


「冗談はやめてください」


ピシャリと言い放つ伊智花さん。鋭い視線には、どこか疲れが滲み出ていた。


……舌を巻くどころか、六原(ろくはら)さんは怒るんじゃないかな……第三者による事件の可能性もあるのに、証拠が見えなくなるようなことをして……。


そんな言葉が喉まで出かかったけど、ぐっと飲み込んだ。

代わりに、私がずっと思っていたことを口にする。


「もし仮に、院長の気絶の原因がグレープフルーツなのだとしたら……薬が関係しているかもしれません」


「さすがシユさん、詳しいですね」


「ま、まあ……腐っても探偵の助手なので」


伊智花さんからの率直な褒め言葉を受けて、思わず謙遜してしまった。先生は腕を組んでうんうんと頷いているし……恥ずかしい。


「私も、薬との飲み合わせではないかと考えています。母──院長は少し前、通院していたので。それも、私や父には何も言わずに」


「通院……ですか」


私が聞き返すと、伊智花さんは小さく頷いた。引き出しを探る指が、ほんの一瞬だけ止まる。


「近所のお婆さんとの雑談がなければ、知らないままだったと思います。家でも、クリニックでも、そんな素振りは一度も見せていなかったので」


声は平坦だった。けれど、引き出しの中身を探る手の動きが、さっきより少しだけ乱暴になっている。

いつも凛としている伊智花さんの横顔が、窓の光の中で、ひどく小さく見えた。


「要するに、精霊の果実と門番の関係性みたいなものだよね」


その沈黙を、先生の穏やかな声がそっと破った。先生は扉に寄りかかり、ポツリと呟く。


「精霊の果実には大抵、守護の魔力が籠っている。それを使って迷宮の門番を眠らせる技が横行していたよ」


先生はまたしても無意識に、異世界の言葉を使っているようだ。薬の飲み合わせについて話している……のかな。たぶん。


「でも、少しずつ流れていくはずの魔力が、堰を切ったように巡るせいで、門番が暴走してしまう事件も多発した。そのまま迷宮が崩落してしまったり、事故に見せかけて死に追いやられた冒険者を、何度も見たことがあるよ」


「……………………」


先生の言葉に、伊智花さんは何も返さなかった。そもそも、耳に入っていたかどうかすら怪しい。


「……伊智花さん、私も手伝います」


返事を聞くよりも先に、私は袖を捲って、本棚の前にしゃがみ込んだ。そして、医学書を一冊ずつ手に取る。ずっしりと重い背表紙を開いては、ページの間や、本棚の奥の暗がりを覗き込んだ。


院長が几帳面に並べていたのだろう、どの本にも付箋が貼られ、余白には小さな字で書き込みがある。


「……ここにもない。となると、もしかして」


埃とインクの匂いを感じていると、背後から、伊智花さんの小さな声が聞こえた。私は手を止めて、振り返る。


伊智花さんの視線の先にあるのは、私が絶賛手をつけている本棚の、天板の上だった。


彼女はヒールを浮かせ、ぐっと背伸びをして腕を伸ばす。背の高い伊智花さんでも、ぎりぎり届くかどうかの高さだ。私の背丈では、天板の上に何があるのかなんて、見えもしなかった。


やがて、彼女の腕が何かを掴んで、ゆっくりと下ろされる。


それは、アンティーク調の、可愛らしい小箱だった。くすんだ金色の縁取りに、淡い薔薇の模様。整然とした院長室の中で、それだけが、どこか少女めいた空気をまとっている。


伊智花さんは埃を払い、執務机の上にそっと置く。躊躇っているのか、指先が少し震えていた。


ゆっくりと開いた箱の中には、写真がぎっしりと詰まっていた。


ほんの少し色褪せた、何枚もの写真。そこには、小さな女の子が写っている。七五三の晴れ着。ランドセルを背負った入学式。ケーキの前で笑っている姿……。


「これ……もしかして、伊智花さんですか?」


「っ、はい」


伊智花さんの声が、かすかに揺れた。いつも冷静な彼女が、こんなふうに言葉を詰まらせるのは珍しかった。

写真を一枚ずつ、大切に摘まみ上げる伊智花さん。そして、ようやく箱の底が見えて来たところで……。


「あ……」


そこにあったのは、銀色のシートに収められた、白い錠剤。

ところどころ、押し出されて空になっている。伊智花さんはそれをじっと見つめたあと、長い睫毛を伏せて、口を開いた。


「ありました。抗不安薬です。それも、ベンゾジアゼピン系の」


伊智花さんは唇を結んだ。シートを持つ手が、わずかに強張っている。

ベンゾジアゼピン系。その名前を聞いた瞬間、頭の中で、いくつかの点が静かに線になった。


「その種類の薬って、グレープフルーツと一緒に摂ると、効きすぎてしまうことがあるんですよね。薬の成分が分解されにくくなって、体の中に長く、濃く残ってしまう……それで、強い眠気や、意識を失うこともあると」


