十年前の童話⑤
「降り始めたか。」
頭上に落ちてきた呟きにびくりと肩が跳ねる。窓を覗き見れば、ぽつぽつと水滴が付き始めているのが見えた。急いで髪の毛を押さえる私を見て、どうした、という硬い声が耳の奥で反響する。
――雨の日は、嫌い。
ぴょん、と跳ね出したみっともない毛先。一つ見つければ、二つ目も。押さえても押さえてもみっともなく跳ね出す髪の毛に俯く。自分ではどうしようもない髪の毛にムッと唇を尖らせれば、ページをパラパラと捲る音が聞こえ、思わず顔を上げた。
「あくる日カラスのコルヴォは窓辺へ降り立つと、その姿を見たガッティーナは驚いた。『コルヴォ、どうしたの』そう声をかけるとコルヴォは暗褐色の瞳を空に向け『さっき、一雨来たからな』と笑って答えた。」
急に飛んだ物語に困惑する私を一瞥するも、先を進める声は止まらない。
「濡れそぼった羽をぶるぶると震わせて水気を払うと、その水滴が窓に貼り付いて、流れ落ちていった。それを見たガッティーナは『わあ!』と目を輝かせた。陽の光を浴びて窓に貼り付いた水滴が、キラキラと宝石みたいに輝いていた。」
「……宝石。」
「ふっ……コルヴォはそんなガッティーナに笑って言った。『空から見る雨上がりの街はこんなもんじゃないぞ』と。ガッティーナはまた胸を躍らせた。コルヴォが教えてくれる世界はキラキラやワクワクが溢れている。」
コルヴォはガッティーナにどんな話をしたのだろう。飛んでしまった物語にも思いを馳せる。湿気を感じた毛先はいつの間にか目に入らなくなっていた。
「ガッティーナは少しだけ悲しくもなった。ぼくが見える世界はこの庭だけ。このガラス一枚隔てて見る世界の何と狭いことか。コルヴォが教えてくれる世界を自分も見てみたい。けれど、ぼくには羽がない。」
「……。」
「ぼくにも羽があればコルヴォと同じ世界を見られるのに。俯きかけたガッティーナの頭を上げさせたのは目の前を埋め尽くす黒。ガッティーナの視界全てを奪うほど、羽を大きく広げたコルヴォだった。」
隣にある顔を見上げる。アッシュグレーの瞳もこちらを真っ直ぐ見て――
「『おれがお前の羽になってやる』」
自分の心臓の音が耳元で聞こえた気がした。じわり、と滲んでいく世界。言葉を発すると決壊してしまいそう。そっと伸ばした指先が、彼の服の袖に触れた。肌触りの良い布を指先だけで掴んだのに、コルヴォはまた話しだす。
「『お前一人乗せてもおれは飛べるぞ。あとはお前の勇気だけだ』」
「私の、勇気……?」
「陽の光を浴びたガッティーナの目はキラキラと輝きだした。ぼくにも羽がある。ガッティーナはコルヴォに『約束だよ、コルヴォ。また、明日』と言って家の中へ。駆け出していったガッティーナの背中越しにコルヴォの一声がよく聞こえた。」
「また、明日?」
「……ガッティーナは家の人に別れを告げ、お腹いっぱいご飯を掻き込んだ。早く寝て明日を待つ。約束に時間の取り決めは、ない。」
ガッティーナは約束に胸いっぱいだけど、別れを告げられた家の人は、どう思ったのかな。悲しいとか寂しいとか思ったのかな。それとも、いってらっしゃい、と手を振ってくれたのかな。
外の世界へ飛び立つ勇気を出したガッティーナと反対に足踏み。脳裏をチラつく家族の、顔。生まれたばかりの妹の手の感触を思い出して、鼻の奥がツンと痛くなった。
「ガッティーナ。」
傾きかけた頭を上げた。袖を掴んでいた私の指先にそっと触れる彼の手。どこかあやすようにトントンと指先で手の甲にリズムを刻んで。それに合わせて呼吸をすると、痛みが和らいでいく気がした。
一息吐いて、彼の目を見た。揺らぐ瞳の中の私が情けない顔でこちらを見ている。指先が袖から離れ、少し名残惜しそうに動き、それも束の間、すぐに指先に灯る熱。壊れないように、優しい手つきで触れられた箇所が痛いくらいに熱かった。
「……約束だ。」
「約束……?」
落とされた言葉を拾って、ゆっくり繰り返す。今にも溶けてしまいそうなほど、優しくて、柔らかい声が胸に滲みていく。
「迎えに行くから。」
「……本当?」
「準備ができたら、必ず。」
境界線がわからなくなる。物語の続きのようで、そうではない現実。アッシュグレーの瞳は私を真っ直ぐに見つめて伝えてくる。
――行ってしまうんだね。
言葉にしなくても、わかった。アッシュグレーの瞳も、私の指先に触れる手も、正直すぎるほど伝えてくれているから。
「約束だよ、コルヴォ。」
「ああ。約束だ。」
指先だけで握る手。それに応えるように一度だけ力を込めて握り返され、そっと離れていく。物語の続きは止まり、パタンと音を立てて閉じられた。
ぎしりとソファーが音を立て、立ち上がる広い背中。振り返らずに行ってしまう彼を見送ることしかできない。扉の向こうに吸い込まれいって、静寂。雷鳴に掻き消された涙の音を私だけが聞いていた。




