9話『没原稿』
次の日
インターホンが鳴った瞬間、凛は嫌な予感がした
玄関を開ける
章がいた
「……なんで来るんですか」
「来たかったから」
「昨日の話覚えてます?」
「覚えてる」
覚えてるんだ
凛が言葉に詰まっている間に、章は当然みたいに部屋へ入っていく
「コーヒー淹れて」
意味が分からない
凛は深くため息を吐きながら扉を閉めた
昨日、あんな空気になったのに
この人は本当に変わらない
部屋へ入ると、章はもうソファへ寝転がっていた
「人ん家ですよねここ」
「知ってる」
「自覚薄くないですか」
章は返事をしない
代わりにノートパソコンを開いた
凛はキッチンでコーヒーを淹れる
コーヒーメーカー
勝手に持ち込まれたもの
気づけば普通に使っている自分が少し嫌だった
凛はマグカップを机へ置く
その時だった
章のノートパソコンが目に入る
表示されていた文章に、凛は少し止まった
「……これ」
章はソファへ寝転がったまま答える
「ん?」
「……湊先生でもこんなの書くんですか」
そこに表示されていた文章は、思っていたよりずっと荒かった
誤字
消し跡
途中で止まっている台詞
構成メモみたいな文章まで混ざっている
凛はもう一度画面を見る
しかも一つじゃない
フォルダの中には大量のデータが入っていた
没
没2
没3
最終
最終2
最終 本当の最終
意味が分からない
「いや多いでしょ、なんですかこれ、“本当の最終”の次に“本当に本当の最終”あるじゃないですか」
「あるな」
「あるなじゃないですよ」
章は気怠そうにスマホを弄っている
凛はスクロールする
途中までしか書かれていないもの
一行だけのもの
完成しているのに没になっているもの
色々あった
その中の一つを開く
凛は少し止まった
「……これ普通に面白くないですか」
「没」
「なんでですか」
「なんか違った」
雑すぎる
でも、その感覚だけでここまで書いているのだとしたら怖かった
凛は画面を見つめる
文章は荒い
今の湊より粗削りだ
でも熱量だけは異常だった
画面越しでも分かる
書き殴っている感じ
削る前の感情
凛は小さく息を吐く
「……意外です」
「何が」
「もっと、最初から完成してるのかと思ってました」
凛は画面を見る
「なんか湊先生って、思いついたものそのまま全部正解にできる人みたいな」
章は数秒黙る
やがて小さく笑った
「そんなわけねぇだろ」
凛は少しだけ目を見開く
章は天井を見ながら続ける
「毎回ぐちゃぐちゃだわ」
「でも売れてるじゃないですか」
「まぁ運良かったし」
絶対違う
凛は画面を見る
その没原稿達は、少なくとも“適当に書いたもの”には見えなかった
むしろ逆だ
ちゃんと苦しんでいる
迷っている
何かを探している
それが画面に残っていた
凛はふと口を開く
「……怖くないんですか」
「何が」
「失敗です」
章は黙っている
「次の作品つまんないって言われるかもしれないし、前の方が良かったって言われるかもしれないし」
凛は画面を睨んだまま続ける
「期待外したら終わるかもしれないじゃないですか」
章は少しだけ考えるみたいに止まった
そのあと、気怠そうに答える
「怖ぇよ」
凛が止まる
章はスマホを弄ったまま続けた
「でも書かない方が暇だし」
意味が分からない
凛は思わず笑いそうになる
「なんですかそれ」
「そのまんま」
章は欠伸をする
「お前、失敗したくない方が先すぎ」
凛は何も言えなかった
図星だった
ずっとそうだ
失敗したくない
偽物だと思われたくない
下手だと思われたくない
だから整える
直す
誤魔化す
でもそのせいで、どんどん苦しくなる
章は起き上がると、凛のノートパソコンを覗き込む
「で」
「……なんですか」
「続き」
「いやです」
「なんで」
「今めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど」
凛は視線を逸らす
「なんか急に、自分だけ隠してる感じして」
章は少しだけ凛を見る
そのあと小さく笑った
「お前、そうやってる時の方が人間っぽい」




