歩幅
「……走ってきたんですか?」
「は、はいっ、あの、え、っと。」
「ジェフ、ちょっと待ってくれ。」
息も絶え絶え。叫ぶようにして呼んだ名前に振り返ったアルマール様が驚いたように目を見開いた。すぐにいつも通りの顔に戻って、先を歩いていたジェフと呼ばれた部下の騎士に声を掛けて私へ歩み寄る。
伝えたい言葉はたくさんあるのに、酸欠の肺からは言葉よりも酸素を寄越せと催促。走り慣れてない体をこんなにも恨めしいと思う日が来るなんて。
「団長、急ぎませんと。」
「あ、ああ。エーデルガルト姫、私はこれから――」
「……きます。」
「え?」
「私も、一緒に、行きます。」
顔を見上げ、困惑の色を湛えるオリエンタルブルーの瞳を真正面から見つめた。じっと見つめ続ければ首の後ろを掻く。ああ、この、仕草も。
「ですが……嫌な思いもされるかと。」
「構いません。私は、もう逃げません。」
「エーデルガルト姫……。」
「だから、私も一緒に。」
深呼吸を二、三度繰り返して息を整える。肩の揺れが治ったことを確認して、背筋を伸ばした。答えを待つ、沈黙。それを破ったのはどちらの声でもなく。
「団長!」
「……どうぞ。」
ジェフに急かされて、揺れていた瞳が細められる。固唾を呑む私に、眉間に皺を寄せて、くるりと踵を返すアルマール様。ダメだったのか、と俯きかけた私に差し出される腕。迷いながらも震える指先で、そっと触れる。
恐る恐る見上げた顔は何も言わずに廊下の先を見つめた。怒っているのだろうか。不安になりながらも、一歩前へ。もう一歩踏み出そうとした時、腕に触れている指先を包むようにして握られる冷たい手のひら。手の甲に当たる指先が、トントンとあやすように一定のリズムを刻んだ。
「……アルマール様。」
「はい。」
離れていく手のひら。でも、少しも寂しくなかった。そのまま、ジェフに急かされながら二人でゆっくりと歩き出す。顔は真っ直ぐ前だけを見て、名前を呼べば、しっかりと返ってくる反応。自分から話しかけておきながら、何を話すかも決まっていなくて。それなのに、まさか返事が返ってきて、困惑。
「……アルマール様。」
「はい……?」
こちらをチラチラと振り返るジェフと目が合う。苦笑いを返せば、何とも言い難い表情が返ってきて情けない。
さっきまでの勢いはどこへやら。萎んだ風船のように小さくなっていく。グッと握り締めてしまった腕。ギョッとしたように、勢い良くこちらを振り返るアルマール様と目が合って、思わず笑ってしまった。
「あの……私、何かしましたか……?」
「あ、申し訳ございません。思わず。」
「思わず。」
「はい。思わず。」
向かう足取りを急かされているのに、歩調は私に合わせてくれて。思えば、いつもそうしてくれていた気がする。寄り添うように、ただ、そばにいてくれた。何も言わずに、ただ、そばに。
「アルマール様。」
「はい。」
「後で、聞かせてください。」
「……ええ、是非。」
これが、貴婦人たちを虜にしている、かの有名な微笑みなのか。私には刺激が強すぎて、少し前を歩くジェフに助けを求めるように視線を向けた。彼は恐ろしいものでも見たかのような顔をしていたが、すぐに気を引き締めた顔で咳払いを一つ。それを合図に前を向いたアルマール様。その瞬間、ジェフの顔が引き攣ったように見えたけど、気のせいかもしれない。
「私の部屋に、殿下とセシリア嬢がいらっしゃるのですよね。」
「……ええ。」
口にして、やっぱり重たくなる胸の奥。図書館で聞いた、不穏な会話を思い出す。そこまで二人に恨まれていたなんて、思いもしなかった。殿下はあの日を境に私のことなど、どうでもいいと思っていた。殿下がセシリア嬢を選んだのなら、と婚約破棄をお受けしたのに、何故。
「戻ってもいいんですよ。」
「……いいえ、行きます。ちゃんと、話をしなくては。」
「ふっ……もう聞きません。」
歩き出した足はもう止めない。少しの沈黙に響くのは三人の靴音だけ。私の部屋はまだ遠い。
少しだけ歩幅を大きくして歩く私に、アルマール様は何も言わずにそれに合わせて歩く。アルマール様は殿下とセシリア嬢をどうするつもりなんだろうか。着いてしまう前に聞いておきたいと思っていたのに、歩幅を大きくしたことが災いしてしまった。騒がしく人が出入りする私の部屋の入り口。後数メートルというところまで迫り、出入り口に立っていた一人の騎士がこちらに気付いて駆け寄ってきた。
「状況は。」
「お二人とも大人しくしていらっしゃいます。」
「何かあったのか?」
「……セシリア嬢が、殿下を止めてくださって。」
「そうか、わかった。」
――セシリア嬢が殿下を?
聞いていた話と違う。首を傾げる私とは違い、アルマール様は静かに頷くだけ。そのまま入室しようとした私たちを止める、騎士の声が響いた。
「だ、団長!」
「何だ。」
「エーデルガルト姫、ですよね?いいんですか、その、ご一緒、で。」
「ああ。エーデルガルト姫も当事者だ。立ち会う権利はあるだろう。余計なことは気にせず、職務を遂行しろ。」
「……はっ!」
心配してくれた騎士の方に軽く会釈をして前を通り過ぎ、中へ足を踏み入れれば、部屋の明かりが目に沁みる。いつの間にか指先に力が入っていたのか、アルマール様の服に皺が出来ていたのが目に入った。深く息を吐き、人だかりを掻き分けて中へ進む。そして――
「エーデルガルト……。」
今にも消えてしまいそうな声が私に向けられていた。