院長が口にしたのは、小さな銀色のパウチ。


しかし、あれには果肉がたっぷり入っていた。さらに、院長はグレープフルーツゼリーと気づかずに、一気に四つも食べてしまった。

可能性としては、十分にあり得る話だった。


「最近の母は、本当に忙しそうでした」


ぽつりと、独り言のような声だった。伊智花さんの手が、力なく下がる。


「私へ引継ぎの準備や、各方面への挨拶回り。診察の合間に電話をかけて、夜遅くまで書類を書いて。一緒に食事をする機会も、前よりずっと減りました。思い返せば、母がきちんと食事を摂っているところを、ここしばらく見ていません。それに、寝ているところも」


「空腹や睡眠不足……いろいろな要素が連鎖的に組み合わさって、倒れてしまったのかもしれないね。グレープフルーツゼリーの足取りと同じように」


先生の言葉に、伊智花さんは小さく首を縦に振る。大きな瞳には、深く沈んだ悔しさが滲んでいた。

何か言わなければ、と思った。けれど、どんな言葉も、この落ち込んだ空気の前では軽すぎる気がして、唇が動かない。


「あ……」


するとそのとき、窓の外から、遠くサイレンの音が近づいてきたのが聞こえた。

伊智花さんは、ハッと顔を上げる。いつもの凛とした表情が、瞬きひとつのあいだに戻っていた。


「救急車が来たようです」


小箱と薬のシートをそっと机に置き、私たちのほうへ向き直る。


「丹後さん、シユさん。母のために動いてくださって、ありがとうございました。このようなことに巻き込んでしまって、ご迷惑をおかけしました。……あとで、改めてお礼をさせてください」


深く頭を下げると、伊智花さんは足早に院長室を出ていった。ヒールの音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。

部屋に残されたのは、散らかった書類と、私たちだけだった。


「……本当に、薬の飲み合わせが原因だったんでしょうか」


口にした途端、胸の奥にあった不安がハッキリと形になった。

偶然が重なりすぎている気がして、どうしても拭いきれない。


「警察に連絡していないということは、少なくとも伊智花ちゃんは、事件性はないと判断しているんだろう」


先生は散らかった物に一切触れることなく、くるりと部屋を見渡す。


「なら、俺たちが勝手に調べを進める必要はないよ。探偵の仕事は、あくまで謎を解き明かすところまでだからね」


「病院の検査と、本人の話次第……ということですね」


「うん。そういうこと」


先生は、へにゃりと笑った。その笑顔を見て、少しだけ、胸のざわつきが静まった気がした。




後日聞いた話によると、院長が倒れた原因は、先生や伊智花さんの推測通り、薬の飲み合わせによるものだった。


病院での検査でも、不審な点は見つからなかったという。意識を取り戻した院長は、伊智花さんや担当のお医者さんから、薬を自己判断で増やさないこと、そして食事も睡眠も疎かにしないことを、こっぴどく注意されたらしい。


そして、クリニックの職員さんたちはといえば、報告・連絡・相談の教育を、みっちりと叩き込まれたそうだ。もちろん、清掃会社の方や出版社の方といった、外部の関係者も含めて。


御津さんも虎井さんも、しばらくはしょんぼりしていたと聞いた。けれど、悪意があったわけではない。小さな「ちょっとくらい」が重なっただけのことだ。




「シユちゃん」


ふと、先生に呼び掛けられた。


「今日は付き合ってくれてありがとう」


真っ直ぐに私の顔を見て、恥ずかしげもなく、先生は微笑んだ。

そういえばそうだった。そもそも私たちは、先生の定期検診のために、このクリニックを訪れていたんだった。


「べ、別に、お礼を言われるようなことじゃないです。先生一人じゃ心配ですから」


居た堪れない気持ちになった私は、無意識に窓の傍に近づく。うっすらと反射して見えた私の顔は、リンゴのように真っ赤だった。


「いつも頼ってばかりで申し訳ない。二回目の定期健診からは、ちゃんと一人で行くよ」


「当然です。私は先生のお母さんじゃないんですからね」


ふと窓の外を見やると、目下の道路に、救急車が停まっていた。赤い回転灯が、街の壁に反射して揺れている。


やがて、ビルのエントランスから担架が運び出され、救急車へと運び込まれていく。横たわる院長と、その傍らに付き添う伊智花さんの姿が、ずいぶん小さく見えた。

その姿を、私は無意識のうちに目で追っていた。胸の奥が、きゅっと縮こまる。


すると、肩にそっと温かい手が置かれた。

先生は何も言わなかった。ただ、静かに、私の肩を支えてくれていた。


「シユちゃん。帰る前に、アマシロの紅茶を飲みに行ってもいいかな」


気を遣ってくれたのか、それとも、五年ぶりに好物を嗜みたいだけなのか。先生の真意は、よくわからない。


「もちろん、是非来てください。両親も、先生に会いたがっていましたし」


先生の横顔は、随分と大人びて見えた。胸が高鳴り、すぐに目線を逸らす。


いつも頼ってばかり。──それを言うのは、私の方だ。

時には推理で。時には心の拠り所として傍にいてくれる。そんな彼を、私は誰よりも尊敬しているのだから。


遠ざかるサイレンの音を背に、私たちは並んで、院長室をあとにする。廊下は静けさを取り戻していて、待合室では患者さんたちが何事もなかったように順番を待っていた。


その中を歩く先生の金色の髪が、照明の下で淡く揺れている、チョコ色のトレンチコートの裾は、歩調に合わせて静かに翻っていた。


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